タルコフスキーの『ストーカー』という映画があった。ストルガツキー兄弟のSF小説をもとに作ったものだ。

あるところに「ゾーン」と呼ばれる広大な立入り禁止区がある。鉄条網で囲まれ、厳重に警備されていている。そこには、元来地球に存在しない未知の物質があり、それをさまざまな動機から密かに求めて高価で買う連中がいるため、危険を侵して侵入し異物質を持ちだす人びとがいる。それがストーカー(侵入者)だ。

かれらは二重の危険を冒す。まずは不法侵入、そしてゾーンに立入れば得体の知れない気配の影響を受けて健康を害し、かれらの子供はしばしばミュータントになるという。けれども、ただ貧しさからだけではなく、人生の次元を超えたこのゾーンに抗いようもなく惹きつけられ、かれらはそこに不条理な畏怖と敬虔の極を見出している。


核技術はいずれにせよ、人間の生存にとっての「臨界」を画している。自然界の物質の基礎は原子と分子であり、人間の感覚や知覚の世界を構成しているのはそれである。核エネルギーはその原子の鎖を人為的に破壊することで解き放たれる。言いかえれば、人間は核技術によって、所与としての「自然」そのものの枠組みを決壊させたのだ。それ以来、自然と人工の区別はない。

人間はあわててこの決壊を補修して「自然」を復元しようとはしなかった。技術への過信からか、あるいは破壊のエネルギーがあまりに魅惑的だったからか、核技術はまず兵器として利用され、それが「文明の利器」であることを人びとに納得させるために、「平和利用」の道も開かれねばならなかった。そして核は、産業化した人間の社会を機能させるためのエネルギーとして、日常の空間にもちこまれた。


そのときから人間の世界にもはや境界はなくなる。自然と人工の境界だけではない。経験と虚構の境界も、「安全」と「危険」の境界も。核エネルギーはもともとその結界を無化して採り出されるのだ。そのために、分厚い「防護壁」が必要になる。

原発事故が起こる。それはたいてい人災だといわれる。技術的には「安全」だが、管理がずさんだった、現場の認識がおそまつだったと。けれども、事故が起こるのは現場で働く人びとのせいではない。原子力そのものが人為的で破滅的な「事故」としてしか採り出されないのだ。「危険」は核を扱う技術そのものにある。にもかかわらず、核技術は「安全」だとしなければ原発は維持できない。虚偽と隠蔽の構造はそこから始まる。

日本だけではない。チェルノブイリを隠そうとした旧ソ連だけではない。アメリカ政府もネバダの核実験跡地がどうなっているか、誰にも知らせようとはしない。核事故による被災は交通事故のようなものとはまったく違う。腕や脚が折れ血が流れるだではなく、細胞を作っている鎖が崩され、被害者は見たこともない無惨な死に方をする。だからその事実は隠される。国家は核をもちたがるが、国民には核の実態を知らせず、無知にとどめておこうとする。原発事故は企業利益のためにだけ隠蔽されるのではない。そうではなく、核はもともと虚偽と隠蔽によってしか維持できないのだ。核ほど、国家と人間の利害を対立させるものもない。


東海村は核によって維持されるわれわれの世界の縮図として、解放された「ゾーン」である。ここには鉄条網はないが、金瀬胖はストーカーのようにこの「ゾーン」に通う。彼もまた映画の主人公のように、金目のものを目当てにではなく、ここに生きることの禍々しくも白々した剥き出しの「現実」に惹かれて、権力や産業システムの狡知と稚拙さとが入り混じる、原発周辺の海岸や砂浜や街路に身体を曝して歩く。カメラをガイガー・カウンターのようにかざして。

そのフィルムは何に露出を合わせているのだろうか。EXPOSED。「ゾーン」に文字通り身を曝しながら、フィルムは何に感光しているのだろうか。通常の光に反応するフィルムには見えないγ線は写らない。そのかわり、不可視の「虚偽」や起こり続ける「事故」といっしょにコンクリートで固められ、そのコンクリートに「風化」の気配をこれだけは偽らずに露呈させてゆく、「ゾーン」の50年という時だけを写し撮る。おのおののイメージのうちに永遠化する50年の核の時の断片を。(了)

 
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