「ウイ・ガット・ヒム」。連合軍暫定当局(CPA)のブレマー行政官は、そう言ってサダム・フセインの拘束を告げた。西部劇ならさしずめ「奴を捕えた」と字幕が出るところだろう。イラクの独裁者は、息子のウダイやクサイのように無残な死骸としてではなく、生きて捕らえられた。生け捕りにしたらどうなるか。次は「裁判」という見世物が控えている。

 けれども何のための裁判か。フセインは戦争を起こした張本人ではない。だから「戦犯」ということにはならない。それを言うなら米政権の方に「罪」がある。国際世論も無視して、いやがるイラクに無理やり戦争をしかけたのだから。

 ではフセインはなぜ捕えられるのか。それはかれが戦争が起こる前から「犯罪人」として扱われていたからだ。もともとこの戦争は、米国指導者たちの好みの表現を使えば、フセインの「首を獲る」ために行なわれたものだ。ただそのために三十万近い軍隊と最新兵器が動員され、大規模な空爆が仕掛けられて一つの国が占領された。

 最新兵器と西部劇が結合したこの倒錯、それがこの戦争の「新しさ」だった。つまりこれは国と国との戦争ではなく、まるでイラクが太平洋を越えたはるかな「西部」ででもあるかのように、米国は振舞った。この「ならず者」の毒牙からイラクを解放し、もちろん石油も「解放」した。

 フセインを誰が裁くのか。米国はほんとうは裁判には興味はないだろう。この「戦争」の論理からすれば、フセインは「除去すべし」としてあらかじめ有罪宣告を受けている。だからこそ「正義」の戦争と言われるのだ。「テロとの戦争」でも同じだが、今米国が行なう戦争は、戦争の後にその責任が裁かれるのではなく、戦争そのものが裁判どころかすでに刑の執行なのだ。

 米国にとって必要なのは、その「正義」に根拠があったという「自白」を、捕えたフセインから引き出すことだけだ。だからラムズフェルド国防長官はCIAにかれの尋問を委ねたという。そうでなければ、グアンタナモにでも送られるところだろう。

 つい先頃、特別法廷の設置を決めたイラン統治評議会は、フセインを裁くことを求めている。けれども、米国から与えられる元大統領を裁判にかけることで、新しいイラクの構築が可能だろうか。

 暴君のような部族の父を共同で殺害して、もはや誰も暴君にならない兄弟たちの秩序を作る。そんな「父殺し」の仮説を、共同体生成のメカニズムとして語ったのはフロイトだった。だがその場合、暴君の面影がトーテムとして神聖化されることになる。

 イラクが崩壊を乗り越えて立ち直るのに必要なのは、おそらくフセインの「生贄」などではない。それに何より、正統性のない裁きはリンチと変わらない。リンチが「正義」の顔をしてスペクタクルにされるとき、熱狂と混乱のなかで世界はもっとも野蛮になる。

 今の世界にはついに罰されないことがある。テロリストの掃討と言えば、何人の村人が殺されても咎められない。群衆に発砲して死者が出ても、米兵が裁かれたという話は聞かない。つい最近アフガニスタンでは連日子供たちが殺されたが、タリバンがいたから爆撃したと言えば米軍は無罪だ。やがてまたイラクでは劣化ウラン弾の惨禍が語られるようになるだろう。それが「戦争犯罪」でなくして何が犯罪なのだろうか。

お知らせakaibu.html
履歴lu_li.html
今月のひとことjin_yuenohitokoto.html
活動記録huo_dong_ji_lu.html
アーカイブakaibu.html
リンクrinku.html
研究の著作yan_jiuto_zhe_zuo.html
教室jiao_shi.html
Top PageTop_Page.html