2000/5/1
コーディネーター(高橋)と安村講師との間で、講義計画をめぐって次のようなやりとりがありました。学生諸君は、講義を聞いて、このやりとりについてどう思ったか意見を寄せていただければ、今後の講義計画の作成にあたって参考にさせていただきます。
高橋
高橋から安村へ (2000年4月11日)
高橋です。 総合科目の講義計画を拝見しましたが、少々概説的すぎるとの印象を受けます。 本日アップした石橋純氏の講義計画などを参考に、概説は1回ほどにとどめ、あとはより印象的なトピックを打ち出す方向でできないものでしょうか。 よろしくご検討下さい。
安村から高橋へ (2000年4月11日)
安村です。私は高橋さんの意見に賛成できません。専攻語をこえて履修できるという総合科目の趣旨を考えたとき、北米・中南米に関連する専攻語の学生以外にも一定の配慮をすべきであると考えざるをえないからです。とくに、ラテンアメリカとアングロアメリカにおける植民パターンの相違といった大きな枠組みについて、この総合科目 のカレンダーでは高橋さんの総論だけがこれを扱っており、私より前に講義をされる二人の方も、基本的に19世紀半ば以降の北米への移民現象を論じられるますが、その前提としての16世紀から独立までの植民活動の在り方に基本的に言及されていないのではないでしょうか。もちろん、私は北米について多くの時間をさくことはしませんし、できませんが、比較史的なパースペクティヴを学生に与えることはきわめて重要である、と考えます。スペイン領植民地とポルトガル領植民地における植民=移民のパターンの相違を理解させるうえでも、同じことがいえると思います。
18世紀メキシコにおける地域社会の展開と民族間関係について、3回にわたって詳述することはできます。その方が私にとっては簡単です。しかし、このままですと学生は個別の論題についてはなんらかのイメージをいだくことはあっても、それを統合していくべき視野をえることは難しいのではないでしょうか。総合科目が特殊講義の寄せ集めに終わらないためには、私のような講義が があってもいい、と私は考えます。もちろん、高橋さんの講義1コマで、私が意図しているようなマクロな枠組みの提 示もすまされるというのであれば、私も余計な苦労はしたくありませんから、特殊講義的な論題にしぼることにします。高橋さんの講義の内容を簡単に紹介していただければ幸いです。 安村 直己
安村から高橋へ (2000年4月11日)
安村です。
昨日はどういうわけかアクセスできなかったのですが、今日は高橋さんの ホーム・ページにアクセスできました。
高橋さんの序論、および残りの方々の講義概要を読んで、私としては私の頭の中にあるような講義の必要性を再認識しました。比喩的な表現を用いると、私が各論にはまった場合、この総合科目は各地域・時代・集団についての情報を寄せ集めたガイドブックになってしまい、それらの場を迷わずに歩 くための最低限の地図ないし磁石も受講生は与えられない、ということにな ると、私は予想するからです。
私としても、教科書的な記述(とはいっても、私の予定している解説の内 容を扱っている教科書はみたことがありませんが)を内容とした講義は、負担がふえることになるので、やりたくはありません。しかし、とくに16世 紀から19世紀初頭については、やらざるをえないでしょう。それが1コマ におさまれば理想ですが、1コマ半ないし2コマかかってしまうというのが 現状での認識です。
こうした講義を私がおこなうことで、ラテンアメリカ関連で1コマしか担 当されていない方々(石橋さんや工藤さん)にとって余計な導入部をはぶき、 直接本題に入ることを可能にできる、というメリットもえられると考えます。 むしろ私の講義概要の問題点は、具体性に欠けている点にあると思われま すので、より詳しいものを近日中に作成して提示する方が、生産的ではない でしょうか。 高橋さんのご意見をうかがえれば幸いです。
高橋から安村へ (2000年4月12日)
高橋です。
メール受け取りました。 安村さんと小生とでは講義の位置づけなり、意味づけが異なっているようです。
小生は、概説的講義は、その分野に関しててっとり早く知識を仕入れる必要性を痛感している人を対象とする場合を除いてたいした意味を感じていません。
しかも総合科目の対象は、その多くがついこの前まで高校生だった学生です。そうした彼らに、いたずらに知識をインプットしてもあまり意味がない。大事なの はむしろ、(これまでの勉強ではあまり考えてこなかったような)どういう興味深い問題、テーマがあるのか、を気づかせることだと思います。それがきっかけとなって、興味を持ちいろいろ自分でも本を読んでみる、といった効果をむしろ期待したい。
小生が「印象的なトピック」といっているのはそういう意味です。それは単なる特殊なテーマの「特殊研究」ではない。そうではなくて、その個別テーマを取り上げて、より深く迫ってみると、広い問題につながっていく、そうしたテーマです。概説的な知識はそのときになって初めて必要だと学習者には意識されてくる。概説をはじめから概説としてやっても数ヶ月後に学生の頭にはほとんど何ものこっていないだろう、と小生は思います。
明日の小生の講義計画(今、文章化しているところです)を具体的に言いましょ う。
1.なぜ「総合科目」か
既成の学問の区分けにしたがうのではなく、現代世界が直面する問題をさまざまな観点から考えていく。
2.なぜこのテーマか
小生は3つの材料を用意しています。
(1) 本学後期試験の入試問題 (テッサ・モリス・スズキさんの、グローバリゼーションの下での日本人のアイデンティティに関する議論)
(2) 数日前の石原都知事の「三国人」発言
(3) 「東京の赤ちゃん国際化急ピッチ」『朝日新聞』1999年10月8日
これを材料に、現在のグローバル化の下での人の移動によって、「国民」概念 が揺らいでいることを問題提起するつもりです。すなわち、外国人、あるいは在日の人たちの存在によって日本にさまざまな民族、文化が併存している「多文化状況」が生まれたというのではなく、まとまりのあるものとして考えられてきた「民族」、「文化」なるもの自体の存在が実は揺らいでいるのだ、ということを話したいと思っています。
したがって、何らかの理論的枠組みを提示するのでも、基本的知識を提供するのでもなく、どのような問題群があるのか、その一つの例を示すことで注意を喚起するというのが明日の講義の目的です。
そして1年間の講義では、地球規模での人の移動という問題が、近代から現代にいたるアメリカを舞台にどのように展開してきているのか、さまざまな角度から 検討したい、ということを話して、総論とするつもりです。
あと、ホームページをさまざまな形で活用することも考えています。たとえば、明日話すことはすぐにアップする。あるいはそれに対する学生のコメントも掲載する。また、小生があとで気が付いた点も追加していく。各講師の話も、学生にまとめさせてアップすることも考えています。つまり、授業の進行につれて、ホームページも成長していく。それを見ることで学生もいろいろ学べる。そうした場にするつもりです。まあ、ひとつの実験ですけど。
なお、それぞれの講師に対しても、最初のアンケートの結果を一覧にして再度送付し、それをみてあらためて考えた計画をこちらに返してもらう、という形式でやりました。本当はもっと密にやりたかったのですが、当方にこの問題に関する十分な知識と準備がなかったためにうまくいきませんでした。その分、今後のホー ムページの充実で補っていきたいと思っています。
なお、安村さんの講義までにはまだ時間がありますから、ホームページをときどき覗きながら、いろいろ構想を練っていただければと思います。
このやりとりについても、了承が得られればホームページに掲載したい。 そしてまた、他の講師にもメールしたいと思うのですが、許可していただけますか。お返事お待ちしています。
では。
安村から高橋へ (2000年4月12日)
前略
安村です。
私と高橋さんのメールのやりとりをホーム・ページに掲載してもらってもかまいません。
私と高橋さんとでは講義観、および現在の大学生についての認識にへだたり があるようです。いまはその点にはふれません。
総合科目の意義については大筋では高橋さんと同じ意見です。ただ、印象的 なトピックだけを並べることは、前回のメールの比喩をより正確に用いるならば、目次・索引・地図のついていないガイドブックのような講義に終わってしまいかねない、というのが私の懸念です。
理想をいえば、このようなガイドブックから学生が主体的に行き先をきめ、 自由に自分用の目次・索引・地図をつくっていけば、それでいいわけです。 これが高橋さんの発想だと思います。
しかし、現在の学生の知識にたいする態度というものを考慮すると、やはり こうしたガイドブック形式では不十分、ないし不親切であると思います。なにせ世界史すら高校で学んでこなかった1年生が少なからずいるなかで、彼らを主たる対象とした総合科目において、南北アメリカを中心にした近代史・現代史の流れを、そのなかで移民を送り出してきた要因と受け入れてきた 側の対応にしぼって、最低限の時系列というかたちで整理して講義しないと、個々のトピックを彼らが消化しきれなくなってしまいます。
はっきりいって、今回の個々の講義はそれぞれのテーマの専門家が非常に興 味深い素材を提示してくださっているわけですが、どちらかというとすでに 南北アメリカ地域について一定の知識・関心を有している人には分かりやすくとも、南北アメリカについてなにも知らない1年生には敷居が高すぎるのではないでしょうか。
こうした判断にもとづき、私としては微力ながら、南北アメリカをめぐる人の移動の歴史について簡単な整理をおこなうという方針を立てた次第です。また、概説的な内容と私自身形容したわけですが、私が意図しているようなこの総合科目の残りのトピックを理解する上で役に立つような概説的な記述 をみかけたことはありません。
最後になりますが、概説的な講義しかできない、ある意味で研究者としての 能力を書いた人間と思われるのも困りますので、概括的な整理をおこなった上で展開する予定の独自のトピックについては、以下の拙稿を参照していた だければ幸いです。
・安村 直己 「クリオーリョ・啓蒙・ナショナリズム」樺山紘一ほか編 岩波 講座世界歴史16主権国家と啓蒙、pp.123-143。
・ 安村 直己 「植民地期メキシコにおける民族隔離法制と地域社会秩序」歴史 学研究会編 シリーズ歴史学の現在:紛争と訴訟の文化史、pp.393-424。
・ 安村 直己 「帝国における周縁と中心」濱下武志・川北稔編 地域の世界史 11:支配の地域史、pp.134-175。
どこまでかみくだけるか心配ですが、こちらについても最大限の努力をする つもりです。
2000/4/29
最近「分数ができない大学生」という事実に代表されるように、学生の学力低下が言われるようになってきた。
私は先日、岩波書店から出版されている『世界』という雑誌を買った。「学力低下」が特集されていて、特に三人の大学教授による座談会を読むと、今の大学の状況を実にリアルに知ることができた。学歴優先の社会が崩壊しつつあり、リストラが普通に行われるようになって、親も「勉強すれば出世もできて安定した生活を送ることができる。」とは言えなくなるなど”学ぶ価値”は薄れてきた。優等生も不良もとにかくやる気がない。予備校では、トップクラスの子でさえも自分の頭で考えずに授業に対して非常に受身になってるという。
また、「5歳引きの思春期」という言葉がある。今の若者は実際よりも5歳若い精神年齢であるという。つまり、大学一年生は13,4歳。まだ中学生である。そのようにして遅くなってやってくる反抗期の典型例はいわゆる「ひきこもり」である。世を騒がせている異常な犯罪に、そういった「ひきこもり」の人間が多く絡んでいることは、ニュースなどで周知のことであろう。
つまり、高橋先生や安村先生をはじめ、現代の大学教授は、”やるきのない中学生”に学問とはなんぞやと教えなければならないのである。小学、中学、高校でのしわ寄せが大衆化された大学に押し寄せてきている。「モラルの崩壊」なんてあたりまえである。小学校、中学校でおきている学級崩壊が大学でおきたにすぎない。われわれ学生はそれほどまでに「阿呆」になってしまったことを知らない、おきらくごくらくな人種なのである。
さて、その「阿呆」の階層化が進んでいるので、どの層をターゲットにするかで先生方の議論がおこったと私は考える。足りない脳みそに高度な刺激を与えることで、やる気はないが知的レベルの高い生徒に自発的な学習を促そうとする、しかし刺激が高度すぎれば学生はついてこれないという、リスキーだが成功すれば非常に効果的で、生徒を活性化できる方法。もう一つは、学生の一番レベルの低い層をターゲットとし、彼らに必要十分な知識を浸透させるのが第一目的の保守的な方法。リスクはないぶん、大きな効果も期待できない。
結局私はどちらの方法がいいのかわからなかった。しかし、強調したいのは、先生方にこんな議論をさせてしまうほど私たちには基礎的知識も、積極性もないこと、同時に私たちは「学ぶことの本当の意味」を見失ってしまっていることである。 文の構成がめちゃくちゃになってしまいましたが、ある一生徒の感想でした。 (匿名希望)
2000/5/14
講義を如何なるバランスをもって行うか、という問題について、私なりに考えた事を伝えたく、メールを出させて頂きました。
確かに、大学生をも含めた全体的な学力の低下が見られるのは事実と言って差し支えないでしょう。 ただ、ここで我々が忘れてはならないのが、こうした思考力の弱体化は急に改善され ないという事です。
学生本人の思考力は、人生観・世界観の深さと密接に関わりながら内面に於いてじっくりと養われるものであり、ショック療法的に、深く掘り下げて根本的な問題を噛み砕くような講義をしても、根本的な改善や意識の転換に 繋がらないことも充分有り得るでしょう。歴史を殆ど勉強しないまま「倫理」科目でこの大学に入った私の経験では、概説的な「授業」が、自発的に考え、学ぶ際の枠組み造りに大いに役立ったことも多くありました。
しかしその一方で、密度・深度の高い講義は大学生にとっては無くてはならない存在 です。受けているときはハードで辛いものに感じても、講義を通して知った事が思考に於い て重要な役割を果たすからです。
概論中心にさらりと全体像を示すことを重視した授業が続けば、この一年間が終わった時点でも、今回取り上げた一大テーマの根本問題が果たして何であったかもはっきりしないままになる恐れもあるでしょう。
それ故、概論に終始することは、ある意味では一長一短と言わざるを得ません。私自身としては、この一年にせめて1回ぐらいは深く掘り下げた講義をどなたかにして頂きたいと思います。
ただ、講義方針として概説を重視されている方にはそうした要求はせずに、高橋先生と同じ意見を持つ他の方に打診なさった方が良いのではないかと感じるのですが、、、いかがですか。(アラビア語2年)
2000/5/14
高橋です。 メールありがとうございました。
概説的な講義がいいのか、ある論点を掘り下げて論じた講義がいいのか、難しい問題ですね。もともとこれはすぐにどちらにすべきかという結論が出る問題ではないのでしょう。
小生も概説的な講義の必要性を全面的に否定しているわけではないのですが、それが効果があるのは、あるテーマを論じる中でその背景説明として行う場合ではないかと思っています。
それはともかく、小生がホームページに安村さんとのやりとりを掲載したのは、学生諸君への一種の「挑発」でした。すでに出来上がっているメニューをそのまま受け身で受け入れて消化していくだけ(もっともちゃんと消化してくれればい いわけですけど)という態度で学ぶのではなく、いろいろな形で「揺さぶり」をかけることで学生諸君に考えるきっかけを与えることが狙いだったわけです。
こうした挑発がきっかけとなって、意識的に、概説的な授業と論点掘り下げ型の授業を学生諸君が意識して比較してみるだけでも効果があるのではと思うのですがどうでしょう。
(以下略)(高橋)
2000/5/21
先日は丁寧なお返事を下さり有難うございました。 メールをしばらくチェックしていなかったため、すっかり返事が遅れてしまい申し訳 ありません。 (中略)
今日メールを拝見して改めて、このメールを通したやり取りの存在が講義に対する関心を 深めるのだと、痛感しました。ただ、大体の生徒は、アップされたものを見ていないような気がするので(というのも、教室での話題を聴いている限り、誰も話題に出していないからです)、再度注意を促されてはいかがでしょうか。