ハッブル・ディープフィールド                 西谷 修


 一枚の写真がある。ただ、この映像を通常の意味での「写真」と言ってよいのかどうか

大いに疑問はある。これは実際にあるどこかの光景を写したものではないからだ。だがこ

れも光学的なイメージであるには違いなく、「写真」がもともと「フォトグラフィー」つ

まり「光の刻印」だとするならば、これは間違いなく「光が刻んだもの」である。という

のもこの映像は、地表では観測できないきわめて微弱な光を捉えるべく、大気圏の外、地

表六〇〇キロメートルの宇宙空間に打ち上げられたハッブル宇宙望遠鏡が、飛来する光を

感光装置にじかに受けとめて捕捉したイメージだからだ。

 この望遠鏡は、一九九〇年に打ち上げられて以来、幾多の驚くべき映像を地上に送って

きた。巨大なガス状の柱のなかから新しい恒星が誕生する様子や、超新星爆発をおこした

末期の星の色鮮やかな二重のリングなどを。造形的な美の不思議や色彩の妙に気をとめる

なら、選ぶに困るほどの映像がある。だがここに選んだ一枚は、まったく別の意味で特別

のイメージだ。「ハッブル・ディープフィールド」と呼ばれる、もっとも遠い宇宙の映像

である。現在望みうるもっとも精度の高いこの望遠鏡(というより感光装置)で、一〇日

間という露光時間をかけて撮影されたこの映像は、捉えうる限界で捉えられた光の描き出

したイメージであり、文字どおり「フォトグラフィー」の限界を画すものだといってよい。

 この映像は〈見る〉ということについて眩暈のするような想像をかきたてる。ここに写

し出されているのは、おおよそ一二〇億光年のかなたの銀河群だという。ということは、

この映像をもたらした光が地球に届くのに一二〇億年かかったということであり、したが

ってこの映像は一二〇億年前の宇宙の姿を表しているということである。

 四〇億年そこそこの年齢しかない地球は、宇宙がこの姿を呈していたときには当然なが

らまだ存在しなかった。そしてこれも生成変化を続ける宇宙では、当然ながらいまわれわ

れが見ている宇宙(のかなりの部分)は存在しないだろう。この光が出発したときには地

球は存在せず、それが地球に届いたときには光を発した天体はもはやない。光はその二つ

の不在の間を、一二〇億年の間、真っ暗な宇宙空間を貫いてひた走りに走ってきたことに

なる(そのあげく、捉まらなくてもいいものを、たまたまこんなところでハッブル望遠鏡

などという酔狂な、宇宙にしてみればバクテリアよりも小さい仕掛けに捕まって、尻尾を

出してしまったということだろうか--こんなものに捕まらなければ、この光は宇宙の闇

に溶けたまま、どこにも像を描き出すことなく、その旅を無限に続けていったことだろう)。

 だがそうだろうか。現代の宇宙論によれば、宇宙はビッグバンによって誕生し、その後

驚くべきスピードで膨張し続けているという(その膨張を発見したのがほかならぬE・ハ

ッブルだ)。そのスピードは遠くにゆくほど速くなるという。そしてその速度が光のそれ

に近づけば、そこから出る光はわれわれのところに届くのにますます時間がかかるように

なり、ついには永遠に見えなくなる。だとしたら、宇宙の果て、つまり限界というのは、

それが在るかないかの問題ではなく、見えるか見えないか、言いかえれば観測が原理的に

可能かどうかの問題だということになる。そうなると、実在あるいは現実とはいったい何

なのだろうか。

 

 さて、夜空を眺めてみる。そこには広大な宇宙が広がっている(もちろん都会ではなく、

空気の澄んだ山の中か、大洋の只中だ)。われわれはこの茫漠たる広がりを、それだけの

空間だと思って眺めている。けれども、満天を彩る星々は、平板に広がっているわけでは

なく、それぞれに違った方向に、ある星は何万光年、あるいは何億光年の彼方にばらばら

に位置している。

 そう、「何億光年の彼方」と言う。この規模になると、実は人間の通常の感覚はまった

く役に立たず、隔たりも並みの尺度では計ることができない。この桁違いの距離を表現す

るには、もはや長さの単位は通用せず、光が届くのにかかる時間、それも年数で数えるこ

とになっている。つまり距離が、光の速度を基準に時間に換算されて計られるということ

だ。光の速度とは〈見える〉ことそのものの限界を画する速度だ。空間の隔たりを計るは

ずの単位が、その空間を〈見る〉ことの速度に置き換えられる。それでかろうじて表現さ

れるのが宇宙という広がりの規模なのだ。だから、われわれと何億光年彼方の星との隔た

りは、そう表現される距離でもあるが、同時にそれが見えるまでの時間の経過でもあり、

われわれがここで〈見る〉のは、文字通りそれだけの〈時空〉を隔てた星々の姿なのであ

る。われわれが今目にするのは、星々のそれだけ昔の姿なのだということだ。

 われわれは、目の前に広がっているのが〈現在〉の光景だと思い、これが宇宙の〈現実〉

だと思って眺めている。だがじつは、これは〈現在〉ではなく〈過去〉なのだ。それも一

様の過去ではない。距離も方角もばらばらで、とほうもなく隔たったところから、あたか

も地球上のこの一点に降り注いでくるかのように見える〈過去〉の姿だ。ある星々は何万

年も前の姿をいま見せており、ある銀河は何十億年もの過去をいまここに送り届けている。

だから、ひとつひとつの星がそれぞれの時、宇宙の時を、まったくアトランダムにここに

現出させているのである。あたかも闇の海に輝くホタルイカの群のように。

 ひとつひとつの星は、その姿を通してここに〈過去〉を現前させる。けれどもこの一点

の〈現在〉に降り注ぐ〈過去〉とは何だろう。夜空に輝いている星々は、過去の痕跡とし

てわれわの〈現在〉に浮かび上がっている。〈現在〉に浮かび上がり、現前する〈過去〉

とは何か。それはほかでもない、われわれが〈記憶〉と呼ぶものである。

 原理的に言ってもそうである。光はヴァーチャルなもので、遮られたときにはじめて姿

を現す。遮蔽物を明るませ、そこに運んできたイメージを浮かび上がらせる。だから光は、

届いたところで〈過去〉をアクチュアライズすることになる。われわれが空を見上げる闇

の現在に、無数の過去がアクチュアライズされるということだ。どこにも見えないもの、

捉えられないヴァーチャルなものが、現在にアクチュアライズされる、まさにそのことを

われわれは〈記憶〉と呼んでいるのだ。

 満天に広がる記憶。だがこの夜空の広がりが〈記憶〉だとしたら、これは何の、誰の記

憶だとういのだろうか。星空は夜にしか姿を現さない。その夜の深い闇に溶け込んで、見

上げるわれわれはまるで宇宙に瞳を預けているかのようだ。それが夜空を〈見る〉ことだ

としたら、この〈見る〉ことのうちに広がるのは、宇宙そのものの〈記憶〉だとは言えな

いだろうか。この宇宙に見る者がいるとき、はじめて浮かび上がる宇宙の〈記憶〉。

 そのとき、星空を見るわれわれは何かといえば、夜空を〈記憶〉の空間として眺める宇

宙そのものの内的な意識だ。そう言って大げさなら、少なくともみずからの記憶などには

無頓着な宇宙に代わってそれを意識する、宇宙の代理人のようではあるだろう。いずれに

せよ、人間もまたまぎれもなく宇宙の一部ではあるのだ。たしかに、宇宙自体は何も想起

しない。起こったことは起こり続ける出来事として、宇宙そのものの広がりとして拡散し

てゆくだけだ。宇宙には自己などというものはなく、いわば生成変化するだけである。け

れどもそこに自己を反照する〈わたし〉という意識が登場すると、意識ではない純粋な出

来事として広がる宇宙をすら代行して、その感覚(視覚)に宇宙の生成変化を映し出し、

散乱展開する時空を、みずからを通してその場に発現させる過去へと、つまり〈記憶〉へ

と変換する。人間の意識とは宇宙にとってそんな装置であるかのようだ。

 

 ところで、夜空として広がるのが、無辺際の宇宙の〈記憶〉の劇場だとするなら、われ

われは〈見て〉いるのだろうか、それとも眠っているのだろうか。闇はまぶたの役割を解

除する。真っ暗な闇の中ではまぶたはあってもなくても変わらないからだ。そして「外界」

の現実を見ることと、「夢」を見ることとにはほとんど区別がなくなる。じっさいそこに

は、ありもしない星々の過去の姿が、いまこの満天を飾るかのように広がっており、この

意識たる人間どころか、地球すら存在しない時代の数百億年前の光景さえ、あちこちに散

らばっているのだ(もちろんそれを見るには望遠鏡が必要だが)。これが「夢の舞台」で

なくて何だろうか。その「舞台」に浮かぶ無数の無限に多様な時間の痕跡⋯⋯。そういっ

てよければ、この夜空の広がりは、〈現在〉の空間ではなく、闇という見えない〈時間〉

の海なのだ。その「海」が、うねるように、あるいはそれよりはるかにダイナミックに、

満天に散乱して波打っている。

 〈見る〉ことは、人間の感覚の中で格別の地位を占めている。〈見る〉ことは通常〈知

る〉ことと重ねられるように、認識の能力そのものとほとんど区別されずに考えられてい

る。眼は視界を開き、人間を世界のパースペクティヴのなかにおく。そのなかで、「見え

る」ものにはひとはとりあえず安心する。「見えない」ことは対象が把握できないだけで

なく、自分が定位できないという、たいへん「不安」な事態なのだ。だから人間は〈闇〉

を避け、そこに光を投げかけて〈闇〉を掃討することを、自分の能力の実現と考えてきた

(啓蒙というのはそういうことだ)。

 だが、〈見る〉ということは実は限定された能力でしかない。それ自体が力不足だとい

うことでばかりでなく、視覚そのものが人間の生存領域を限定しているのだ。あらためて

言うまでもないが、視覚は光がないと役に立たない。その視覚の届く範囲つまり視界は、

宇宙に届くことはけっしてない。昼間空を見上げるとき、青空は大気を突き抜けているの

ではなく、逆に大気が宇宙からの光を遮り、乱反射させて青空というシェルターを作って

いる。そのシェルターのなかではじめて〈視界〉は可能になる。光が明るすぎても暗すぎ

ても、視界は成立しないのだ。太陽は目をくらまし、真っ暗な夜には視界はない。

 そのようなシェルターなしに視界が成立しないとすれば、「視野が開ける」ということ

は、このシェルターの内だけを領界としてその外を無視することである。だから〈見る〉

という働きを「全能性」とパラレルに考えるような人間の意識は、成層圏のなかに自閉す

ることではじめて成り立っているといってもよい。生物学者なら当然のことと言うだろう

が、人間の視覚は人間の生存様態の限界に見合っているはずだ。だから〈見る〉という働

きは、われわれの昼間の明るみの中でもっともその威力を発揮し、そのことで人間の生存

にとって重きをなす。その〈見る〉働きは、宇宙空間のなかでいったいどこまで役に立つ

のだろうか。だいいち、宇宙の〈闇〉は通常の意味での〈空間〉ということさえできそう

にない。なぜなら、そこに働いているのは〈時間〉なのだし、その〈時間〉は〈見る〉こ

とができない。

 

 夜になっても、われわれは見つづける。けれども夜の闇を透して浮かび上がるのは、空

間ではなく時間の布置である。それをしも、ひとは「見る」と言い、「星を見ている」と

思ってしまう。だからそこにカシオペアやアンドロメダの似姿が、あるいはオリオンとサ

ソリの尻尾が見えたりする。つまり夜を「見る」とき、ひとはすでに幻視の世界に入って

いるのであって、実は「見て」いるのではないのだ。

 それをあえて「見よう」とするときどうなるか。「観測」という言葉がある。それは目

で見ることではない。レンズを通して集まる光の痕跡をたどることだ。それは闇の中での

手探りに近い。目で見るのではなく、手で触れるのだ。そのようにして闇の広がりが触知

されるが、その広がりは時間そのものではないだろうが、光の移動のうちにたどった時間

の影ではある。

 「観測」は肉眼ではできない。観測をするは望遠鏡を通してだ。かつて望遠鏡は眼の延

長だった。だが、いまやそれは、「見る」眼とは離れて、自分の役目が「見る」ことの補

助とはまったく違う、時間の痕跡の収集であることを明らかにしつつ、宇宙に浮かんでい

る。ハッブル望遠鏡はもはや地表にさえない。それは宇宙の生成変化を情報へと転換する

転轍機として〈闇〉を触知している。ふと思い出すのは、荒川修作が岐阜の養老町に作っ

た「養老天命反転地」だ。その窪んだ楕円の斜面を滑ると、自分がハッブル宇宙望遠鏡の

集光装置の上で遊ぶ虫になったような気がする。

                            (一九九九~二〇〇七)