新型コロナウイルスと蔡英文政権

 

小笠原 欣幸

 

 

 新型コロナウイルスの感染拡大は,不幸にして第二次大戦以来の世界的災厄となりそうだ。ウイルスの感染拡大は,人々の命と健康を奪うだけでなく,普通の社会生活を困難にし,経済に大打撃を与えている。そして経済社会活動の縮小は,倒産・失業増,医療・福祉サービスの低下を引き起こし,ウイルス感染そのもの以上の被害をもたらす可能性がある。各国政府は,まずは感染抑制であるが,コロナ危機という深刻な事態にどう対処していくのか,その道筋は見えず,危機がさらに深刻化する可能性もある。

台湾はこれまでのところ感染の抑え込みに成功している。蔡英文政権は111日の総統選挙の勝利の余韻に浸る間もなく,新型コロナウイルス対策を進めてきた。コロナ危機がまだ収束していないので中間報告となるが,ここまで約4か月間の蔡英文政権の対応はどのようなものであったのか,時系列的に整理し,初期の感染抑制に成功した要因を指摘したい。合わせて,コロナ危機の中の台湾政治の動向を分析してみたい。

 

 

1.蔡政権の初動

 

2020111日の総統選挙終了後,台湾そして世界の関心は中国の武漢に向けられた。114日,WHO(世界保健機関)は公式ツイッターで「新型コロナウイルスが人から人へと感染する明確な根拠はない」と発表した[1]。これはWHOが中国当局の説明を鵜呑みにしたもので,武漢の人々を含む世界の多くの人々をミスリードした。武漢在住の女性作家,方方は「『人から人への感染はない』。この言葉が武漢を血と涙,無限の苦しみの街に変えてしまったのです」と2月9日の日記に書いた[2]。だが,台湾の蔡英文政権はこの情報に惑わされることなく対策を始めていた。

 20191231日の午前3時,台湾の衛生福利部(厚生労働省に相当)所管の「疾病管制署」(Taiwan Centers for Disease Control)の幹部が,中国のネット上で「武漢で原因不明の肺炎が発生している」とする情報がやり取りされていることに気がついた。その中には,その直後に中国当局から処分され自身も感染し死去する李文亮医師が仲間の医師に「武漢の海鮮市場で7例のSARSが出た」と警告した情報も含まれていた[3]

この1231日,台湾の行政院(内閣)の陳其邁副院長(副首相)[4]は蘇貞昌行政院長(首相)にこの件を報告し,蘇院長はただちに対応するよう指示した[5]。同日,台湾当局はWHOの連絡窓口に対し「中国の武漢で7例の非典型的肺炎の発生が伝えられている。中国の保健当局はSARSではないとしているが,現在も検査が行なわれ,患者が隔離されている」と指摘し,関連する情報の提供を求めた。しかし,WHOはこの台湾の照会に答えなかった[6]。一方,中国では武漢市当局が同日,「武漢で最近27例の肺炎症例があり,うち7例は重症であるが,人から人および医療人員への感染は見られない」と発表した。中国はその内容を台湾に伝達した[7]

しかし,蔡政権は武漢での「隔離」の情報をもとに「人から人への感染の可能性を考慮に入れて」動きだした。「疾病管制署」は早くもこの1231日の夜から,武漢から到着した直行便の機内に検疫官が乗り込み乗客の健康状態を確認する検疫を開始した[8]。同時に,「武漢で肺炎感染が発生した」として,武漢からの旅行者・帰国者に対し「10日以内に発熱や呼吸気道に症状が現れたら連絡するように」という情報発信を始めた(図1)。この時,武漢との直行便が最も多かったのはバンコク,次いで成田,3番目が桃園・台北であった。

 

1 20191231日,台湾の「疾病管制署」が発した

「武漢で発生した肺炎感染」に関する注意喚起

(出所)衛生福利部疾病管制署20191231日ニュースリリース

 

衛生福利部は,12日に季節性インフルエンザに対処するため開催された「伝染病防止諮問委員会」において,「武漢地区肺炎の疫情」について専門家が議論を行ない,医療機関に対し「感染防護措置を厳格に行ない,呼吸管挿入などの際にN95マスクを着用するように」という注意喚起を行なった[9]。この日,衛生福利部長(厚労相に相当)の陳時中は,台北松山空港の検疫所を視察した。検疫所の前には「武漢で肺炎感染発生」という注意喚起の電子看板が出ている(図2)。台北松山空港では,空港内での旅客の移動を最小限にするため,武漢直行便の駐機スポットを検疫所に最も近い8番ゲートにした[10]

 

2 202012日,台北松山空港の検疫所を視察する

陳時中衛生福利部長(検疫カウンターの中央)

(出所)衛生福利部のFacebook202012

 

15日には陳時中が「中国の原因不明肺炎疫情に対応する専門家諮問会議」を招集した。会議は,感染防止対策の強化を提言したのみならず,特に武漢とその近隣に向かう予定の台湾人と当該地在住台湾人に対し,「石鹸で手を洗い,咳にはマスクを着用し,野生動物・鳥類の接触を避け,病院など人の多い公共の場所への出入りを避ける」よう警戒を呼びかけた[11]。「疾病管制署」は,1231日から18日までの時点で,武漢からの直行便13便,計1193名の乗客乗員に対し降機前検疫を実施,11名の健康異常を発見し,経過観察を行なった。このように,台湾は早い段階で武漢を対象とする水際作戦を展開した。

18日からは,武漢直行便だけでなく,各空港でも,熱のある旅行者に武漢滞在歴の確認を始めた。この措置は「小三通」と呼ばれる金門・馬祖のフェリーターミナルでも実施された[12]。また,台湾人の武漢への渡航に関しては,116日に旅行情報を「警戒(Alert)」に,121日には最大級の「警告(Warning)」に引き上げた。

1月上旬には武漢で肺炎が発生していることは広く報道され,多くの国で衛生保健当局が注意喚起を行なった。だが,おそらくは,中国当局とWHOが「人から人に感染した明確な証拠は見つかっていない」と説明したため,各国の警戒感はそれほど高くはなかった。118日には武漢で「万家宴」と呼ばれる1万世帯以上の住民が料理を持ち寄る伝統行事が行なわれた。習近平国家主席が感染拡大を防ぐよう「重要指示」を出したのは120日,武漢封鎖は123日,海外団体旅行を禁止したのは127日であった。武漢の封鎖直前に,そして,海外団体旅行の禁止直前に,事情を知らない多くの武漢市民・中国人観光客が春節休暇の旅行で海外に出た。

126日,蔡政権は中国との人の移動の制限を開始した。その措置は,湖北省在住の中国人の訪台を禁止し,湖北省以外の中国人については留学生も含め訪台を延期させ,審査を経て入境を認めた中国人については14日間の健康観察を導入することであった[13]WHO122-23日の会議で「公衆衛生上の緊急事態」宣言を時期尚早だとして見送り,130日になってそれを宣言したが,その時点でも「人の移動の制限は勧告しない」としていた[14]

台湾はWHOの逡巡に惑わされることなく,感染防止に必要な措置を「先手」で実行した。この間,蔡政権は地道な検疫,国民への注意喚起,医療機関への情報発信を行ない,水際作戦の態勢を整えた。台湾での最初の感染確認は121日,武漢から戻った台湾人ビジネスパーソンで,空港での検疫で発見された。

台湾にとって幸運であったのは,中国からの旅行者が減少していたことであった。中国は,「92年コンセンサス」を認めない蔡英文政権への「制裁」として,台湾を訪問する中国人団体旅行者を2016年以降,約4割減らしていた。このため一部の観光業者は打撃を受けた。20198月からは,個人旅行も原則禁止にしたので,中国人訪台者数は翌9月からさらに落ち込んだ。

焦点の20201月の中国人訪台者数は91,085人で,10万人を割り込んだ(図3)。これは,馬英九政権末期の20162月の405,307人とくらべると,4分の1以下であった。これが感染拡大を防ぐうえで大きなプラス要因となった。この幸運(中国人旅行者の減少)は偶然ではなく,中国と距離を置く民進党政権ならではの必然の結果である。

 

3 訪台した中国人旅行者数の推移(20181-20201月)

(出所)交通部観光局統計資料を参照し筆者作成。

 

2.感染抑え込みへ

 

蔡政権は,「伝染病防治法」などに規定される法的権限を行使し,各種の感染対策と防疫体制の強化を図った。120日,「疾病管制署」に「感染対策指揮センター」を設置,すべての感染対策と感染に関する情報発信を一本化した。124日からこの指揮センターのトップである指揮官を務めるのが陳時中である。同センターは,227日には行政院の「中央感染対策指揮センター」に格上げされ,権限が強化された。指揮センターの陳時中指揮官は毎日定時の記者会見を開き,台湾の感染状況と政府の感染対策を丁寧に説明した。会見はネットでも中継され,多くの人が注目するようになった。

1月下旬以降,中国人訪台者および中国からの帰国台湾人の感染確認が散発的に続いた。人々の警戒心は一気に高まり,マスクを買い求める人が急増した。台湾も日本と同じく中国からの輸入マスクが大きなシェアを占めていた。その輸入が止まり,しかも中国で大量のマスク需要が発生したので,台湾でもマスク不足が深刻になった。蔡政権は「先手」でマスク増産に動き,マスクの生産施設を徴用し,官民一体で生産ラインを増強した[15]。マスクの増産体制の構築は,沈榮津経済部長(経済相)が指揮をとった。

同時に,蔡政権は,マスクの流出を防ぐため,中国を念頭に置いて,124日からマスクの輸出禁止と海外への持ち出し禁止という果断な措置をとった[16]。そして,更なるマスク不足に対応するため,26日からはマスクの購入制限を開始した。台湾で製造されるマスクはすべて政府が買い取り,購入時にICチップ入りの健康保険カードの提示を求める実名制が導入された。この健康保険カードには個人の海外渡航の情報を紐づけし,病院や薬局が感染のリスクを知ることができるようにした。

マスク購入は,当初は1人につき1週間に2枚というかなり厳しい制限がかけられ,行列をして購入するという不便さもあった。これには,民間の技術者が,IT担当閣僚の唐鳳の支援を受け,各薬局の在庫状況が一目でわかるアプリをボランティアで開発し,市民の利便性を向上させた[17]。実名制と販売状況の透明化によって,マスク不足の中での不公平感を減らすことができた。

蔡政権はとれる措置をとって必死で感染拡大を防いだ。27日には中台間の人の移動の全面的制限に踏み切った。同日からすべての中国人の入国禁止,14日以内に中国に入国または居住していた外国人も入国禁止,中国・香港・マカオに旅行した台湾人は14日間の在宅待機という強い措置を実施した。これによって中国経由での新たな感染流入のルートを遮断したので,1月に台湾に入り込んだウイルスの追跡に集中することができた。

「中央感染対策指揮センター」は,感染者が確認されると感染リンクを追って感染源を突き止め,濃厚接触者を探し出す作業を続けた。濃厚接触者は在宅隔離,海外からの帰国者は在宅待機を命じられ,どちらも外出は認められず,違反(外出など)したら罰金を科された。それでも違反する人が相次いだので,携帯電話のGPS機能を使った位置確認と,地元の里長(選挙で選ばれる町内会長のような公職)を使っての電話による所在確認・健康観察を組み合わせた監視システムを導入した[18]。罰金は最高100万台湾元(約360万円)に引き上げらた。一方,14日間の隔離・待機措置を守った人には,14,000台湾元(約5万円)の補償金を提供した。

指揮センターは,感染事例に発生順の番号をつけて整理し,台湾の感染状況が一目でわかる関係図とデータを公開した。しかし,感染者が特定される個人情報はどれほど批判されても出さなかった。また,指揮センターは丁寧な情報発信に努めたが,デマ情報に対しては警察検察当局が摘発に動いた。「伝染病防治法」には,感染に関してデマ情報を流した者を処罰する規定があり,ネットで軽い気持ちでデマ情報を流した者も他人への影響が大きければ摘発・逮捕された。台湾国家は,漫然と国民の善意だけに頼っていたわけではない。これら一連の措置は国民の権利や自由を制限するものだが,必要性が理解され広く支持を得た。

市民も公共精神を発揮した。台湾のネット上では「私は大丈夫だからマスクが必要なところに優先して届けて」(我OK,你先領)というメッセージが飛び交った。台湾の学校は,2月中旬まで春節の休みを延長し休校したが,225日に再開した。各学校は毎朝校門で児童の検温をし,37.5度を超すと休ませるようにした。検温体制は公共機関や公共交通にも広がり,市民の理解と協力を得ている。こうして台湾は第一段階の感染拡大を抑えることができた。229日時点で,台湾の感染確認件数は39件,死亡は1名であった。

 

4 政府庁舎入口での検温

(注)左の男性は検温中,中央の女性は検温を終え確認用シールを受け取るところ。

(出所)台北在住知人提供,202041日撮影。

 

2月末までは主たる感染ルートは中国であったが,3月に入ると欧米で感染が爆発的に広がり,台湾の水際作戦は,欧米その他(日本,中東を含む)からの感染を防ぐ第二段階に入った。蔡政権にとって,入国制限の対象を日米にも広げるかどうかの判断は,中国を対象とする第一段階ほど簡単ではなかった。それでも蔡政権はぶれずに決断をした。3月上旬,入国制限を北米・欧州・中東諸国に順次拡大し,319日からは,日本人を含むすべての外国人の入国を禁止した。特別に許可を受けて入国した外国人と台湾人帰国者には14日間の在宅待機を課した。

同時に,台湾人の出国も全面的に制限した。321日から海外渡航情報を最大級の「警告(Warning)」に引き上げ,すべての出国旅行を避けるよう勧告措置を行なった。これは「自粛要請」ではあるが,それに応じず出国した人に対しては,帰国後の隔離・待機補償金給付を取り消し,必要費用を徴収するという行政措置で対応した。これは「自粛」を守った人が不公平を感じないようにする「先手」の対応である。これで台湾は「鎖国」状態になった。しかし,すでに海外に出ていた台湾人の帰国ラッシュが発生した。

3月中旬以降,欧米などから帰国する台湾人の感染事例が相次いで確認され,台湾全体が緊張感に包まれた。314日から413日までの1か月間の感染確認件数は343件で,台湾としては多い件数となった。この343件のうち,海外からの感染持ち込みが315件,台湾内部での感染が28件で,海外からの持ち込みが圧倒的に多かった。感染件数の累計は413日時点で393件,死者は6名となった。

ここで周到な水際作戦が機能した。空港には在宅待機者用の専用のタクシー,バスが用意され,空港から直接自宅または指定ホテルに移送された。日本のように帰国者個人にまかせることはなかった。全面的な入国制限が実施される前の3月上旬には在宅待機措置が不十分で,一部で家族内・知人間感染が発生したが,追跡体制ができているので,感染者の速やかな発見・隔離ができた。

帰国ラッシュがピークであった330日時点で,在宅隔離が3,300人,在宅待機が48,000人もいた。台湾当局はその時に約51,300人を管理対象にしていたのである。これだけの人数を漏らさず管理できたことが,台湾の感染対策の成功につながった。これは,国家の機能がかなりしっかりしていなければできない。

1週間後の45日には,在宅隔離が1,600人,在宅待機が26,000人で,管理対象者は27,600人となり,330日時点と比べるとほぼ半減した。帰国ラッシュのピークは過ぎ,海外から持ち込まれる感染件数も減少に転じた。414日,新たな感染確認件数はゼロを記録した。16日と17日もゼロであった。台湾社会は安堵感が広がっていった。世界各国で感染爆発が続く中で,台湾の感染抑え込みの実績は国際的に注目され,国際メディアでも広く報道されるようになった[19]

 

5 感染ゼロを示す圓山大飯店のライトアップ

(出所)台北在住知人提供,2020416日撮影。

これで台湾の感染収束が見えてきたが,思わぬ事態が発生する。418日に海軍艦艇で集団感染が発覚したのである。台湾はまたも緊張感に包まれた。この軍艦は312-15日にパラオを訪問し,49日に高雄の左営軍港に帰港した。途中寄港がない船舶は30日の航海で隔離はすんだと見なされるので,同艦は6日間の観察期間を経て415日に海軍の乗組員を下船させた。ところが418日になって3名の乗組員の感染が確認された。軍当局は里帰りしていた全乗組員を急遽呼び戻した。乗組員の感染者は31名になった[20]

これで感染が市中に広がるのではと心配されたが,430日時点では家族や濃厚接触者の感染は確認されていない。現時点では大規模な感染爆発は免れたようだが,この後散発的に感染が出る可能性については観察が必要だ。海軍は「判断が軽率であった」として強い批判を浴びた。航海中にカゼのような症状を訴える乗組員が数人いたのに,軍医が普通のカゼや扁桃腺と診断し,PCR検査を行なっていなかった。市中感染を引き起こしていたら,ここまでの台湾の努力が水泡に帰すところであった。

 

3.蔡政権「先手」の要因

 

ここまで見てきたように,蔡政権の新型コロナウイルス対策は非常に早い段階でスタートし,かつ,強力に推進された。蔡政権が「先手」の対応を続けたのは,@SARSの経験,A中国への不信,BWHOからの排除,C国内政治の圧力の4つの要因が寄与した。これらを簡単にまとめておきたい。

 

@SARSの経験

台湾では2003年に中国から発生したSARSに十分対応できなかったという苦い経験が広く共有されている。SARS危機の最中,陳水扁政権の衛生署長(衛生相)に任命されSARS対策の陣頭指揮をとったのが副総統の陳建仁である。陳建仁は公衆衛生の専門家で,徹底した隔離によるウイルス封じ込めの理論を持っている。小学生にわかる言葉で隔離の重要性と隔離を受け入れている人への敬意を説いた。また,SARSの経験から「感染状況を隠さず透明化することが重要」と強調する[21]。適切な隔離と情報公開は蔡政権の感染対策の柱であり,陳建仁は政権内でSARSの教訓を活かす重要な役割を果たした。

台湾はSARSの経験を経て,マスクの着用,石鹸による手洗い,消毒の励行など基礎的な感染対策が社会全体に浸透していた。また,関連法も改正され感染対策で政府が迅速に動き強い措置を講じることが法的に可能になり,その権力行使への一定の同意が形成されていた。こうしたSARS後の社会の意識の高さがコロナウイルス感染拡大防止に寄与した。

 

A中国への不信

蔡政権の初動の早さの,より根本的な要因は中国への不信感である。SARSでの中国の情報提供の遅れが台湾の被害拡大につながったという認識があるし,そもそも中国政府を信用していないので,蔡政権は中国が情報を隠匿しているかもしれないと疑い,すぐに感染対策を始めた。また,中国からは様々ないやがらせの圧力を受けているので,中国に配慮せず人の移動の制限などの必要な措置をとることができた。

台湾社会においては中国共産党への不信感が深くしみ込んでいる。その感覚を定着させたのは蒋介石・蒋経国であるが,台湾の歴史の転換の中でそれを受け継いだのは民進党である。感染が中国の武漢から広がったことは,「脅威は中国大陸からくる」という蒋介石時代以来の社会の潜在意識とも重なる。日本にはない危機感が台湾にはある。国民党は2005年から国共連携に方針転換したので,「蔡政権は中国不信で動いている」と批判する役を担った。このことは多くの有権者に「民進党政権を選んでおいてよかった」という思いを抱かせたであろう。

 

BWHOからの排除

台湾は国連および国連の下部機関からすべて排除されているが,WHOのような人々の健康にかかわる分野で排除されていることには不満と不安が強い。WHOとは一定の接触はあるが,十分な情報の共有ができないでいる。それでも台湾は高い水準の医療体制を保持し, SARS,鳥インフルエンザ,デング熱などの感染症対策の当事者として経験・ノウハウを蓄積している。

感染対策は国民の自由や権利を制限するので,どの国の政府も簡単に決断できることではない。そこでWHOの分析や勧告を参考にする。そのWHOの判断は,感染拡大の初期は「後手」に回っていた。しかし,台湾は自分の身は自分で守るしかないという覚悟があり,WHOにかまわず必要な措置を即座にとることができた。台湾はWHOに加入したいと真に願っているが,今回は排除されていることがプラスに働いた。

 

C国内政治の圧力

民主化後の台湾政治では,有権者の主権者意識の強さと政権に対する期待の大きさが混じり合った政治文化が形成されている[22]1つの選挙で勝っても,有権者の方を向いていないと見なされれば次の選挙で大敗する。蔡英文は1月の総統選挙で再選されたばかりで,政権の正当性は十分にあった。だが,政権幹部や閣僚は少しでも手を抜けば「政権を追われる」という緊張感に包まれていた。現在の政権幹部や閣僚は,蔡総統を含め,2018年地方選挙大敗を経て,有権者とのコミュニケーションを見直し,丁寧な説明とスピード感の重視で信頼を取り戻した経験を共有している。つまり,有権者から非常に厳しい「お灸」をすえられたのである。それが,今回の感染対策でプラスに働いた。

これらの要因が合わさって蔡政権の新型コロナウイルス対策は成功した。他に,台湾の政治体制が優れているから成功したという考え方もあるが,長年台湾政治を観察してきた立場からすると,その説には懐疑的だ。民主主義体制の効率が必ずしも高くないことは否定できない。台湾の現行政治制度は,陳水扁政権第2期,馬英九政権第2期に機能不全のような状態に陥った。蔡英文政権が行き詰まったのも,つい最近の2018年である。そもそも,多くの有権者が台湾政治に不満を持っていた。

 

4.蔡政権の実績と政治的インパクト

 

@感染者数

各国政府の新型コロナウイルス対策の実績を測る指標の1つは感染者と死亡者の数であろう。台湾の感染者数は,430日時点で,累計で429人,死亡は6人に止まっている。感染者のうち,海外からの旅行者・帰国者が343人,外洋から帰港した海軍艦艇での発生が31人,台湾内部での感染者はわずか55人である。台湾の数値を,感染爆発した欧米諸国あるいは日本と比べてみれば,台湾の少なさが際立つ。

台湾では426日から30日まで5日連続で新たな感染者ゼロを記録した。新型コロナウイルス克服宣言も視界に入ってきた。

 

6 台湾の感染者数の推移(2020/1/214/30

(出所)衛生福利部疾病管制署の資料を参照し筆者作成。

 

Aマスク支援

感染対策の必需品であるマスクの購入方法の改善と増産の成功も蔡政権の成果となった。マスクの購入方法は2月から絶えず進化し,ネット予約方式を経て,4月からはコンビニで予約・支払い・受け取りができるシステムが運用されている[23]。マスクの増産に伴い,購入制限も徐々に緩和され,4月時点で1人につき2週間に9枚購入できるようになった。台湾のマスク購入システムは日本でも注目され,IT担当閣僚の唐鳳と合わせた報道が相次いだ。

マスクの生産量は1月時点での1188万枚から,4月上旬には11500万枚へと飛躍的に拡大し[24],ついにはマスクを欧米日などに人道援助で寄贈できるまでになった。41日,蔡総統は欧米諸国に1000万枚のマスクの寄贈を発表した[25]。これには外交関係のない当事国からも台湾への謝辞が寄せられた。また,416日には日本への200万枚の寄贈が発表され,菅官房長官が謝意を表明した。

台湾のマスク寄贈は「マスク外交」として国際メディアでも盛んに取り上げられた[26]。筆者は25年間台湾研究を続けているが,台湾がこれほど存在感を示したことは記憶にない。中国によって国際社会の影に追いやられている台湾が自らの努力によって肯定的に評価されることは,台湾の人々にとって自信となるであろう。「台湾アイデンティティ」がすでに定着していることは2016年と2020年の総統選挙で連続して示されているが,蔡政権の感染対策の成功はそれを一層強固にする政治的効果をもたらすことになりそうだ。

 

7 202041日,欧米諸国へのマスク支援を発表する蔡英文総統

(出所)総統府HP

 

B経済対策

蔡政権は,感染対策と経済活動とが矛盾する場合,迷わず感染対策を優先したが,経済を放置したわけではない。感染対策を優先し,そのうえで,経済対策を行なっている。225日,蔡政権は,「厳重特殊伝染性肺炎防治および困難緩和振興特別条例」を成立させた。これは新型コロナウイルス感染対策の総合的法令で,医療関係者が感染した場合の補償,隔離・在宅待機者への補償を規定し,雇用者には隔離・在宅待機者への有給休暇を義務付け,それに伴う減税措置を組み合わせた。

同条例は600億台湾元(2160億円)の予算規模でスタートしたが,421日に立法院で追加予算が承認され,総額は2100台湾元(7560億円)に引き上げられた。追加予算には,打撃を受けた企業が雇用を維持する補助金(給与の4割を3か月間補助),観光関連自営業者に毎月1万元(36000円),社会的弱者に毎月1500元(5400円)の補助金の支給などが盛り込まれた。蘇貞昌行政院長は,この措置により300万人に直接現金支援が渡ると説明した[27]。だが,野党は「これでは不十分だ」と批判している。

蔡政権は感染抑制では成功したが,その後の経済振興ではそれほど順調にいかないかもしれない。世界各地の感染収束が遅れ,特に日米が正常化するまで時間がかかれば,コロナ危機は台湾においても深刻化する可能性がある。この点では蔡政権も楽観はできない。

 

C支持率上昇

蔡政権への国民の評価は民意調査ではっきりと示されている。コロナ危機の中で,政権支持率は大きく上昇した。325日発表の「TVBS民意調査」では蔡英文総統の満足度(満意度)は60%で,政権発足以来の最高記録を更新した。「不満」は22%,「意見なし」は18%であった。この調査では,政府の感染対策への「満足」は84%,「不満」9%,「意見なし」7%であった。また,感染対策の陣頭指揮をとる陳時中への満足度は実に91%に達した[28]

428日発表の「美麗島電子報民意調査」では,蔡総統の満足度は70.3%で,やはり政権発足以来の最高記録を更新した[29]。政府や政治家,公権力への信頼感が低い台湾で,これだけ高い信頼感が示されるのは異例である。

今回活躍している陳時中衛生福利部長や沈榮津経済部長のような実務家タイプの閣僚は,政権支持率が低迷していた2018年の段階では有権者の批判の対象であった。実務家タイプの閣僚は,陳政権でも馬政権でも起用されたが,成果を出せずに辞任・更迭を余儀なくされた例も少なくない。この点では,実務家を我慢強く使い続けた蔡総統の人事が光ったということになる。蘇貞昌行政院長,陳其邁副院長は2018年地方選挙で落選してからの転身で,これも蔡総統が批判を恐れず進めた人事である。

蔡英文は総統選挙で「台湾を守る」と言い続けて当選した。その記憶が鮮明なうちに,必死で感染対策をやっているというメッセージを出すことができた。背景にはやはり「台湾アイデンティティ」がある。これは,台湾を優先するのがあたりまえという感覚,中国への警戒感を内包する。蔡政権は初動でその感覚に寄り添うことに成功した。これによって,市民の権利や自由を制限する措置も果敢に打ち出すことができた。

市民の側も政権の動きを理解し,進んで感染予防を実践した。国家と市民が同じ方向を向いたからこそ感染対策の諸施策が機能したといえる。これは政治のダイナミズムであろう。台湾の事例は,権威主義体制の強権発動でなくとも民主主義が機能することで感染拡大を抑え込めるという重要な事例となるであろう。

 

8 「中央感染対策指揮センター」の記者会見で日々の感染状況

と政府の対策を説明する陳時中指揮官(右)

(出所)台北在住知人提供,2020318日撮影。

 

D中台関係への影響

新型コロナウイルスの感染拡大は,中台関係にも影響を及ぼしている。現在進行形なので,その特徴だけを指摘したい。まず,台湾から見て新型コロナウイルスの感染が中国の武漢から広がったという事実が台湾民衆の中国観に影響を及ぼす。それは短期的影響にとどまらず,中長期的に深い影響となる可能性がある。20191月の習近平演説,6月以降の香港の抗議行動の拡大は,台湾において習近平中国への警戒を引き起こしたが,新型コロナウイルスの感染拡大はその傾向を一層強めることになりそうだ。

次に,台湾が感染防止で必死になっている時の中国あるいは他国の行為が影響を及ぼす。中国の感染拡大期に,多くの国が中国との航空便を発着禁止にした。その際,一部の国は台湾との航空便も対象にすることがあった。あるいは,中国の旅行者を入国禁止にする際,台湾の旅行者も含めるということがあった。台湾は感染者数がまったく少ないにもかかわらず,「中国の一部」という扱いを受けて不利益を被ったのである。それらの国は台湾の抗議を受けて禁止措置を撤回したものの,台湾から見れば,中国が「一つの中国」を国際社会に強要したことが原因と映る。

29日と10日には,中国空軍のH6爆撃機などの編隊が台湾周辺空域を2日連続で飛行した。台湾の国防部の発表によると,中国軍機の編隊の一部が短時間台湾海峡の中間線を越えたが,スクランブル発進した台湾空軍機が並行飛行で監視し,中国軍機は去っていったという。中国の台湾に対する軍事的示威行動は普段でも反感を引き起こすが,感染拡大の中での行動は一層反感を高める。

中国で武漢を中心に感染が拡大した1月下旬から2月初旬にかけて,台湾において主に国民党系の人たちを中心に,中国にマスクや防護服を送るべきだとか,武漢に医療支援をすべきだという主張があり,蔡政権が「中国に背を向けている」という批判があった。しかし,中国への人道援助の主張は広がりを欠いた。

WHO参加問題もそうだが,中国が「一つの中国」を盾に台湾に嫌がらせをすればするほど,台湾では「一つの中国」を支持する人は減っていく。この傾向は総統選挙ですでに確認されているが,今回は抽象的な議論ではなく人の命にかかわる問題なので,一般民衆の心の中に一層深い影響を与えそうだ。

 

4年に1回の総統選挙を続けて四半世紀,「台湾アイデンティティ」が広がり定着した。その上に,今回の新型コロナウイルスとの戦いの中で得た新たな成功体験が積み上げられる。自分たちの国家(中華民国台湾)が感染拡大を防いだという共通の経験と記憶である。この4か月は総統選挙の四半世紀に匹敵する大きな意味を持つことになるかもしれない。コロナ危機の中で台湾政治がどう動いていくのか,引き続き観察していきたい。

2020430日記)

 

 

【参考資料】

新型コロナウイルスに対する台湾と日本の対応を時系列で整理した「台湾を学ぼう緊急企画COVID-19 support by SNET台湾」。

 

 



[2] 城山英巳「地球コラム:封鎖解除の武漢、コロナ「記憶」は消し去られるのか」[時事ドットコム]202048日。

[4] 陳其邁は内科医から政治家に転身,公共衛生予防医学修士(台湾大学)。2018年の高雄市長選挙で敗れた後,行政院副院長に就任。陳建仁副総統と共に政権内の公衆衛生専門家として重要な役割を果たした。

[6] 衛生福利部疾病管制署ニュースリリース「我國通報世界衛生組織(WHO)電郵容事實陳述之聲明」[TCDC2020411日。

[7] 衛生福利部疾病管制署ニュースリリース「因應中國大陸武漢發生肺炎疫情,疾管署持續落實邊境檢疫及執行武漢入境班機之登機檢疫」[TCDC20191231日。

[8] 同上。

[9] 衛生福利部疾病管制署ニュースリリース「為因應中國大陸武漢肺炎疫情,籲請民眾前往該地區及返國應做好相關防護措施」[TCDC202012

[12] 衛生福利部疾病管制署ニュースリリース「因應中國大陸武漢肺炎疫情,國際及小三通港埠全面提升警戒」[TCDC202018日。

[13] 衛生福利部疾病管制署ニュースリリース「因應中國大陸新型冠狀病毒肺炎疫情,中央流行疫情指揮中心訂定陸籍人士來臺限制」[TCDC2020126日。

[14] 新型肺炎、WHOが「緊急事態」を宣言」『朝日新聞』2020131日。

[15] 政府が増産用の設備を提供し,民間企業が生産を担い,24時間体制で増産するため現役や予備役の軍人も動員する仕組み(「台湾マスク配給、軍も支えた SARS経験もとに法整備」『朝日新聞』2020323日)。

[16] そのあおりを受けたのがシンガポールで,同国はマスク不足が発生した。4月になって台湾がシンガポールへのマスク寄贈を発表したが,その時,シンガポール首相夫人はSNSに「Errrr ....」と投稿した。これは,台湾への当てこすりと解釈されている(「捐口罩風波 新加坡總理夫人何晶修改Errrr貼文感謝台灣」[中央社]2020413日)。

[17] 武漢肺炎/除夕一通急電 啟動口罩大作戰」[中央社]202039日。

[20] 乗組員の感染ルートはわかっていない。この軍艦は221日に高雄の左営軍港で乗組員の乗船が完了し,訓練航海をして312日にパラオに寄港した。パラオは政府発表で感染ゼロなので,221日時点で誰かが無症状で感染していて,その後船内で感染が広がった可能性がある。軍艦内で重症者が発生しなかった理由については,「健康な若い兵士が多く,免疫力が強かったからではないか」という説明がなされている。

[21] 副總統接受《日本產業經濟新聞社》專訪」[総統府HP2020227日。

[22] 小笠原欣幸『台湾総統選挙』晃洋書房,2019年,326-30頁。

[24] 口罩產能超前部署 本週日產達1500萬片」[中央社]202046日。

[28] 蔡英文總統滿意度與新冠肺炎疫情影響民調」[TVBS民調]2020325日。

[29] 20204月國政民調」[美麗島民調]2020428日。