吉村作治編『はじめて出会う世界考古学』所収、1996、有菱閣

 

東南アジア考古学実践

 考古学はフィールドの学問である。書斎のなかの文献研究や調査結果の分析とフィールドでの調査を繰り返しおこなう学問である。外国考古学はわざわざ他人の国へ出かけていっておこなわれる考古学である。外国の異文化のなかで考古学の調査・研究をおこなうにあたっては、その国のひとびとの文化遺産であることを十分に考慮する必要がある。多様な民族の文化が、長い歴史と熱帯の自然のなかで互いに影響しあって形成された東南アジア世界に対して、筆者の考古学調査の経験を中心に、考古学と考古学者との問題を考えたい。

 

I.東南アジア考古学をはじめるにあたっての心構え

考古学と東南アジア

 わたしは東南アジアの中でもフィリピンの考古学の研究を専門としている。フィリピンの考古学をやっているというと、多くのひとが、フィリピンに遺跡があるのか、という素朴な疑問を投げかけられることがしばしばある。ふつう東南アジアで「遺跡」というと、インドネシアのボロブドゥールやカンボジアのアンコールワットを想い描くひとが大半であろう。しかし日本にもボロブドゥールのような石造建築物の遺跡はないが、縄文や弥生時代の竪穴式住居で構成されている集落遺跡のような「遺跡」がたくさんあることも多くのひとが知っている。過去のひとびとが狩猟や漁撈、水田や畑での農耕、山での山菜や海での貝・海草の採集で日々の生計を営んだ痕跡、日々の暮らしをおびやかし、人間の手には負えない自然に対する祈りの痕跡なども、日本では「遺跡」として認識されている。人間の行動の痕跡として現代に残されたものが遺跡なのである。日本国内ではこのような遺跡に対する認識が一般的であるにもかかわらず、外国の遺跡となると、すぐに世界の古代文明を代表する大遺跡を想像してしまう。フィリピンにもかつて長い間にわたって人間の生活の痕跡が残されているはずだから、日本と同様に縄文や弥生的な「遺跡」があっても当然なのである。  

 このように説明しても、ほとんどのひとはとまどったようすをみせ、本当にフィリピンに遺跡はあるのだろうかという怪訝そうな顔でまだ疑っている。日本では理解できていることを、外国でも同じ状況であるとはなかなか想像できないのも無理はないだろう。その理由として、考古学の分野にかぎらず、われわれ日本人の多くが東南アジアについての情報をわずかしか持っていないことがあげられる。われわれが東南アジアについて持っている、あるいは供給される情報は、欧米の情報に比べて非常に限られたものであり、われわれが受け取る前に、メディアの側であらかじめ選択されたものであることを十分認識する必要がある。そうでないと東南アジアに対するいわれなきイメージが先行して、とんでもない誤解を抱くことになる。こうした点でフィリピンはとても損をしていると思う。ニュースから伝わってくるフィリピンの出来事は、殺人や銃の氾濫など犯罪の横行そして経済的混迷である。フィリピンの、それも首都マニラから600kmも離れた田舎の農村や山中がわたしの調査地(フィールド)である。これを聞いたほとんどのひとが「危なくないですか」と聞き返す。日本人にはフィリピンは「危ない」ところとしてのイメージが定着しているようだ。これはフィリピンに対してとても不当な偏見である。そしてわれわれはその国のひとたちにとって不当な偏見を、フィリピンのみならず東南アジアの国々全体に抱いていないだろうか。この点で日本と東南アジアのひとびとの関係はあまり幸福なものであるとは言えないのが現状である。

 読者は不思議に思われるかもしれない。考古学の話なのになぜ現代の話をしているのかと。たしかに考古学は過去のことについての学問である。しかし考古学者が現代に生きる人間であり、その考古学者の眼をとおして過去は復原され、語られる以上、考古学者をとりまく現代の状況を抜きにしては、彼が再構成する「過去」も存在しないのである。このように考古学は現代人である考古学者が置かれている状況に左右されていると言えるかもしれない。考古学者のAさんは今、大学での会議や委員会の仕事に追われていて、なかなか研究に時間が割けない。現代人の忙しさにはほとほと嫌気が差している。やすらぎを見いだせるのは、なんとかひねり出した時間に行なう研究である。そこで彼が描く過去のひとびとは、おおらかで時間に縛られることがなく、自然と調和のとれた世界に生きる古代人像である。考古学者はこのように現代をとおして過去を見ているのである。東南アジアの考古学を研究している私は、東南アジアの現状と日本での私をとりまく現状という2つの状況に影響されながら東南アジアの過去をみていることになる。私が現状に影響を受けることは、東南アジアの過去を研究するうえで良しにつけ悪しきにつけ、一種の制約と考えることができる。  

 東南アジアの考古学自体にもさまざまな制約がある。考古学的には調査例が少ないという問題がある。しかしそれ以前に日本では東南アジアについての情報があまり入ってこないという制約がある。東南アジアについての「普通」の情報も入りにくい状況では、読者が東南アジア考古学について知りたいと熱望しても、たやすく必要な情報を入手できるわけではない。さらに日本人の多くが「東南アジアは危ない」に代表される偏見をもっている。東南アジアからの限られた情報と日本からの偏見で、日本人の東南アジア観はますますゆがんだ形になっている。そのうえ、忘れてはならないのが、東南アジアと日本の関係には、戦争という不幸な傷跡がなまなまと残っており、フィリピン人の心の奥底でいまなお記憶されつづけていることである。考古学の話をする前にこのような現代の日本と東南アジアの関係ついて述べておかなくてはならないのは、わたしたちをとりまいている状況が過去を考える考古学にも大きな影響を及ぼすからである。これを「制約」という言葉で表現すると足枷のようにきこえてしまう。しかし過去について考え、過去のひとびとの生活から生き方の知恵を学び、われわれの未来への指針とするという意味において、考古学は現代の問題を解決する糸口を過去のひとびとの生き方に求める学問であると考えることもできる。その意味において考古学は現代に「制約」されているのである。

フィールドとしての外国

 これまで述べたことがらは、東南アジア考古学を学ぶ前段階での確認事項である。ここでは調査地またの名をフィールドにおける「日本人」考古学者としての心構えを確認しておきたい。

 考古学には発掘調査をメインとするフィールド・ワークが必須要件である。外国をフィールドとする以上、その国の考古学者や調査地のひとびととの円満な関係が要求される。その国のひとびとと良い関係を築くことができなければ、わざわざ日本から出かけていって、考古学を研究する意味がない。現在の世界における日本の立場や責任を考えれば、フィールド調査も一種の協力や援助であるという認識をもって行わなければならない。外国で調査・研究を行って、その国に何らかの貢献ができなければ、ただの自己満足か自己利益のための学問であって、その国のひとびとの文化を奪ったことにしかならない。フィールドである外国からの文化的収奪となる調査など、はじめからやらないほうがいい。まして戦争で日本が多大な損害をあたえた東南アジアから、学問といういっけん平和的な仮面をかぶった手段で現代のわれわれがもう一度、東南アジアから文化を奪うことになってしまうとしたら、これはもう学問以前の問題である。しかしこのようなことを意図的に悪意をもっておこなうひとは誰もいない。むしろ文化的収奪は無意識のうちに、善意のなかでおこなわれていることが問題なのである。誰もが善意のうちに行われている共同調査がほんとうにその国のためになっているだろうか?現在、学問の名を借りて行っている調査・研究は、将来その国になにかを残せるのだろうか?これから外国考古学をめざそうとする読者よりもやや長く東南アジアで調査をおこなってきたわたしは、今でもこのようなことをつねに自問している。つまり自分の好奇心ないしは学問的関心と、関心の対象である文化を現実に担っているひとびととの間で右往左往しているのである。

 東南アジアで考古学を研究するということは、文化の価値観が異なるひとびとのなかで、その理解を得ながら仕事をするということである。ではどのような方法をとればいいのか。わたしもすぐには答えが出せないでいる。しかしこの問題の解決への道筋として、学問は自由におこなわれなくてはならないという前提があると思う。個人の自由な学問的意図は尊重されなければならない。つまり研究者はそれぞれ自分の学問を大切にしなくてはならない。自分の学問が大切である以上、他人の学問も大切であるという認識が必要であると考える。外国考古調査においては、東南アジアの研究者の学問への熱意をわれわれが理解し、対等な立場で共同研究が行えるにはどのような調査形態が望ましいか、わたしはいまでも模索中である。私の学問的関心とその国の研究者の学問的関心をどのように融合させればいいのか、のちに述べるように考古学は一人ではできないという制約がある。その国の研究者やひとびとの助けが必要である。この問題の解答は、東南アジアで共同作業を継続する中でしか得られないような気がしている。

 東南アジアでの考古学調査の問題をさらに複雑にしているのは、日本との経済格差である。誇り高き東南アジアのひとびとに対して、にわかに金満国となり調査経費が捻出できるわれわれが、調査を指導するといった態度でのぞめば、反発をうけることはまちがいない。フィールドが異文化であること、そして日本と東南アジアの関係にはこれまでの歴史的経緯や現状に数多くの問題があることを十分認識しながら、「対等」な立場での共同調査・研究を模索する必要がある。

 

 以上長々と述べた諸点をまず読者が確認し、心の準備をしたうえで東南アジアの考古学について、これからの話を進めたい。話の流れは大まかに、東南アジアでこれまで私が経験した考古学調査である。

 

II. 東南アジア考古学技術編:調査経営論から見た外国考古学

文献研究

 まず外国考古学の調査・研究がどのように企画され、実行に移され、研究されているか、論文には絶対に出てこない、企業秘密の部分を読者に紹介してみよう。そして外国考古学の研究者の研究全般についての実際の仕事の流れを描いてみよう。古代文明の発掘という外国考古の桧舞台を夢見ている読者には苦言を呈するようなものだが、以下で述べる水面下にかくれた部分をこなさなくては外国考古の第一歩も踏み出せないのである。そこであえて外国考古のはじまりから、「仕事」の流れを読者に披露したい。

 考古学者は特定の地域と時代を専門として調査・研究を行っているが、その前にまず考古学的問題の設定が必要である。つまりなぜここからはこんなものがでてくるのだろうとか、数千年前のフィリピンのひとたちはどんなくらしかたをしていたのだろうといった疑問を抱くことそして興味をもつことがまず最初にありきである。

 つぎにこの疑問はどのように解消していけばよいかである。日本国内では図書館でまず調べていく。これを文献調査という。国内にない場合は海外の図書館に問い合わせてコピーを送ってもらう。しかし一口に文献調査と言っても、調べるには自分が知りたいと思うことに対する熱意が必要である。しかも苦労して入手した本や論文も、その多くは外国語で書かれている。英語ならまだいいが東南アジア諸国の言語で書かれた論文も数多く出版されているため、インドネシア語、マレー語、ベトナム語、タイ語、ビルマ語、カンボジア後、ラオス語のうち、読者が興味をもつ国や地域の文献が読めなくてはならない。そのうえ東南アジアの国々が独立を果たす前の、旧植民地宗主国の言語であるフランス語(ベトナム、ラオス、カンボジア)やオランダ語(インドネシア)でも独立前の研究書が書かれている。東南アジア考古学の基礎的研究は19世紀末ごろから、旧宗主国の研究者によってはじめられているからである。

 最近はインターネットなどのパソコン通信でどこの図書館にどのような本があるか文献検索ができるようになっている。しかしまだ論文や本の内容自体をネットワーク上で自分のパソコンに取り込めるようにはなっていない。図書館をつきとめてコピーを取りに行かなければならない。言語の問題は疑問を解きあかそうという熱意さえあればそれほど困難な障害とはならない。むしろ障害となるのは簡単な疑問をすぐに解説してくれる一般書や入門書がほとんどないことである。残念ながら現在のところ、日本語で書かれた東南アジア考古学全般についての入門書はない。英語では3冊でている(Bellwood 1978,  1984, Higham 1986)。入門書ではないが、参考となる日本語の出版物に、世界考古学事典(平凡社1979)がある。本編の事典と遺跡地図の2分冊になっている。ベトナムについては便利な本がでている(菊池1986)。またアンコール遺跡やボロブドゥール遺跡については、考古学よりも建築史・美術史についての本が数多く日本語で出版されている。日本の東南アジア考古学会では『東南アジア考古学』を年一回発行しており、専門的な内容の研究論文が掲載されている。しかし現在の出版状況では、東南アジア考古学についての十分な情報が得られないので、幅広く外国語の論文を研究雑誌などからさがしてきて読む必要がある。

調査のプロデュース

 文献研究の過程で読者の関心は、徐々に東南アジアの特定の地域と時代の考古学へと移行するだろう。つまり考古学的な問題設定が明確になってくる。しかし特定の地域と時代における自分の関心を満たしてくれるような出版物は、東南アジア考古学の現状ではほとんど見つからないだろう。その理由は調査・研究の絶対数が少ないからである。そこでみずからが調査におもむく必要性が生じることになる。

 学生のころならひとりで調査地を踏査したり、調査機関である現地の大学や博物館で出土遺物を見せてもらうといったことから東南アジアとの関係がはじまる。そしてその資料を使ってはじめて論文を書き、さらに何度か調査地をおとずれ、現地の考古学者と意見交換といったかたちで交流をもつようになる。ついには現地に数年間留学して、言葉を習得しながらさらに資料収集をおこない、小規模の発掘調査をひとりでおこなえるようになる。私は実際このような経過をたどり、フィリピンのルソン島北部で調査三昧の3年間を過ごした。われわれの一世代前よりはずっと現地へ行きやすくなった最近では、このようなパターンで東南アジア考古学を研究するひとがみられるようになった。

 しかし個人レベルでおこなえる考古学調査にはおのずから限界があり、発掘を中心とする考古学調査をおこなうにはさまざまな学問分野の専門家によって構成される調査隊を編成しなければならない。考古学は過去における人間のあらゆる側面についての総合的学問であり、単に現在まで土中の中で腐らずに残った土器や石器などの遺物だけを研究する学問ではない。土器や石器、金属器などの人工遺物のほかに、人間とそれを取り巻く環境の関係を考えるため、現在の人間集団をあつかう民族学・文化人類学、土中から出土する植物の種子や動物の骨、墓地遺跡からは人骨、さらに火山灰や花粉など、生物学から形質人類学や地質学といった自然科学の専門家の助けを借りながら、これらの成果を統合していく役目と責任を考古学者は負っている。このように考古学は学際的で、総合的な性質をもった学問ということができる。関連諸科学の専門家が参加できる考古学調査をおこなうためには、専門家ひとりひとりの学問的関心が、過去におけるひとつの問題に集約されなくてはならない。これが可能になったとき、そして調査対象国の研究者が参加して調査と成果を共有できるとき、ひとつの考古学調査団ができあがる。

調査経営

 しかし実際に調査地に出かけていって調査をおこなうには資金的裏付け、調査経費が必要である。さらに調査の目的と意義を相手国に理解してもらって調査許可を得なくてはならない。発掘調査をおこなうには、調査用機材費や調査地までの旅費、滞在費、人件費、そして発掘終了後の出土遺物の整理や科学的分析などに多大の経費がかかる。日本で考古学研究に助成してくれる機関・財団は、文部省科学研究費と限られた数の財団法人である。調査経費の捻出の第一歩は、研究助成の申請をおこなうことから始まる。しかし元来、考古学研究への助成機関・財団が少ないため、調査経費の調達にはかなりの困難ががある。それでもこのような障害は、調査実行へ向けてまず越えなくてはならない関門である。資金調達がなんとか可能になっても、相手国の調査許可が取れなければ実行には移せない。調査許可を出す機関は国によって異なるが、おおむね日本の文部省にあたる機関がおこなっている。調査許可申請については国によって事情が異なっているだろうから、事前に十分調べておく必要がある。相手国の共同研究者の助言に従うことが最善の方法と思われる。調査経費と調査許可を得ることは調査をプロデュースし、実行に移すために最も重要な仕事である。

 日本の考古学界では、海外をフィールドとする研究者を外国考古、国内の場合を日本考古というふうに色分けをしている。現在、日本にはプロフェッショナルとして考古学で生計を立てているひとが、多く見積もって約5000人いると言われている。アメリカでは500人、オーストラリア200人、東南アジア全体では300人くらいである。それに比べると日本人の考古学者がどれほど多いかがわかる。しかしその反面、外国考古を専門にする日本の考古学者はとても少なく、50人くらいしかいない。どうしてこんなにアンバランスになってしまったのか。その理由には、外国の考古学に興味を持っても、わざわざ外国まで行くのは大変だからとか、外国人と仕事しなくてはならないので、まず言葉の問題をかたづけなくては等々、いろいろな理由が考えられるが、最も重要なのは調査をどのようにプロデュースするかである。日本からわざわざ外国へ出かけていって地面を掘るわけなので、お金もかかるし、人手もかかる。また自分の国ではないので、相手国の関係諸機関からさまざまな許可を取らなくてはならない。外国考古学は誰もお膳立てしてくれないので、自らプロデュースしないことには始まらない。すでに述べたように相手国側との共同調査体制ができあがっても、現場で調査する際にはさらに市・町・村の各レベルでに協力や許可を取りつけなくてならない。現場で調査が始まってからも不測の事態が発生する。調査体制づくりから現場での近所づきあいまで、大きなものから小さなものまで、さまざまな問題に対処しなくてはならない。多大な労力と時間を費やしてマネージメントをこなし、なにごともなく調査を終了してはじめて、調査の成果らしきものが日の目を見ることになる。しかもどんなに調査経営で苦労しても、その部分は報告書や論文のどこにも書かれてはいない。研究成果は氷山の一角であって、その下には表面に現れている何倍もの調査経営上の苦労が沈んでいるのである。

成果の分析・刊行そしてふたたび調査へ

 考古学の現場でしばしば、あんまり掘るなという言葉が交わされることがある。発掘をすれば必ず遺物が出てくる。遺物が出てこなと困るのだが、あまり出てくても困りものである。異なったタイプの土器が出てくるならいいが、同じタイプのものが多量に出土しても、その整理・分析に多くの時間がさかれることになる。しかしいったん遺物を出してしまえば、整理・分析・作図し、記述してさらに刊行しなくてはならない。さらにその後永久に保管することを考えなくてはならない。単に広く深く発掘して多くの遺物を出しても、それを処理しきれるだけの体制がなくては、遺物を眠らせるだけに終わってしまう。遺跡や遺物をしてその時代を縦横に語らしめるためには、最小努力の最大効果をねらわなくてはならない。

 設定された問題解決のためにはどのような遺物を掘り出す必要があるか、われわれは発掘がはじまる前にあらかじめ、その種類と分析方法について検討する。そしてそれぞれの遺物分析の専門家を調査隊のなかに組み込んでおく。遺物には土器や石器、金属器などの人工遺物の他に、人骨・動物骨や植物の種子、その他遺跡が営まれていた時代の自然環境や、当時のひとびとがどのような活動をしていたかを教えてくれるさまざまな遺物(自然遺物)がたくさんある。過去を語ってくれるこれらの遺物を検出できるよう、事前に発掘する遺跡を選定し、発掘面積を決める。しかしいったん出土した遺物の分析には多大な時間と予算が必要である。

 人工遺物には土器・石器・金属器などがある。種類によって整理・分析のしかたも異なるが、どれにも共通する仕事は、これらを作図(実測)して、トレース(墨入れ)して、印刷用に図版の版下を作る作業が必要である。上に述べたように異なったタイプの土器のかけらがたくさん出土すれば、同時代の土器の形のバリエーション(器種)を知ることができたり、異なった時代の土器の形の変遷をたどることができる。これらの土器を図にするのは時間がかかってたいへんだが、土器の形(器形)に変化があってまだ楽しい。しかし同じ時代の同じ様な器形・器種が大量に出ると、実測するのもうんざりしてくるものである。自然遺物の場合は、考古学者の他に自然科学の専門家の力を借りなければならないので、分析には時間も費用もかかるのを覚悟しなくてはならない。

 遺物の整理・分析はどんなに大変でも、あらかじめ設定された問題の解決には絶対に必要な作業である。この作業なくしては疑問を晴らすことはできない。この作業には通常、発掘期間の2倍から3倍の時間がかかるといわれている。それ故、遺物の整理・分析には十分な時間と体制、そして資金の裏付けが必要である。

 調査後の整理・分析の過程で、遺物と遺構を総合的に解釈しながら、徐々に問題の輪郭が鮮明になってくる。問題は解決することもあるが、明らかとなった部分から同時に新たな問題が浮き彫りにされてくるのが常である。こうして次の調査が企画され、もう一度、遺跡へ立ち返ることになる。このように学問的関心と問題点は、行っては戻る、一つながりのループになっている。あるいは問題解決の方向をめざすらせん状のループと言えるだろう。考古学調査はひとりではできない。

 あと一つ重要なことを申し上げたい。今まで読んできて気づかれたと思うが、考古学の調査はひとりではできない。研究計画に至るまでの文献研究、遺跡を探す時の踏査、調査後の研究総括そして研究論文の執筆などは基本的にひとりで行なうものであるが、発掘調査となると、発掘以前に行なう測量などからして、ひとりではできない。発掘、遺物洗い、遺物の整理・分析まで、調査のメインとなる部分の大半が共同作業である。この原則は外国であろうが、日本であろうが変わりはない。

 共同でひとつの仕事を限られた時間と予算でやり遂げるには、お互いが120%の力を出し合って、調査を進める必要がある。調査隊員がお互いに他を理解し、いたわりながら調査を行わなければ、つらい作業を続けられるものではない。ましてや良い成果が生まれる道理がない。隊員はひとりひとりが調査隊や調査の進行の中でどのような位置にいるのかを見極め、全体の中で有機的に仕事をしていく必要がある。特に外国調査では、発掘という仕事時間だけではなく、一日中、他の隊員と生活を共にしなくてはならないので、常に自分の行動が全体にとってどのような影響を与えるかを考えることができる想像力を必要としている。楽しい調査、良い成果が残せる調査か否かは、実にこのような研究とは異なった次元で決まると言っても過言ではない。このため調査事務局は、隊員の人選に非常に慎重である。読者は驚くかもしれないが、隊員の選考の基準は、研究業績や技術的能力ではなく、性格や資質である。はたして調査隊や現地のひとたちのことを、考えて行動できるひとであるかどうか、全体の中での自分の位置や役割を客観的に判断できる想像力をもっているかどうかである。

 仲間を大切にしろとこれまで諸先輩に言われてきた。特に後輩は一人前となるよう、調査地以外でも報告書や論文の書き方、奨学金の取り方などなど、よく面倒をみるように言われてきた。これもやはり考古学はひとりではできないからで、後輩の面倒をみ、一人前となってくれたら、将来、自分の力となってくれる。調査に参加して力を発揮してくれる。そしてなによりも気の置けない仲間との調査は楽しいものとなるからである。

 限られた時間と予算の中で、調査隊の人間関係で消耗するのは残念なことである。個人の資質や性格を問題にされてもと思うかもしれないが、調査を成功に導く要素として、人間関係は実に重要なのである。

 

 これから外国考古学を志そうとする読者の出鼻を挫くような、さまざまな試練について先に述べてしまったようだ。一つの試練を乗り切ると次にまた別の試練が用意されているような紹介の仕方になってしまった。こんなことならおいしいところだけ本やテレビで楽しもうと考えているなら、それも外国考古学の楽しみ方の一つである。大いにお勧めしたい。しかしそれでも私は外国考古学をめざすというひとには、さらにその先には外国考古学者としての「職」がないという新たな試練が用意されている。しかしこれは学問に対する姿勢の問題である。自分の疑問を追求していこうとする時、社会的に「考古学者」として認知されている大学教員や博物館員といった肩書きと給料が重要と考えるのか、それとも純粋に学問を志すのか。現実に限れた職しか用意されていないなら、むしろ学問と自分の純粋な関係を築くことが重要になってくる。「考古学では食べれない」という試練も、学問と自分の関係を正しく築くことによって乗り越えが可能であると考える。一度の人生を外国考古学で試そう、楽しもうという読者諸氏の学問的熱意に敬意を表し、仲間として手をさしのべ、そしてその努力に期待するところである。

 

III. 東南アジアの自然とひとびとの営み

 いよいよこれからは東南アジア考古学についての話である。しかしいきなり考古学の話を始める前に、われわれが取り扱う東南アジア世界について、なかでも東南アジアの自然とそこで営まれている生活について概観する。ひとびとの生活は自然と密接な関係をもって営まれている。考古学では過去における自然とひとびとのかかわりをまず明らかにしようとするため、自然環境と自然に対して働きかける、つまり生活を営むための技術についての知見は重要である。

 「東南アジアの多様性」という言葉がある。東南アジアというひとつの世界としてのまとまりを言い表す用語としてよく使われている。東南アジアには、さまざまな異なる宗教や言語・習慣などの文化をもつ多様な民族が生活している。そうした多様で複雑な文化や民族の構成は、度重なる民族の移動や、東南アジア世界に隣接するインドや中国などの大文明世界、さらに時代が下って西欧世界との接触・交流を経て、歴史的に長い時間をかけてできあがったものである。そして現代では、世界中を覆うネットワークに乗って、中国・インドは言うに及ばず、アラブ・欧米・日本などから、大勢のひとびとが行き交う地域世界を作り上げている。

 このように東南アジア世界は、古くからひととものと文化が往来する場としての重要性を持っていたが、外の世界からもたらされたものには、この世界に受容されたものとそうでないものがある。特に生活に直結する農業技術などは、東南アジアの自然環境のもつ性質と一致したものでなければ、受け入れられるものではない。多様に展開する東南アジア世界の文化と民族も、自然に対するひとびとの営みの中で形成されてきたものである。東南アジア世界を単に外的世界からの影響によって形成されたものとして見てしまうと本質を見誤ることにもなりかねない。考古学の遺跡や遺物の話の前に、ここではまず東南アジアのひとびとが暮らしている自然と生業の関わりを概観する。

 

狩猟採集

 狩猟採集経済は約1万年前に農耕が開始されるまで、人類誕生以来約300万年間、主要な生計活動であった。東南アジアの狩猟採集民は、現在、フィリピン諸島、マレー半島、アンダマン島などの熱帯雨林に住むネグリト(狩猟採集民イタの生活参照)を中心としている。狩猟採集経済は自然の資源に依存しているため、自然の特徴は狩猟採集民の生計戦略に大きく影響する。狩猟採集民が生活している自然環境は熱帯雨林である(図 )。東南アジアで熱帯雨林が分布しているのは島嶼部を中心とする地域である。一般に熱帯雨林は豊かな雨量、赤道近くの日射量、そして生物量から、人間が生活するための食料資源が非常に豊富であると考えられている。しかし実際には「緑の砂漠」と呼ばれるほど食料獲得が困難な環境なのである。

 狩猟採集民が暮らす熱帯雨林では食料となる動・植物はその数が限られており、しかも分布が密ではない。そのためこれらを利用しようとすれば、動・植物を求めて移動しなくてはならない。そしてこれらの資源に対応する道具も持ち運ばなくてはならない。また非常に完結した栄養循環システムをもつ熱帯雨林では、人間が利用可能な果実、種子、根茎類の量は限定されている。しかも果実や種子は、高い樹冠にある。地上近くにあって人間に利用しやすい草本類は、樹冠がとぎれる川辺などの特定な場所にしか生育しない。しかしこのような悪条件を乗り越えて植物を手に入れても、それらにはアルカロイドやタンニンなどの有毒物質が含まれていて、さらしや水濾しなどの処理が必要である。このように人間が利用するには熱帯雨林はとても条件が悪い場所なのである。特に、動物から得られるタンパク質よりも、植物に多く含まれる炭水化物の摂取は熱帯雨林地帯では大きな問題である。植物の膨大な生産量に対して、人間が利用できる炭水化物の量は限定されている。そのため。最近では狩猟採集民が熱帯雨林で生活できるようになるには、農耕民の手助けが無くては可能にならなかったのではないかと考えられているくらいである。

 一方、大陸部に分布する熱帯モンスーン林では、雨期と乾期の違いによる動・植物生産の季節性が、人間の生計戦略に大きく影響する(図 )。モンスーン林では資源分布は熱帯雨林よりも密になる。雨期は動・植物の再生産の時期に当たり食糧資源が豊富であるが、乾期の間は欠乏する。このような環境下では、ひとびとは食料生産の季節性を考慮しながら生計活動の年間スケジュールを組み、自然環境をきめ細かく利用しなくてはならない。

 現在、フィリピンの北部ルソン島に住む狩猟採集民はアグタ、イタと呼ばれ、太平洋側のシエラマドレ山脈の熱帯雨林を利用しながら生活している。アグタは熱帯雨林での生計活動の困難さを克服する手段として、アグタが森から集めた肉・ハチミツ・川魚・籐などを、隣接する農耕民が生産しているコメ・トウモロコシなどの炭水化物食物と「交換」することによって生計を立てている。また農繁期には労働力を農耕民に提供し、その見返りとしてコメその他の食料や電池・酒などの生活物資を入手している。しかも現在では、農耕民との交換なしには、狩猟採集民アグタの生活自体が成り立たないほどになっている。狩猟採集民がその名のとおり、狩猟・採集によって自立的に生活している姿とはかなりかけ離れている生計活動が現在ここでは展開されている。

 アグタと農耕民との間にみられる生計活動は「交換適応」や「共生関係」と呼ばれている。また自分たちが得た資源を商品のように交換して生計を立てているため「商業的狩猟採集民」とも呼ばれている。最近ではこのように隣接する農耕民となんらかの関係を持ちながら生計を立てている狩猟採集民は世界のいたるところで報告されている。そこで考古学的な疑問が湧いてくる。食料や労働力の交換は近年になって起こった現象なのであろうか。あるいは世界経済システムが周辺に住むアグタにまで浸透することによって引き起こされた「変容」なのだろうか。それとも狩猟採集民がもともと農耕民との交換関係を持っていて、それをベースに炭水化物の乏しい熱帯雨林に進出して行ったのだろうか。こうした議論が現在、人類学の場で行われているが、その答えは考古学的調査を経なければ出すことはできない問題である。狩猟採集民の生活については後にくわしく述べる。

焼畑、水稲耕作

 焼畑耕作は森を焼いて畑をつくり、その灰を養分として作物を育て、土地が痩せると移動して、他の場所に畑を開く農法である。同じ畑では2、3年しか耕作を続けられないので、水田のように集約的な農法ではない。そのため生産量も低い。しかし熱帯の自然と人間の技術の間の生態学的なバランスをよく保って成立する農法である。東南アジアでは山間部や低湿地を中心に広く行われている。焼畑は2、3年の耕作期と10〜15年の休閑期を一つのサイクルとする農法である。森を焼いた灰を養分として作物を育てるため、同じ場所での耕作期間は短い。自然の生態系の中で行われる耕作方法であるため、雑草の侵入をさけられない。収穫までに草刈りを何度か行わなくてはならない。2、3年の間、耕作を続けると養分の減少と雑草の繁茂で、他の場所に移動しなくてはならない。昨付けと休閑のサイクルは焼畑の大きな特徴で、安定した生産量を持続させるためには、昨付け期間を短く、休閑期間を長く取る必要がある。そのため焼畑は多くの人口を支えられるだけの生産量を確保するのが難しい。

 水稲耕作は焼畑よりも集約的な、生産性の高い農耕システムである。そのためには水田づくりや耕作に伴う高度で複雑な技術、そして収量が多い良質の品質の稲、労働力、さらに人間集団を組織・管理する複雑な社会構造を必要としている。水田は焼畑と違って何年も同じ場所で連作することができる。それは水田に3ヶ月から半年間張っている水が作物に必要な栄養を供給するからである。水田で耕作されるコメは、東南アジアの全穀物生産量の90%を占めている。イネの品種も陸稲、水稲、インディカ、ジャポニカ、ジャバニカ(ブル)、ウルチ、モチ、浮稲と多様である。

 東南アジアの水稲耕作は、山地部から平原、デルタ、そして低湿地にまで広く行われている。それら各地域の地理的・自然的条件、さらに歴史的経過の相違に応じて、水稲耕作の技術要素である水利や耕耘、栽植、収穫、脱穀の方法、道具やイネの品種に変異の幅が見られる(表1)。またこれらの技術は歴史的に形成されてきたものである。たとえば平原、デルタ地域の犁耕、散播(モミを水田に播く)、鎌、牛蹄脱穀(牛にイネを踏ませて脱穀する)は、インド的農法が受容されたことを示している。一方、スラウェシ、フィリピンなどに見られる蹄耕、苗代から本田への移植、穂摘みは東南アジア独自の技術要素と考えられている。

 

IV. 私の東南アジア考古学体験

石器と狩猟採集民

 私の東南アジア考古学研究は、まず石器研究から始まった。当初は東南アジアのこともよく知らず、ただ過去のひとびとが残した遺物を研究する「対象」として、島嶼部東南アジアのフィリピンへ渡って行った。

 東南アジア地域の石器の中でも剥片石器と呼ばれる遺物がある。剥片石器は世界中で、人類史のごく初期の段階から見られる石器であり、石の塊を叩き割って取れた小片を、切ったり、削ったり、さらには弓矢の鏃(ヤジリ)や槍先などの機能をもつ道具として使用したものである。しかし東南アジアの剥片石器の特徴は、ヤジリやナイフといった定形的な、つまり形を見てある程度、その機能を類推できる石器とは違って、形が不定形なため一見しただけではその機能がわからない石器群が出土するという点にある。これでは考古学先進地域である西欧で発展した石器分析法である形態分類法をつかって分析することができない。考古学では発掘で得られた遺物群の中から、特に形態上のパターンを見い出し、それをもとに分類を行っているが、この方法では不定形な剥片石器は分析できないことになる。

 これまで東南アジアの石器時代研究の中で、不定形剥片石器群は、形態を分類の基準として成果を挙げてきた西欧の研究者からは、技術的に劣っているものと見られ、さらには文化的にも劣っているものとして解釈されてきた。東南アジア考古学の研究はこうした西欧的な見方にしばられ、研究が長い間遅れていた。しかしこのような状況も70年代から徐々に変化し始め、形態よりは石器が作られた技術の問題や、何に使われたかという機能の問題、そしてどのように使われたかという脈絡の問題に着目するようになり、石器の形態が不定形であるのには、それなりの理由があるからだという相対的な考え方が定着し始めた。同時に、石器は自然に対して直接的に働きかける道具であり、それによって得られた資源をもとにして先史時代のひとびとは生計を立てていたと想定できるから、東南アジア島嶼部を被う熱帯雨林という自然の特徴やメカニズムを研究することは必須の要件であるという認識も生まれてきた。

 剥片石器研究のため、フィリピン国立博物館人類学部門を訪れ、博物館が発掘した剥片石器群資料を分析した。これらの石器が出土した遺跡は、ルソン島北東部シエラマドレ山脈の西麓に広がる石灰岩台地にあるラトゥ・ラトゥ洞穴遺跡である。この地域はペニャブランカ(白い岩)と呼ばれ、その名のとおり石灰岩台地が形成されており、ここに約100ヶ所の洞穴・岩陰・開地遺跡が発見されており、70年代後半からフィリピン国立博物館によって調査されている(図 )。ラトゥ・ラトゥ洞穴は石灰岩台地が川によって分断された崖面下部に口を開ける細長い洞穴で、10平米くらいの入口付近だけが明るい。発掘はこの開口部に2x2mの範囲で、深さ約2mまで行われていた。剥片石器はどの深さからも出土するが、群として捉えられるのは2ヶ所の深度で見られた。一つの石器群は、ある時期のひとびとが生活を営む上で必要な道具類と言うことができる。

 さて先史時代のひとびとの道具箱の中味には、さまざまなもの考えられるが、それを推測するための分析の方法として不定形剥片石器の刃部に注目し、その形や角度をもとに機能を分析した。その結果、これらの石器群は「切る」と「削る」道具に分類できた。剥片石器以外の道具類には、河原石のハンマーがあった。石器群全体を概観してみると、道具類として十分に分化していない状態にあることが読み取れる。石の塊から剥ぎ取っただけの剥片石器は、刃の形や長さから一応「切る」と「削る」道具に分類できるが、私達が日々使っているカッターのように、切ったりも削ったりもできる汎用の道具と考えることもできる。もっと大きな問題は、これらの道具類は自然に立ち向かい、生計を成り立たせるための道具全体の一部をなしているに違いないということである。そこには足りない道具がまだあるということである。たとえば弓矢のヤジリなどはどうだったのか、獲物を捕らえる罠や網、荷物を運ぶカゴやヒモ、食べ物を盛る器はどうだったのか。確かに石器群と同じ土層から、土器が出土しているが、これは食料の調理や貯蔵用に限られる。その他の道具類は、植物、中でもタケ・トウ(籐)やヤシ科植物を素材にして作られていたと考えられる。現在でも、これらの植物は東南アジア各地でいろんな道具として利用されている。もしもラトゥ・ラトゥ洞穴のひとびとが石器以外に植物製の道具を使っていたとしたら、石器群が「切る」「削る」「叩く」機能しか備えてなくても、その石器で植物素材の道具を作り出せばよいのである。もちろん石器と土器以外の植物製道具類は、長い年月の間に土中で消えてしまったのである。消えてしまったものに想いをめぐらしても、想像力には限界がある。熱帯雨林の自然の中でラトゥ・ラトゥ洞穴のひとびとはどのように生活していたのか。それを考える糸口を見つけるため、今度はシエラマドレ山中に住むネグリトのひとびとのところへ出かけて行った。

採集狩猟民イタの生活

 ネグリトとは元来、スペイン語で「小さな黒人」を意味する言葉である。フィリピンの低地に住むマレー系のひとびととは形質的に異なり、山中に住み、低身長、縮毛、暗褐色の皮膚をもつネグリトをみたスペイン人が呼んだことに由来する。アジア地域にはマレー半島のセマン族やインド洋のアンダマン諸島民が類似の形質的特徴をもち、同様にネグリトと呼ばれている。現在、フィリピンのネグリトは、ルソン島北東部シエラマドレ山中、同じくルソン島中部のピナトゥボ山中、さらにフィリピン中部のネグロス島の一部やパラワン島、そしてフィリピン南部に位置するミンダナオ島北東部などで生活している。各地域のネグリトはそれぞれ異なった民族名称で呼ばれている。ルソン島北東部のネグリトはイタ、アグタなどの呼称をもつ民族である。近年、政府による定住化政策や森林伐採その他の理由で、ネグリトの生活も大きな変化を迫られ、採集・狩猟活動から焼畑農業へ転換せざるを得ないというところまで追い込まれているのが現状である。しかし彼らこそ、現在大多数を占めるフィリピン人の祖先であるマレー系のひとびとがこの地に移動してくる以前から、フィリピンに住んでいた先住民なのである。

 ペニャブランカ山中に住むネグリトのひとびとを最初に訪問したのは、ラトゥ・ラトゥ洞穴出土の石器群調査の後のことである。彼らのキャンプまでの行程は、ペニャブランカの川を遡つこと1日である。朝、食料とお土産を持って出発し、遠くにシエラマドレの山並を眺めながら川を何回も越え、農耕民の集落が絶えてさらに川を登り、夕暮れ時に到着した。キャンプはサッカーボール大の河原石がごろごろしている川辺に営まれていた。到着時、キャンプには5家族22人が世帯ごとに住んでいたが、帰るときには32人に増えていた。それはこの時期が雨期の始まりにあたり、乾期の間分散していた家族が集まって、雨期には大きな集団を形成するからである。ひとびとは家族ごとに、木の枝と竹、ヤシの葉でできた簡単な、床面積5平米くらいの高床の家に住んでいた。その内の1軒に泊めてもらうことになって、調査が始まった。

 この集団は、推定60才の男性と妻、そしてその子供達、親戚の家族で構成されている。彼らはペニャブランカの川筋を季節ごとに上流・下流と移動し、周囲の森を糧として生計を営んでいる。また別の川筋にも彼らと姻戚関係にある集団が住んでおり、絶えず往来している。姻戚関係はシエラマドレ山脈の西側、太平洋岸まで広がっており、エヨックの息子のひとりもこの時、親戚がいる海辺のキャンプに行っていた。雨期のこの集落は、乾期に比べて集団も大きく、より定着的である。そのため家のつくりも、乾期の差し掛け小屋よりしっかりしている。キャンプの中では、男達はふんどしかパンツ姿、女達は上がTシャツに下がスカートという格好である。家の中には、各家に狩猟用の弓矢セット1、木枠の手製水中メガネ1、段ボール1個分の衣服、鉄鍋が1、2個、ホーローの皿数個、懐中電灯1、山刀1が基本的な道具類・家財として見られる。この他に単一電池で動くレコードプレーヤー、手製ギターを個人的に持っているイタもいる。

 彼らの集落は熱帯雨林に取り囲まれている。この森に住む動・植物を対象として、採集・狩猟・魚撈活動を行っている。すでに述べたように熱帯雨林の気候は雨も多く、気温も高いため、人間には住み安い環境と思うかも知れないが、実際は莫大な生物量を生産しているにも関わらず、熱帯雨林の生態系では栄養循環のスピードが速いため、人間が食料として利用できる葉や果実は限られている。そのため、植物を食料とするシカやイノシシ、サルといった狩猟対象動物の数も同様に限定されてくる。このように一般に考えられているよりは、熱帯雨林の自然に依存する採集・狩猟生活は、かなり苦しいことが分かるだろう。

 狩猟活動は主に弓矢によって行われる。弓はヤシ科植物を素材とし、矢柄は細身の竹、ヤジリは太いハリガネを叩いて葉状にしたものを取り付けている。狩猟に出かける時は3、4人のパーティーを組む。獲物が捕れるまで2、3日は帰ってこない。私がいた頃は、ちょうど一人の娘の結婚が近くて、父親はその費用を捻出するため、何度も狩猟に出かけて行った。シカやイノシシが捕れるとその場で解体し、葉にくるんでキャンプまで持ち帰る。こうして得られた肉は集団で平等に分配される。魚撈は日常的に、集落付近で行われる生計活動で、木枠にガラスを樹脂で張り付けた自家製の水中メガネをつけて川に潜りモリで魚をとっている。魚撈活動は、日々のタンパク質摂取を可能にするための重要な生計活動である。

 一方、炭水化物摂取については植物の採集活動によるとなるところだが、実際は食料としての植物採集はあまり活発でない。調査当時、イタのキャンプの周囲、河原に接した森では小規模な焼畑が営まれており、トウモロコシ、オカボ、イモ、各種の野菜にタバコまでが耕作されていた。しかし小さな焼畑での作物だけでは、日々の食料はまかなえるものではない。トウモロコシやコメを入手するため、イタはシカやイノシシの肉、サカナやハチミツを、山の麓に住む農耕民と交換して入手している。交換が実際にどのように行われているかというと、農耕民のほうが注文にやって来て、その注文に応じてイタが山にシカやイノシシ・サカナなどをとりに行き、後日届けるというもの。もうひとつはイタが必要なものを求めて山裾の農耕民の村へ行って交換するというものである。この時、交換品は炭水化物に限らず、夜間の狩猟に必要な懐中電灯の電池やヤジリの原材料のハリガネ、さらには酒にまで及んでいる。このような状況をどう理解すればいいだろうか。世界の他地域の狩猟採集民、例えばカラハリ砂漠のブッシュマンの場合には、彼らが獲得する食料の大部分は、女・子供・老人の採集活動によるものであることが知られている。しかしイタは、森では困難な食料採集を、隣接する農耕民との交換によって補っている。そうすると彼らの「交換」は、熱帯雨林環境下では獲得が容易でない炭水化物の食物を、農耕民と社会的関係を結ぶことによって獲得し、生計戦略上の弱点を補っている行為と考えることができる。反対に農耕民は、タンパク質確保のために家畜を飼っているが、これを頻繁に食用にすることはできない。つまりお互いに生計上の弱点を補い合うところに、「交換」が成立していると考えることができる。

 イタの調査は、当初植物を道具としてどのように利用しているかという興味から始まったが、イタの集落で見た「交換」に関心が移っていった。狩猟採集民と農耕民は、森と低地という異なった自然環境に生活基盤を置き、それぞれが入手しやすい資源を、互いに利用できるよう「交換」が行われている。このような社会的関係が、長い歴史を持っているとするならば、熱帯雨林に住む狩猟採集民と農耕民の交換をベースにした「共生関係」を、考古学的に解明することが可能かもしれない。元来、この2つの人間集団は、技術的背景も社会組織も、生活様式も異なった集団なのである。人類が道具を使い始めた約300万年前から、農耕が開始される1万年前まで、人類の生活は狩猟採集によって支えられてきた。その後、農耕社会は高度な文明を築き、現在では世界に限られた数の狩猟採集社会しか残っていない。その数少ない例であるイタなどのネグリトは、農耕民との接触を持ちながらも、なぜ現在まで存続することができたのか。なぜ農耕民に吸収されてこなかったのか。ここで見た「交換」は、この疑問に答えられるほどの歴史を持っているのだろうか。いずれにしても考古学は、過去における長い間の、人間行動の変化を追うことができる唯一の学問的手段である。

 このような問題に取り組むためには、時間と空間の幅をより大きくとった調査が必要となってくる。時間的には農耕が開始される1万年前から現在まで、空間的には広い範囲にわたる一つの地域を調査範囲として選定しなくてはならない。このような問題を抱えて、今度は同じくルソン島北部のカガヤン河の下流の貝塚遺跡群の調査を開始した。

ラロ貝塚群の発掘調査

 過去の問題へ立ち帰るように、発掘現場にふたたび戻ってきた。しかし今度は洞穴ではなく、貝塚遺跡である。しかし今度も遺跡と民族が一緒に調査できる現場である。発掘現場はカガヤン河の河口から50km上流までの広い地域である。1985年から河岸の貝塚遺跡群の分布調査と試掘、そして現在でも貝採集を行っているひとびとの生活についての基礎的調査を終え、現在ではその結果を受けて、本格的発掘調査に移行している。この調査はフィリピン国立博物館の考古学者とわれわれ日本人研究者との共同調査というかたちで行なわれている。調査の目的は、貝塚の層位学的発掘によって得られた資料をもとに、この地域の型式学的編年体系を確立し、周辺地域における諸文化との比較研究の基礎とすること、貝塚から得られた人工・自然遺物資料を基に、河川における資源開発の生業パターンを解明すること、さらに、調査対象地域をカガヤン河下流域全体へと徐々に広げながら、さまざまな微小環境に位置する遺跡の考古学的資料を収集し、生業パターンについての情報を蓄積すること、そして最終的に、農耕開始以降の当該地域における文化進化のあり方解明することである。農耕開始以降、この地域における先史文化の様相は非常に複雑である。農耕民が低地で生計を営む一方で、山地では農耕以前の生業形態である狩猟採集を営むひとびとが同時代的に生活しており、しかも両者は経済的な相互交流をとうしてある種の「共生関係」を確立していたという可能性を、現在の事例から予想することができる。このような問題を解決するためには、調査で得られた遺物・遺跡・遺跡群の序列を、各時代ごとに正しく配置する必要がある。将来的には河岸から山地へと調査を続ける必要があるが、ラロ貝塚群の調査はその第一歩として位置づけることができる。 

遺跡の分布とその性格

 カガヤン河は、ルソン島北東部を南北約300kmにわたって流れ、バブヤン海峡に注ぐ、フィリピン有数の河川である。この河によってつくりだされたカガヤン渓谷は、東をシエラ・マドレ、西をコルディリエラ、南をカラバリオの各山脈に囲まれている。ラロ貝塚群は、カガヤン河の下流域に点在する。河口にはアパリの港があり、16世紀には日本人町のあった南シナ海の重要な交易拠点であった。貝塚群は河口から10km遡った地点から始まり、50km地点までの間のカガヤン河両岸に分布している(図 )。現在までに確認されている貝塚は21ヵ所で、その規模は、長さ500m、幅50m、深さ2m以上の大規模なものと、直径10m前後の小規模のものまでさまざまである。貝塚の立地条件にしたがってその分布パターンを以下の3つに分類することが可能である。

1. 内陸低地:河岸から約1km、標高3〜4mの低湿地に位置する貝塚群が現在までに3ヵ所確認されている。周囲を水田に囲まれているが、石灰岩台地がすぐ近くまで迫っている。遺跡範囲は径約50m、井戸の断面観察から深度は2〜4mである。貝の他、動物骨などの自然遺物は検出されているが、人工遺物は今までに1ヵ所の貝塚から剥片石器が1点確認されているだけである。発掘調査が行なわれていないので年代については推測の域を出ないが、土器出現以前に貝塚が形成され、その後カガヤン河の沖積作用で埋没したもと考えられる(当該地域の土器出現に関する資料としては、前述のペニャブランカ地区、ローレンテ洞穴からBP7000年のC14年代が得られている)。

2.河岸の自然堤防上:カガヤン河に面した標高約6〜7m、河面比高満潮時で3m(干満の差1.5m)の自然堤防上に位置する貝塚群である。その規模はいずれも大きく、最大のもので長さ500m、幅50m、深度2mにも及ぶ。このような大規模貝塚は5ヵ所確認されている。さらにその内3ヵ所の遺跡では現在でも貝の採集が行なわれており、貝塚の形成が続けられている。遺跡を形成している貝種と現在採集されている貝種とはほぼ同じであるが、1種類の二枚貝が大半を占めている。この貝は現在取れにくくなっているが、それとは別の貝は現在では大量に採集されている。しかし発掘資料ではかつては採集されていなかったことが分かっている。遺物は厚手の黒色土器を中心として、中国陶磁片、磨製石斧片が検出されている。貝以外の自然遺物には陸棲動物・魚骨が多種にわたって検出されている。年代に関しては発掘調査により−60cm深度でBP1000年のC14年代が1点得られている。

3.石灰岩台地上:カガヤン河に面した標高約40〜50mの石灰岩台地上に位置する。発掘調査が行なわれたマガピット貝塚は、台地上丘陵鞍部に位置し、その規模は径10m、深度5.5mである。遺物は沈線・刺突文をもつ赤色磨研土器を中心として、有段石斧、土製・骨製装飾品、陸棲動物・魚骨等が得られている(図 )。マガピット貝塚の年代は、−1m及び−2m、2点のC14年代が得られており、いずれもBP3000年となっている。

 以上の貝塚を主体的に形成する貝種は、いずれも現地名でカビビ(Dallela.sp.)と呼ばれる汽水産二枚貝である。貝種はこの他に汽水産二枚貝2種、淡水産巻貝1種、陸産巻貝4種が見られる。また貝層の状態はほとんど土を含まない純貝層である(発掘資料では混土率90%以上)。

 95年の調査では河岸段丘上の隣接する貝塚2ヶ所を発掘した。いずれも黒色土器を出土する貝塚であるが、一方はカタヤワン貝塚で、深さ2,3mの純貝層、最下層から黒色土器片を検出した。約2km離れた地点にある他方のサンタマリア貝塚は、貝の堆積が薄く、地点的に計0mほどのマウンドを形成している。ここでは黒色土器の下に赤色スリップ土器の文化層が確認された。黒色土器を産する文化層からは、炉址とそれを囲むように柱穴が確認されている。

遺物の編年と周辺地域との関係

 ラロ貝塚群の中で現在までに発掘された貝塚は5ヵ所である(河岸自然堤防上4ヵ所、石灰岩台地上1ヵ所)。自然堤防上の貝塚から特徴的に出土する黒色土器は、フィリピンの他地域のものと比較すると、金属器時代(BP2000年以降)に属するものと考えられるが、発掘からは十分な資料が得られていない。石灰岩台地上のマガピット遺跡では、深度5.5mの貝層が視覚的に5層に分けられたため、各層から出土した赤色磨研土器を中心とする土器群を型式学的に分類する作業を行なったが、現在までに時期を異にする複数の土器型式は抽出されていない。

 マガピット遺跡の遺物群はこの遺跡が形成されたBP3000年頃、周辺地域つまり南シナ海沿岸や太平洋地域における同時期の先史諸文化とのさまざまな類縁関係を示唆している。バシー海峡を隔てた台湾では、北部の円山文化、南部の鳳鼻頭第二期の土器の施文要素・文様構成に類似点が見られる。また東南部の卑南遺跡では石製決状耳飾りの類品が出土している。さらにマガピット遺跡表採の石製有角決状耳飾りも類品が卑南遺跡にある。フィリピン、パラワン島のタボン洞穴群では、タボン甕棺文化と呼ばれる時期に相当するが、文様構成等で土器群の性格が異なっている。しかしここからはカガヤンのペニャブランカ洞穴群アルク洞穴出土の有角蛭状耳飾り、台湾蘭嶼採集の双獣頭形耳飾りの類品が出土しており、これらを指標とするベトナム中部の、サフィン文化との直接的関係を見ることができる。同様にサフィン文化の土器群との類似を指摘されてきた中部フィリピンのマスバテ島のカラナイ文化は、時期的にはやや新しい(BC400年)。むしろこれに先行するバトゥンガン第2洞穴(BC750年)は時期的にも、土器の施文要素・文様構成にも類似点が見出だせる(図 )。

 中部ベトナムのサフィン文化は決状耳飾りに見られるとうり、南シナ海で結ばれた諸地域との直接的関係がうかがえるが、年代的にはマガピット遺跡よりも新しい。しかし北部ベトナム、トンキン湾岸の有肩石器諸文化から出土する土製蛭状耳飾りは マガピット遺跡の土製決状耳飾りに類似している。

 一方、太平洋地域との関係については、ミクロネシアのマリアナ赤色土器及びメラネシア、ポリネシアのラピタ土器との類似性を考えなくてはならない。これらの土器と類似性をもつ土器を求めて、多くの研究者が東南アジア島嶼部で以前から調査を行なってきたという経緯がある。マガピット遺跡の土器群とは文様構成のあり方等が異なっているが、施文要素・赤色スリップ・石灰充填などに多くの類似点が見られる。

 マガピット遺跡の遺物群と周辺地域の同時期に属す先史諸文化との検討を行なった。在地の脈絡を色濃く反映する土器については、海を隔てた地域との直接的な関係を指摘することは困難である。むしろ耳飾りのような土器よりも特殊な技術によって作られた遺物は、作製された場所の特徴を保持しながら遠くへ運ばれているため、かつての交流関係を見出だすことがより可能である。本遺跡を軸として、西の南シナ海から東の太平洋までを結ぶ大きなネットワークが、かつて存在していたことは確かであろう。

貝斧文化圏

 沖縄、先島諸島の貝斧文化についての比較検討が、沖縄とフィリピンの研究者によって行なわれた。先年より発掘が進められていた宮古島城辺(ぐすくべ)町の浦底遺跡から、それまで表採のみでしか確認されていなかった貝斧が未製品も含めて多数出土し、注目を集めていた。沖縄県文化課と城辺町はこれを期に、貝斧が出土するフィリピンとの共同研究を計画し、研究者を招いての実地調査が実現した。先島諸島では以前から、シャコ貝の蝶番の部分を素材として作られた斧が表採されていたが、発掘資料が得られておらず、その年代や文化的位置づけに不明な点が多かった。そのためすでに1981年、石垣島の名蔵貝塚の採集品をもとにして、東南アジア島嶼部及び南太平洋地域に見られる貝斧文化との国際的な検討が行なわれている。そこでこの度は浦底遺跡の調査でより明確な位置づけが可能となり、貝斧文化の系譜解明の関心が一層高まってきた。

 一方、フィリピンでは70年代初頭の調査でパラワン島、スールー諸島から貝斧が発掘されていた。C14年代でBP6000〜4000の年代が得られている。これらの遺跡の発掘調査に携わり、名蔵での検討会にも参加したフィリピン国立博物館のエヴァンゲリスタ副館長が、この共同研究に参加した。氏はフィリピン出土の貝斧のレプリカを持参し、浦底遺跡のものと比較したところ、素材部位、形態、製作技術上の類似点を見出だすことができた。この共同調査によって、貝斧文化解明のまなざしは熱くフィリピンへ向けられることとなった。

 その後沖縄とフィリピンの貝斧から始まった共同研究は継続され、浦底遺跡、伊是名貝塚、フィリピン、スールー諸島バロボック岩陰遺跡の調査へと発展して行く。バロボク岩陰遺跡の発掘は、まさに貝斧文化の源郷での調査である。この調査結果から貝斧の発生について、剥片貝器→刃部局部磨製の打製貝斧→磨製貝斧という作業仮設が提示され、こうして発生した貝斧文化が周辺地域へ展開して行ったと考えられている。沖縄とフィリピンとの貝斧をとうした共同調査は現在も続けられている。今後、スールー諸島から沖縄へ北へ向かってどのように展開して行ったのか、またミクロネシアを中心とする太平洋地域との関連についても重要な課題となっている。

交易の時代

    中国のハイテク技術によってつくられた陶磁器は、9世紀頃から重要な貿易品として世界市場に登場した。これ以降、16世紀にスペイン人が進出してくるまでの間、フィリピン各地の遺跡から出土する中国陶磁器は、文献資料に代わって当時の様子を探る資料として大きな意義をもっている。その重要性は、この時期をフィリピン考古学で「陶磁器時代」と呼ぶことでも明らかである。考古学資料としての陶磁器がもつ利点のひとつは、特定の生産地(窯場)で焼かれたものが、貿易品として海上交通のネットワークに乗って世界中で発見され、各地の考古学的脈絡の中に位置づけられ、さらに世界各地の遺跡間で年代の比較検討を行なえるという点にある。そのためひとつの陶磁器片の出土によって得られる情報は、フィリピンやその他の東南アジア地域のように編年作業が進んでいない地域では、年代を始めとして海上交易ネットワークや当時の社会のあり方など、多くを物語ってくれる。

 フィリピン国立博物館は1950年代のバタンガス州カラタガン遺跡の調査以降、陶磁器時代の社会や文化の解明のため、組織的な発掘調査を続けてきた。なかでもカラタガン遺跡、サンタ・アナ遺跡の調査では、陶磁貿易の研究史上、貴重な資料を提供した。これらの資料をもとに青柳洋治は、フィリピンの陶磁器時代を5期に区分する編年を提示している。

 

 第1期   9〜10世紀       晩唐・五代期     ラウレル遺跡    (バタンガス州)

 第2期 10〜12世紀      北宋初期       バランガイ遺跡  (ブトゥアン市)

 第3期 12〜13世紀       南宋期        アビオグ洞穴遺跡(パラワン島)

 第4期 13世紀後半〜14世紀 元後期〜明初期  サンタ・アナ遺跡(マニラ市)

 第5期 15〜16世紀前半    明代前期         カラタガン遺跡  (バタンガス州)

 さらにこれらの遺跡から出土した陶磁器群と東南アジアの他の諸遺跡出土の陶磁器を比較検討することによって、東南アジア世界における海上交易ネットワークの実態が時代ごとに明らかになってきた。カラタガン遺跡では1994年からフィリピン国立博物館と筆者の再調査が行われている。

青柳をはじめとする日本人貿易陶磁研究者は、東南アジア各地の陶磁器出土遺跡の調査を続け、最近ではベトナム中部で陶磁器古窯址の発掘調査を行っている。この古窯址で生産された陶磁器が最近フィリピン東部のパラワン島南部に沈んだ船から、大量に引き揚げられている。東南アジアでは9世紀から13世紀までのアンコール朝期にクメール陶磁器を生産していた。また14世紀からはベトナム、タイの陶磁器が交易のネットワークに乗って、中国陶磁器とともに世界各地へ渡っていった。

10世紀のフィリピン社会を物語る銅板銘文

 「交易の時代」に相当する、年代が明記された文字資料が、最近フィリピンで発見されているので紹介したい。この文書資料は銅板に刻印されたもので、マニラ東部のラグナ地方のルンバン川河口から発見された。その後この銅板文書はフィリピン国立博物館で研究された結果、文書は古代ムラユ(マレー)語に属し、古代ジャワ文字(カウィ文字)で記されていることが明らかになった。銘文の最初の行にはサカ暦822年という年代が銘記されており、これは西暦900年に相当する。また銘文の解読によってその内容は、債務返済を当事者とその子孫に対して免責するという法的書類であることが分かった。さらに銅板にはマニラ北部のブラカン州を流れるアンガット川沿いの3ヵ所の地名、及びマニラ湾沿いの2ヵ所の地名が記されており、海上と内陸を結ぶ交易ネットワークの存在を示唆している。

 ラグナ銅板銘文はこれからも検討を要するが、一枚の銅板文書の発見が考古学・歴史学・言語学の各分野に与えた衝撃は大きい。今後は考古学的に文書に現われている地域を調査し、歴史の空白部分を埋めながら、「交易の時代」をより鮮明に描き出す作業を続けなくてはならない。

 

文献目録

Bellwood

 1978       Man's Conquest of the Pacific. London: Qxford University Press.

菊池誠一(訳)、ハバンタン他著

 1986       『ベトナムの考古文化』 六興出版