ところで、「核のタブー」はいままでどうして維持されてきたのだろうか。もちろん、広島や長崎から発して、核兵器の残虐や人類そのものに対する危険を訴える反対運動があった。それは核兵器への認識が深まるにつれて「反核運動」として世界に広がっていった。だから核兵器を使用することには倫理的な非難がつきまとう。けれどもそれだけで核が使われなかったわけではない。実際、どんな反対運動があろうとも、核は改良され造られ続けてきたのだ。

 ここで冒頭の殺人の話に戻れば、殺人は禁止されている。だが殺人は法律で禁止されていなくても社会のタブーであるだろう。殺人が犯される。それがそのまま放置されるなら社会が立ち行かない。けれども犯された殺人のために仕返しがなされ、誰かが犯人を殺すとすれば、またしても殺人が犯されたことになる。そこにはもちろん殺人の禁止は成り立たない(イスマエル・カダレの描くアルバニアの伝統社会のように、それが、つまり「復讐」がそれ自体「法」となっているところもあるが、その場合には殺人は、欲望や意志によって「自由」に行なわれるのではなく、逃れられない義務として拘束として課されることになる)。殺人が禁じられるためには、犯された殺人に対して、殺人で応じることが断念されなければならない。それによってはじめて殺人の禁止は可能になる。殺人は罰されるからタブーなのではなく、まず殺人に殺人で応じることが断念されるからタブーが成立するのだ(初期の近代国家は、その殺人で応じことを自己の権利として回収することで、その権力秩序を作り出していた)。

 それと同様に、核兵器のタブーが国際社会である「法」のように機能しているとしたら、それは最初の被曝国である日本が、核兵器をもたないことを国際社会に宣言しているからである。日本の「非核宣言」が、当の日本の歴代政府によってどれだけ掠められてきたかは別として、最初にして唯一の核攻撃を受けた国が、そこに現出した法外な惨禍のゆえに、けっしてこれを保有しないということを世界に表明していることは、核使用がタブーとして機能するのに大きな意味をもっているはずである。

 日本が核攻撃の犠牲者であることに閉じこもり、同じ戦争でアジア諸国に対する圧倒的な加害者であったことを忘れてきたというのは確かが、日本国家の行なった戦争の意味とは別に、核の経験の人類史的意味ともいうべきものがある。それが問われなかったら、核兵器の使用はついに「正義」であり続けるだろう。

 核に関しては、国家はつねに基本的にその国民と対立する。国家の戦争の論理は、一人ひとりの生き死にを眼中におかないが、戦争で心身ともに傷を受け死んでゆくのは民である。とりわけ核の脅威や危険に関しては、国家はいつも国民から実情を隠そうとする。それは日本でもソ連でもアメリカでも変わらない。国家が核兵器を自由に扱おうとするためには、国民に核兵器がどんなものかを知らしめない方がよい。無知だけが核兵器への警戒をもたせないからだ。

 だから日本の場合でも、政府と民間とでは(政府と地方行政のレベルでも)このことで決定的な姿勢の違いが出る。去年の長崎の原爆慰霊祭では、「九・一一」以後のアメリカ政府や、それにいじましいほど(そしてイラク戦後の今では意気揚揚と)追従する日本政府に対して、自民党選出の伊藤一長市長が異例の厳しい批判を明確な言葉で表明した。彼は、ブッシュ政権のアメリカが「九・一一」を「二度と繰り返させない」という決意を、あらゆる潜在的な「敵」をあらゆる手段を用いて抹殺するという意味で語り、実際、アフガニスタンやイラクに対する軍事攻撃ばかりか、核兵器使用の可能性を公言した姿勢に対して、長崎市民の願いは「自分たちを最後にしてほしい」ということだという、まったく逆の「ノー・モア」をあらためて対峙させたのだった。アメリカは「犠牲者」を、国家があらゆる報復の権利、それも「テロリスト」と指名されるあらゆる潜在的な「敵」を根絶やしにする権利を自らのものとするための祭壇に捧げた。ブッシュ政権のアメリカはそれがアメリカには可能だとみなしているようである。それが実際に可能かどうかの詮議は置くとして、「犠牲者」とは鎮めるために捧げられるものである。いずれにせよ、長崎で表明されたその姿勢だけが、核の不使用に関して唯一説得力をもつ姿勢であり、被曝地のこの姿勢によってはじめて「核のタブー」は形成されるのである。

 もちろん「殺人のタブー」が殺人が犯されることを妨げないように、「核のタブー」も破ることもできる。だが、侵されてさえ、あるいは侵される危険があるからこそ、殺人はますます強く禁止される。その禁止が禁止として支えられるのは、まず殺人に殺人で応じないという同報の遮断が、断念があるからである。

 この核の凡庸化の風潮のなかで、もし日本が核武装したらどうなるだろうか。国際社会での核のタブーは決定的に崩れることになるだろう。そして日本という国も、もはや世界史におけるその独自の位置を失うことになる。それが「ふつうの国になる」ということの意味でもある。核大国でなくとも曲がりなりにもGエイトに加わっている日本の、財布以外の功徳はそこにしかない。そう考えると、日本という国が核をもたないことには何ものにも代えがたい意味がある。
 

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