「倒錯する経済」

(「市場経済というフィクション」『世界』2007年11月号、105-113ページより抜粋)


けれども、カール・ポランニーが半世紀も前に明確に示したように、ここにはいくつもの擬制がある。まず「自己調整的機能をもつ市場」というのは、あらゆる人間的活動のファクターを捨象して純粋な価値決定のメカニズムというものを想定したときに浮かび上がる、いわば理想型である。そのような市場ははじめから存在したわけではなく、それぞれの国家の強制的な政策と法制度を通して人為的に作られた。それはグローバル市場についても同じであり、たとえばハイエクは、市場自由主義を「あるべき姿」として、つまりは一種のユートピアとして語っていた。

ポランニーが強調したように、あらゆる物品、とりわけ土地や労働力を「市場に投入されるべく生産される商品」として扱うのは、制度的なフィクション以外のなにものでもない。けれども、そうしなければ市場の論理は自律的なものにならない。つまり、「自己調整的機能をもつ市場」という観念そのものが、自然の大地や人間の存在を「商品」として切詰めるという擬制によってしか成立たないフィクションなのだ。したがって市場経済とは、そのような人為的フィクションに人間の全生活を投げ込み従わせる枠組みなのである。そればかりではない。市場経済を対象とする近代経済学は、その歴史的事情からして、市場のアクターを「飢えの恐怖におびえ、利得を求める、孤立した個人」と想定している。それは、いかなるしがらみをからも開放された「自由人」の裏面でもある。この人間像はたしかに、新たに創り出された産業社会の都市住民には適っていたかもしれないが、それが市場経済に規定されそれを担う「ホモ・エコノミクス」の基本的性格だとすれば、この場合の「エコノミー」とは、上に述べたような「オイコス」のあり方といかに遠く離れてしまっていることか。もはや現在の「オイコノミア」は、幼児をも保護する基本的な生存の場のあり方などではなく、人間がいやでもそこで生きなければならない、冷徹な狡知がものをいう「生存競争のアリーナ」になってしまっている。

それにまた、私的な利得の追求が、つまり吝嗇が、人間の活動の基本的動機とみなされ、そればかりか社会全体に益する才能だとして奨励されたことなど、西洋近代が生み出したこの経済学をおいて他にはないだろう(その最近のめざましい例が、小泉政権の時代に一世を風靡したホリエモンであり、市場経済の虚構をせせら笑うような社名を冠した「グッドウィル」の企業家である。自民党はホリエモンを持ち上げて選挙に担ぎ出そうとしたし、グッドウィル社長は四十二歳にして経団連の理事に推挙されたばかりか、紺綬褒章なる勲章を受けており、国はその「功績」を称えたということだ)。

要するに市場経済を原理化する経済学は倒錯している。それは「オイコノミア」の研究であるどころか、「オイコス」を徹底的に解体する市場のフィクションを正当化し、人間の生存空間の「市場化」を推進する知的道具になってしまっている。市場のメカニズムを解明することはいいだろう。しかし、それが人間社会をグローバルに規整する基本的メカニズムだとみなし、すべての人間活動を市場のフィクションのうちに叩き込もうとするとき、そのフィクションは生身の生存そのものの次元から反撃を受けることになる。

 
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