「文明」の分離壁を穿つ

DAYS JAPAN No.14 (2005/05) DAYS国際フォトジャーナリズム大賞特大号

 

 いつの時代にも、人間の世界が悲嘆や苦悩から解放されたときはなかった。けれどもグローバル化が謳われる21世紀の今ほど、それが深く広く蔓延した時代もないのではないか。「DAYS大賞」の応募作品を見て感じるのはまずそのことだ。

 「文明」の到達点であるはずの現代、その「文明」の恩恵を行き渡らせるためとして、テクノロジーのかぎりを尽くした「力」が行使される現代、その現代に悲惨がもっとも広く蔓延する。あたかも「文明」の拡張と世界の悲惨の量とが比例するかのように。というより、「文明」の拡張がその周縁を深い無秩序に陥れ、同時にそれを覆い隠しているかのように。

 これらの悲惨は、生み出す側によってつねに隠される。そのために、「文明」のなかで消費財のような情報を浴びているわれわれは、このような写真を見て初めて世界の悲惨の深さを知ることになる。それは、世界の見えない現実とわれわれの「無知」との間の高い「分離壁」を一瞬取り払う。

 報道写真家たちは悲惨のイメージを撮り続ける。それがコンステトともなると、まるで悲惨の表現のコンクールだ。けれども、報道写真は一枚のイメージであることに自足する芸術ではない。この表現はつねに他所へと送り届けるためのもの、閉じられた現場を外へと開き、見えない光景を見させるためのものだからだ。

 写真家は見ると同時に見せる。その身で現場と外の世界とをつなぐ。つまりそれは、単なる表現なのではなくメディア(媒介)なのだ。その場合、優れた写真の第一の条件は、見る者を、写真の開く世界にそのまま向かわせるということだろう。写真家は現場に身をおき、悲惨や暴力に向き合いながらシャッターを切る。けれどもその介入がイメージのうちで無化され、被写体がそのまま見る者に差し出される、そんな写真こそが人を強く動かすだろう。ただしそこには、身の危険を冒して「伝える」ために踏み込む、写真家の「無私」の姿勢がたしかに写しこまれているのだ。そのとき写真家は、現場と世界との厚い分離壁をみずからの体で押しのけて、一人だけで「文明」の世界に向けたメディアとなる。

 世界にこれだけの悲嘆がある。災厄があり、不正があり、狂気の暴力があり、人間の荒廃がある。そしてそれにもかかわらず生き延びる人びとがあり、生きる人びとの命の時がある。その姿が強いイメージとして定着される。この人びとの命があたりまえの日常のなかに溶け入る、そんなありえない時を強引に二重写しにするようなシャッターの音が、イメージの静寂のなかにかすかな祈りのように響く。

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