このシンポジウムは、現代世界の戦争とメディアをテーマにした総合企画『視角の地政学(The Geopolitics of the Visual)』の第二セッションとして行われ、並行して東京外国語大学のガレリアで、ナクトウェイ、広河両氏の作品約百点を集めた写真展が開かれた。

 写真展のメイン・テーマは「戦争」だった。ナクトウェイ氏は9・11の光景や、その後のアフガニスタンやパキスタンの写真、それにここ数年撮り続けているインドネシアの貧しい人びとの写真を出品し、広河氏は、氏の長年のフィールドであるパレスチナや82年のレバノン難民キャンプでの写真、チェルノブイリの写真、それに近年のアフガニスタンやイラクでの写真を出品した。

 多くは戦場の写真だが、そこにジャカルタの貧しい人びとやチェルノブイリの被災者たちの写真が並んでいるのはゆえないことではない。チェルノブイリは核兵器による惨劇を告げているし、アジアやアフリカの貧困は、現在の「テロとの戦争」が守ろうとしていグローバル秩序の経済によって構造的に生み出されている。21世紀の「新しい戦争」が語られているが、いまや「戦争」は古典的な国家間抗争の枠組みをはずれ、あるいは単なる武力衝突の域にとどまらず、世界のいたるところで人びとの日常生活を巻き込んで展開されており、いたるところにその「戦争」の犠牲者がいるのだ。

 ナクトウェイ氏は9・11で見たものが、彼の20年間撮り続けた「戦争」の光景にほかならず、いまや戦争がアメリカにも拡大したという認識を語っていた。広河氏もまた、アフガン攻撃以来、日本がアメリカの戦争に積極的に加担し、戦場の緊迫した危険がわれわれの日常にも忍び寄っていることを指摘していた。たしかに「戦争」はいまその姿を変えて世界に浸透している。

 展示された二人の写真家の作品が「戦場の写真」だというのは二重の意味においてである。広河氏に『人間の戦場』という著書があるが、そのタイトルの多義性を借りて言えば、ここに写された場所ではどこでも、「人間であるとはどういうことか」が問われている。「文明の威力」を誇示する圧倒的な軍事力が、人びとをその生活空間もろとも破壊する。グローバル秩序の経済格差が多くの人びとを極度の貧困のなかに放置している。この悲惨にまみれる人びとはそれでも「人間」なのか。その悲惨を生み出し放置するのは「人間」なのか。あるいはその悲惨にどう関わることが「人間的」なのか。要するにこれらの災厄の広がる「戦場」は、それ自体が「人間とは何か」が問われ、試される、「人間である」ことの困難な「戦場」なのである。報道写真家とは、今や地球規模に広がるそのような「戦場」の証人なのだ、そんなことを印象づける写真展だった。

 どれもみごとな写真で、百点が沈黙のうちに醸し出す凝縮された印象は圧巻だった。思わず「すばらしい」ということばが口に出る。けれども、目の前にあるのは、ときに正視することさえ憚られる耐え難いイメージだ。このような写真を前にして、なお「すばらしい」と言わざるをえないこの印象はどこから来るのか。それは美的な感動とは違ったものだろう。おそらくそれは、写真がただ単に対象を写し出すだけでなく、対象に向き合う眼差しのあり方をも具現しているからだ。

 「よい写真」を撮るためにはもう一歩踏み込まなければならないという。だがその一歩は命がけの一歩だ。対象との距離を踏み破る無感覚の一歩かもしれない。それによって写真家の身は危険にさらされる。そして「自分」を脱ぎ捨てる。現場に肉薄し、そこにいる人びとに迫るためには、その捨身が必要であり、なおかつそれが被写体になる人から受け入れられなければならない。一方、絶望の淵にある人びとにとっては、彼らの絶望を受け止め見届ける誰のか存在は、救いがたい状況のなかでの唯一の救いの糸口でもあるだろう。写真家はその場にいることで、その絶望の証人の役割を果たす。言いかえれば写真家は、戦争の犠牲者たちにとって世界へと開かれるささやかな窓になる。そこに「不幸」をイメージ化する「関係」が生まれる。その関係がおそらくはこのような写真を可能にするのだ。われわれがこの悲惨なイメージを前にして「すばらしい」と言ってしまうのは、おそらく写真にその「関係」そのものとなった写真家の眼差しが具現されているからだ。

 ナクトウェイ氏と広河氏の写真の対比にもきわめて興味深いものがあった。ナクトウェイ氏の作品はやはり「美しい」(たとえばアフガニスタンの戦車の大砲にぶら下がる人びと)。それに対して広河氏の作品は、特定の人に迫ってその内面を映し出すようなところがある。それは美的ではなく、飾り気がなく、深い。そこには報道写真家としての二人の姿勢の違いが現れているといっていいだろう。その違いは、もちろん両人の個人的資質にもよるのだろうが、おそらくアメリカと日本というだいぶ事情の違う社会で報道写真家として活動することの条件の相違も確実に反映されていることだろう。

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