陳水扁政権 ― 権力移行期の台湾政治 ―
小笠原 欣幸(東京外国語大学)
はじめに
二〇〇〇年三月の大統領選挙での陳水扁当選の意義は、五〇年にわたる中国国民党の一党統治体制に終止符を打ち、台湾において初めて選挙による政権交代を実現したことにある。しかし、議会での与野党逆転を伴っていなかったため政権基盤が不安定で、過去三年間は権力移行の模索が続いた。統治することに慣れきった党と反対運動に心血を注いできた党とが入れ替ったわけであるから、政治に混乱が生じるのはやむをえないことであった。それでも陳水扁政権はしだいに安定し、二〇〇四年三月の大統領選挙では再選をかけて有権者の審判を受けることになっている。本稿では二〇〇〇年選挙後の台湾政治の動きを追い、陳水扁政権の権力構造、政権運営、政策展開を分析し、権力中枢の政治過程から見た台湾政治の変化を明らかにしたい。
一 権力構造
(1) 全民政府
中華民国憲法体制における総統制は、アメリカ型の大統領制と異なり、フランス型の半大統領制である。これは次のように規定される。「半大統領制は権力の共有を基礎として機能する。つまり、大統領は首相と権限を共有しなければならず、また首相は継続的な議会の支持を得なくてはならない」[1]。憲法の規定により、総統(大統領)は立法院(議会)の同意なしに行政院長(首相)を指名できるが[2]、立法院で過半数を制していなければ立法に依拠する政策は実行できない。陳水扁の与党となる民進党の議席数は立法院の三分の一にも満たない状況であった。台湾の大統領は立法にたいする拒否権はないし、内閣不信任案が可決されない限り議会の解散権もない。このため、政権交代とは言うものの権力移行の実態は非常に中途半端なものであった。
このような状況になることは選挙前から予見できたことだが、二〇〇〇年選挙での陳水扁の最大のアピールが「政党輪替」すなわち政権交代であったため、選挙期間中は当選後の政権構造を正面から論じることは避けていた[3]。陳が当選した場合、立法院で過半数を確保するためには、(a)国民党との連立、(b)宋楚瑜派との連立、(c)国民党の非公式支持の確保、のいずれかの選択肢しかなかった[4]。しかし、(a)では政治腐敗を打破するという選挙公約が霞んでしまうし、(b)の選択肢も支持基盤の違いから事実上閉ざされていた。陳陣営が期待していたのは(c)であった。
そこで陳水扁は、連立政権ではなく「全民政府」という概念を提起した。これは政党や所属を問わず、清廉で有能な人材を個別に呼び集めて内閣を構成しようとする考えである。実質的には民進党主導ではあるが民進党単独ではない内閣を組織し、幅広い支持を得ようとする戦略である[5]。選挙前の判断では、李登輝は総統を退任後も一年間は国民党主席の座に留まる見通しであったため[6]、李登輝が国民党と民進党との橋渡しの役割を演じることに期待が寄せられていた。
陳水扁は「全民政府」への信頼感を高めるため、投票日の直前に、民進党の党活動から退くことを宣言し、自分と民進党とを切り離した。この「全民政府」構想は行政院長に李遠哲を指名することを念頭に置いていた。台湾で唯一のノーベル賞受賞者で中央研究院院長という経歴を持ち、政党色が薄く、社会的に人望の厚い李遠哲が組閣をすれば、国民党も協力せざるをえなくなるという計算であった。しかし、李遠哲は公の場で陳水扁支持を表明したものの、行政院長就任は当初から拒否していた[7]。陳、李両者ともこの事を明らかにしなかったので、陳が当選すれば李遠哲が行政院長に就任するものと少なからぬ有権者が考えていた。
陳水扁は当選後、軍人、外省人、国民党員という身分を持つ唐飛を行政院長に指名した。唐の指名は、李遠哲という切り札を使えない陳にとって、国民党を牽制し「全民政府」を実現する次善の策であった。しかし、陳は国民党との協議を一切行わなかったため、国民党は唐の行政院長就任は認めたものの、非協力の立場を明確にした。組閣は陳と唐の共同作業であったが、唐は支持基盤がなかったので、陳が主導権を握っていた。ほかに組閣人事に影響力を有していたのは、林義雄、李遠哲、李登輝の三者であった。民進党は政権与党でありながら内閣の人事に党として関与していない。林義雄は民進党主席であり、林を通じて確かに民進党の意向は反映されているが、林は個別の閣僚の推薦を行っていないし、民進党の党機構を通じて影響力を行使したのではなく、党内における林個人の威信により影響力を行使した[8]。
李遠哲は、台湾社会における李個人の声望、および、それを活用して陳の当選を支援したという功労により影響力を行使した。李の中央研究院院長というポストから行使できる政治権力はほとんどない。李登輝は確かに現職総統であったが、任期切れ直前において影響力を持ちえたのは、李個人の声望、政権移行のキー・パーソンとしての位置づけによるものであって、権力組織を背景にしたものではない。このように、影響力を有していた三人はいずれも個人としての影響力であり、制度的、組織的関与ではない。組織的基盤を持つ民進党も、議会の多数派として憲法上の権力行使が可能な国民党も参画していなかった。陳政権の組閣作業は、アメリカの大統領当選人が閣僚を発表していくようなやり方で進行していった。
主要閣僚の人脈を分析すると、次のように分類できる。李遠哲が推薦した閣僚は、曾士朗(教育大臣)、黄榮村(無任所大臣)、蔡清彦(無任所大臣)、陳錦煌(無任所大臣)、林能白(公共工事担当大臣)ら学者出身の閣僚である。李登輝人脈に属する閣僚は、田弘茂(外務大臣)、蔡英文(大陸政策担当大臣)、伍世文(国防大臣)、陳希煌(農業担当大臣)、および、閣僚ではないが国家安全会議秘書長の荘銘耀や財政次官の顏慶章(後に財政大臣に昇格)など対中政策や安全保障政策の継続性にかかわる閣僚らである[9]。陳水扁人脈に属するのは、游錫堃(行政院副院長)、陳菊(労働担当大臣)、葉菊蘭(交通大臣)、陳定南(法務大臣)、張富美(華僑担当大臣)、林嘉誠(政策研究評価担当大臣)、林俊義(環境大臣)、林全(主計長)ら民進党の出身者および陳が台北市長であった当時の市政府幹部らである。「全民政府」の路線で広く人材を求めた結果閣僚に任命されたのは、林信義(経済大臣)、許嘉棟(財政大臣)、陳博志(経済建設担当大臣)、張博雅(内政大臣)らである。唐はわずかに夏コト(原子力担当大臣)、魏啓林(行政院秘書長=官房長官に相当)と魏の推薦で鍾琴(新聞局長=メディア担当大臣兼内閣報道官に相当)を指名したにすぎない。一方、次官クラスには民進党の若手で陳水扁の側近が配置された[10]。
中華民国憲法においては「行政院は、国家の最高行政機関である」(第五三条)と定められているので、閣僚を指揮するのは総統ではなく行政院長である。しかし行政院長は総統の指名であるから、総統は行政院長を通じて内閣の施策に一定の関与をすることができる。陳総統は、内閣発足後、唐院長と週一回定期的に会って意見交換をしていた。しかし、唐は陳の懇願を受けて行政院長就任に応じたという経緯があり、両者の権力関係はあいまいな部分を含んでいた。唐には支持基盤がなく、国民党にも民進党にも頼れる人脈はなかったし、また、健康問題を抱えていたためリーダーシップを発揮できず、内閣の運営は、閣僚間の連携不足、不一致などのトラブルがつきまとった。陳総統は個々の閣僚とも頻繁に連絡をとり報告を受けていたが、陳が依拠することができたのは、陳人脈に属する閣僚であって、唐飛、李遠哲、李登輝の人脈に属する閣僚の行動、政策方向については陳水扁も簡単に介入することはできなかった。
二〇〇〇年三月の当選から五月の総統就任にかけて、陳は選挙戦で生じた亀裂を癒し、台湾社会の族群融和に努め、親しみやすい総統像をアピールしたことで、支持率は総統選挙での得票率よりもむしろ高くなった。こうして、民進党、国民党、学者、官僚、女性、少数族群などバラエティに富む閣僚を抱えて「全民政府」はスタートした。だが、就任直前の二、三日の閣僚研修では理念を共有し政策に関する共通理解を作ることは難しいし、また、閣僚を束ねる内的権力が不在の状況では、閣内の不協和音を抑えることも難しかった。
立法院多数派の国民党は一切責任を負わず、行政院提出の法案を次々と否定していく消極的権力行使の党となった。国民党籍の人物が数名入閣したが、国民党の立法委員は一人も陳政権支持に転じなかった。学者は清新なイメージ作りには役に立ったが、やはり一人の立法委員の支持も獲得できなかった。民進党は陳総統の支持勢力であるが、議会では少数派であるし、陳総統は「全民政府」の概念に従い民進党との距離を置いたままであった。過去五〇年間台湾の統治権力の中枢にあった国民党が突然除外されたのであるから、政権構造が不安定になるのは必然であった。「全民政府」は政党政治を飛び越えて有権者の人気に依存しようとするポピュリスト的な政権構造を志向するもので、半大統領制を前提に政党政治が定着している台湾では成功しえない体制だと言える。
(2) 与党民進党
民進党は政策決定や政権戦略には党として関与していないし、唐院長との公式協議も一切行われていないにもかかわらず、立法院内で陳‐唐体制の擁護にまわり、選挙区でも政府に代わって施策を弁護するという困難な仕事のみが蓄積していった。陳の後ろ盾となっていた林義雄は、七月の党主席の任期切れにあたり[11]、陳からの続投要請を断り退任してしまった。後任の主席に選出された高雄市長の謝長廷も陳を支持していたが、謝はもともと陳とはライバル関係にあるし、また、党内の掌握力で林には及ばなかった。党秘書長も、陳に近い游錫堃から他派閥の呉乃仁へ交代した。
民進党の党内派閥は、結党当初は、美麗島派と新潮流派の二大派閥が有力であったが、その後、正義連線派(陳水扁派)、福利国派(謝長廷派)が加わり、二〇〇〇年選挙前には、美麗島派から新世紀弁公室派が分裂し、《表》のように、新潮流派、正義連線派、福利国派、美麗島派、新世紀弁公室派の五大派閥と小派閥の台独連盟派が割拠する体制になっていた。このうち派閥としての結束が最も強いのは新潮流派で、それより結束力は弱いが一定の規律を保っているのは正義連線派、福利国派であった。総統選挙の期間中は、各派閥とも一致して陳水扁を支持し選挙活動を支えた。総統選挙後、党内派閥の再編成が起り、美麗島派から名前を変えた新動力派、正義連線派、福利国派、台独連盟派の四派閥が新潮流派に対抗するため「主流連盟」[12]という派閥の連合体を形成した。「主流連盟」は「全民政府」を支持し、新潮流派はそれを批判的に見るという構図であった。しかし、陳‐唐体制にたいする不平不満は派閥を問わず拡がっていった[13]。
新潮流派 | 正義連線 派 | 福利國派 | 美麗島派 | 新世紀 弁公室派 | 台独連盟 派 | その他 | |
県 市 長 | 劉守成 廖永來 | 余政憲 呂秀蓮 李進勇 | 謝長廷 蘇貞昌 蘇嘉全 張温鷹 | 林光華 | 蔡仁堅 | 陳唐山 張燦洪金 | |
立 法 委 員 | 林濁水 洪奇昌 李文忠 陳景峻 ョ勁麟 彭紹瑾 邱太三 蔡明憲 翁金珠 蘇煥智 頼清徳 楊秋興 曹啓鴻 簡錫王皆 | 沈富雄 陳其邁 陳寶清 張旭成 王雪峰 林重謨 張清芳 葉宜津 余正道 蔡煌瑯 王兆釧 王世 | 卓榮泰 張俊雄 周慧瑛 邱垂貞 蔡同榮 鄭朝明 周清玉 張川田 顔錦福 李俊毅 張秀珍 柯建銘 | 朱星羽 范巽 王拓 張學舜 許鍾碧霞 林豐喜 陳勝宏 陳忠信 | 張俊宏 周伯倫 湯金全 林宗男 何嘉榮 唐碧娥 周雅淑 陳昭南 巴燕達魯 劉俊雄 林文郎 鍾金江 林忠正 徐志明 | 李應元 梁牧養 王幸男 黄爾王旋 林國華 | 葉菊蘭 陳定南 施明徳 許榮淑 戴振耀 |
二 政権運営
(1) 李登輝との比較
陳政権の発足以来、総統、行政院、民進党の三者の相互関係はしだいに固まってきたが、反国民党の寄り合い所帯から出発した民進党は、統治権力の中核を担うのに適した党内構造にはなっていなかった。党主席の権限で特に制約を受けるのが議員団、地方の党支部、党職員との関係である。党員らの思考様式は長く続いたストロングマン支配への警戒が基本であり、党主席がこれらの構成要素をコントロールしようとすることに強い反感を示す。民進党は国民党と異なり、党中央の権力は弱く、党員の序列は不明確で、党内権力が各派閥に分散している。政権担当以前は党執行部という概念すら希薄であった。
この構造的問題は党内でもある程度共通認識になりつつあった。陳水扁は打開策として、党主席兼任を考えるようになった。陳は、党内から主席兼任の観測気球があがるのを待ち、党内議論の行方を慎重に見極め、現主席の謝長廷を円満に退任させ対立候補が現れない流れを作った。これは、表面的には、総統が党主席を兼任していた国民党時代の「以党領政」と呼ばれる統治構造に近づこうとするものである。
李登輝時代、政策の研究、議論、調整を含む政策形成の場は、行政院の個々の部会、総統府の幕僚、国民党本部、シンクタンクなど多岐にわたり、固定的な政策形成機構が必ずしも確立されていたわけではなかった。政策形成にかかわる人物の職務関係や人間関係はかなり複雑で、担当者のネットワークに依存することも多かったが、それにもかかわらず大きな混乱が生じなかったのは、彼ら彼女らの大半は党員であり、国民党内の権力序列や力関係によってある程度の交通整理ができていたことによる。もちろん、同格者の間では激しい主導権争いが発生したし、将来の党内序列をめざして衝突も多かったが、政策形成過程には一定の秩序があり、最終的には毎週水曜日に開催される中央常務委員会に向けて決着が図られる体制ができていた。
これは、国民党が中央集権型の政党として発展し、党と国家が一体の「以党領政」の概念を保持してきたことと関係している。蒋経国の時代には、党主席は、軍、警察、情報機関などさまざまな強権的道具と莫大な行政資源、経済資源、人事権を掌握していた。党内派閥の存在は許されなかったため、党員は中央の指導部に向かって忠誠心を競う体制となっていた。李登輝時代、台湾の政治体制は民主化され国民党の権力独占体制は終結したが、国民党の相対的優位が続き、李登輝は党主席として情報、資金、人事権を掌握し、国民党の党内支配構造を維持した。国民党中央常務委員会には、行政院長、立法院長を含む行政、立法、地方の各分野の実力者と長老が配置されていたので、安定した権力機関となりえた。李登輝時代の中央常務委員は主席を含めて三二名で構成され、うち中央委員の投票によって選出されるものが一六名、主席が指名するものが一五名で、党主席の強力なリーダーシップが保障されていた。
民進党は、二〇〇二年四月に開催された臨時の全国党員代表大会で党規約を改正し、民進党が与党の時は総統が党主席を兼任することになった。二〇〇二年七月に謝の任期が切れ、陳が民進党主席に就任した。同時に行われた中央常務委員の選挙でも概ね陳の意向が反映された[32]。合わせて今回の党改革では、立法委員が党の役員を兼任できるようになり、これまで党専従職員が担当していた党中央事務部門をベテラン議員や政策通の議員が担当することになった[33]。また、陳水扁の入党勧誘が実を結び、多くの行政官が民進党に入党した[34]。このようにして、党本部、党議員団、行政機関をゆるやかに結びつける「党政同歩」と呼ばれる体制ができあがった。
陳の党内権力構造は、正義連線派と新潮流派の連携が固まり安定してきた。陳に公然と反旗を翻す勢力はないし、党中央の権力は以前よりは強化された。しかし、民進党には、李登輝が国民党を掌握していたような党内支配構造は存在していない。民進党の中央常務委員は党主席を含めた一五名のうち、中央委員の投票によるものが一〇名、役職指定が一名、党主席の指名によるものはわずか三名である。それ以上に、陳水扁が李登輝と同じようなことをしようとしても、党主席が行使できる権力が異なっている。行政、軍、情報、教育、国営公営企業に党組織が張り巡らされ、巨大な党資産を掌握していたかつての国民党主席との違いは歴然としている。
陳が党主席を兼任するにあたり、陳は三名の副主席を置くという構想を打ち出し、それは認められ規約が改正された。しかし、陳が実際に三名の副主席の人選につながる発言をしたところ、議員団からの反発で副主席の人選は棚上げになった[35]。このことは、党主席の権力行使が制約を受けていることを示している。陳水扁の党内掌握力は確実に高まり、発足時から比べると政権運営能力が高まったが、李登輝政権に匹敵するような権力構造を確立するには至っていないのである。
(2) 決まらない型
試行錯誤の末行き着いた「党政同歩」は、二〇〇二年の年末に向けて早くも二つの試練に直面し、成果と失敗の両方の結果がもたらされた。農漁協信用部改革問題ではうまく機能しないことが露呈した。この農漁協信用部の改革は、金融改革の一環として、資金繰りが悪化していた農漁協信用部を淘汰・整理しようとする政策である。陳政権はこれを突破口として金融機関全体の不良債権処理を進めようとした。この農漁協信用部は国民党の地方派閥や政治家族に支配され腐敗の温床にもなっていたので、民進党にとっては一石二鳥の改革であった。しかし地方での影響力低下を恐れる国民党が必死で抵抗し、また地元の農漁民の生活にも直接影響するので、李登輝が「このまま進めていけば政権を失う」と警告したが、陳水扁は「政権を失ってでも改革を進める」と言明し、あえて李登輝との不一致をさらけ出してまで改革政権の姿勢を強調した。
だが陳水扁は、二〇〇二年一一月の農漁民の抗議デモを前にして急遽方針転換を余儀なくされた。そのため、メディアの集中的な批判を浴び、閣僚四名が辞任し、改革の看板が傷つくという大きな痛手を負った。この場合、金融行政、農漁協、地方政府、与党それぞれの立場と改革の全体の方向とを調整する機能がどこにもなく、それぞれが陳に直接訴え、陳は事態を十分掌握できないまま政治決断をし、金融改革が頓挫するという政策決定の混乱を招いたのである。
これほど大規模ではないが、政策決定をめぐる混乱はしばしば発生している。世界貿易センターの第二展覧館の建設場所をめぐって経済部と経済建設委員会との間で混乱が生じ、陳水扁自ら沈静化に乗り出さざるをえなくなった[36]。あるいは、台南に国際空港を建設する構想が一人歩きするなど、行政院、党中央、議員団、地方政府それぞれが政権運営チームとしての意識が希薄であるため、幹部や閣僚がそれぞれの立場から発言をして陳水扁が自ら火消しに回るという構図が繰り返されている。
陳水扁は台北市長時代、若く有能な人材を抜擢して政権運営チームを形成し、そこで政策決定をしていた。そこでは民進党の影は薄く、野党国民党が多数派を占める市議会と対立していたが、大統領的な市政運営が可能であった。実際に台北市長として、捷運(都市高速交通)の開通、市内の渋滞緩和、市政府職員の綱紀粛正など市民に印象が残る成果をあげている。陳水扁は国政でも同じようなトップダウンの政権運営をイメージしていたであろうが、国政レベルの権力構造は、総統府、行政院、立法院、与党民進党とそれぞれに権力組織の不備と複雑な内部事情を抱え、政策決定の型を決められないというのが実情であった。
李登輝時代も確かに意表をついた政策発表が何度もあった。李登輝の政策決定は、強烈な「使命感」によるものであるとか「独断」によるという批評がなされることも少なくない。しかし、李登輝が発表する政策の多くは、李登輝の幕僚や専門家らによって、そして、閣僚や議員団幹部も関与して、政権内部でよく議論され、よく研究されていた。どの政策提言をいつ採用するかというのが李登輝の裁量によって行われていたのである[37]。陳政権の場合は、幕僚、閣僚、次官、ブレーンらの政策形成の現場での調整機能が弱く、政策の蓄積がまだ十分にできていない。総統、行政院、与党の相互関係がある程度構築されたものの、政策形成過程の型の模索が続いている。
しかし、「党政同歩」になって党中央の力がしだいに強まってきていることも見逃せない。重要な政策案件について、陳水扁が中央常務委員会で発表するという運営方式が定着しつつある。高雄市議会議長選挙の買収事件では、この方式は大きな効力を発揮した。二〇〇二年一二月、高雄市議会議員の選挙で新議員が選出され、新議会の開会にあたり正副議長選挙が行われた。その際、議長を狙う国民党系無所属議員が他の議員を買収していたことが議長選挙の直前に発覚した。買収された議員は、国民党、親民党、民進党に及んでいた。国民党と親民党は党中央の処理が混乱し、両党の所属議員は買収をした人物を結局議長に選んだ。だが民進党は、陳が主席として出席した党中央常務委員会で断固たる命令を下し、買収された議員が買収をした人物に票を投じるのを許さず、党籍剥奪の措置を取った。以前の民進党においては、党中央が地方の党所属議員をここまで拘束できるとは考えられなかった。この果断な措置によって、民進党は、政治腐敗の分野では、国民党・親民党と異なることを有権者に印象づけることに成功したのである[38]。
三 政策展開
次に陳水扁政権の政策展開を、(1)政治改革、(2)福祉政策、(3)経済政策、(4)中台関係の四つに分類し、政権戦略と支持基盤の関係に注目しながら、それぞれの分野で陳政権がどのように対応したのか、概略を明らかにしたい。
(1) 政治改革
政治改革は、(a)金権腐敗、(b)政党政治、(c)憲法体制の問題に整理できる。(a)の金権腐敗の問題は、民進党が長く取り組んできたもので、当面の目標について党内に共通認識があり、陳定南法務大臣の指導力も発揮されやすく一定の成果をあげている。陳政権登場後、選挙違反の取り締り、地方政府の首長や議員の起訴、財団の不正資金の捜査など、従来の国民党政権とは比較にならないほど積極的な取り組みがなされている[39]。これはまぎれもなく政権交代の成果であり、国民党時代の政治腐敗に批判的であった有権者に広くアピールするものと言える。制度改革の具体的な進展としては、行政院で、政党法(二〇〇二年九月法案決定)、政党不当取得財産処理条例(二〇〇二年九月法案決定)、政治献金法(二〇〇二年一二月法案決定)の三つの政治改革法案を作成し立法院に送っている。
政党法は、政党間の公正な競争を保障するために政党本来の活動を明確化しようとする法案である。政党は営利事業を経営してはならないことが明記されているので、国民党が行ってきた党営事業は一切禁止される。政党の財源は、党員が払う党費、政治献金または選挙経費の寄付、政党補助金、およびこれら三つから生じる利息の四種類であることが明確に規定された。また、政党は、学校、軍隊、裁判所、政府機関に党支部を組織してはならないこと、軍人は勤務中も勤務時間後も政党活動に参加してはならないことが定められた[40]。
政治献金法は、従来野放しであった政治献金の贈り主を規定し、政治団体および選挙の候補者は、公営事業体、政府が二〇%以上資本参加している民間企業、政府の補助を受けている財団法人、選挙権を持たない者、外国人および外国人主体の団体、大陸香港マカオ人民および当該人民主体の団体から政治献金を受け取ってはならないと定めた。また、政治団体および選挙の候補者は、金融機関または郵便局に専用口座を設けその届け出を受理された後に政治献金を受け取ることができること、政党、政治団体および選挙の候補者は、政治献金を受け取ったら受領から一五日以内にその専用口座に入金しなければならないことが定められ、政治献金の流れを透明化する枠組が作られた[41]。
政党不当取得財産処理条例は、政党法で定めた四種類の財源以外のものを不当取得の疑いのある調査対象とし、一一名から一三名の委員で構成される委員会が調査し、不当取得財産と認定されれば、当該政党にたいしその財産を国または地方自治体に移転することを命じることを定めた。不当取得財産が第三者に信託されている場合も同様の処置を取ることが盛り込まれている[42]。この条例が可決されれば、莫大な党資産を抱える国民党が大きな打撃を受けることは確実だ。これら三法案の可決に持ち込めれば、政権交代による政治改革の実現という選挙公約を果すことになり、民進党支持者の票を固めるだけではなく、中間派有権者からの支持獲得にも寄与するであろう。
この他に陳政権は、政府、政党、政治家のテレビ局ラジオ局への関与を禁止するため、ラジオ・テレビ法、有線テレビ法、衛星放送法を一括修正する法案も提出している(二〇〇三年五月法案決定)。この法案は、政府、政党、選挙で公職についている政治家が、直接間接を問わず、これらの事業に出資したり経営したり役員に就任することを全面的に禁じるもので、国民党のメディア支配を批判してきた民進党の長年の主張を反映したものである[43]。
しかし、こうした陳政権の努力にもかかわらず、政治の質が向上したと感じている有権者は少ないであろう。すなわち、(b)の政党政治の健全な発展が期待されていたのに、台湾政治は、以前にも増して硬直した与野党対決型政治に陥り、政治的議論は罵声・悪態のパフォーマンスに取って代わられているのである。むろん、この責任は与野党双方にある。一部の立法委員の下品な言動や無責任な行為が止処もなく起り、政治の刷新を期待した有権者は、政党にも政治そのものにも失望している。民進党陣営も不明朗な金の問題、議員の資質の問題を抱えている。二〇〇〇年選挙で希望と理想を謳った選挙キャンペーンを展開して当選した陳水扁ではあるが、政治への信頼感を醸成することはできていない。
政党間の不毛な対立の原因の一つは、半大統領制についての憲法規定の不明確性、および、立法委員の選挙制度という根本的問題につながる。そのため、(c)の憲法体制の問題は、そのまま陳政権に課題として重くのしかかっている。台湾政治の質の向上を計る抜本的な改革は、大きな制度改変と憲法修正なしにはできないが、その憲法修正は、陳政権登場の直前に、憲法制定機関である国民大会が唐突に自ら事実上の解散を決め、憲法修正の権限を立法院に移したことで、問題解決の糸口すらつかめなくなった状態にある。民進党は立法院の議席削減、選挙制度の改革などを提案しているが、二〇〇四年選挙前に実現する可能性は低い。二〇〇三年には新たな争点として住民投票が浮上し、憲政改革は混迷を深めている。
(2) 福祉政策
社会福祉の分野では、陳水扁が選挙公約に掲げていた「三三三福利方案」という政策がある。これは、(a)若年世帯向けの三%の低金利住宅ローン、(b)三歳以下の幼児の医療費補助、(c)毎月三千元の老人手当からなる三つの福祉政策である。(a)の低金利住宅ローンは、二〇歳以上四〇歳以下で年収が五四万元(約二〇〇万円)以下であることを条件に毎年一万戸分申請を受け付けることが政権発足後早々と決まった。(b)の三歳以下の幼児の医療費完全無料化は、二〇〇二年三月から年間一三億元の予算を投入して実施された。(c)の老人手当は、二〇〇二年六月から実施された。当初は、他の年金や養老給付金を受給していない六五歳以上の老人(先住民は五五歳以上)に対象が限定されていた。しかし、二〇〇三年七月から支給対象が大幅に拡大され、退役軍人、退官公務員、退職教師、および労工保険養老給付金を受給している退職労働者にも同じく毎月三千元が支給されることになった。恩恵を受ける人は、四四万人から六五万人へと二一万人増えることになった[44]。このようにして「三三三福利方案」の公約はすべて実施された。
最初の(a)と(b)は若い夫婦に恩恵をもたらすもので、前回選挙で陳水扁への支持が高かった二〇代の有権者にアピールするものと言える。(c)の老人手当は、手厚い老後保障のある軍人・公務員・教師と比べて不遇であった農村や低所得の老人に手当を支給し、統合的な年金制度確立への橋渡しをする意図であった。これは、陳水扁への支持率が高い中南部の農村の票固めに寄与する。月額三千元(約一万円)という支給額は一日あたりにすると一〇〇元にすぎないが、物価の安い中南部では、一日三食を街角の屋台で食べても若干のおつりがくる金額であり、実際に支給が始まってみるとお年寄りには非常に好評であった。他の手当を受給している階層からは怨嗟の声があがり、民進党の地方支部に支給対象拡大の要望が多数寄せられる事態となった。そこで、張俊雄秘書長を中心に支給対象拡大案が練られたのである。その財源としては公益宝くじの収益を充てようとしているが、財政赤字の拡大につながる可能性が高い。
陳政権の基本的な政策の方向性は、自由市場の発展と社会福祉の拡大であるが、陳水扁自身は、両者を矛盾するものとは考えていない。陳水扁は「確かに経済発展は台湾生存の命脈だが、社会福祉は、いっそう政府が実現しなければならない人民の面倒を見るという公約であり、両者に矛盾はなく、また相互依存でなければならない」と述べている[45]。両者の統合には、イギリスのブレア政権を意識しアンソニー・ギデンズが用いられているが、実際には家父長制的国家観から派生している政策ミックスであり、台湾のイデオロギー状況の産物と言える。
(3) 経済政策
一九九〇年代の台湾経済は、コンピュータ、半導体などのIT産業の躍進と中国市場の拡大によって支えられてきたが、その構造がいまや台湾経済の重荷となっている。陳政権の発足は、折悪しく世界的なIT不況の始まりと重なってしまった。台湾経済は高度成長から低成長へと移行し、その歪みは失業率の突然の上昇という形で現れている。一九九九年の失業率の年平均値は二・九二%であったが、二〇〇一年には五%を突破し、その後も五%前後で高止まりしている。株価は、二〇〇〇年二月のピーク時の一万ポイントからほぼ半減し、五千ポイント前後で低迷している。地方経済も、WTO加盟と景気後退に伴う農産物価格の低落の影響で打撃を受けている。消費者物価上昇率がマイナスになり、販売数量が増えても売上高が伸びないデフレの兆候も見られる。経済成長率は、二〇〇一年のマイナス成長(マイナス一・九%)を脱却し、プラス成長に転じているが、二〇〇三年には新型肺炎の影響で再び打撃を受けている。人々の経済感覚は一九九〇年代との比較に基づくので、多くの人は、陳政権登場後景気が悪くなったと感じている。
台湾経済の苦境に直面し、陳政権はグローバル化を意識した根本的な構造改革に取り組んでいるが、目先の景気浮揚と政治的必要性から公共事業の拡大も志向している。構造改革の分野では、陳政権は、二〇〇一年八月に与野党、学界、経済界、労働界に呼びかけて総勢一二〇名が参加した非常に大規模な「経済発展諮詢会議」を開催した[46]。台湾の産業競争力の低下、投資環境の悪化、失業率上昇、財政悪化、中台両岸の経済貿易関係といった構造的諸問題が広範に議論された。また、行政院は、二〇〇二年五月に「挑戦二〇〇八‐国家発展重点計画」という六カ年計画を定め、人材育成、研究開発、産業構造高度化など包括的な競争力強化政策を打ち出している[47]。
この他にも過去何度か、大々的な対策会議や検討会が開催され、政策提案はなされるものの、政府・経済界全体で共有される確固とした基本方針とはなっていない。この種の大型対策会議は、その時は関心を集めるものの数週間もすれば忘れ去られ、蔓延している台湾経済の先行き不透明感を払拭するには至っていない。金融システム安定化の諸法案も野党の反対で成立が遅れている。政権発足以来、財政大臣が許嘉棟、顏慶章、李庸三と交代し、現在の林全で四人目であるということも、陳政権が経済運営で苦戦していることを象徴している。
公共事業の拡大に関しては、陳政権は、公共支出の追加で需要を拡大するケインズ型経済運営を志向し、各種の事業機会を最大限活用しようとしているが、台湾では公共債務法により中央政府の国債発行額は予算の一五%を超えてはならないと定められている。国債発行増が容易でない場合は税収から財源を探さなければならないが、税収自体が制度的要因と景気低迷の影響で落ち込んでいる。各種の産業にたいする減税処置や優遇措置が拡大されてきた結果、台湾のGNPに占める税収の割合は、一九八〇年代の一〇年間の平均値一七・一%から、二〇〇二年には一二・三%にまで低下した[48]。いまや台湾は、世界の中で税負担の最も軽い国の一つとなっている。このため、台湾は必ずしも大きな政府ではないものの、中央政府財政赤字が徐々に拡大し、二〇〇三年の対GNP比率は二・九%に上昇し、国際的な目安となる三%に近づいている。
陳政権は、台湾の財政赤字累積総額のGNP比が約三二%で、先進国と比べて各段深刻な状況にはないことを強調し、公共支出拡大の機会を伺ってきたが、野党の反対で部分的にしか実現できなかった。二〇〇三年一月、行政院は二〇〇億元の失業対策予算と五〇〇億元の拡大公共建設予算からなる補正予算を編成した。後者は、政治的効果を恐れる野党陣営の激しい抵抗にあい成立が遅れたが、半年後の二〇〇三年五月ようやく立法院で可決された。これは、陳政権登場後最大規模の公共支出計画である。選挙が近づくにつれ、さらに大型の公共支出計画に期待が高まっているが、増税はほとんど不可能な状況にあるので、今後財政赤字が拡大していくことは避けられないであろう。
(4) 中台関係
一方、中国経済との相互依存はますます深まっている。中国経済の急速な拡大により、台湾経済が大中国経済圏に組み込まれる潮流ができている。中国経済は磁石のように、台湾の金・人・物を引きつけている。半導体やノートパソコンなどこれまで台湾経済の発展を支えてきた有力企業が、次々と生産拠点を中国に移している。中国を拠点とする台湾人実業家の数は数十万人に達していると言われている。台湾においては、経済のグローバル化は中国化を意味する状況にすらなってきている。しかし、活発な中国投資とは裏腹に、投資した資金を台湾に還流することは容易なことではない。監察院の調査では、二〇〇二年三月時点で台湾の上場企業のうち中国に投資した企業の数は四九〇社、送金された資金は一九七七億元にのぼるが、中国から台湾に還流した資金はわずか二三億元、比率は一・一八%であった[49]。こうしたことが重なり、台湾経済の将来にたいする台湾人の信頼が揺らいでいる。
李登輝政権は、台湾の安全保障の観点から対中投資にブレーキをかけようとした。この「戒急用忍」政策には経済界からの不満が高まり、一部の企業家は二〇〇〇年総統選挙の際、国民党に見切りをつけて陳水扁の支援に回った。陳政権は、こうした積極的対中政策の展開を求める企業家グループと、李登輝や台連などの反対勢力との間で微妙な舵取りを迫られ、慎重な姿勢に終始している。陳政権は、政府の管理を前提に大陸投資を積極的に認めていく「積極開放・有効管理」政策を打ち出す一方で、やはり過度の中国依存を回避しようとして、投資を東南アジアにシフトさせようとする南向政策も提起している。しかし、現実的には対中投資を管理することは困難であるし、政府の方針に従って東南アジアへの投資を増やす企業も多くはない。
国民党は野党に転落した後、いち早く李登輝路線を放棄し、親民党や新党とともに中国との経済関係拡大を主張するようになり、陳政権に圧力をかけている。むろん、中国経済への傾斜をさらに強めれば台湾経済が活性化するという保証もない。巨大化する中国経済に呑み込まれることは避けたいが、かといって背を向けることもできないという閉塞感が台湾経済の重荷になっている。台湾経済の自由化・グローバル化の推進と対中経済関係の規制との矛盾が拡大している。
このように中台の経済相互依存は深まっているが、中台の政治関係は、二〇〇〇年五月の就任演説で陳水扁が現状維持を宣言して以来、この三年間ほとんど何の変化もない。陳水扁は、二〇〇一年の元旦祝詞で「両岸の永久平和と政治統合の新しい枠組みを共同で追求すること」を呼びかけた[50]。陳は、また、金門地区の大膽島を訪れ「中国の指導者をここに招いてお茶を飲みながら話し合いたい」(二〇〇二年五月五日)と呼びかけてみたり、逆に国内の独立派向けに「一辺一国論」(二〇〇二年八月三日)を語ったりしたが、中国側からは大きな反応はなかった。一九九九年に李登輝の「二国論」で緊張が高まった時期に比べると、中台関係は改善もないが落ち着いた状態にある。
このことは、台湾政治の文脈において二つの意味を持つ。一つは、先の総統選挙の期間中、連戰陣営は陳水扁の対中政策を危険視し、陳が当選すれば戦争になると激しく攻撃したので、陳は有権者の不安を解消するのに大変な苦労を強いられた。実際には陳政権登場後、中台関係は大きな波瀾が生じなかったことで、このようなネガティヴ・キャンペーンには根拠がなかったことが示され、陳の弱点が一つ減ったことになる。
しかし、陳はもともと新中間路線を唱えて、中台関係の膠着状態の打開にも意欲を示したので、その点では、三年間何の変化もないという事態に不満を募らせている支持者もいる。李登輝の消極的な対中経済政策に不満を覚え陳支持に向かった企業家らの間では失望の声も出ている。陳政権が内に台湾独立派を抱え対中関係の大胆な政策展開ができないのを見越した野党陣営が積極的な北京詣でを繰り返し、中台関係改善の期待を膨らませることで攻勢をかけているので、陳政権は受け身になっていた。しかし二〇〇三年に中国から拡がった新型肺炎によって台湾が大きな被害を受けたことで、民衆レベルでの対中感情が悪化し、中台関係に関して国内からの政治的圧力は減少したと見られる。中台関係は、経済の緊密化と政治の疎遠化が同時進行している。
おわりに
最後に、有権者の陳水扁評価に触れておきたい。台湾では支持率の代わりに満意度の調査が行われているので、支持率とは意味が異なるが満意度の数字を見てみよう。《図》は、陳の総統就任以来有線テレビ局のTVBSが行ってきた民意調査である。陳の満意度は就任後から急降下し、立法委員選挙後一度盛り返したが、再び低空飛行の状態にある。この数字を比較すると、李登輝が総統であった時の満意度、陳自身が台北市長であった時の満意度、現台北市長の馬英九の満意度よりかなり低い。また、他国の大統領支持率や内閣支持率に置き換えて考えると十分危険な領域にまで下がっていると言える。
しかし、二〇〇四年三月の総統選挙でこの満意度の数字がそのまま投票行動に反映されるのかといえば、必ずしもそうとは言えない。台湾の総統選挙においては、国家アイデンティティ、族群、権力争いの要素があり、それらを踏まえた上で、数字では計れない陳政権の意味を考える必要がある[51]。
陳水扁は総統就任直後から国内を隈なく回り始め、二年間で台湾の三一九の郷鎮を訪問し終えた。その中にはこれまで歴代総統が足を踏み入れたことのない辺鄙な集落や軍施設、および、東沙、小琉球、龜山島などの離島すべてを含んでいる。また、小中高大学の卒業式などのイベントに極力参加し、親和性をアピールしている。国家の最高指導者がこのような選挙パフォーマンスに多大な時間を費やすことには、陳水扁支持の知識人からも批判の声があがっている[52]。しかし喜んでいる人も少なくない。総統府には、陳総統が卒業式に臨席してくれたことへの感謝の手紙が頻繁に届いているという[53]。辺鄙な地域の住民や勤務者の多くは、総統がわざわざ視察に訪れ激励してくれて悪い気はしないであろう。
陳政権登場後、権力移行の模索が続いているが、政策展開では、選挙戦の激しさに見合うような大きな転換は発生していない。その理由は、李登輝が率いた国民党も陳水扁が率いている民進党も基本的にはキャッチオール政党であるため一定の連続性が構成されているからである。一方、二〇〇〇年の政権交代は議会の勢力逆転を伴わない中途半端な状態にあり、与野党の激しい権力争いがなおも展開されているが、陳水扁と民進党は政権与党の立場を活用しさまざまな分野で勢力を徐々に拡大させている。かつては国民党の牙城であった国営公営企業などで、国民党系の人物が退任し、民進党系の人材が会長、社長に登用されている[54]。また、軍、警察、国家安全会議の人事でも、目立たないが確実に入れ替わりが進行している。政権交代は確かに不完全であるが、無であったわけでもない。台湾政治は権力再編成の過程にあり、その帰結が明らかになるのは二〇〇四年三月の総統選挙と同一二月の立法委員選挙である。
注
[1] ジョヴァンニ・サルトーリ『比較政治学−構造・動機・結果』早稲田大学出版部、二〇〇〇年、一三五頁。
[2] 一九九七年の第四次憲法修正によって、立法院の同意が不要になった。
[3] もう一人の候補者宋楚瑜も「超党派」を掲げていた。宋楚瑜支持を公言していた立法委員はわずか一八名で、現実的な政権構想を語れる状況にはなかったが、既存の政治の枠組みに不満を抱いていた層の支持を得ていた。
[4] これらのいずれでもない場合は、憲法理論上は、(d)野党陣営が行政院長にたいして不信任案を提出し、それが可決されれば総統が立法院を解散して立法委員を選出し直す可能性が存在していた。しかし、現実の政治的計算では、解散・再選挙で国民党が議席を減らすのが確実であったため、国民党は不信任案を提出しなかった。
[5] 丸山勝『陳水扁の時代』藤原書店、二〇〇〇年、二〇六頁。
[6] 李登輝は、総統としての任期は二〇〇〇年五月までであったが、国民党主席の任期は二〇〇一年八月まで残っていた。
[7] 陳水扁『世紀首航』圓神出版、二〇〇一年、五七頁。
[8] 林義雄は、移行期の安定という大局的見地から陳水扁を支えていた。陳の提案する人事を支持し、組閣にたいする民進党内の不満と混乱を押さえ込む役割を果した。
[9] 二〇〇〇年四月五月の主要新聞各紙の報道、および、「阿扁人事布局 仍看得見「雙李」影子」『工商時報』二〇〇二年一月十九日。
[10] 李逸洋(内政部政務次官)、范巽香i教育部政務次官)、賀陳旦(交通部政務次官)、羅文嘉(文化建設担当副大臣)、張景森(経済建設担当副大臣)。
[11] 民進党主席の任期は二年間で、林義雄の任期は二〇〇〇年七月までであった。
[12] 「主流連盟」は、数は多いが内情は寄り合い所帯で派閥としての機能をもなかった。中心人物は、蔡同榮、沈富雄である。
[13] 「滿腹窩囊 民進黨亟思脱困」『中時晩報』二〇〇〇年九月八日。
[14] 二〇〇〇年七月、嘉義県の八掌渓で四人の河川工事作業員が増水した河川に取り残されるという水難事故が発生した。テレビ中継車が現場に到着し全国中継されている中で、四人は濁流に流され、政府の救出活動が遅れたことが批判された。事故発生から何時間もたち多くの人がテレビ中継を見ているのに、だれも内閣の新聞局長と唐行政院長に事故のことを伝えなかったという実態が明るみにでて政権への信頼感が大きく低下した。
[15] 李文忠は民進党単独の少数政府に組み替えることを求めた(「李文忠‐全民政府已破産」『中国時報』二〇〇〇年九月二四日)。
[16] 辞任の直接の理由は健康状態の悪化のためとされているが、原発建設継続を主張していた唐飛と中止を求める陳水扁との立場の違いが影響したことは間違いない。
[17] 一〇月一一日の行政院会(閣議)での発言(「府院黨獲共識 民進黨政府決『以黨強政』」『中国時報』二〇〇〇年一〇月一二日)。
[18] 二〇〇一年三月、張内閣の一部閣僚が交代した。座礁貨物船の重油流出事故処理の不手際で環境担当大臣の林俊義が辞任し、新党党首の郝龍斌が後任に任命された。原子力担当大臣の夏コトが辞任し、無任所大臣の胡錦標が横滑りした。その後任の無任所大臣には中央研究院の胡勝正が就任した。この小規模改造では「全民政府」の外見を依然として追求していると解釈できる。
[19] 「黨政協商機制 扁長周三敲定」『中国時報』二〇〇〇年一〇月九日。
[20] 陳水扁、前掲書、一五二-三頁。
[21] 立法委員の当選者数は前回三年前の七〇名から八七名に増加し、民進党は初めて第一党に躍進した。しかし同時に行われた県市長選挙の当選者数は、四年前の一二名から九名に減った。
[22] 「民進黨勝選 新系評選五功臣」『中国時報』二〇〇一年一二月一〇日。
[23] 「蓋洛普民調 政治領袖輔選 扁最能加分」『連合晩報』二〇〇一年一一月一七日。
[24] 中華航空会長を務めていた宗才怡は、さしたる政治経歴がなかったが民間から抜擢された。夫とともに陳水扁の有力支援者であったため野党陣営の攻撃の的となり、わずか四八日で辞任に追い込まれた。後任は経済部政務次官の林義夫が昇格した。
[25] 「新内閣 李系人馬逾五人」『連合晩報』二〇〇二年一月二三日。
[26] 「扁系人馬到位 游系色彩亦濃」『中国時報』二〇〇二年一月二三日。
[27] 党議員団の三役を選ぶ投票で派閥の方針に従わないメンバーが続出し、派閥の候補の陳其邁は落選した。同派の長老格の沈富雄も陳水扁との微妙な距離が伝えられている(「『正義』不彰『連線』欲斷」『中国時報』二〇〇二年二月四日)。
[28] 福利国派の長である謝長廷が党主席再選を目指すかどうか逡巡している間に、同派の長老である姚嘉文と顏福錦が共に主席ポストに意欲を示し、謝長廷を不利な立場に追いやった(「未掌握派系籌碼 謝長廷面臨逼宮」『中国時報』二〇〇一年一二月二六日)。
[29] 「主流連盟」の蔡同榮(福利国派出身)は立法院長を目指して運動したが支持が拡がらず、副院長にねらいを定め、同じ「主流連盟」の沈富雄と対立した。これが原因で「主流連盟」は崩壊した。副院長候補について、陳水扁は新潮流派の洪奇昌を支持する意向を示したが、党内の調整ができず、結局議員団の投票に持ち込まれた。結果は、洪奇昌が三八票、蔡同榮が三七票、許榮淑と高志鵬がそれぞれ一票で、洪奇昌はわずか一票差で副院長候補に選ばれた。
[30] 「四人爭主席 扁觀望」『中時晩報』二〇〇二年二月二三日。
[31] 立法院副院長選挙は、国民党と親民党の共同推薦候補江丙坤と民進党の洪奇昌の一騎打ちであった。一回目の投票では、江丙坤一一一票、洪奇昌一〇八票で江の票が過半数に届かなかったので二回目の投票に持ち込まれた。その結果、江丙坤一一五票、洪奇昌一〇六票で江が九票差をつけて立法院副院長に当選した。
[32] 民進党中央常務委員会委員一五名は次のとおりである。陳水扁(主席)、◎張俊雄(主席指名・福利国派)、◎游錫堃(主席指名・無派閥)、○張俊宏(主席指名・新世紀弁公室派)、◎柯建銘(役職指定・福利国派)、◎陳其邁(選出・正義連線派)、◎高志鵬(選出・正義連線派)、○謝長廷(選出・福利国派)、◎蘇貞昌(選出・福利国派)、蔡同榮(選出・福利国派)、○洪奇昌(選出・新潮流派)、○林錫耀(選出・新潮流派)、◎陳菊(選出・新潮流派)、許榮淑(選出・旧美麗島系)、陳勝宏(選出・旧美麗島系)。(役職指定)は党議員団長、(選出)は中央委員の互選。○印と◎印は陳水扁支持派の委員、うち◎は陳水扁がどのような場合でも依拠できる委員を示す(筆者整理)。
[33] 林濁水(政策会執行長)、陳忠信(中国事務部主任)、羅文嘉(文宣部主任)、蕭美琴(国際事務部主任)、卓榮泰(社会発展部主任)、彭添富(族群事務部主任)、葉宜津(婦女事務部主任)らである。
[34] 呉サ燮(総統府副秘書長)、林佳龍(国家安全会議諮詢委員)、林陵三(交通大臣)、郭瑤h(公共工事担当大臣)、江耀宗(同副大臣)、郭清江(同副大臣)、陳明通(大陸政策担当副大臣)、林芳玫(青年輔導担当大臣)、蔡丁貴(政策研究評価担当副大臣)、呉密察(文化建設担当副大臣)、呉新興(華僑担当副大臣)、陳榮傑(同副大臣)、廖勝雄(同副大臣)らである(「五一人領告F黨證 趙建銘也入列」『連合報』二〇〇二年七月三一日)。
[35] 陳水扁は当初、行政、党務、国会から三名の副主席を選ぶことを表明していたが、「国会副主席」に新潮流派の洪奇昌を充てるという観測が流れるや、議員団の反発が噴出した(『中国時報』二〇〇二年八月一二日)。
[36] 「政黨輪替不應破壞政府政策之延續」『中国時報』二〇〇三年二月二三日。
[37] 張慧英「『全民政府』本質 阻礙黨政運作」『中国時報』二〇〇〇年一一月一六日。
[38] 「不准挺朱 扁在中常會説重話」『自由時報』二〇〇二年一二月二五日、および、「国親毀形象 民進黨輸得漂亮」『中時晩報』二〇〇二年一二月二五日。
[39] 二〇〇〇年六月から二〇〇三年三月までの間に、金権腐敗、汚職に関係して起訴された者は九二六七名に上り、その中には、立法委員一六名、県知事市長七名、県市議会の正副議長一一名、直轄市(台北高雄)議員四名、県市議会議員七五名、郷鎮市長六四名、郷鎮市民代表一四二名、村里長九四名が含まれている。「法務部執行『掃除K金行動方案』三十三個月成效統計」法務部ホームページ(http://www.moj.gov.tw/)。
[40] 林騰鷂「我国政黨法草案之評議」『国政研究報告』二〇〇二年一一月一五日。
[41] 黄錦堂「政治獻金管理條例草案」『国政研究報告』二〇〇三年一月八日。
[42] 「行政院審査『政黨不當取得財産處理條例』草案」新聞局ホームページ(http://publish.gio.gov.tw/newsc/newsc/910908/91090801.html)。
[43] 「政府、政黨及法人明定退出媒體」『中国時報』二〇〇三年五月二九日。
[44] 「敬老津貼擴大發放 逾二一萬人受惠」『中国時報』二〇〇三年六月六日。
[45] 陳水扁、前掲書、一六三頁。
[46] 「経済発展諮諮詢委員会議」総統府ホームページ(http://www.president.gov.tw/2_special/economic/index.html)。
[47] 「挑戦二〇〇八‐国家発展重点計画」新聞局ホームページ(http://2008.gio.gov.tw/)。
[48] 財政部ホームページ(http://www.mof.gov.tw/statistic/Year_Tax/90/41070.htm)。財政部の統計では対GDP比ではなく対GNP比を用いている。
[49] 『監察院公報』第二三八八期(二〇〇二年一〇月一六日出版)。
[50] 「総統發表九十一年元旦祝詞」総統府ホームページ(http://www.president.gov.tw/)。
[51] 二〇〇四年総統選挙の争点については、筆者のホームページ(http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/)に論考を掲載している。
[52] 知識人団体の一つである澄社の瞿海源は、総統は卒業式に出席する時間があるなら国家大政の方針をもっと深く思索してほしいと苦言を呈している(「瞿海源‐総統別再參加畢業典禮了」『連合報』二〇〇二年六月一八日)。
[53] 「走透透 扁今走完全台三十九郷鎮」および「不畏險阻 六登大漢山」『中時晩報』二〇〇二年一二月二八日。
[54] 民進党色が強い人事の例として次のものを指摘できる。前民進党立法委員の鄭寶清が台鹽公司の会長に就任(二〇〇二年三月)。前民進党秘書長の呉乃仁が台糖公司の会長に就任(二〇〇二年三月)。前閣僚の林能白が台湾電力公司の会長に就任(二〇〇二年五月)。前国民党高雄県党部主任の劉憲同が唐榮公司の会長に就任(二〇〇二年六月、劉憲同は後に民進党に入党)。陳水扁人脈に属する林文淵が中国鉄鋼の会長に就任(二〇〇二年一二月)。