馬場由美子
(1986年入学、1992年卒業
卒業から早10年。新聞社という「大マスコミ」の中で、もまれて、しごかれて、それでもなんとか生きながらえています。思えば、5回生4年で就職活動に全敗し、「卒論を出さない」という手段で大学に残り、翌年、運良く今の新聞社にひっかかりました。その節は、できの悪い生徒の願いをかなえていただき、本当にありがとうございました。
盛岡支局に4年、東京本社地方版編集に5年、そしてこの4月から、本社の国際編集部で英字新聞に携わっています。
支局時代はサツまわりに目覚め(警察なんて全て敵と思っていましたが、けっこういい人もいるものです)、「次は東京で警視庁担当に」といきがっていたのに、放り込まれた先は内勤職場でした。地方版編集はその名の通り、県版を組み上げるのが仕事です。支局から送られてくる記事を読んでレイアウトを描き、見出しを考え、写真の大きさを決めて、パソコン端末に組み付ける、という作業です。そういえば卒論で、チリの新聞の見出しやレイアウトの背後に潜む意図の分析(思わず赤面ものの出来・・・先生、すみません)をやったなあ、と思い出し、実際自分が組み手になってみて、こういうからくりは、強烈な思想と豊富な時間的余裕がないとできない、と実感しました。
職人技の「カン」を要求される仕事で、それなりにやりがいはありましたが、記者志望の私としては、外に出られない、つらい日々でした。その穴を埋めようと、中断していたフラメンコを復活し、某舞踊団で営業に出たり、師匠の代わりにクラスで教えたり。完全に「二足のわらじ」的生活でした。
別送した入社案内に書いた文は、異動話が宙ぶらりん状態で、精神的にとてもつらい時期に「地方版編集」の代表として書いたものです。うちの新聞社に興味を持っている学生さん相手に、暗い話はできない。でも記者として、嘘は書けなかった。結局、事実(真実ではない)を淡々と書きました。記者志望のみなさんに、心して読んでね〜〜と言いたいです。
この4月から、International Herald Tribune と共に、新しい英字新聞(通称ヘラルド朝日)発行しています。現在はこの部署で、英語で記事を書いたり、日本語の記事を英訳したりしています。
しかし、帰国子女でもなく、留学経験もなく、英語圏に行ったことすらない私が、「公用語は英語」の部署に来てしまったのですから、我ながら、無謀だったと痛感しています。事実、デスクからは毎日怒られ、へこんでいます。英語ができない英字紙記者、スペイン語科卒業でスペイン語ができない私。ああ、語学に泣かされる人生・ ・・。でも、好きで選んできた道なので、結局のところ、楽しんでしまっています。
取材で味わえる醍醐味は、日本語の新聞と変わりません。むしろ、スタッフが少なく、何でもカバーしなければならないので、チャンスは日本語の部署より多いような気がします。先日も、サッカーのコンフェデレーションズ・カップを、鹿島スタジアムで取材しました。ブラジル選手にスペイン語で質問するのですが、向こうの答えはポルトガル語。3割ぐらいはわかります。本当、毎日ばくちのような取材でした。来年はW杯。今から部長に「スペイン語やっといてね」と脅されています。とほほほ。
胃の痛い日々は続きそうです。でも、少しずつ外に出ていきたいと思っています。 高橋先生、ゼミ関係の皆様の情報提供をお待ちしています。新聞社に興味のある方々も、気軽に声をかけてください。会社に直接電話しても、つないでくれないことがあるらしいので、卒業生名簿にある自宅の方に連絡を入れていただいでも このページ経由でも構いません(高橋先生、いいですか?)。
長々と乱文で失礼しました。またメールします。 写真などで見るに、外語はずいぶんハイカラになってしまったようですね。 学長も変わったことですし(?)、一度のぞきに行ってみたいです。