総合科目「地球規模での人の移動(移民・移住・ディアスポラ)」
総論 (2000年4月12日)
2000/4/30
以下は2000年度総合科目「地球規模での人の移動(移民・移住・ディアスポラ」のコーディネーターをつとめる高橋が、第1回目の授業で話した内容を文章化したものです。ただし、厳密に言えば内容はまったく同じではなく、新たに付け加えた点もいろいろとあります。
本年度と来年度、地球規模での人の移動をテーマに総合講座の授業を開きます。ただ来年度はコーディネーターが別の教員に交代しますので、字句上の表現では題目名が若干変わるかもしれません。
本年度は、地球規模での人の移動の問題を南北アメリカを中軸に見ていこうと思います。
私は、今年度のこの授業でコーディネーターをつとめる高橋です。課程で言えば、欧米第二課程のスペイン語専攻の教師です。また講座で言えば(これは学生諸君の目から見れば学部後期のコースの区分にあたります)「地域・国際講座」に属し、ラテンアメリカの歴史と社会について授業を行っています。詳しくは私のホームページを見て下さい。
ところで、この中で、コンピュータを持っていない人はどれくらいいますか? [かなりの学生が手を挙げる] かなり多いですね。ではインターネットに接続できない人は? コンピュータはこれから大学で勉強していく上での必需品です。読み書き能力と同様、大学で勉強していくにはこれからはコンピュータでの読み書き(リテラシー)ができなくてはだめです。コンピュータを持っていない人は、親から借金をしてでも、今週の週末に秋葉原に走って一台買ってきなさい。今では10万円以下で買えます。持っていない人はとりあえず、大学でコンピュータの部屋がありますから、そこを利用して下さい。
本題に入る前に、なぜ総合科目という授業があるのかについて簡単におはなししておきましょう。
ちょっと前までは、学部前期(1,2年生)の選択必修科目として「一般教育科目」というものがありました。自然科学、人文科学、社会科学の3つの分野に区分されていて、それぞれの区分から最低3科目ずつ、全部で最低36単位を選択して履修しなければなりませんでした。これは文部省の定める大学設置基準によって決められていて、どの大学もこの設置基準を守らなくてはならなかったのです。
ところが、1991年に、大学設置基準の「大綱化」と呼ばれる大きな改革が行われました。これにより、それぞれの大学は設置基準を厳格に守る必要がなく、「大綱」として守ればよい、ということになったのです。その結果、大学の科目を一般教育、専門教育などと分ける必要がなくなりました。
この「大綱化」を受けて、それぞれの大学では次々に改革が始まりました。
外大でも1995年に実現した改革によって学部組織とカリキュラムが大きく変わりました。まず学部組織の面で言えば、それまでは、専攻語ごとに「学科」に分かれ、教員も学生もこの学科に所属する形となっていたのですが、 改革によって学生の所属組織と教員の所属組織とを分離し、学生は課程に、教員は講座に所属することとなりました。これにより、同じ課程の授業であれば、専攻語を問わずに比較的広範囲にわたって科目を履修することができるようになりました。また学部後期では、言語・情報、総合文化、地域・国際の3つのコースにはっきりと分け、学生の専門性がより明確になるようにしました。
他方、カリキュラム面での大きな変化の一つは、一般教育科目がなくなり、その代わりに総合科目が新しく設けられたことです。
一般教育科目から総合科目へと変わったことには良い面と悪い面があります。まず悪い面から言いますと、必修の単位数が減ったことです。学生がより自主的に学べるようにと、卒業に必要な単位数を大きく減らし、1,2年生のための一般教養の授業の必要単位数も半分に減りました。では改革後、学生はより自主的に勉強するようになったかというと、そうとは言えないでしょう。必要単位数が減った分だけ勉強時間も減ったと見た方が妥当だと思います。
幅広い教養教育が大学で縮小したことについては、あのジャーナリストの立花隆が最近出た『脳を鍛える ─ 東大講義 人間の現在@』(新潮社)で批判しています。この本は、彼が東大で総合科目を担当したときの講義の内容を新たに全面的に書き下ろして本にしたもので、非常に面白い。一読を勧めます。大学で何をどのように学ぶべきか、大きなヒントと刺激を与えられるはずです。
他方、総合科目に変わって良い面もあります。そもそも、一般教養では概してつまらない授業が多かった。多くの教師は、専門教育こそが重要だと考えており、一般教育は軽視していました。だが最大の問題は、一般教育にあっては、授業科目の枠組みが既成の学問の区分にしたがっていたことです。たとえば社会科学だったら、政治学、法学、経済学、社会学といった科目が開かれていました。そしてそれぞれの授業の中身はたいていが、それぞれの学問についてそのあらましを紹介する概説で、概してつまらなかった。
ですから、一般教育科目は、学生から「ぱんきょう」とかなり軽蔑的な意味を込めて呼ばれ、馬鹿にされていました。もちろん例外もありましたが。ともかく、大教室で、黙って座って教師からの一方通行的な話を聞かされるのはかなり辛い。その上に、話の中身がつまらなければ辛さはいっそうつのります。かなり忍耐強い人でないと毎回欠かさずに出席して聴講することなどできないでしょう。少なくとも私にはそうした忍耐強さはなかった。
このように、授業科目が半ば化石化した枠組みで設定されていた一方で、ひとたび大学の外に目をやれば、世界は目の回るほど急激なスピードで変わっていっています。これまでは誰もが予想だにしなかった新しい問題、事態が次々に起こっています。この10年余の間にも、天安門事件、ベルリンの壁崩壊とドイツ統一、湾岸戦争、ソ連の消滅、ユーゴ内戦、チェチェン紛争、EUの誕生など、ほんの十数年前まで世界を見るときの基本的な枠組みであった東と西(社会主義圏と資本主義諸国)、南と北(第三世界と先進国)の対立の構図ではもはや理解できない出来事が次々と起きました。自然科学分野では遺伝子操作やクローン牛誕生、テクノロジー分野ではコンピューターやインターネットの普及などを例に上げることができるでしょう。
こうした中で、既成の学問の区分をそのままに固定化し、それぞれの学問の内容を紹介するという教育のスタイルでは完全に時代遅れです。むしろ、政治学、経済学、社会学といった既存の学問分野の枠に縛られることなく、現代においてわれわれが直面している問題を取り上げて、それをさまざまな観点からさまざまな方法を用いて検討し、論じていく、というスタイルに転換すべきでしょう。つまり、学問の区分とか、垣根とか、領域とか、枠組みとかを一度とっぱらったところで、問題を考えていく。その上でこれらの問題をどのような学問の道具を使って解明していけばいいのか、あるいはどのような学問的な道具立てを工夫していくのかを考えていく。言い換えれば、道具自体の説明に終始するのではなく、まず取り組むべき問題を設定し、この問題を解明するためにはどのような道具が適切なのか、道具をあれこれ取り替えながら考えていく。私の理解では、総合科目はそうした意図から設けられたものです。
もう一つ、特にこの外大で総合科目が持っているもう一つ重要な意味があると思います。
諸君は入試にあたってある一つの言語を「専攻語」として選択したわけです。そして前期2年間はこの専攻語の習得を中軸として学生生活が回転していくことになります。他方、言語ときわめて強く結びついているもう一つの枠組みが地域です。2年制は、専攻語科目と地域基礎科目の両方を履修しないと後期課程に進めません。そして3年制になると、今度は、「言語」を核とした言語・情報コース、やはり「言語」を核とした総合文化コース、そして「地域」を核とした地域・国際コースのどれかを自分の専門として選択することになります。このように、この大学では、「言語」と「地域」が主要な柱となっているわけです。
このように「言語」と「地域」は本学の独自性を担っている2本の柱であるわけですが、そしてそのことの意義は大きいわけですが、同時に問題もある。というのも、あるひとつの言語、ひとつの地域に閉じこもる傾向がともすれば強く見られることにもなるからです。
確かに、ある言語、ある地域に関する深い知識は貴重です。と同時に、そうした言語、地域をより広い視野の中に位置づけていくこともこれに劣らず重要なことです。
何よりも、現代の世界は、ある一つの地域だけに視野を限定するだけではその地域自体すら理解できないという時代となっています。世界の諸地域は密接な連関をもった相互依存の関係を持つにいたっています。そしてその関係は日毎により密接なものになっているのです。グローバリゼーションという、地球規模での一体化が急速に進行しています。このグローバリゼーションという言葉こそ、現代世界を性格づけるキーワードです。ですから個別の地域もグローバルな視野の中で、他の地域との相互連関のなかで見ていかなければならないことになります。
それゆえに、外大で学ぶことでともすれば陥りがちな個別の言語、地域の枠を越えることが必要となってきます。そして、言語、地域の枠をとりはずしたところで現代社会と現代世界の直面している問題を考えてみようというのがこの総合講座の趣旨であるわけです。
なお、一般教育、大学における教養教育、総合科目については、最近出た次の本を推薦します。これはジャーナリストの立花隆氏が、客員教授として東大で総合講座を担当したときの講義をあらためて書き下ろしたものです。とても刺激になります。ぜひお読み下さい。
立花隆 『脳を鍛える』 新潮社
では次になぜ、このテーマ、すなわち「地球規模での人の移動」か、という問題に移りましょう。
『科目概要』には次のように載っています。
まず授業の目標として、
「言語・文化・地域の枠組みを突き抜ける形で進行してきた地球規模での人の移動を多面的、多角的に検討する。今年度は中軸を南北アメリカ大陸に置く。」
また「授業の内容・計画」として
「以下のテーマについてリレー形式で講義する。
1.北米へのアイルランド移民
2.北米へのスウェーデン移民
3.中南米への移民
4.ブラック・ディアスポラ (北米)
5.ブラック・ディアスポラ (中南米)
6.中国人移民 (華僑・苦力)
7.中南米への日本人移民
8.デカセギ、外国人労働者
9.カリフ世界の形成
10.アーケイディアン
11.ヒスパニック」
なぜこうした目的、内容なのか、について少しお話ししておきましょう。
昨年(1999年)の11月か12月、講座の責任者から2000年度の総合科目のコーディネーターに小生が決まったことを伝えられました。ぼくは抵抗したんですが、正式な決定の場である講座会議でもほとんど議論がないまま「強行採決」されました。
総合科目という科目は、きわめて大きな問題がテーマとなっています。たとえば、昨年まで、この総合講座では「民族」がテーマでした(本年度の『履修案内』にも「民族」とありますが、間違いです。今年から変わりました)。現在の学問は細分化が進んでいますから、こうした大きなテーマを一人で講義することはなかなか難しい。ということで、コーディネーターが中心となって複数の講師に講義を依頼し、このようにリレー形式での講義となっているわけですが、。このコーディネーターは、講座で順番に引き受けることになっています(講座というのは教官の所属する組織です。外大には、現在、言語・情報、総合文化、地域・国際の3つの講座があります)。そのコーディネーターに今年は私が指名されたわけです。
コーディネーターが私に決まったと伝えられたときに、本年度と来年度のテーマは「ディアスポラ」だというこを言われました。
皆さんの中で、「ディアスポラ」っていう言葉を聞いたことがある人いますか。まあ、ほとんどいないでしょう。
「ディアスポラ」というのはもともと 「バビロン捕囚後、ユダヤ人がパレスチナ以外の地へ離散したこと」 を指す言葉でした。そこから意味が広がって、「ある国や地域を離れて離散すること、移住すること」を一般的に指す表現として用いられるようにもなりました。
本年度のテーマが「ディアスポラ」だと聞いてますますいやになりました。講座の責任者にも言ったのですが、「あたしがディアスポラしたいよ」(どこか行きたいよ)という気持ちでした。
というのも一つには、このテーマがそれまでの小生にはあまり馴染みがなかったから、ということがあります。でもそれだけではありませんでした。この言葉はそれまでにもちらほら耳や目には入っていましたが、その度に軽い嫌悪感も感じていた。それで、テーマが「ディアスポラ」に決まっていると聞いたときにもかなり強い反発をおぼえたんです。
「ディアスポラ」というのは最近、世界の研究者、知識人の世界で一種の流行語になっている言葉です。『ディアスポラの思考』(筑摩書房 1999年)という本の「終章」でも、著者の上野俊哉氏が、欧米ではなんでもかんでも「ディアスポラ」という言葉が入った本があいついで出されて本屋に山積みにされている、と書いています。
ご存じのように、日本は鎖国の後、ヨーロッパ列強に追いつくために、猛烈な勢いで外国の文化、知識の吸収につとめました。そうした中で、いかにヨーロッパやアメリカ合衆国で最新の研究成果や知識を知っているかいないかが知識人たちの優劣の基準にすらなりました。日本の知識界のこのような体質は今でもあまり変わっていません。欧米で流行の思想や概念にすぐに飛びつき、それを得意げに振り回す人々は今でも多くいます。「ディアスポラ」というのも、最近のこれまた流行の「カルチュラル・スタディーズ」とともにここ数年日本でも流行している概念です。だから、何が「ディアスポラだ」という気持ちがあったわけです。かっこつけて、大学の、しかも新入生中心の(つまり、つい最近まで高校生だった)学生たちに、何がディアスポラだよ、という気持ちでした。
そこで私がやったのが、テーマの修正でした。授業の中身はかなりコーディネーターの自由になるからです。というわけで、ディアスポラを前面に押し出すのはやめる、その代わりに、より広く「地球規模での人の移動」とし、「ディアスポラ」はそのサブテーマの一つに入れる形にしました。
と同時に、「地球規模」ではあまりに広すぎて話が拡散してしまう危険を感じたので、そしてまた小生がラテンアメリカ研究者であることから、南北アメリカ大陸を中軸に据えることにしました。
少し世界史を知っている人なら誰でも知っていることですが、アメリカ大陸はまさに「地球規模での人の移動」の舞台にぴったりの所です。
この点についてもう少し詳しく知りたい人は少し古いですが、とりあえず次の本を参照してみるとよいでしょう。
大貫良夫編 『民族の世界史13 民族交錯のアメリカ大陸』山川出版社 1984年
歴史学研究会編 『他者との遭遇』シリーズ「南北アメリカの500年」第1巻 青木書店
まず、1万年以上前、当時は陸続きだった現在のベーリング海峡を通ってアジアから人々がアメリカ大陸に移住しました。最初の「アメリカ人」たちです(もちろん、当時は「アメリカ」などという言葉はありませんでしたけど)。今では、「ネイティブ」、あるいはその土地の人「インディヘナ」と呼ばれている人々も、もともとはアジアから南米の先端にまで至る「グレート・ジャーニー」をした移住者だったわけです。
因みに「インディヘナ」と似た言葉で「インディオ」という単語があります。もちろん、「インディオ」というのは、コロンブスが新大陸をインドだと思いこんだことからついた呼び名で、「インド人」ということです。しかい先住民を指すこの「インディオ」という表現が現在では軽蔑的な意味を込めて使われることから、「インディヘナ」という呼び名を用いている人がいます。しかし、「インディヘナ」というのは「インディオ」と似ていますが、系統は別のことばですし、意味も「その土地にもともと住んでいた人」ということです。ですからわれわれ日本人も日本の「インディヘナ」であるわけです。
もっとも数日前、新聞(スペインの『エル・パイス』紙 4月8日)にこんな記事がでていました。これまで、アメリカ大陸の最初の住民は、14,000年前にアジアからマンモスを追ってアジアからベーリング海峡を渡ってきた人々だといわれてきたが、すでに20,000年前に、あのアルタミラの洞窟の絵を描いた人々と親戚にあたる人々が大西洋を渡ってアメリカ大陸にやってきたとの新説を米国の学者が学会で発表した、という記事です。スペイン語を読める人のために、その記事をコピーしておきましょう。スペイン語が分からない人は無視して下さって結構です。
Una tesis sostiene que los primeros americanos eran ibericos
R. MARTINEZ DE RITUERTO, Chicago
Colon partio de Espana para descubrir America en 1492, pero no fue el primer vecino de la peninsula Iberica en pisar aquel continente. Los primeros habitantes de America, culturalmente emparentados con los que pintaron las cuevas de Altamira, llegaron al otro lado del Atlantico hace unos 20.000 anos, segun el paleoantropologo Dennis Stanford, director del Departamento de Antropologia del Museo de Historia Natural de Washington. Stanford presento ayer su tesis de que los americanos tienen tatarabuelos ibericos en un congreso celebrado en Filadelfia por la Sociedad Americana de Arqueologia. "Venian de la peninsula Iberica, no de Siberia", dice. Stanford ha dedicado su vida de investigador a buscar a los primeros americanos. La tesis convencional senala que cazadores de mamuts llegaron hace unos 14.000 anos a America desde Asia, cruzando sobre los hielos del estrecho de Bering para extenderse, con el paso de los milenios, por todo el continente. El que se tiene como el yacimiento arqueologico mas antiguo de Estados Unidos se halla en Clovis (Nuevo Mexico), en el suroeste del pais, y siempre se ha trabajado en el pensando que fue un asentamiento de aquellos viajeros asiaticos. Pero si sus ocupantes procedian de Siberia, en Asia deberia quedar algun tipo de vinculo. "Anos de investigacion no han producido pruebas de que haya una conexion historica entre el paleolitico de Asia y la gente de Clovis", mantienen Stanford y su colega Bruce Bradley en Discovering Archaeology, revista de Scientific American. A pie y en barca Es mas, el sureste de Estados Unidos tiene yacimientos mas antiguos que el de Clovis y en el de Cactus Hill (Virginia), a unos 250 kilometros al sur de Washington, cree haber hallado Stanford la clave que desvela el misterio de quienes fueron los primeros americanos. "Es mas viejo que Clovis, puede que tenga 18.000 o 20.000 anos", dice Joseph McAvoy, uno de los arqueologos responsable de las excavaciones que desde 1989 vienen realizando a orillas del rio Nottoway investigadores de las universidades de Virginia Tech, Yale, Washington y Appalachian. Los restos de Clovis, imposible de relacionar con Asia, son a ojos de Stanford indistinguibles de los del periodo Solutrense, que en su momento mas brillante produjo los grabados incisos y el centenar de pinturas de bisontes, caballos, jabalies y ciervos de Altamira. Lo que ayer defendio Stanford es que los cazadores de Clovis derivan de Cactus Hill, donde se han hallado utiles y puntas que son otro calco del Solutrense iberico, y que esos colonos de Cactus Hill, los primeros americanos, procedian de nuestra Peninsula, convertida entonces en un refugio de los europeos que sufrieron la ultima glaciacion. El paleoantropologo de la Smithsonian Institution esta convencido de que los cazadores y pescadores ibericos emigraron hacia el norte y el oeste siguiendo el borde de los hielos y que cuando no avanzaban a pie lo hacian en barca.
たとえこの新説が正しいとしても、いずれにせよ「最初のアメリカ人」が移住者であったということには変わりありません。
さてその次はあのコロンブスです。地球は丸く、西へ西へと航海すれば東洋に着くことができると確信して、その結果、現在のアメリカ大陸を「発見」した、ということはもうよくご存じでしょう。
コロンブス以後、南北アメリカへの大規模な人の移動が始まります。
まず、スペイン人、ポルトガル人が中南米に進出し、征服し、植民します。とりわけスペイン人たちを突き動かしたのが黄金熱であったこともすでにご存じのことと思います。他方、北アメリカには、17世紀以降、イギリスを先頭にオランダ、ドイツ、北欧諸国、、イタリア、ポーランド、ギリシアなどヨーロッパの多くの国々から移民が移住していきます。多くのユダヤ人も移住しました。実に数千万人の人々が大西洋を越えてアメリカ大陸に渡りました。彼らの移住の動機が、スペイン人たちとは異なって、新天地の開拓だったことも高校での世界史の授業で学んだことと思います。このようにして、南北アメリカ大陸は「移民の大陸」になっていきます。
大西洋を渡ってアメリカ大陸に移り住んだのはヨーロッパの人々だけではありません。アフリカからも1000万人以上と言われる人々がやってきました。ただし自ら望んでの「移民」としてではなく、奴隷としてです。
なお、彼らアフリカ人についても、さきほど触れた「ディアスポラ」という言葉がしばしば使われます。英和辞書にも "the African diaspora" といった用例が載っていますし、そのものずばり『ブラック・ディアスポラ』と題する本も出ています。ロナルド・シーガルという人の本で、去年、翻訳も出ました。この連続講座の講師でもある本学の鈴木茂さんや、やはり講師をつとめる慶応大学の工藤さんが訳者として翻訳に加わっています。
さらにまた、大西洋ばかりでなく、太平洋を越えてアジアの人々もやってきました。中国人、日本人、インド人たちです。これらアジアからの人の移動については2学期に見ることになります。カリブ海地域は今でも「西インド」と呼ばれていますが、その「西インド」に本物の(?)「東インド」の人たちがたくさん住んでいるんです。これについては、やはり2学期に、内藤雅雄さんがお話ししてくれる予定です。
こうして、古くは1万年以上前、そして新しくは(といっても500年以上前ですが)コロンブス以降、何千万という人々が海を渡り、このアメリカ大陸にやってきた。そしてそこでお互いに衝突し、さらには殺し合い、あるいは逆に混じり合い、独特の世界を創り出していったというわけです。
そこで次に、移動そのものではなく、このような人の移動が生み出した新しい事態、状況をめぐって一連の問題がでてきます。移住してきた人々が、あるいは強制的に連れられてきた人々が、彼らよりも以前にいた人々とどのようにつきあい、対立し、混じり合ってきたのか、その結果、どのような社会、どのような文化が創り出されてきたのか、という問題です。
他方で、移動してきた人々が、移動してきた後に、彼らの出身地とどのような関係を持ち続けたのか、という問題もあります。たとえば、アフリカからつれてこられた黒人奴隷やその子孫たちがアフリカについてどのような記憶をどのようにして保持し続けたのか、あるいは時間の経過の中で新たにどのようなアフリカ像を生み出していったのか、といった問題もその一つです。これも実はとても大事で面白いテーマです。
さて、こうした地球規模の人の移動が、グローバリゼーションと呼ばれる事態が急激に進行している現代において、いっそう大規模な形で進行していることはあらためて言うまでもないでしょう。そしてその中で、さまざまな文化的背景を持つ人々が混じり合い、融合し、あるいは反発、対立している、という状況が今われわれの目の前で進行しています。
それにともなって、さまざまな文化の連関、融合、混交、混じり合いを表すさまざまな概念が、重要な用語として思想の世界で問題にされています。「ハイブリッド」、「ボーダー」、「クレオール」、「メスティーソ」などなどです。実は、「ディアスポラ」という概念も、同じような背景と文脈で最近使われるようになってきたもおんです。さっきはかなり悪口を言いましたが、実はやはり重要な概念です。これらの概念については、たとえば、石橋純さんや工藤多香子さんが2学期の授業でカリブ地域を例に話してくれると思います。
さて、私たちが住むこの日本も、今やこうした状況と無縁ではありません。
昨年(1999年)10月8日の朝日新聞(夕刊)に次のような記事が掲載されました。「東京の赤ちゃん国際化急ピッチ ─ パパかママが外国人、都区部の7パーセント」というタイトルの記事です。この記事の一部を引用しておきましょう。
東京都区部で1997年に生まれた赤ん坊のうち14人に1人(7.0%)、大阪市は13人に1人(7.6%)の親が外国人であることが、東京女子医大の李節子助教授(母性看護学)の分析でわかった。なかでも東京の港区、新宿区は5人に1人の割合に達している。全国でも前年より0.1ポイント高い2.8%となった。
日本人の少子化が進む一方、円高傾向が定着した1980年代後半以降に急増した在日外国人の間でベビーブームが到来、日本人との間に生まれる子どもが増えているためだ。出産・育児の環境に恵まれないケースも多く、乳児死亡率が高い傾向がみられる。
記事はさらに、李助教授のコメントとして、「外国にルーツを持つ子どもがどんどん増えている。『日本人』が急速に多様化しているという実態を、医療、教育関係者を始め、広く知ってほしい」という言葉も引いています。
この「『日本人』が急速に多様化している」という表現に注目しておいてください。「日本人」にカッコがつけられていることにも。
もう一つ材料を出しましょう。去る3月に行われた本学の入学試験(後期課程)の問題です。
今年から、後期課程の試験方法が変わって、昨年までの小論文が廃止され、それに代わって、英語と小論文を合わせたような試験になりました。英語の長文を読んでもらい、どれほど英文の読解力があるかを見ると同時に、内容について論じてもらうことで、思考力、文章力、構成力を見ようと言う試験です。
今年の問題のテキストは、Tessa Morris-Suzuki さんの書いた "Reinventing Japan" と題する文章から取ったものです。今日の話に直接関係する部分を引いておきましょう。
It is possible for a large number of people to identify themselves as "Japanese" without sharing a single discernible "culture" in the sense of agreeing what it is that makes them "Japanese." For some, it may simply be a matter of passport or place of residence, for others, a sense of kinship or attachment to their place of birth; for some, the ties of language may be significant, for others, the heritage of poetry, art, and music produced within Japan; for some, it may still be loyalty to the emperor, for others, it is attachment to the postwar Japanese constitution. Just as "culture" is not a thing which societies carry with them intact through time, but only an endless and fractured process of the reworking of multiple traditions, so "identity" is not a thing which individuals carry with them through life, like a scar on the soul. Instead, it is something that we make in the present moment out of an interweaving of our cultural resources, as we talk to others, listen, write, or read the fianl pages of a book.
Growing ethnic deversity in contemporary Japan, then, is not important just because it creates a "multiculturalism" where imported Korean, Chisese, o Filipino cultures, or indigenous Okinawan and Ainu cultures, are recognized as having their place alongside "mainstream Japanese" culture. Rather, it performs the much more challenging role of turning the spotlight onto the notion of "culture" itself, forcing us to reconsider the soothing images of homogeneity and harmony which the word conveys. In the process it becomes necessary to recognize the multiple identities in which all individuals participate. The issue is not simply the recognition and "tolerance" of the difference of Ainu or Koreans, but recognition of the difference which has always existed within the category "Japanese." And this diffrence in turn exists not just because there are Tohoku-kei Nihonjin and Kyushu-kei Nihonjin (Japanese of varied regional ancestry) as well as Okinawa-kei Nihonjin or Kankoku-kei Nihonjin (Japanese of Okinawan ancestry or Korean ancestry), but because individuals are not containable within bounded cultural groups which ensure "sameness." The individual, rather, is a point where many flows of knowledge and many dimensions of identity intersect. Cultural citizenship and cultural democracy depend not on the "majority's" tolerance of the "minorities," but one everyone"s ability to question the categorizatrion which produces the imperioius image of "majority" and "minorities."
(Tessa Morris-Suzuki, Reinventing Japan, 1998)
独自のまとまりをもったある一つの「文化」を共有していなくても、言い換えれば、自分を「日本人」たらしめるものが何なのかという点で意見が一致していなくても、自分は「日本人」だと多くの人は考えることができる。人によってそれは単にパスポートや住んでいる場所といった問題に過ぎないのかもしれないし、また別の人にとっては一種の同族意識をおぼえる、あるいは生まれた場所に愛着の気持ちを抱く、ということかもしれない。言葉による結びつきを重視する人もいるだろうし、日本で作られた詩や芸術や音楽の遺産を大切だと考える人もいるだろう。いまだ天皇への忠誠心が理由である人もいるだろうし、戦後の日本国憲法を重んじる人もいるだろう。「文化」というものは、それぞれの社会が変わることなくずっと持ち続ける「モノ」なのではなく、多種多様な慣習をつくりかえていく断続的で終わることのないプロセスである。それと同様に、「アイデンティティ」も、ちょうど心の傷のように個々人が生涯を通じて保持し続ける「モノ」ではない。そうではなく、他の人に話しかけたり、何かを聞いたり、ものを書いたり、本を読み終わろうとしたりしたときに、その時々の時点で自分たちの文化的資源を編み上げながら創り出す何ものかなのである。
だとすれば、今日の日本においてエスニシティが日増しに多様になっていることが重要なのは、外来の韓国文化、中国文化、フィリピン文化、あるいは土着の沖縄文化、アイヌ文化などが「主流の日本」文化と同列の存在として認められるという「多文化状況」を生み出しているからなのではない。むしろ、「文化」の概念そのものを俎上に乗せ、文化という語から受ける同質性や調和といった心地よいイメージを再検討するようわれわれに迫っている点ではるかに挑戦的な役割を果たしているからなのである。こうした中、人は誰もが多種多様なアイデンティティに関わっているのだと認めることが必要になってくる。問題は、単に、アイヌや韓国人など異なった存在を認めそれに「寛容」であることなのではなく、「日本人」という概念の中に常にあった違いを認めることである。「日本人」の概念の中にこうした違いがあるのは、東北系日本人や九州系日本人、あるいは沖縄系日本人や韓国系日本人がいるからなのではなくて、そもそも誰であれ個々人は、「同一性」を堅持し他集団とは明確な境界線で区別される文化集団なるものの内部に収まりきれるものではないからなのである。一人一人の人間はむしろ、さまざまな知識の流れやさまざまな次元のアイデンティティが交差する点である。文化的な市民権や文化的な民主主義が存在するか否かは、「多数者」が「少数者」に対して寛容であるかどうかによるのではない。そうではなく、「多数者」、「少数者」といった傲慢さを帯びたイメージを創り出すこうした区分けそのものを問題にする一人一人の能力に依存しているのである。
率直に言って、これは高校生にはちょっと難しい内容でした。たとえば設問2の「日本人のアイデンティティ」に関する筆者の主張を100字以内で簡潔に要約しなさい」という問題などは、ほんのわずかの人を除いてほとんどの人が正しく答えていませんでした(キーワードと思われる単語を集めてそれを適当に並べただけの、「小論文対策」方式に忠実な答案がかなり目立ちました)。
この文章で、テッサ・モリス・スズキさんは、「文化」とか「アイデンティティ」とかいった場合に、きわめてよく見られる考え方を批判しています。われわれはともすると、「文化」を、何かあるまとまりをもった固定的な、変わることのない有形の実体であるかのように考えがちです。そして「民族」や「国民」はそうした共通の「文化」を持った人々の集まりと考える。たとえば、「日本人」は共通の「日本文化」を持った「民族」であり、「国民」であるといった考え方です。そうした考え方によれば、「日本人のアイデンティティ」なるものが実体として存在しており、それを支えるものとして「日本文化」なるものがあって、日本人はそうした「日本文化」を共有しているのだ、ということになります。
でも、テッサ・モリス・スズキさんは、こう問いかけます。「文化」とははたして本当にそのようなものなのか。そしてまた、日本人の「アイデンティティ」なるものも、そうした不変で有形の「文化」に支えられているものなのか。
そうではないだろう、というのがテッサ・モリス・スズキさんの答です。人が何をもって自分を日本人であると考えるのかはそれこそ人によってさまざまだろう、というわけです。そしてまた同じ人でも、その時その時で違っているはずだ。「日本人」という同質の存在があるのではなくて、個人個人がその時点、その時点で、状況に応じて、さまざまなアイデンティティをつねに新たに作り出しているというのが本当だ、というのです。
このテッサ・モリス・スズキさんと同じような議論を、米国の大学で日本の思想、文化を教えている酒井直樹という研究者も展開しています (酒井直樹 「ナショナリティと母(国)語の政治」 酒井直樹、ブレット・ド・バリー、伊豫谷登士翁編 『ナショナリティの脱構築』 柏書房 1996年)。
酒井氏は、文化を何かあるまとまりをもった実体と見なすのではなく、「行動の様式あるいは実践系」として考えてみよう、と言います。そして、こうした「行動の様式」、「実践系」の具体例として、水泳と自動車の運転を挙げています。「たとえば、水泳は一定の身体の運動様式を持った実践系で、泳ぐことのできる人の間には共通の体験を生み出し、泳ぐことのできる人と泳ぐことのできない人との間には文化の差異に基づく体験の非共約性があるだろう」。自動車の運転も同じで、運転ができる人の間でなら簡単に分かり合えることでも、運転をしたことのない人にはいくら説明しても分かってもらえません。そうした意味で、「水泳や自動車の運転は一つの文化である」(13ページ)と酒井氏は言います。
酒井さんが挙げているのはこの二つの例だけですが、他にもいろいろな例を挙げることができるでしょう。というより、私たちは毎日、こうした無数の「行動様式」、「実践系」の網の目のなかで暮らしているといった方がいい。そのことは、朝目が覚めてから夜寝るまでの毎日の自分の一日の行動を一つ一つ思い浮かべてみれば簡単に了解できるでしょう。私たちの毎日の行動は無数の「行動様式」、「実践系」が束になったものと言えます。このように、「行動の様式」、あるいは「実践系」として文化を見ていくと、「社会の中には数多くの文化がパッチワークのように並存し、私たちは絶えず非共約性による文化的差異に出会っていることに気が付」きますし、個々人は、それぞれが異なった組み合わせの「行動様式」、「実践系」の束であることも分かります。しかも同じ個人がいつまでも同じ組み合わせの「束」であるわけでもなく、毎日毎日生活する中でこの束を作り替え、編み変えているわけです。
いわゆる「日本人」は、これら無数に存在する多様な行動様式、実践系のうちかなりのものを共有している人々だと言えるでしょう。しかし、これら「日本人」がすべて同じ行動様式、実践系の束を共有しているわけでは決してない。酒井氏が言うように、「日本にある諸々の文化の雑然とした集合という意味での日本文化は容認できても、日本人の本来性を担うような有機的統一体としての日本文化は存在しない」(14ページ)わけです。そうであるならば、日本人は「日本文化」なるものを共有した民族だということもできない。
といっても、現実には、「日本人という国民が一つの民族に基づいており、その民族内では意思の交流や共感があらかじめ保証されている、という思い込み」(10ページ)が強かったことも事実でしょう。しかしそうした思い込みは今、強く揺さぶられ始めている。
現在、日本にさまざまの国から多くの外国人が流入してきています。もちろん、以前から、何十万人という在日中国人、在日朝鮮人がいましたが、1980年代以降、イラン、バングラディッシュ、パキスタン、フィリピンなどのアジアの国々、そしてまた中南米からも何十万人という人たちが流入してきました。今日本では、ポルトガル語、スペイン語の新聞が出されていますし、衛生放送ではスペイン語、ポルトガル語のチャンネルもあります。そして、先ほど見たように、赤ちゃんの「国際化」も進んでいます。そうした中で、これまで等質だと考えられがちだった「日本人」像自体が揺らぎ始めています。
そうした状況に対して見られるもっとも顕著な反応の仕方には大きく二つあると言えるでしょう。
一つは、自分たち「日本人」とは異質で不気味な存在として外国人を見る視線です。数日前に石原慎太郎都知事が行った発言はその典型でした。彼は、陸上自衛隊練馬駐屯地で開かれた式典でこう発言しました。「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害では騒擾事件すら想定される。警察の力に限りがあるので、みなさんに出動していただき、治安の維持も大きな目的として遂行してほしい」。異質な(邪悪な)「外国人」から「日本人」を守らなければならないという危機意識です。
もう一つは、外国人の存在を認め、われわれ日本人は彼ら異なった文化を持つ人々と共存していかなければならない、とする立場です。だが、先ほど引いたテッサ・モリス・スズキさんはこうした「多文化主義」にも批判的です。というのも、こうした「多文化主義」の背景にも、「日本人」と「外国人」がそれぞれ異なった文化を持っているという考え方があるからです。でも、果たして、文化というものは、他とは区別される明確な輪郭を持った実体なのか。むしろそうした発想そのものが、人々が地球規模で移動し、混じり合っていく現代世界の中で問い直されるべきなのではないのか。
現在地球規模で進行している人の移動は、私たちにさまざまな問いを投げかけます。この人の移動の問題を、歴史的な背景の中で、文字通り地球規模で考えて以降というのがこの授業の趣旨です。
なお、成績評価の方法を、試験からレポートに変更しました。この点については掲示板を見て下さい。