佐藤公彦

佐藤公彦
1999年9月1日
『義和団の起源とその運動――中国民衆ナショナリズムの誕生』
(研文出版)
800+51
百年にわたって論争されてきた義和団の起源は白蓮教か団練かという問題に対し、義和拳の起源は清代の民間宗教(八卦教=白蓮教)と結びついた拳棒武術であったこと、それが日清戦争時の社会混乱に農村社会で勢力を増し、教会勢力に抵抗するようになったこと、ドイツの膠州湾占領と内地への軍事行動が山東民衆の反外国運動を引き起こしたことなど、義和団運動の発生・展開・結束までの全体史を叙述した。

佐藤公彦
1979年3月
「乾隆三十九年王倫清水教叛乱小論――義和団論序説」
『一橋論叢』81巻3号
55―75
八卦教の教徒であった王倫が官からの弾圧を期に蜂起したこの反乱は、清朝の盛世に陰りが出たことを示す事件であるが、と同時に、中国の宗教反乱の持つ多くの特徴を垣間見せてくれる。弟子は文弟子と武弟子に分かれ、武弟子は拳棒を教習した。反乱民衆の意識の有り様は後の義和団の時のそれと相似であり、その拳棒は宗教的なもので後の義和拳に繋がる性質のものだ、と主張した。

佐藤公彦
1990年12月10日
「カトリック布教と郷村社会」
路遥・佐々木衞編『中国の家・村・神々』(東方書店)
109−136
ドイツカトリック神言会が19世紀後半山東省南部を布教区として展開したキリスト教布教の実態と、中国人改宗者をめぐる社会的紛争=教案がなぜ発生したのか、宣教師の裁判介入を含む法関係の具体的有り様を詳論した。また布教保護権をめぐるフランスとの確執、ドイツの保護権獲得について述べた。

佐藤公彦
1990年
「義和団民衆の権力観」
柴田三千雄編『シリーズ世界史への問い 民衆文化』(岩波書店)
45−76
帝国主義の圧迫に対する民衆のナショナリズム運動としての性格を示すように、「扶清滅洋」は、中国国家=清朝を扶け外国を排除する運動だったが、民衆思想としての権力観としては、「神助滅洋」、中華の黎民が飯が食え安心して生活できる天の下の人倫的秩序を防衛するために洋を滅ぼすのだが、それは「天意」、上帝=玉皇大帝の命令であり、神々の加護、助けのもとでの執行であり、或いは神的な英雄カリスマを賦与されて行う神々の正義の代執行なのだ、とする思想であった、とした。

佐藤公彦
1992年7月
「義和団民衆的権力観」
中国義和団研究会編『義和団運動与近代中国社会国際学術討論会論文集』(斉魯書社)(柴田三千雄編『シリーズ世界史への問い 民衆文化』岩波書店)の中文版
884−903

佐藤公彦
1982年1月
「義和団(拳)源流――義和拳と八卦教」
『史学雑誌』91編1号
43−80
義和団の起源が白蓮教にあるのか、団練にあるのかという問題に対して、清代白蓮教史研究の立場から、山東に清代を通じて存在し続けてきた八卦教と結合した拳棒武術が義和拳と呼ばれたという事実、それが清末まで存在し続けたこと、これに起源を認めるべきだと主張した。

佐藤公彦
1982年
「初期義和団運動の諸相――教会活動と大刀会」
『史潮』新11号
47−74
山東南部の大刀会の歴史的起源=八卦教武派とその組織活動の特質を明らかにするとともに、ドイツカトリックの布教活動を詳論し、この二つの社会的勢力が種々の紛争を経て、衝突するに至ったこと、その影響を受けて、鉅野事件が発生し、ドイツによる膠州湾占領が敢行されることになった歴史過程を明らかにした。

佐藤公彦
1983年6月
「道光十五年の山西趙城の先天教反乱」
増淵龍夫先生退官記念論集刊行委員会編『中国史における社会と民衆』(汲古書院)
37−57
山西省趙城県で起きた先天教集団の蜂起過程を档案史料を用いて詳細に解明した。そして、この先天教組織は、山東省の八卦教組織が直隷省鉅鹿、山西省平定を経て趙城県に伝えられたものだったが、、曹順が主導権を掌握するとともに組織活動力を増大させ、蜂起に越境するに至ったことを明らかにした。

佐藤公彦
1983年
「清代白蓮教の史的展開――八卦教と諸反乱」
青年中国研究者会議編『続 中国民衆反乱の世界』(汲古書院)
75−183
清代はじめに山東・河南で開創された八卦教はその後非常に大きな影響を残したが、教主劉家・震卦王家の家系・教統をはじめ、王倫反乱、嘉慶十八年の天理教反乱、道光十五年の曹順先天教反乱、咸豊・同治年間の魯西白蓮教反乱と続く華北の民間宗教による反乱の歴史的展開に道筋をつけた。

佐藤公彦
1983年3月
「明末の聞香教と徐鴻儒反乱・私考」
『老百姓の世界――中国民衆史ノート』1号(研文出版)
27−57
明清期の民間宗教による諸反乱の先駆を為すのが明末天啓二年の徐鴻儒反乱であるが、徐鴻儒は北直隷の王森が始めた聞香教の山東の地方頭目であったが、明清戦争の余波を受けた変動を背景に宗教反乱を引き起こすことになった。その凄惨な戦争を叙述するとともに、北直隷の于弘志の反乱がどのようにリンクしていたのか、王森の息子の王好賢の宗教組織との関係、その後の八卦教開創に至るプロセスを明らかにした。

佐藤公彦
1984年
「一八九一年熱河の金丹道蜂起」
『東洋史研究』43巻2号
72−94
清末に熱河地方に広がった民間宗教=金丹道(青蓮教と八卦教の混交)が農村社会に浸透していくなか、当時、カトリックもこの地区で布教を開始した。この地区はモンゴル王侯支配下にあったが、その社会的矛盾の中から移住漢人に浸透していた金丹道組織の反モンゴル・反キリスト教の蜂起が起きたが、電信・鉄道を使用した淮軍によって鎮圧された。そのプロセスを詳細に分析した。

佐藤公彦
1986年
「嘉慶白蓮教反乱への道程――清代白蓮教の史的展開 その二」
中国民衆史研究会編『老百姓の世界――中国民衆史ノート』(研文出版)
84−117
天啓二年の徐鴻儒反乱以後も清代を通じて活動を続けていた華北の民間宗教諸組織派は、その相継ぐ伝教過程の結果、清中期の十年にわたる嘉慶白蓮教反乱に接続し、爆発することになった。その伝教関係と宗教思想の連続性を跡づけた。

佐藤公彦
1982年
「義和団源流考――八卦教与義和拳」
『義和団運動史討論文集』(斉魯書社)
500−523
1980年の国際学会「義和団運動史学術討論会」に提出した論文、義和拳の起源を八卦教という民間宗教=白蓮教との関係に求めるべきだとした。「義和拳(団)源流」(『史学雑誌』91−1)のもとになった論文。

SATO Kimihiko
1990年
“Religion and Modernization in China”
Senri Ethnological Studies ,no29
97−112
中国の宗教、その基本的特質は「天・宇宙」と「人間本性」とを連続的に捉える性質で、そのもとでの超自然的信仰と、父系血縁制下の祖先崇拝が特徴である捉え、普通言われる儒教・仏教・道教三教はこの根の点では共通であること、中国人大衆の民間宗教は万有神霊教的といっても良いもので、その呪術的精霊信仰は近代化の起動力にはならなかったが、避難所としては生き続けるであろうとした。

佐藤公彦
1991年3月30日
「中国の社会主義と知識人」
東京外国語大学海外事情研究所編『地域紛争と相互依存』(特定研究報告)
81−98
1989年の天安門事件に見られるような中国共産党による専制的支配がなぜ中国では成立するのか、その社会構造上の問題と文化的背景について論じ、同時に、劉暁波ら民主派知識人の行動についてフォローした。

佐藤公彦
1993年3月
「中国の宗教と近代化」
梅棹忠夫・中牧弘允編『宗教の比較文明――近代世界における日本文明』(春秋社)
217−244
中国の宗教、その基本的特質は「天・宇宙」と「人間本性」とを連続的に捉える性質で、そのもとでの超自然的信仰と、父系血縁制下の祖先崇拝が特徴である捉え、普通言われる儒教・仏教・道教三教はこの根の点では共通であること、中国人大衆の民間宗教は万有神霊教的といっても良いもので、その呪術的精霊信仰は近代化の起動力にはならなかったが、避難所としては生き続けるであろうとした。

佐藤公彦
1995年6月
「華北農村社会と義和拳運動――梨園屯村の反教会闘争」
『アジア・アフリカ言語文化研究』vol.45.(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)
31−92
直隷省南部にあった山東省冠県の飛地の梨園屯村の反教会闘争は、清末の教案事件のなかでも特筆すべき性質を示している。二十年に亘る民教対立は外国の介入によって、司法的解決が不可能になる中、梅花拳徒が義和拳と名を変えて荷担することによって実力抗争に発展した。華北農村社会の構造とそこで暮らす農民の意識と慣行・法意識のレベルから詳細にこの闘争を追った。

佐藤公彦
1993年6月
「従大刀会到神拳――秘密会社与郷村社会、 義和団的形成」
近代中国秘密社会史国際学術討論会提出論文・南京大学
1−15
中国語論文。大刀会は八卦教の流れをくんだ秘密結社であったが、それが、清末の山東郷村社会のなかでいかにして成長し、義和団の運動の核心をなす神拳に成長したのか、という問題に対して、原神拳とも言うべき大刀会の金鐘罩武術が郷村社会のシャーマニズムを習合させ、秘密結社的意匠を加えて神拳として結晶化したプロセスを辿ったことを解明した。

佐藤公彦
1994年3月
「秘密結社と郷村社会――義和団の場合」
東京外国語大学海外事情研究所編『国民国家とグローバリゼイション』
63−76
上記論文の日本語論文。大刀会は八卦教の流れをくんだ秘密結社であったが、それが、清末の山東郷村社会のなかでいかにして成長し、義和団の運動の核心をなす神拳に成長したのか、という問題に対して、原神拳とも言うべき大刀会の金鐘罩武術が郷村社会のシャーマニズムを習合させ、秘密結社的意匠を加えて神拳として結晶化したプロセスを辿ったことを解明した。

佐藤公彦
1995年1月
「義和団の起源について――J.W.エシェリック説への批判」
『史学雑誌』104編1号
63−90
エシェリックは1987年の著作で、義和団の起源についての1982年の佐藤の見解(八卦教武派起源論)に対して、民間文化起源論とでもいうべきものを主張したが、それが方法論的に問題があること、また、史料読解にも問題があり、成立し難いこと、それに代わって如何に論理構成されるべきかについて論じた。

佐藤公彦
1995年3月
「沂州教案について――ドイツ帝国主義・聖言会・アメリカ長老会」
東京外国語大学海外事情研究所個別研究報告No99
1−27
1898年秋の戊戌政変の影響を受けて、98年10月から99年2月にかけて山東省東南部の沂州府下で多くの教案事件が発生した。これは、ドイツの膠州湾占領への反発を背景にしていたが、ドイツはこれに対して、県城を占領し、村落を焼いた。これが、山東当局と全省にわたる反外国感情を生み出した。これが、99年秋の山東西北での義和拳=神拳の蔓延化の背景をなしたことを明らかにした。

佐藤公彦
1996年3月
「神拳――義和団の形成」
東京外国語大学海外事情研究所個別研究報告No107
1−47
1899年秋、96年頃から山東西北部に広がりつつあった大刀会の武術金鐘罩は、98年の黄河大洪水をきっかけに多くの村村で教習されるようになった。99年春、ドイツ軍が内地に入ったのを契機に全省的反外国の動きが生じ、巡撫も反外国的になった。こうして、山東義和団はピークを迎えたが、農村調査を踏まえてこの過程を詳細に追った。A.スミスのいう義和団団練説はアメリカ外交を呼び入れるためのレトリックであったことを論証した。

佐藤公彦
1997年3月
「義和拳の起源」
東京外国語大学海外事情研究所個別研究報告No113
1−60
私が1982年に発表した「義和団(拳)源流」に対してエシェリックは批判し、異なった見解を出したが、それに対して、かれの史料的根拠、史料の解釈がいずれも誤りであることを北京と台北の档案史料を用いて論証し、82年の私説が正しかったことを改めて主張した。

佐藤公彦
2000年10月
「日本義和団研究一百年」
中国義和団研究会編・蘇位智・劉天路主編『義和団研究一百年』(斉魯書社)
pp309−332
中国語論文。義和団百周年の国際学会のために日本の義和団研究の百年――事件発生から今日までの研究の歴史、重点のあり方、論争点、方法など、――について、代表的論著である80編ほどに論評を加え、整理を行った。

佐藤公彦
2001年3月30日
「義和団事件後の清朝体制の変動」
『東アジア近代史研究』4号
4−18
義和団事件後、1901年に清朝政府は変法上諭を発して、清末新政に着手しはじめたが、軍事・実業振興・教育を柱とするその新政が進捗するなか、清朝の伝統主義的な世界帝国としての性格は失われ、新たな社会階層を生み出し、辛亥革命に至る政治的配置が生まれることになったことを、日露戦争をめぐる国際背景と中国の反応を中心に論じた。

佐藤公彦
2001年3月30日
「日本の義和団研究百年(1900〜2000)」
東京外国語大学海外事情研究所紀要『Quadrante』3号
pp
中国語論文「日本的義和団研究一百年」を修改し、最近のいくつかの論文をも対象に加えて論評し、改めて再構成した。