ナショナリズム

 ナショナリズムという語を見て、読者はすぐに戦前の日本の超国家主義やドイツのナチズムを思い浮かべ、少々過敏に反応されるかもしれない。そして戦前の反省から出発した戦後の日本考古学の動向(=非政治性の標榜: Faucett 1995, Tsude 1995, Habu and Faucett 1999)から判断して、なぜいまナショナリズムと考古学との関係を議論しなくてはならないのかという疑問を抱くかもしれない。ここでは戦前の極端な事例を非難することが目的ではない。極限の事例をことさらとりあげても、日常性のなかに潜む問題は解決されない。むしろ、現在われわれがどのようなしかたで「過去」についてのイメージを生み出しているのか、そしてその際、どのような学問的枠組み(支配的パラダイム)がわれわれに影響しているかを考察し、自らが「自然なもの」、「自明なもの」として、これまで問題とされてこなかった部分を明らかにするほうが、考古学の将来の可能性に寄与するものと考えられる。

考古学がどのようにナショナリズムと関係しているのかを考えるとき、近代国民国家とナショナリズムの成立、ナショナリズムの性格と機能、そして現在におけるナショナリズムの変貌と限界について言及しなくてはならない。そして過去へさかのぼって歴史を再構築するという考古学の営みが、近代のはじまりから現在まで、ナショナリズムとどのような関係を保ってきたかを解き明かす必要があるだろう(Kohl and Faucett 1995, Diaz-Andreu and Champion 1996, Molyneaux 1997)

考古学がナショナリズムに関与するのは、考古学者によって過去が「再構成」される際に起こる問題、すなわち表象の場における問題である。過去はどのような場=空間において表象されるのか。考古学が近代国民国家において誕生したことを想起すれば、その回答はおのずと明らかである。しかし国民国家において多様な性格をもつナショナリズムが「過去表象」を生み出すメカニズムについては、やや複雑な説明が必要となる。

ナショナリズムとは何か、一言で述べるとすれば、それは国民国家における国民のイデオロギー的統合(国民化)のための思想であり、またその運動ということができるだろう。そして国民のイデオロギー的な統合において、「文化」が重要な役割を果たしてきた。この場合「文化」とは、国民国家内の空間において均質化・同質化されるべき「国民文化」を指し、言語、習慣、服装、宗教、時間感覚、味覚、音感、身振りなどから、思想、知識、芸術、文学、科学に至るまで、本来、多様な人びとの生活基盤の領域を、国家にとって最も望ましい方向へと統合された「文化」のことである。そして国民国家成立後に設けられた国境の内側に住む多様な人びとやその文化を均質なものに変え、ひとつの「国民文化」に統合していくためには、ナショナリズムというイデオロギー装置だけでは不十分である。それには文化的統合を可能なものにする諸制度が整備されていなくてはならない。それらの諸制度、すなわち国家装置には、政府、学校(教育)、軍隊、裁判所、警察、刑務所、戸籍、病院、交通・通信網、税制、貨幣、土地制度、度量衡、新聞、博物館、劇場、博覧会、祝祭などがあげられる。民衆や大衆を「国民化」するためには、生活のあらゆる局面にわたる身体的・イデオロギー的な管理・維持と再生産を可能にする諸制度・装置が不可欠となる。

 ナショナリズムが国民国家において文化的、イデオロギー的な国民統合(=国民化)を推し進めるとき、もうひとつ考慮に入れておかなくてはならない要素は、国家や国民への自己同一性(アイデンティティ)である。民衆や大衆が、生れ落ちた「国家」や「国民」に自らを同一化する際には、彼らによってアイデンティティが自然に表明され、「国民」としての共属意識が形成される必要があった。そして国民としてのアイデンティティは、上で述べたようなイデオロギーと国家の装置によって創出され、より強化されていく。その際、国民的なアイデンティティには、「民族」としての「歴史的な連続性」と「純粋性」、「伝統文化」の「固有性」などとの強い結びつきがしばしば強調される。ひとつ事例をあげて考えてみよう。ドイツの哲学者フィヒテは、ナポレオンの軍隊に占領され、打ちひしがれたドイツ国民の士気を鼓舞するため、14回にわたる愛国的講演を行った(『ドイツ国民に告ぐ』)。この講演でフィヒテは、ドイツ国民としての歴史的な古さ、民族的純粋性、ドイツ語の言語的純粋性、そして他の国民に見られない「生命の根本的源泉」の存在を強調する。さらに、個人の生が根本的源泉に合流することによって永遠の祖国愛を獲得し、「根源的民族(Urvolk )」としての固有性と自由な精神によって、新たな世界の建設に貢献することを呼びかけた(鵜飼1997)。この有名な講演は日本でもたびたび翻訳され、近代日本の決定的な節目でしばしば肯定的に参照されて、新たな「国民の創生」に重要な役割を果たしてきた(西川1995、イ・ヨンスク1995)。しかしここで重要なのは、近代国民国家形成の出発点で、国民と国家の「原初性」と「永続性」が強調され、過去の歴史と伝統が「国民」のアイデンティティの拠り所となっていることである。

国民国家成立以前までは、地域的共同体の成員としての共属意識やアイデンティティしかもちあわせていなかった民衆・大衆が、新たに「国民」として「創生」されるときには、国民国家の国境内における民衆・大衆の歴史的記憶が動員され、伝統的文化の独自性・固有性が強調される。このような記憶や伝統の均質化は、国民国家創設とその維持にあたって、たびたび呼び起こされてきたために、われわれもそれらに十分慣れ親しんでしまっていて、すでに国家の歴史的正当性、民族(国民)の純粋性、文化的伝統性を「自然なもの」として受け入れてしまっており、そのこと自体が「事実」なのかということに疑問を差し挟もうともしなくなっている。その後、西欧で作られた国民国家モデルは世界中で受け入れられ、今日、国家間では互いに自らの独自性や固有性を主張しあう事態が現出するようになっている。そして「国民」としてのアイデンティティは、「伝統の創出」と「差異」を国際的に競いあうことによって、より強固なイデオロギーとして鍛え上げられる(Jones1997:2-3, Diaz-Andreu and Champion 1996:18-19, Kohl 1998)

さて考古学とナショナリズムとの関係を述べる前に、前提となる国民国家やナショナリズムを取り巻く国家システムについて説明を長々と続けてきた。「国民の創生」には、国家とイデオロギーのさまざまな装置を駆使することによって、それまでの地縁的共属意識を、国民としての新たなアイデンティティへと変換することが要求される。愛国心や国への忠誠心を国民の心や身体に浸透させるとき、民族の過去と現在との歴史的連続性や文化的伝統の継続性が強調された。その際、考古学は「国民の来歴」を過去から現在まで、「正しく」跡づける役割を担っている。考古学がナショナリズムに関与するのはまさにこの点についであり、考古学も国民国家におけるイデオロギー装置の一部として、国民意識の維持・強化を図り、ナショナリズムの思想と運動に寄与しているということができる。遺物や遺跡が展示される博物館を例に考えてみよう。アンダーソンが述べているように、博物館が国ごとに造られ、そこで「国民の来歴」の物語を展開するかたちが制度として成立して以来、国民文化的な神話の生成と流通に重要な役割を果たしてきた(アンダーソン1997: X)。「固有な」国民性は、「過去に向かって掘り進めれば進むほど」(西川1995:156)純化されていく。抽出された国民性のエッセンスは、少数民族の「伝統」や考古遺物のなかに今日的残滓として保存されており、それを国民全員が共有していることを、博物館を訪れる人々に認識させる。博物館は、「固有な来歴」をもつ国民が共に暮らす、「均質な空間」を創出する強力な媒体として存在してきた(吉見1992Russell 1997)

以上述べてきたように、それまで自明なもの、自然なものとしてきた「国民国家」自体を相対化することが可能となったのは、実はごく最近のことである。国民国家が分析概念として脚光を浴びることとなったのは、80年代以降のことであった。その背景には、冷戦構造の崩壊をはじめとする80年代の歴史の激動があるが、それらの経験を通じてはじめて、「国家」が「宿命」としてのあり方から「脱自然化」されることとなった(上野1998: 32)。巨大な国家の崩壊をひとつの契機として、市民社会の理想や理念に反して肥大化した国家の今日的役割や市民社会の自律性に対する疑念が、国民国家の相対化をいっそう助長していった。そして国家の崩壊は、冷戦の一方の側のみが現実に経験したものだけではなく、われわれが属してきた国家や社会をも含めて、国境線を越えようとする国内外のさまざまな人びとの動きによっても引き起こされている。国境を挟んで行われる人びとの大量移動や情報の伝達は、国家を超えた問題群に対してグローバルな視点から対処する必要性をわれわれに迫っている。こうした現実世界での大きな変化を経験することによって、80年代以降、ポストモダンの諸思潮が生まれ、そのひとつとして国民国家やナショナリズムの研究が大きな奔流を生み出している。国家が「宿命」としてのあり方から「脱自然化」され、ようやく広い視野で見ることができるようになったという解放感と喜びが、国民国家論に生気を吹き込むこととなった。

こうしたポストモダンの思想の影響を受けた新たな国民国家論の枠組みのなかで、ナショナリズム研究も大きな進展を向かえることになった。ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』のなかで、近代国民国家という均質な空間と同質的な文化を生きる「国民」が創出される過程について論じている。そこでは国家とイデオロギーの装置によって、同じ言語、同じ時間、同じ記憶が形成・維持され、それらを国民が共有する。さらに国民国家の「均質な空間」を維持するためには、印刷技術、言語空間、交通・通信手段などが一体となって国民化の国家装置を支えている。こうしてわれわれ国民は、今まで出会ったこともない人びとであっても、国家内の同じ空間に生活する以上、同じ心性・言語・記憶・経験を共有しているものと仮定、あるいは想像することが可能となっている。レトリックにおいて「提喩」と呼ばれる想像のしかた、すなわち個から全体を仮構する想像のあり方は、均質で透明な空間(国民国家)においてはじめて可能となる。

また国民的アイデンティティを支えている「伝統」や「歴史的記憶」が、実は国民国家の形成過程で「創造」「発明」されたものであることをわれわれに呼び覚ましたのはエリック・ホブズボームである(ホブズボーム1992)。ホブズボームが提示する「伝統の発明」とは、国民国家を形成する主要な民族集団が、国民国家成立以前の彼らの歴史的記憶や文化要素が誇張されたかたちで「国民」の歴史や伝統としてクローズアップされる行為を指している(酒井1993)。「伝統の発明」が公的な場や教育によってくりかえし「国民」に反唱されることで、「創られた伝統」が「自然化」されていく。

アンダーソンやホブズボームが「想像された共同体」、「伝統の発明」として提示する国民国家の虚構性に対しては、ナショナリズム研究における歴史主義的観点からの批判がアンソニー・スミスによってなされている(スミス1999)。しかしそうした批判も含めて、ナショナリズム研究は現在、国民国家の境界線崩壊の危機、その内側に無理やりに押し込められたヘテロフォニックな力の世界的噴出など、21世紀的問題に直面して、理論的な研究の進展が期待されているのが現状である(西川1995, 1998)

このような最近のナショナリズム研究の成果を参照しながら、われわれ考古学者が過去を表象する行為を振り返ってみよう。われわれは現在の到達点から、研究対象となっている時代へと遡り、そこから折り返して今一度現在へと舞い戻る。返ってくる際に考古学者がたどった道筋は時間の流れに沿っているが、しかしその道筋には必ず一定の方向性が定められている。すなわち断続的で「飛び石」をたどるように散在している考古学的事象を、ひとつの意味ある方向へと「接ぎ木」しながら現在までの道程をこなしていくのである。ここで問題となるのは、考古学者の「接ぎ木作用」は、すべての事象を包み込む時間の弾道が、あたかもそのエネルギーのすべてを「文明(現時点)」という一点の方向へのみ注いで突き進んできたかのような錯覚を与える点である。「文明」の力を信じることができた時代には、世界のさまざまな地域で、競って考古学的事象の「接ぎ木」が試みられた(あるいは今でも盛んに行われている)。その反面、「飛び石」や「接ぎ木」の過程で、考古学者に無視された考古遺物も数え切れないほどある。アンダーソンは、考古学の「接ぎ木作用」を「シリーズ化(serialization)」と呼び、国民国家出現以前の遺跡や歴史上の人物が、ナショナリズムの先駆として表象され、現代に結びつけられる過程を描き出している(アンダーソン1997:298-301)。また、現在の特定の「民族集団」や「国民」が、特定の「考古文化」と安易に結びつけられる危険性も指摘されている(Veit 1989:42, Jones 1997:3-5, Härke 1998:56)。これらは考古学という学問が近代、とりわけ国民国家の成立とその後に行われた諸制度の整備の時期と緊密な関係にあることを示している。考古学の見直し、相対化が行われるべき現在、「飛び石」や「接ぎ木」に代わる考古学研究の実践とはどのようなものであろうか。それは少なくとも「文明」への方向性を志向した考古学者によって過去へ置き去りにされ、無意識であれ、意図的であれ、「隠蔽」されてきたものを拾い上げることにあると考えても間違いない(Trigger 1984, Layton 1989, Schmidt and Patterson 1995)。「近代の機制」としての、そして国民国家のイデオロギー装置としての考古学は、その成立から現在までの歴史のなかで、一度批判を試みる必要に迫られている(小川2000a, b)。その試みは、文化の問題を取り扱う他の学問分野では、自らの再生を賭した論争を呼び起こすというかたちですでに始まっているが(例えば、清水1992、小田 1996、岩竹1996、クリフォード他1996、ロザルド 1998)、日本の考古学では未だ始まっていないのが現状である。

 ナショナリズムのコンテクストのなかで歴史や伝統は国家という時空間において社会的に構築される。吉野ヶ里遺跡や三内丸山遺跡など「地方」の遺跡の発見が、日本全体の「輝ける、栄光の過去」(中川1996)として表象されるのは、一定の政治的意図として解釈できる。「地方文化」は国家に承認されるかたちで、公的な文化や歴史に組み込まれ、新たな国民国家の歴史として社会的に構築される。日本の政治的中心から比較的「周辺」に位置する両遺跡が「地方」の人びとによって「歴史の発見」として見出されるときには地方の文化アイデンティティ形成に寄与する。しかし、国家的なナショナリズムの政治的意図のもとで公的に承認された時点で、「地方」の歴史と文化は、国境で区切られた国家空間全体にまで押し広げられ、社会的に構築された「縄文文明」「稲作文化」という公的歴史観の先進性のなかに呑み込まれていく。

      

両遺跡から出土し、復元された柱のメタファーは、神の依代であり、天・地表・地下の3点を結ぶ宇宙の中心を示している。日常的な時空間に圧縮された特異な場が「史跡公園」という透明な空間に再生されることの意味が問われなくてはならない。両遺跡の発見を契機として、「宇宙の中心」が日本という国民国家の内部にいくつも出現したことは地方的文化ナショナリズムを活性化するが、ナショナリストのイデオローグにとってこのことは国家的文化統合を脅かすような脅威にはならない。復元された「史跡公園」は、文化ナショナリズムをめぐる「地方」のポリフォニックな、あるいはヘテロフォニックな、さらには「政治的中心」との共犯関係において発せられる、さまざまな雑多な声を隠蔽している。

ナショナリズムはまた植民地主義のかたちをとって国境を越える。かつては「文明化の使命」の名の下に帝国意識をあからさまにして国境を越えた。しかし現在でも、世界システムの周辺に位置づけられた地域のポストコロニアル状況において、「他者」へ投げかけるまなざしのオリエンタリズムは脈々と残存している(杉本1993)。われわれが日本国内で経験する、国民文化のエッセンス(本質)の構築は、かつて植民地支配を経験し、現在国民統合の過程にある国々でも進行中である。アカデミズムに根強く残存するオリエンタリズムの政治的まなざしや、国民国家において本質主義的に構成された「国民の来歴」を批判するわれわれ(構成主義的立場)には、逆にフィールドとしている国々で本質主義的過去表象を推進するナショナリストたちからの異議申し立てに直面する (小田1996)。このようなPC (political correctness=政治的真正さ) 問題(ゴー1999)は、海外のフィールドにおける本質主義と構成主義の対立のなかで、「他者」の過去を表象するわれわれ考古学者の政治的立場がつねに問われつづけている現状を示している。

 

文献目録

アンダーソン、ベネディクト

1997    『増補 想像の共同体−ナショナリズムの起源と流行』NTT出版

イ・ヨンスク

1995    『国語という思想 近代日本の言語認識』岩波書店

岩竹美加子

1996       『民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から』未来社

上野千鶴子

      1998    『ナショナリズムとジェンダー』青土社

鵜飼哲他

      1997    『国民とは何か』河出書房新社

小川英文

      1999    「考古学者が提示する狩猟採集社会イメージ」『民族学研究』63-2:192-202

2000a   「狩猟採集民と農耕民の交流−相互関係の視角−」、小川英文編『交流の考古学』朝倉書店

2000b   「総論:交流考古学の可能性ー考古学の表象責任をめぐって−」、小川英文編『交流の考古学』朝倉書店

小熊英二

      1995    『単一民族神話の系譜−<日本人>の自画像の系譜』新曜社

小田亮

1996     「ポストモダン人類学の代価−ブリコルールの戦術と生活の場の人類学」『国立民族学博物館研究報告』21-4807-875

クリフォード、ジェイムス ジョージ・マーカス()

   1996    『文化を書く』紀伊国屋書店

酒井由美子

1993    「ネイションとナショナリズムにかんする理論的研究の現在―<モダニスト>的アプローチを中心としてー」『法学新報』Vol. 99, No. 9-10: 157-198.

清水昭俊

1992        「永遠の未開文化と周辺民族-近代西欧人類学史点描-」『国立民族学博物館研究報告』17-3: 417-488.

1998     ()『周辺民族の現在』世界思想社

杉本英明

1993     「オリエンタリズムと私たち」、サイード『オリエンタリズム下』: 343-377、平凡社

スミス、アンソニー

      1999  『ネイションとエスニシティ』名古屋大学出版会

中川敏

1996     『モノ語りとしてのナショナリズム−理論人類学的探求』金子書房

西川長夫

1995    『地球時代の民族=文化理論−脱「国民文化」のために』新曜社

1998     『国民国家の射程−あるいは<国民>という怪物について』柏書房

ホブズボーム、エリック他(編)

      1992    『創られた伝統』紀伊国屋書店

ゴー、リサ

      1999    『私という旅 ジェンダーとレイシズムを超えて』青土社

ロサルド、レナート

1997       『文化と真実 社会分析の再構築』日本エディタースクール出版部 

吉見俊哉

      1992     『博覧会の政治学』中公新書

Diaz-Andreu, M. and T. Champion (eds.)

      1996    Nationalism and Archaeology in Europe. London: UCL Press.

Faucett, C.

      1995    Nationalism and postwar Japanese archaeology. In Kohl, P. and C. Faucett (eds.) Nationalism, politics, and the practice of archaeology: 232-248. Cambridge: Cambridge University Press

Habu, J. and C. Faucett

      1999    Jomon archaeology and the representation of Japanese origins. Antiquity 73: 587-593.

Härke, H.

      1998    Archaeologists and Migrations. Current Anthropology 39: 19-46.

Jones, S.

      1997    The Archaeology of Ethnicity. Constructing identities in the past and present. London and New York. Routledge.

Kohl, P

           1998    Nationalism and Archaeology: On the Constructions of Nations and the Reconstructions of the Remote Past. Annual Review of Anthropology. 27: 223-246.

Kohl, P. and C. Faucett (eds.)

      1995    Nationalism, politics, and the practice of archaeology. Cambridge: Cambridge University Press.

Layton, R.

      1989    Introduction: conflict in the archaeology of living traditions. In Layton, R. (ed.) Conflict in the Archaeology of Living Traditions: 1-31.                    London and New York: Routledge.   

Molyneaux, B. L. (ed.)

      1997    The Cultural Life of Images - Visual Representation in Archaeology. London and New York: Routledge.

Russell, L.

   1997     Focusing on the Past. Visual and Textual Images of Aboriginal Australia. In Molyneaux, B. L. (ed.) The Cultural Life of Images - Visual Representation in Archaeology. London and New York: Routledge.

Schmidt, P. R. and T. C. Patterson

      1995    Introduction: From Constructing to Making Alternative Histories. In Schmidt, P. R. and T. C. Patterson (eds.) Making Alternative                        History. The Practice of Archaeology and History in Non-Western Settings. Santa Fe: School of American Research Press.

TsudeH.

           1995    Archaeological Theory in Japan. In Ucko, P. (ed.) Theory in Archaeology: A world perspective: 298-311. London and New York: Routledge

Trigger, B.

      1984    Alternative Archaeologies: Nationalist, Colonialist, and Imperialists. Man 19: 355-370.

Veit, U.

      1989    Ethnic Concepts in German Prehistory: a case study on the relationship between cultural identity and objectivity. In Shennan, S. J. (ed.) Archaeological Approaches to Cultural Identity: 35-56. London and New York: Routledge.

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