ベトナム調査記録

小川英文

 

はじめに

 1991年から95年にかけて行われた、われわれのベトナム調査のなかで、遺跡の踏査はベトナム全域にわたるものであった。踏査した地域は大きき分けて、ベトナム北部(クァンニン省、北部デルタ地域からハティン省まで)、中部(ビンディン省からドンナイ省)、そしてホーチミン市を中心とする南部諸省であった。この間踏査した遺跡はその性格によって大きく4つに分けることができる。すなわち、1)窯址、2)港市遺跡、3)墓地遺跡、4)都城址・集落址である。

 すでに本書の冒頭で述べたように、この調査の目的はベトナム陶磁の編年的位置づけと流通ネットワークの広がりを明らかにすることであった。この問題を解決するためには、まずベトナム全土に分布する各窯址や陶磁器を出土する遺跡群を踏査し、出土する遺物を実見して、製品の特徴を明らかにする必要があった。そのためハノイ考古学院をはじめベトナム各省の博物館等を訪れ、まず発掘担当者に遺跡と出土遺物の説明を受けた後、遺跡を踏査し、採集遺物の検討を日本・ベトナムの研究者が共同で行った。未だその性格が不明な、ベトナム中部ビンディン省クイニョン近郊のゴサイン窯については、発掘調査を実施して、窯の構造と製品の技術的特徴についての調査・研究を行う機会を得ることができた。

 次に、ベトナム各地でさまざまな時期に生産された陶磁器や陶器が、かつて存在したであろう流通のネットワークに乗って、どの場所で使用され、どのように廃棄あるいは埋納されているのかという消費の実態を明らかにする必要がある。港市・墓地・都城・集落など、性格の異なる遺跡から出土する遺物は、かつて存在した流通ネットワークの途上、あるいは最終消費地に位置づけることができる。そしてこれらベトナム陶磁が出土する遺跡の分布・性格・使用期間・共伴遺物から、最終的に流通ネットワークの時代的変化をあとづけることが可能となる。

 またベトナム陶磁に編年的枠組みを与えるためには、ベトナム陶磁に共伴して出土する中国陶磁や肥前陶磁の編年的研究の成果を援用する必要がある。すでに日本や中国などで、産地と年代が同定された資料が、どのようなコンテクストでベトナム陶磁共伴関係にあるかが、編年的研究の決め手となる。発掘作業を伴わない踏査によって、短期間のうちに、中国・日本の陶磁器との共伴関係が明確なベトナム陶磁の資料を得るには多くの困難が伴う。この制約の中でもっとも効果的に目的を果たせるのは、墓地遺跡で共伴資料を見つけることであった。   

 以上のような目的をもってわれわれはベトナムでの調査を開始した。以下は、われわれの5年間に及ぶベトナム陶磁調査の記録である。この5年間にわれわれが調査した遺跡や研究期間を,所在地,調査年,遺跡の性格,形成時期について表にまとめてみた(表1)。この表をまとめ終わってはじめて、ベトナムの22省・市を訪ね歩いたことに思い至った。それら調査地には5年間に何度も訪れた場所もあれば、一度限りの遺跡もある。われわれ調査者はどの遺跡も今度限りという想いで、目を皿にして地表面の遺物を探し、博物館のショーケースの中を食い入るように目をこらした。良い情報を得たと意気揚々訪れた遺跡でなんの成果もなく引き揚げてきたことも一度ではない。しかしこのような遺跡は表に含まれていない。以下の報告はこのような期待と昂揚、そしてある時には落胆が入り交じった調査日誌を綴った野帳から抜き出したものである。

 この間、ハノイ考古学院をはじめとして、ベトナム北部・中部・南部各省の博物館・人民委員会等に属する人々、そしてわれわれが訪れた場所で暮らす多くの人々に大変なお世話をいただいた。まずはじめにこれらの人々へ感謝の意を表して、この報告を始めることにしたい。

 

1.ハノイ(考古学院は?)

ダイラ遺跡、ヴィンフック遺跡

 考古学院歴史考古学部門トゥオン氏の案内で旧市街を歩き、ダイラと呼ばれている旧ハノイの中に営まれていたという窯址を探す。ハノイは北属時代に宗平、その後大羅、羅城。11世紀に興った李朝では昇龍と時代ごとにその呼び名を変えてきた。グェン朝時代のハノイの北門跡から陸上競技場、かつての競馬場を踏査する。李朝以降、陳・黎朝期にもこのあたりに城門があったという。競技場の西側のヴィンフック遺跡にやってくる。「道仏廟」という道観が目印だ。約3m高のマウンドが4つ築かれていて、そこから陶器・陶磁器が表採できた。中国青磁は14世紀のものを中心としており、またいわゆる縄簾、締切などの陶器類、さらに星形無釉文の碗も表採された。ここがダイラ遺跡なのであろうか。かつての都城址内で遺物が表採できたことにやや満足して仕事を終える。

 

2.クァンニン(Quang Ninh) 省 

 遺跡調査はまず中国国境に接するクァンニン省ハロン湾に浮かぶ島から始まった。ここでの目的は「大越史記全書」李朝英宗大定十年(1149年)に設置された貿易港「雲屯(バン・ドン)」の遺跡調査である。朝、ハノイから5号線を東へ向い、ハイズォン、ハイフォンを経てハロン湾に達する。石炭の町ホンガイを抜け、カムファ(Cam Pha) で海を渡り、カイバオ(Cai Bau) 島の県庁所在地カイゾン(Cai Rong)へ夕刻に到着した。その夜はクァンニン省博物館の研究員シー氏からクァンニン省博によるバンドン港調査概況と最近行われたバンドン港の所在地比定についてのシンポジウムの概要を説明していただいた。それによるとバンドン港の所在地については現在2つの仮説があり、1つはバンドンを単一の貿易港と考えず、1つのコンプレックスと考えてこの地全体に比定するもので、もう1つは李朝期はカンラン(観爛、Quan Lan) の島, 陳朝期にはタンロイ島と時期的な移動があったとするものである。

 クァンニン省の船でまずタンロイ島(Cong Dong A, B, Cong Tay)に向かう。波穏やかなハロン湾をカイゾンから2時間でタンロイ島に到着する。この島はコンドン(Cong Dong、東側),コンタイ(Cong Tay 、西側) という、幅100m程の水路を挟んで細長く平行して並ぶ2つの島からなっている。この2つの島が接する、水路に面した海辺に大量のベトナム陶磁・陶磁器や中国陶磁器の散布が見られた。コンタイ島ではかつて仏塔がそびえていたという岡の上の寺院趾を踏査するが、ここでは陶磁・陶磁器の散布はほとんど見られない。石畳の参道の趾が島の西海岸まで続いているという。コンドン島では陳朝期の税関趾といわれる建築遺構を訪れる。干潟との境の堆積土中にレンガの壁体が見られる。その前方の干潟は陶器・陶磁器の散布地で、コンタイと同様に大量の遺物が確認された。午前中までの踏査により、コンタイで2ヶ所、コンドンで1ヶ所の海辺散布地で遺物の表面採集を行うことができた。昼食後、次の目的地カンランの島へ向かう。

 カンラン島(Quan Lan(Van Don))はタンロイ島から西へ船で2時間の行程である。この島で考古学的調査を行った日本人は、山本達郎先生以来ほぼ50年ぶりである。

 夕刻、カンランの港に到着する。この日はカンランの村人の歓待を受けた。翌朝バンドン港の調査に向かう。調査地バンドン港はカンランの島ではなく、北方へ干潟を2km歩いた島(イノシシ島:ils des sangliers )であった。ここは潮の干満の差がはげしく、昨晩はカンランの港も岸壁に接岸可能であったが、朝になると1kmも汀線が遠ざかっていた。

 バンドンの港と言われる地点は、イノシシ島の南岸に位置し、干潮時には小さな入江を形成すると考えられる岸辺約100mにわたって大量の陶器・陶磁器片が散布していた。現在この地点には数戸の世帯が集落を形成しており、バンドン社(Van Don Xa) の地名が残されていた。調査中に立ち寄った民家では、畑仕事中に掘り出された甕の中に埋納してあった完形品の万心頭、蓮子碗の青花碗を実見することができた。

 この日、午前中の調査でベトナム陶器・陶磁器片・中国陶磁片の表面採集と、上述の甕中の中国製青花碗の一括遺物を資料化することができた。

 

3.ハイ・フン(Hai Hun)省 

 ハイフン省での調査は、すでに考古学院、歴史博物館、美術博物館、ハノイ大学等が発掘調査した古窯址群の踏査を目的としている。踏査した古窯址群は、すでに調査の概要が報告されているチューダオ(Chu Dau)窯と、今回、考古学院で調査概要について説明を受けたホップレ(Hop Le)窯、ハイ・フン省博とオーストラリア、アデレート大学が共同調査を行ったゴイ(Ngoi)窯である。

   チューダオ窯は、ハイズォン市北方、ナムタイン(Nam Thanh) 県、タイタン(Thai Tan)村の一集落で、ハイフン省とハバック省の境界線となっているタイビン (太平) 川の東岸に位置する。80年代後半から、ここでは上記の研究機関が発掘調査を行っており、大量の資料を収集しているが、窯址は未確認である。チューダオはトプカプ博物館所蔵、青花牡丹唐草文天球瓶の銘「大和八年(1450) 南策州匠人裴氏戯筆」にある南策州にあたるとする説もあり、ベトナム青花の起源と展開をさぐる上で重要な地である。ここでは5ヶ所のトレンチ跡を調査し、陶器・陶磁器片を採集する。

 ホップレ窯は、ハイズォン市の南西、カムビン(Cam Binh) 県、ロンスエン(Long Xuyen)村にあり、ケサット(Ke Sat)川の南岸に位置する。86年以後、考古学院、ハイフン省博物館により発掘が継続されており、すでに長さ13mの窯址一基が調査されている。調査が終了した窯址は、窯体底面が残存していた。燃焼部から窯体入口までは急な傾向をもち、窯体底面はほぼ平面に近い緩やかな傾向をもっている。燃焼部と窯体部との境には、分煙柱の一部も残存していた。

 ホップレ村では、この他4ヶ所のトレンチ跡を実見したがいずれもモノハラで、窯体は発見されていない。ケサット川の岸辺は、この地で製造された陶磁器が運び出された港跡で、大量の陶器・陶磁器片が散布している。

 ゴイ窯址は、ホップレから西方に位置するフンタン(Hung Thang) 村の一集落にある。ここではハイフン省博物館とアデレート大学の合同発掘調査が行われたが、窯体は未確認であった。集落は水田との比高1m程の高台に位置し、周囲の水田に陶器・陶磁器片が散在している。各窯址で表面散布資料を採集した後、ホップレのとなりの集落カイ(Cay)で現在陶器製造を行っている窯を見学する。

    夕刻、ハイフン省博物館へ戻り、収蔵庫の資料を検討する。ここにはハイフン省博物館が80年代後半から行ってきた発掘資料が収蔵されており、チューダオ、ホップレ、ゴイ等の資料を中心として、出土層位ごとに棚に並べられていた。

 ハイフン省博物館の展示資料を見学した後、博物館に別れを告げ、ハノイ近郊、バッチャン(Bat Trang)窯へ向かう。バッチャンは紅河をはさんでハノイの南西に位置し、大小500の窯が稼動しており、数百年の歴史を持って、今も伝統的生産様式を残している窯場である。ここでは民営工場を見学し、階段状連房式登窯を中心として、製造工程を見学することが出来た。

 

4.ハバック省

 ハバック省ではまず省都バクザン市にあるハバック省博物館を訪れ、展示と収蔵庫を見せてもらう。六朝期の陶器からチューダオ、ホプレ窯のものまでのコレクションがあり,ハバック省内のさまざまな遺跡出土品も見ることができた。Khao Co Hoc の85年1巻(ダイライ窯)、86年2巻(1〜10世紀)、89年4巻(黎朝〜阮朝期窯址)に、ハバック省内の遺跡調査報告が掲載されている。

ファライ窯址、フーラン窯址、ハムロン寺

 ファライはハバック省クエヴォー県にあり、デルタの6つの川の合流点に位置する。合流点の目印は小高い山で、麓に窯址、山頂にお寺がある。麓のファライの村の中で3基の窯址を確認する。山頂の寺では村人が庫裏に集まって坊さまの講話を聞いていたが、われわれは陶器やレンガ片を表採する。山頂からの眺めは大変良く、東側川むこうはもうハイフン省で、チューダオ窯址やキエップバック窯址のあるチーリン県にあたる。

 次にフーラン窯址に向かうが、洪水のため遺跡まで到達できなかった。フーランの村では現在でも陶器生産が行われている。遺跡に行き着けなかったので、窯元の一つを見学する。ここでは大型の四耳壷を作っていた。

 午後から黎朝期のハムロン寺で表採する。中秋のためか、年寄りのお参りが多かった。

ベンドンホー(港市)、バイディン窯址、ルイロー(都城址)

 省都バクザンの南、トゥアンタイン県のドゥオン川辺の船着き場ベンドンホー遺跡では,川岸から星形無釉文(方形釉切)、六耳壷肩部、黎朝期の白磁碗等が採集できた。村人に聞いて漢代から唐代までの墓があるというので見に行く。

 ルイロウ城へ向かう途中の道路脇の水田の中に点々と高さ5mほどの、円錐形の墳丘墓がつづいている。どれも墳頂から盗掘を受けている。漢代の墓だと言う。やはり水田の中に唐代のレンガを焼いた窯といわれるバイディン遺跡を訪れる。70基の窯のうち、4基が1986年に調査された。約7m程の窯体が残っていた。

 ルイロウは周囲を壕で囲まれた都城址で、1〜10世紀までの歴代中国王朝のベトナム支配の拠点の一つであった。城内を踏査していると、レンガづくりのため土を掘り返しているところで多くの収穫があった。印文土器から陶器まで採集する。

 

5.ナムハ省

トゥックマック遺跡

 ハノイからハナムニン省省都ナムディンまでは車で約2時間である。ナムディンに到着し、ロックヴォン村トゥックマック遺跡を訪れる。ナムディンは陳朝宗室の故地で、トゥックマック遺跡は、陳朝の太宗が1262年に設け、栄えた陳朝第2の都市、天長府の中心に位置する。太宗は父のために天長府内に重光宮を建て、自らの行宮として重花宮を建てた。現在天長府址には、陳朝14代の皇帝を奉る寺院や、皇帝仁宗の遺灰を納めた仏塔をもつ普明寺、元を打ち破ったチャンフンダオ将軍を奉る南墨廟など、陳朝ゆかりの建造物が残っている。これらを中心としてその周囲は、かつて歴代皇帝の宮殿や天長府の役所が建ち並んでいたであろうが、現在では水田になっている。天長府址の総面積は約100ヘクタール程にもなるという。榴桃(ルウフォ)村、柳園(リュウナ)村など宮殿の名が、この周囲の村や字の名にその名残を留めている。

 さてそのトゥックマックの周囲をとりまく水田の中、ハランと呼ばれる場所に、陶磁器・陶器・土器が大量に散布していた。水田の天地返しのおかげで、中国製の青磁・白磁、ベトナム陶器、縄簾文のサヤや餅形のサポートなどの窯道具が採集できた。では窯がここにあったのか、天長府で陶磁器・陶器生産が行われていたのか、疑問の残るところであるが、物原のようにぎっしりと堆積している様子でもない。このことを問うと、かつて天長府の北東部にチュアタップという窯があったが、現在では消滅してしまったとのことであった。しかしこの窯はハランから距離があるので、依然、窯道具がハランから出る説明にはなっていない。

 ハナムニン省博物館の展示は時代別に3つの部屋に別れている。陳朝期の部屋に陶磁器・陶器・磚瓦など、天長府ゆかりの遺物が展示されている。なかに中国製14世紀と思われる青磁や枢府の白磁も見られる。ベトナム陶磁には上質の葉文唐草刻文の青磁碗や黄釉鉄彩の甕・瓶・壷、蓮花浮彫白磁の小品などがある。このようなベトナム陶磁の窯はどこにあるのかとたずねると、ナムディンから10kmほどのところにコンチェという窯があるという。今は洪水の影響で行けないということであった。

6.ニンビン省

ホアルー都城址

 ホアルー(華閭)はベトナム初の独立王朝、丁朝の都である。丁朝は968年、宋軍を破った丁部領によって建てられた。しかしわずか2代で黎朝にとってかわれる(前黎朝、建国者黎桓)。黎朝もホアルーに都したが、3代で早くも終わり、李朝になってようやく200年の長期安定政権が確立する(建国者李公蘊)。この時、都も新たに昇竜(ハノイ)へ移る。

 ナムディンから1号線を南へ向かうと 水田の中に石灰岩の小山が点在する光景が見られるようになる。あたかもハロン湾の風景が陸に揚がってきたかのようである。この石灰岩の小山の間に壁を築いてつなげ、城壁をめぐらしたのがホアルーである。城内には丁、黎両朝の皇帝を奉る寺が一つづつ建てられている。訪れる人もまばらな境内にホアルー史跡展示室が設けられていて、そこに越州窯系青磁碗片や「大越国軍城磚」と「江西軍」の銘が入ったレンガが展示されていた。寺の改築現場では工事中に出土した陶磁片を見ることができた。ここには10世紀の越州窯系青磁片、10世紀末から11世紀前半と11世紀末から12世紀初めの中国製白磁片があった。

 

7.タインホア省

タインホア省博物館

 タインホアの調査は91年夏の1回のみである。タインホア省博物館の展示,収蔵庫の陶磁器資料を写真撮影した。またダブート、ランコン、コンチャンティエン遺跡など、新石器・青銅器時代の土器資料も資料化した。

ドンソン遺跡

 ベトナムの独立記念日,9月2日,家々に一星紅旗が掲げられる中、ドンソン遺跡へ向かう。タインホア市街から国道1号線に出て南に折れると、マ川に架かるハムロン鉄橋がある。アメリカ戦争当時は何度も爆撃目標になった橋である。そこから川下に200m程の岸辺にドンソン遺跡はある。現在、工場の敷地内になっているが、川岸には土器片を含む文化層が露出している。工場裏手は小高い丘になっていて、その頂から川岸までが遺跡の範囲だという。現在でも軍事機密であるハムロン鉄橋が写真に入らないように遺跡の撮影を行う。

 

ノンコン遺跡(墓地)、タムトー

 調査当時の919月,3カ月前に発見されたという陶磁器を副葬品とする墓を見に行く。場所はノンコン県ゴーサー村タンビン社の農家の庭先である。雨の中、農道を歩いてその農家に着く。家の前庭から2基の舟形木棺が出土し、それぞれの中から中国とベトナム製の陶磁器が出てきたとのことである。

この農家が所蔵している出土陶磁を撮影する。14世紀の中国製青磁碗とともに、ベトナム製の黄釉樽形壷、口縁下外面に簡単な鉄絵のある鉢などが見られた。一括資料としてベトナムの年代の決め手になる重要な資料である。

 そn帰途,ヤンセの発掘で有名なタムトー漢墓に立ち寄る。タインホア市へ戻る途中、運河のほとりに4基のマウンドがある。この付近にヤンセが調査した宋代の窯址(未発表)を探しながら村の中を歩いていると、縄簾の花生をぶらさげて歩いてくる子どもに出くわした。子どもに教えられて陶器がゴロゴロとして場所を発見する。この集落(ドンソン県ドンビン社)は陶器生産の窯址群の上に営まれているということが判明した。運河に切られた物原は、1m以上の堆積を示していた。ヤンセの窯は分からなかったが、思わぬ収穫があったことに満足する。

 

タインホー

 タインホアから西、ヴィンロック県タインホー(胡城)は,陳朝末期にホークイリー(胡季犂)によって建てられた城である。一辺1,000mの方形の城で、四方に門を持ち、城壁は切石が積まれている。ハノイの東都に対し、ホー城は西都と呼ばれた。しかし完成直後、1407年に、胡季犂が陳朝を簒奪したことを名分として攻め入った明軍によって落城した。

 整然とした切石積みの城壁をもつ城である。現在,城内は畑にされているため、陶磁器や陶器、瓦など遺物の採集は容易であった。落城年代がはっきりしているため、15世紀初めの遺物以降は出ないのではないか、ベトナム陶磁の微妙な年代の違いが明らかにできるのではないかと期待したが、これほどまでに城壁がきれいに残っているため、その後も使われ続けた可能性が高いと考えたほうが無難であろう。黎朝の建国者、レロイ(黎利)の故地も程近く、長く戦略拠点として使用されたものと考えられる。 

 

ラックチュン遺跡 

 マ川の河口に位置する黎朝期の貿易港と、かつてヤンセが調査した漢代墓を踏査するため,ラクチュンに向かう。まずタインホア市の東、マ川デルタ北部のホアンホア県の資料館を訪れる。ここでの考古学的活動について情報を集め、ラクチュン遺跡へ向かう。遺跡へは船で行かなければならないので、沿岸警備隊のお願いして船を出してもらう。ここはマ川の支流の一つにあたるが、河口は川幅500mほどの大きなものである。遺跡は川の南岸にあるというので、岸辺を踏査するが、港市遺跡は見あたらず、ヤンセの漢墓群を歩いて帰る。川の対岸にはゴチュンやホアロク遺跡があるはずだが、今回の調査目的である陶磁器の時代よりもずっと遡るため、再訪を期してタインホアへ戻る。

 

トースアン県スアンラップ社、ハインフック社

 タインホアの西、トースアン県に唐代の大皿があるとの情報に基づき出かけて行ったが、ずっと新しい中国みやげのようなアラバスター製大皿であった。しかしその帰り道、チュー川の渡し場に窯址を訪れる。瓦や瓶、壷の破片を採集する。黎朝期という説明であった。同じ場所で土器や印文陶が出土する文化層も発見された。この場所はトースアンからタインホアヘ戻る、チュー川の北岸、ハインフック社である。

 

8.ハティン省

デンフエン遺跡

 ゲアン省省都ヴィンの町の南にはラム川が流れ、この川を渡るともうハティン省ギスアン県である。ギスアン県役所にあいさつして、まず李・陳朝期に河口があったホイトンの廟周辺で踏査を始める。デンフエン遺跡はここからラム川の河口まで約7kmに渡る港市遺跡である。ここは11世紀から14世紀まで大越国の南都と呼ばれ、南部の行政・経済の中心であった場所である。ここでは新しいものしか表採できなかった。午後はデンフエンの現在の船着き場から川沿いに踏査を行う。かつて考古学院が発掘した地点からは、レンガ建築遺構が確認されたという。1時間半にわたり表採を続け、11世紀から19世紀までのベトナム、中国製の陶磁器を採集する。今回踏査した遺跡の中で40度と最も暑かったが、最多の資料を収集できた。

 ヴィンに帰って表採品の検討をする。11世紀末から12世紀初めの広東系白磁、蛇の目高台の青磁、そして龍泉の青磁は12世紀中頃以降・13世紀・14世紀と時代ごとに見られる。また枢府白磁も見られた。時代が下っていわゆる仙頭ものや印判手まである。ベトナム産はホアノウ片、黄釉・青釉、青花まで、これまで踏査した遺跡で見られたものがまとめて出てくる。しかし14世紀の鉄絵は見られなかった。

 

9.トゥアティンフエ省

 フエ城内の王宮博物館では,フエの港タインハの遺物を実見した。博物館は92年に1ケ所の試掘をタインハで行っている。遺物には14世紀の青磁(龍泉III類)や17、8世紀の中国陶磁の中に、17後半〜18世紀の肥前陶磁片を確認した。またベトナム白釉も多く出土しているのを確認した。タインハはフエの外港として広南阮氏から阮朝まで中国との交易で栄え、中部ベトナムを代表する国際的貿易港で、現在も古い街並み(14軒)や広東から来た中国人の刻文を残している。

 今一つわれわれに提示された遺物は,コンチェン窯址出土の陶器である。この窯はチャムの窯と呼ばれており、現在でも陶器が生産されている。堺でたくさん出土している長胴瓶(切溜花生)はこの窯で焼かれたもので、この瓶は博多、大阪、長崎でも出土している。また南蛮もののふたや石灰入れ壷、キセルの雁首なども、この窯で生産されたものである。

 3番目の遺物は、トゥアティンフエ省のサフィン文化期の甕棺とその中に納められていた土器の一括遺物である。いわゆる(ゴシフォン編年の)典型(後期)サフィン期にあたる遺物である。

 

フエ阮朝陵墓、王宮

 阮朝皇帝廟の見学では最初に啓定陵に向かった。廟内は陶磁器のモザイク飾られている。ヨーロッパ建築の様式を用いて建てられている。次に同慶帝陵。嗣徳陵では、中に入ろうとするとちょうどユネスコの視察でベトナムを訪れていたシリントン王女が出てくるところであった。40分待ってから中に入る。離宮と陵墓が一つの大きなコンプレックスとして築かれている。建築資材の透孔入り壁材や瓦は、黄・緑・灰青色の陶製で、これらは中国人陶工を連れてきて、トウ窯という窯で焼いたものという。

 王宮博物館の展示を見る。VOC銘のある大砲が前庭にある。阮氏は17世紀、オランダと結ぼうとしていたが、北部鄭氏と結ばれてしまったために、反オランダ連合の一員となって戦った。その時の戦利品ではないか。博物館の館長が明命陵のボヤさわぎで出かけてしまったため、収蔵庫は見れず、やむなく王宮内を見学する。午門を通り、大極殿の玉座を見てから、有名な鼎を見に行く。阮氏九代の皇帝を祀る霊廟の建物の前に鼎は置かれていた。翌日,収蔵庫を見せてもらうが,写真撮影は禁止。王宮に残された多くの陶磁器が収蔵されている。18〜19世紀のものが主だが、中には日本もの、初期柿右衛門色絵小瓶をはじめ伊万里、薩摩焼等がある。別の収蔵庫にはチャム石刻がある。

 

タインハ、博物館収蔵庫、ダナン

 タインハ遺跡へ向かう途中の道端には、螺鈿細工等の工芸品を作る家が並ぶ。遺跡は民家の裏手にある。その民家で出土品を見せてもらう。肥前と中国もの見せてもらう。さらに北、つまり海へ向かって歩く。天后宮(天后娘娘殿=馬祖廟)がある。ここから北にタインハの遺跡が展開する。かつて河口側にはベト族の城、化州城があった。天后宮の中で祭壇の陶磁器観察。雍正元年の銘のある香炉がある。建物はドイ・モイ以降、村人の手によって二年前に修復されたもの。天后宮から南へ戻る。この道はフエの市場までずっと華人街という。媽祖廟(女宮)の南に関帝廟(男宮)がある。福建出身の華人の町には必ずこの2つの廟がセットで建てられている。西の小道に入って遺跡を探す。畑の中から遺物が出土したという。民家の庭先に入って投げ出されている遺物を表採する。これらには堺、博多出土と同じものがあった。焼締の長胴瓶、弦文土器等。また伝世品にあるかぶせぶたなどの陶器類が肥前陶磁と一緒に見られる。

 タインハからの道を南にたどり、商店が並ぶバオヴィンの町で船に乗り、川を遡りながら遺跡を探す。ときどき川べりの土が露出していて、遺物包含状況が観察できる。役所に戻り、県副主席に報告する。荒磯文、日の字鳳凰文などの伊万里(肥前)の出土率が高いこと、茶の湯に使われる南蛮ものが多いことなどをの踏査成果を報告する。

 

10.ダナン省

チャム美術館

 チャム美術館では館員のチャンキーフォンさんに館内を案内してもらう。チャンパ王国は2世紀頃、中部ベトナム各地のチャム人勢力の連合体として成立した。なかでも勢力の強い国が現在のダナンにあり、7〜10世紀に栄えたアマラウ゛ァティー国で、王はチャンパの諸王の中の王(ラージャ・ディ・ラージャ)であった。この地は交易上重要な地に位置し、ホイアンはチャンパ全体で一番大きな港であった。ホイアンで海に注ぐトゥボン川は、中部ベトナムで最も大きな川で、山地民との交易路や農業生産に重要な役割を担っていた。都であったチャキュウや聖地ミソンには、陶磁を物語るインド風の建築が残されている。この美術館の遺物の3分の2がアマラバティー期のものである。11世紀始めから南のビンディン省クイニョン郊外にあったヴィジャヤが、チャンパの中心となる。12ー13世紀のチャム建築はクイニョンに集中しているが、ミソンやチャキュウにも13世紀までの建築物ある。

 チャム美術はヒンドゥー教や仏教の影響を受けて発展した。4世紀末のミソンの碑文から、この時期にすでにヒンドゥー教が到来していたことは明らかである。仏教についてははっきりした資料はないが、AD0年前後には到来ていた可能性が高い。美術様式の変遷も宗教の盛衰とともに変化の道をたどっている。すなはち7世紀は上座部(小乗)仏教美術の最後の時期で、8世紀になると大乗仏教美術が隆盛となり、9世紀後半から再びアマラヴァティーがチャンパの中心となって、10世紀以降からヒンドゥー美術が中心となる。

 チャム美術館の展示室は3つに別れ、年代順にチャンパ王国の美術史の流れが掴めるようになっている。展示室の左部屋は7〜8世紀の展示である。まずミソンA1様式と呼ばれるA1中央祠堂は8世紀後半属す。ドンソン的要素、モン族のドヴァラヴァティー様式、北インドのコーチトブッダ様式がアマラヴァティーとの交流によって混合していると言われる。続いてミソンA4様式。3番目に7世紀末の馬の像は、クアンチ省にあったもので、唐の影響が見られる。次はリンガの祭壇で、7世紀末から8世紀にかけてのもので、チャキュウ様式と呼ばれるものである。

 中央の部屋は、9〜10世紀の展示室で、ドンズオンの密教の影響を受けたシャカ出家像がまず展示されている。台座にはシャカの一代記が彫られている。次にジャワヒンドゥー様式の影響(中部ジャワ、ディエン高原の寺院との関連性)を受けたとされる10世紀後半の像で、チャキュウにあったものである。

 右の部屋は、ヴィジャヤ(クイニョン)期のものが展示されている。乳房の台座とリンガはウロージャの神を奉ったもの。ウロージャはチャンパの始祖とされ、ジャライ、エデ族もこの神を奉っている。次にラクシュミーとヴィシュヌ神像や、窯址ゴサイン近くで出土した14世紀のシヴァ神像が見られる。またクメール様式、ベト族の影響を受けたとされる神像もある。

 さらにこの部屋にはニャチャン(カウターラ)、ファンラン(パーンドランガ)の石像も展示され、最後に17世紀のファンランにある神殿ポーロメの説明で終わる。

 17世紀頃にはチャム人のイスラム化が進んでいるが、イスラム教の影響を受けたチャム建築は残っていない。この時期ヒンドゥー教は王の宗教であったが、人民や商人はイスラムへと改宗が進む。現在トンレサップ、コンポンチャムなどに住むチャム人は、ほとんどが原理主義の洗礼を受けたイスラム教を信奉しているが、ファンランのなどチャム人は原理主義運動以前のイスラム教を信仰する。

 

タインクイット遺跡

 約2時間、圧倒的な量感をもつ石像群を見た後、美術館をあとにしてホイアンに向かう。途中、タインクィット遺跡に寄る。15、6世紀の遺跡と言う。チャムの土器(一部施釉)が出る居住遺跡という。カンナムダナン省博物館に遺物があるので、帰路立ち寄る予定。2xmのテストピット入れ、1mの厚さの文化層が見られたという。

 

ホイアン、チュンホン遺跡

 市場を抜けてトゥボン川辺の船着き場から乗船し、トゥボン川河口のチュンホン遺跡に向かう。途中、目を舳先に持つ、かつてのゲバウ船の流れをくむ帆船をたくさん見て感激する。ゲバウの目は前を見てる。河口近くに船作り専門の村があるという。見渡す限りに四つ手網がしかけられている。多くの流れが錯綜して本流に集まり、流れの間に中州がたくさん形成されている。ここではマングローブがほとんど発達していない。「消えたココ川」について書いた小倉さんの本を思い出す。かつてダナンとホイアンの間を結ぶ船の交通路として利用されていたココ川は、現在土砂に埋もれてしまった。ココ川に沿って点々と井戸址があるという。ホイアンが栄えた理由の一つに、広東へ向かう海流に乗るとここから一直線で運んでくれるということがあげられる。これまで貿易陶磁のネットワークを探してわれわれが歩いてきた、マレー海のティオマン島→メコンデルタ沖のコンダウ島(プロコンドール)→ホイアン沖のクーラオチャム、そして広東へ向かう海上ルートが浮かび上がってくる。

 チュン・フォンの村に着き、川辺から南にのびる村のメインストリートを歩く。東に海、西に砂丘がひろがる。道沿いに50m間隔で小倉さんが踏査した井戸が続いている。砂丘の裏の低地には現在水田が作られているが、かつてはバックウオーターが広がり、チュンフォンの船着き場であったという。水田の畦道を通って、西方向の砂丘に真新しい寺が建てられている。畦道の途中にも古い井戸がある。寺の前には墓地が広がっている。清涼寺という名をもつこの寺は、2年前に再建されたものという。砂丘から水田、そして寺までの間で陶磁器片が採集可能である。伊万里片も確認された。しかし寺の裏側(実は正面)では遺物散布見られなかった。多くの陶磁片を採集してホイアンに帰る。

 ホイアンの町の市場と保存事務所の途中に明郷仏寺という中国寺があり、ここが資料館になっている。以前は関帝廟であったという。五珠銭と共に出土したサフィン文化の甕棺と副葬品が展示されていた。保存事務所では、ハノイ大学のチャンクォックウ゛ォンが調査したアンボン遺跡出土のサフィン文化の土器や伊万里の荒磯文皿や南蛮ものなどを収蔵庫から出して見せてもらう。

 

クーラオチャム島

 この島は2つの山からなっている。北山は325m、南山は517mの標高をもつ。ほぼティオマン島と同じ高さである。河口北側にある沿岸警備隊に島へ行く旨申告する。人々が船へ群がり、乗れる人もいれば、追い返される人もいる。約1時間半で島の港に着く。クーラオチャムの西側には2つの小島があり、これらとクーラオチャムの東側の断崖では海燕巣が採れるという。浜をあがってまず警備隊、そして村役場へ挨拶の後、まず島の北側にある寺、海蔵寺へ行く。海を望む位置に観音像が新しく再建されている。浜辺の集落に戻り、馬淵将軍廟(伏波廟)、ついでもうひとつの廟(揚家尊賢所?)へ。ここでまず長沙、ついでイスラム青釉陶器、越州青磁片を採集する。さらに浜の北の端から役場の北側へ出る。ここの民家で青花碗等を見せてもらう。この家の回りで荊州白磁、長沙片採集する。短時間で大きな成果を得ることができた。初期貿易陶磁をセットで採集することができた。昼食後島を離れ、4時ホイアン着。

 保存事務所に戻って収蔵品のタインチエン発見の遺物を見る。伊万里(肥前陶磁)片があるが、これまで見たものの他に、徳利や芙蓉手(長七谷、印版手赤絵1660〜80年)もある。縄簾花生も出土したとのことであった。またアンバン遺跡から出土した双頭獣面耳飾も見ることができた。

 

ミソン、チャキュウ遺跡

 チャンパの都チャキュウ、聖地ミソンへ向かう。まずチャキュウを通り過ぎ、ミソンへ通じる川の渡し場に着く。いかだで向岸へ渡り、そこから40分歩いてミソン遺跡群のグループCにたどり着く。まわりは山に囲まれ、チャキュウさらに海の方向に谷が広がっている。ミソンではニン先生に説明をお願いする。ミソンの祠堂群の建設は4世紀から始まるが、現残しているのは8〜13世紀に建てられたものである。C地区は10世紀、A1様式の建築で、ミソンの中期から後期への移行期にあたる。C地区の中には7世紀のサンスクリット碑文、9、10世紀のサンスクリット碑文や11世紀のチャム碑文もある。Cの裏手A地区の建築群がある。これらは10世紀後半に属し、A1様式の標識遺構であるが、残念なことにA1祠堂は、ベトナム戦争当時爆撃で破壊された。現在では写真か極東学院の図面でしか窺い知ることができない。さらに左手の小高い所にG、E地区と続く。E1祠堂は8世紀に属す古いである。ここでも爆撃の跡が4カ所生々しいクレーターとなっている。

 ミソンでの踏査を終えて、チャキュウ教会へ行く。アントン神父コレクションとして有名な遺物を見る。越州青磁、荊州白磁、長沙銅官窯、イスラム青釉陶器の4点セットがある。またチャンパ土器や瓦の資料が多く見られた。越III類:北宋前半(10〜11世紀)、唐末・五代の越I類、広州西村窯(11〜12世紀)、イスラム青釉陶器、耀州窯(11世紀)、鶏頭壼の頭、方形釉切ある青磁(いわゆる星形無釉文)、14世紀の龍泉青磁、清代の青花、ベトナム陶磁、目アトのある白磁鉢などを写真で記録する。

 写真撮りを任せて、グラバーの発掘現場を訪れる。ここはチャキュウを一望できる丘の裾にあたる場所で、3x3mトレンチを深さ2,7mまで掘ってた。グラバーの説明では、彼のタイでの発掘調査では出土しなかった3、4世紀のインドの黒色土器が出土した。これはジャワ・バリでも出ているものだという。丘の上は教会のチャペルになっていて、マリア像がある。360度一望できる。西にミソン外周山、北には五行山、クーラオチャムが見える。グローバーの宿舎で出土品を見せてもらう。グラバーにお礼を言って別れ、ダナンに帰る。

 

ダナン博物館

 ダナン博館長の展示および収蔵品を見せてもらう。山岳少数民族の展示では、まるでフィリピンの山岳民族イフガオやボントックを思い浮かばせる。舟形木棺の形、水牛の棺、棺のトカゲの彫刻はそっくり。収蔵庫のケースにサフィンの耳飾等の遺物が並べられているが、出土地明確ではない。タインクィット遺跡の陶磁器には、10世紀の白磁や青磁、南安タイプの白磁合子、青白磁皿、海日州系碗、II類白磁広口縁、越州窯系青磁I,II類、龍泉窯系の連弁碗や14世紀前半の碗・盤、他に陶器類があった。

 

11.ビン・ディン(Binh dinh)省 

 ビン・ディン省博物館でまずチャンパ古窯址群の調査概要について、考古学院のフン氏、ビン・ディン省博物館のホア氏より説明をしていただく。それによると、これまで窯址として確認されている遺跡は、ゴサイン(Go Sanh)、カイメ(Cay Me)、ゴホイ(Go Hoi)の3ヶ所で、いずれもクイニョンの西方、1471年にベトナム人によって破壊されたチャンパのかつての都ビジャヤ(Vijaya) の周囲に分布している。省博物館所蔵の出土遺物を実見した後、窯址に向かう。

 

  ゴサインはアンニョン (An Nhon)県、ナンホア (Nhan Hoa) 村の一集落で、この地域を東に流れ、クイニョン湾に注ぐコン (Cong) 川の南岸に位置している。周囲を水田に囲まれた浮島集落で、5ヶ所の窯址が確認されている。各窯址には壁体の残存、製品の破片、サヤ等の窯道具が検出される。ここでは褐釉の壺片等が表面採集された。

 

 カイメはタイソン(Tay Son)県、ナンミイ (Nhan My)村の一集落で、コン川の北岸に位置する。この川岸には、地表面下 1.5mにわたって製品の破片が堆積している。また川辺でも大量の破片が散布しており、製品の積み出しに川が使われていたことを物語っている。川岸周辺には水田中に窯体の残存が散見できる。カイメでは灰釉陶器、鉄絵皿の重ね焼未製品が採集できた。

 

 ゴホイはタイソン県、タイビン(Tay Vinh) 村の一集落で、古窯址一基が、径50m程の水田に囲まれた浮島に残存している。窯址は長さ5m、幅2m程の窯体を残している。また、この周囲には長さ1m前後の盗掘を受けた墓壙が数十基みられ、この墓からのものと考えられる中国陶磁片が散布していた。

 以上3ヶ所の古窯址を踏査した後、チャンパのビジャヤ城址へ向かう。1471年に破壊された後、この城は黎朝期に広南阮氏がクイニョン城として使っていた。しかし18世紀の末、西山(タイソン)の乱の時、さらに破壊された歴史をもつ城址である。ビジャヤ城の面影を残すものは、レンガづくりの塔と、城門跡に残る一対の象の石像、城壁の土塁の一部のみである。城内はいたるところキャッサバなどの畑になっており、畑仕事で堀かえされた土器、陶磁器片が散布していた。

 

チュオンクー

 窯へ向かって水田の中を歩いていくと,集落のはずれに大きなものはら(Site I)があるが、ほとんど削平されてしまったという。すぐ裏手(北方)にコン川が流れている。サガー、龍泉窯系I類風の高台をもち、目アトが5つの青磁碗、褐釉有耳壷、無釉陶器、褐釉瓦、焼き締め等を採集する。サガーにいろんなサイズがある。網代痕のある蓋(サヤのぼうし)も採集する。また粘土の壁体が2ケ所に見られる。次にコン川の高さ約3mの河岸段丘断面にも窯遺構が見られる(SiteII)。地表面下50cmのところに粘土の窯床面が長さ約3m見られる。蛇の目の釉かき碗が多い

 昼食後さらに川沿いに踏査する。Site IIの東約100mの地点に2ケ所の落ち込みが見られ、地表面下40cmに粘土壁体と灰の層が50cmの厚さで見られる。釉カキのある青磁碗、青釉瓦頭を採集する。そこからからさらに東へ100mの地点にも、地表面下2mに遺物が集中していた。窯壁は無く、釉カキ灰色碗、大型碗、褐釉壷、レンガ等を採集する。やはり川沿いにタイン・チャーというチャンパ期の城壁址が残っている。年代は12世紀前後と考えられている。

 

ゴサイン2,3号窯の発掘

 われわれは発掘地点としてゴサイン2号窯を選定した。その理由は、1号窯址の下からさらに窯が発見されており、今後の精査によっては相対的時期差がとらえられる可能性が高いためである。さらに下の窯の築かれている面よりもさらに下の層から土器群が出土しており、3段階の遺物の時期差が確認された。

 発掘調査を前に文化情報局で,考古学院が調査した1、2号窯の発掘ビデオを見ながら、窯構造についての検討を行った。1号窯は2枚の床面が検出され、両側の窯壁も残りが良好である。2枚の床の高低差は約30センチ。天井部と考えられる赤く焼けた粘土の破片が床面に崩落している。壁はサガーを芯として粘土で築かれている。遺物は2つの床面上それぞれから青磁碗、四耳壷、緑釉平瓦、軒先瓦などが見られる2号窯は上下2つの窯が重なりあっている。上の窯はサガーの壁体、下は粘土壁体である。遺物は青磁から焼き締めの瓦まで見られた。

 ビデオを見て全員で協議する。青磁と焼きしめ瓦はチャンパの遺跡で見られる。窯の年代を15世紀頃とすると、明の海禁と関連して輸出用に作られた可能性がある。これからの発掘については、この地域初の国際共同発掘であること、1号窯は現在屋根をかけて保存、2号窯は埋め戻されている。ゴサインにはこの他確実なものが6基、伝聞も含めると15基存在する。古窯址はこの周辺に4ケ所、ゴサイン、カイメ、ゴトイ、チュオンクーがある。

 その後,ゴサイン村へ向かった。まず2号窯は長軸が東西方向で、焚き口と煙道は出ていない。トゥオンさんの解釈では東に炊き口、西に煙道があるという。1号窯は東西を長軸とし、東に炊き口、西に煙道がある。サガーの壁体が最高で1.5m残存する。2枚の床面。煙道もサガーを利用する。南側には分炎柱がある。集落の中を踏査しながら、発掘する窯を選定する。限られた時間内で調査を完了するため、2号窯を発掘継続することに決定する。さっそく埋め戻した現状から前回の発掘終了時点の状態に戻し、明日から発掘を開始することになった。

 発掘はまず,昨年の考古学院の調査後,埋め戻した土を掘り出す作業から開始する。その間に測量の原点を5点設定する。埋め戻しの土を取り除いた後、窯が乗っている層に入れたトレンチから無文土器が多量に出土した。窯が築かれる以前の時期の遺物となる。また2つの窯は同じ長軸上に、上下重なった状態検出されている。上の窯はサガーの壁体、下は南側だけが粘土の壁体である。炊き口も2ケ所見られる。

 翌日,ゴサイン2、3号窯址の写真撮影を行った。撮影終了後、窯の中心線を基準線として、他の3点の基準点の角度・距離を読む。測点設定後、発掘作業を再開する。午後からは平面、立面、セクション図(東面)を作成する。

 その後,上の窯の床面から下の窯の床面までトレンチを入れる。上の窯の南壁の下をトンネル状に掘って下の窯の壁を確認する。下の窯の床面を確認し、下の窯に伴うサガーを確認する。

 調査終了日,発掘班は残りのセクション、平面・立面図を取り、写真撮影を行う。撤収作業を終え、3時に文化局での報告会に合流する。踏査班は遺物整理作業。碗・皿など、器形の推移をたどれるものを中心に借り出し遺物を選別する。

  

 ゴサイン窯址群の2・3号窯の発掘調査は94年にも継続され、調査区を拡張して2号窯焚口の検出、3号窯の構造確認、そして付帯施設の検出をおこなった。出土遺物は前年同様、多数の青磁碗A(底部内面を環状に釉を掻いたもの)及びB(底部内面に目跡をもの)、青磁鍔皿、多種の褐釉陶器と無釉陶器、サヤ・トチの窯道具を検出したほか、新たにチャム様式の素焼き建築用装飾品と短冊状の平瓦の出土が特記される。青磁碗A、Bは、これまでベトナム国外では産地不明品とされていたが、ゴサイン窯の調査でこれらは貿易陶磁として広く東南アジア、エジプトに輸出されていることが判明した。またゴサイン窯の年代については現在のところ14世紀後半以降と考えている。これがどのくらいまで下って生産されていたものかは今後の課題である。 

 

12. フーイェン省

 フーイェン省の省都トゥイホア所在のフーイェン省博物館を訪問し、館長より遺跡の調査状況について説明を受ける。それによると陶器窯址3カ所、チャンパ関係遺跡8カ所、サフィン関係遺跡5カ所が確認されているという。説明の後、トゥイホアの北30kmに位置するクワンドゥック村へ向かう。村はカイ川の南側に位置する。河口までは10kmの地点にあたる。川に面した畑の中一面、約50mの長さにわたってランプなどの土器片、無釉陶器・黒釉陶器片と中国製青花片が周密に散布している。製品とともに窯道具も散布している。中国陶磁はいずれも17〜18世紀のものである。岡の斜面に作られた集落の中には3基の窯址を見ることができた。民家の裏に残る窯址も、現在では煙道部の痕跡を留めているにすぎない。民家の主人の話によると、広東から移住してきた祖父が窯を開き、1952年まで水瓶、壷、井戸枠などを焼いていたという。

 もう一つの窯址はトゥイホアから西へ15km程の、バ川に面した岡の斜面に位置するミータインタイ遺跡である。ここでは2基の窯址を確認した。表採資料には土器製ランプ・蓋、無釉陶器・黒釉陶器、窯道具など、クワンドゥック遺跡と同様の遺物が採集された。

 フーイェン省の2つの古窯址では類似した製品を焼いており、その年代はクワンドゥック遺跡で採集された中国陶磁器から、17、18世紀に属するものと考えられる。ただ村人の話のように今世紀半ばまで生産されていたものが最終品とどのような関係にあるのかは定かではない。だだしその村に広東から陶工が今世紀に入ってからも移住していた事実は興味深い。また両遺跡から採集された黒釉陶器の表面には二枚貝のかけらが付着していた。このことを先ほどの村人に尋ねると、大物の中にこのもを入れて焼く時、貝殻を入れておくと、貝が釉薬の役目をするとのことであったが、貝が溶けるるほど高温が出せるとは思えない。しかし貝殻付着黒釉陶器は興味ある製品である。

 

13. カインホア省

 フーイェン省を後にしてニャチャンへ向かって国道1号線を南に下ると、すぐにカインホア省との境にあたる峠にさしかかる。峠には山頂からタケノコが生え出たような、ダービアと呼ばれる岩山がそびえている。1471年、黎朝太宗によってヴィジャヤの都が陥落した。太宗はチャンパと大越国との境界をこのダービアに定め、昇竜(現在のハノイ)に凱旋する。ダービアはまた戦場へ赴いた夫の帰りを待つ妻の似姿とも言われている。

 ダービアの峠から車で2時間、カインホア省都ニャチャンに到着する。ニャチャン市内、カイ川の河口北岸の岡の上には9世紀から12世紀までに建立された祠堂のコンプレックスであるポーナガールの遺跡がそびえ、ニャチャンの港を見下ろしている。

 カインホア省博物館で考古学調査の概要について説明を受ける。陶磁器関係の遺跡はニャチャンの街の正面に浮かぶホンチェ島で確認されている。チャンパ関係ではポーナガールの他に2カ所の塔が知られている。サフィン遺跡は省内に10カ所あり、カムラン県所在のサフィン前期に属するソムコン遺跡が報告されている。カインホアのサフィン文化の特徴は、夜行貝の蓋を素材としたスクレーパー等の貝器、赤彩文土器があり、双獣頭耳飾・リングリングオーがない点であるという。

 博物館の展示を見学後、ポーナガールへ向かう。祠堂が立つ岡の裾には一対の列柱が立ち並ぶ。列柱はレンガづくり、径1m程の円柱で、丘の上にそびえる中央祠堂正面に位置し、岡を上るために幅の狭い急階段がやはりレンガで築かれている。中央祠堂の中には現在観音像が据えられているが、かつてはシバ像であったものを、頭をすげ替え、多くの参拝者を受け入れている。祠堂内は参拝者の供える香の煙で黒ずんでいる。中央祠堂の他に2つの祠堂が付帯している。いずれの祠堂もかなり修復されている。

 ホンチェ島の踏査はバオダイの離宮がそびえる岡の下にある港から出発した。島の南側で船を下り、サフィン期のビクダム貝塚へ向かう。海辺から100m、標高10mの砂地に立地してる。省博はこの貝塚で3カ所合計100平米の発掘調査をしている。発掘トレンチでは深さ1mの貝層断面が観察でき、貝層中に赤色スリップ沈線文土器や縄席文土器、殻頂部に穴が開けられた二枚貝等が採集できた。

 島の西側中央部の湾内にダンバイ遺跡は位置する。干潮時にも波が迫る岸辺に、土器片、無釉陶器片、中国製青花片、そして興味深いことに窯道具であるサヤ・トチが採集された。中国陶磁器は16世紀末の景徳鎮製青花、17、18世紀の福建・広東産の青花である。無釉の陶器の中には肩部に平行および波状沈線文がある。窯道具の存在は背後の岡に古窯址がある可能性を示唆している。

 島の北側の湾内、マングローブの奥の砂丘上にサフィン後期からチャンパ期にかけての貝塚、ダムザー遺跡がある。ここでは土器片から14世紀の中国製青磁片、その後の青花片まで採集されている。

 カムラン湾内に突き出た砂州に位置するソムコン貝塚は現在集落内に広がっており、3000平米の規模をもつ。ここでも省博は3カ所のトレンチを入れ、100平米の発掘調査を行っている。断面観察では周密な貝の堆積が見られた。甕棺の出土は無いとのことなので、集落域を発掘したものであろう。遺跡は砂州の先端であるので、有名な軍港カムラン湾での写真撮影は非常に困難であった。

 

14. ニントゥアン省

 カムラン湾でカインホア省博物館の人々と別れると、すぐにニントゥアン省に入る。省都ファンランにはチャム教育センターが設けられている。考古学の専門家はいないが、最近開館された資料館が付設されている。センターが確認している遺跡は、サフィン関係が1カ所、1980年にホーチミン社会科学院が発掘調査したホンドー遺跡で、ファンランの前面の湾の北側の突端に位置している。チャンパ遺跡では、ポークロングライ(13世紀)、ホアライ(9世紀)、ポーロメ(17世紀)の塔の他に、碑文や石柱などが出土する遺跡が5カ所あるとのことである。陶磁器関係の遺跡は確認されていないとのことであった。

 説明後、ポークロングライのチャムタワーへ向かう。ファンランから南へ約5km、標高約50mの海を遠望する独立丘陵の上に3つの祠堂のコンプレックスである。1981年から83年にかけてポーランドが修復を行っている。

 翌日はファンランの南西、ニンフック県ビントゥアン村(チャム語でプレイハムト)へ向かう。この村はチャム人の村で、土器づくりを現在でも行っている。現在の村は、もともと川沿いにあった村が洪水で壊滅したため、1964年に移動してきて作った新しいむらである。またこの村には415家族、約2000人が住んでおり、すべてヒンドゥー教徒である。生業は水田耕作が中心で、副業としての土器づくりは現在、約200家族が行っている。土器づくりは女性の仕事である。チャム族は母系制社会であるため、女性は結婚後も村にとどまる。そのため、土器製作の技術伝統は血縁の女系を通じて村内で受け継がれていく。土器制作の詳細については,田中氏の報告を参照されたい。

 チャム人の村で、ここの他に土器を作っているのは、省南部のファンヒエップ村に見られるとのことである。しかしファンヒエップ村の土器製作は自給のためであり、ここのように売りには行かない。 午後、ファンランの北、国道1号線ぞいのチャムタワー、9世紀に建てられたホアライの塔へ向かう。国道のすぐそばに3つの塔がそびえ立っている。中央の塔は現在基壇のみが残存している。ファンラン地域は「環王」の名で8、9世紀の中国史料に現れる。チャム語ではパンドランガと呼ばれ、現在この位置については2つの候補地がある。

 

15. ビントゥアン省

 ファンランを出発するとすぐに、風景は岩山と疎らな集落へと変わってしまう。非常に乾燥した地域のようだ。国道沿いのチャム人の村でお祭りの準備をしていた。女の人の衣装は普段でもアラブのガラビーヤのような裾の長いワンピースなので、ベト(キン)族の服装とは異なっており、遠目でも区別できる。水のない荒れ地に岩山という景観がこのあたりの特徴である。水田には水牛よりもコブ牛が目立って見られるようになった。ベトナム戦争終結以前、この地域に日本の戦時賠償で潅漑施設の整備を行う計画があったが、それも戦争後、取りやめになった過去の経緯がある。疎らに見えれ家々の庭先には、ソンベ省のライティウの街で作られる大きな甕に水を溜めている光景が見られる。ビントゥアン省都ファンティエット着後、文化局で調査状況についての説明を受ける。展示室を持つ博物館や専従の考古学者はいない。説明は多くの遺跡の情報を含んでいるので、以下遺跡別にその内容を述べる。

 1.サフィン関係:5遺跡

a.ホンタイ遺跡:バックタイン県、甕棺墓、アッズ出土。

b.マーラム遺跡:ハムトゥアンバック県、甕棺墓、アッズ出土。同時にチャンパ期の遺構あり。また付近には現在でもチャム人の村あり。

c.ドンバーホエ遺跡:ハムドゥック村、砂丘上の遺跡、1982年ホーチミン歴史博物館が発掘:青銅戈・斧・槍先、バーククロスビーター、鉄斧、ケツ状耳飾り、ビーズ、石製腕輪、紡錘車出土。

d.ダーカイ遺跡:ドゥックリン県、ドンナイ省との境に位置する。石琴・アッズ・石製腕輪出土。

e.ムイネー遺跡:ファンティエット市外チャンパの文化層の下にサフィンの文化層がある。

 2.チャンパ関係:5つの塔

a.ポーダム8〜9c、トゥイフォン県所在。

b.ザーレー、ハムトゥアンバック県所在。

c.ホンリエム、ハムトゥアンバック県所在。

d.ハムタン、基壇のみ、ハムトゥアンバック県所在。

e.ポサヌー、8〜9c、ファンティエット市外、保存状態良好。

 その他の情報として、ビントゥアン省には現在、チャム人の土器づくり村はない。またチャンパ期の石碑の出土も知られていない。

 3.陶磁器関係:古窯址は未確認

 ファンランのホアライの塔付近発見の中国陶磁器の資料があり、12c後半龍泉窯系青磁と判明した。ファンティエットにファンランの資料があるのは、1991年までビントゥアン、ニントゥアン両省はトゥアンハイ省として統合されていたためである。

 文化局付設の収蔵庫の遺物には、ドンバーホエ、ダーカイ、マーラム、ホンタイ遺跡の出土遺物、ドックリン県出土の小壷、ファンティエット市内出土の黒釉および青磁の四耳壷、ポサヌーのレンガ・土器(薄く釉がかかっている)、ホーチミンがかつて教えていた学校のかべの芯に使われていた陶器小壷等が見られた。

 その後、ズックタインというホーチミンが教えた学校を見学する。若き日のホーチミンの事跡として、資料館となって保存されている。文化局収蔵庫で見たように、壁の漆喰の中に陶器の小壷を埋め込んで芯として使っている。これらの小壷はかつてヌックマムの容器として使われていたものだが、20世紀の初め、ガラス瓶に変わった時点で使用されなくなり、大量に打ち捨てられていたものを再利用したのではないかという説明を受ける。

 翌日は国道1号を北へ向かいドンバーホエ遺跡を踏査する。国道1号線をはさんでその両側に位置する砂丘上の遺跡である。パルマンティエによりすでに1945年以前には知られていた。ヤンセもここを訪れているという。国道はかつて砂丘の西側を迂回していたが、1968年にアメリカ軍が真っ直ぐに通したもの。その時、甕棺等の遺物が多数出土している。遺跡の存続期間はサフィン期の前・中・後すべてにわたっている。その後、Asian Perspectives1974にも報告されている。解放後はビントゥアン文化局が79、82年に踏査し、83年に発掘調査を行っている。かつて海側(東)の砂丘にはアメリカ軍陣地があったので、軍の不発弾処理班といっしょに発掘したという。2週間で2つのトレンチ(計200u)を入れ、1,5mから2m深度の文化層が確認されている。現在でも出土遺物が多いので、銅戈などは盗掘されて売り飛ばされてしまうという。遺跡の現存規模は1万uほどと推定される。現在、国道の西側は水田、東側は人家が国道沿いに並んでいる。海側の砂丘では砂採取場があり、急速に遺跡破壊が進んでいる。砂丘を踏査すると、現地表面から約2mの深さまで甕棺が埋納されているのが観察できる。砂丘上には土器等の遺物が周密に散布している。同時に銃弾も多数見られる。

 ポサヌーの塔はファンティエットの町の入江の北側の丘の上に建てられ、3つの塔で構成されている。この塔はチャンパの女王ポサヌーの名に由来しており、8〜9世紀に建立されたものとされている。1960、70、82年にかけて修復作業が行われ、特に風雨に脆い基壇の部分に修復箇所が集中している。かつてはここでチャム人がお祭りを続けていたが、75年以降はあまり行われなくなったとのことである。塔に隣接するかたちで仏教寺院がある。この寺に保存されているポサヌーの遺物の中に陶磁器があった。それらには褐釉小壷、青白磁、徳化系白磁の底部がある。これらはいずれも13、14世紀の福建産陶磁器であった。

 

16. バーリアヴンタオ省

 ファンティエットをあとにして、国道1号線をさらに下る。すぐにドンナイ省に入り、山に向かって走る。ドンナイ省の真ん中スワンロックから1号線をはずれ、南のヴンタオへと向かう。途中、ドンナイ文化期のハンゴン遺跡に立ち寄る。この遺跡は20世紀の始め国道の工事中に発見された。現在、1992年にドンナイ省が遺跡公園として整備して公開されている。3段のテラスを築き、底面に花崗岩の組立式石室を持つ構造。テラス上には長さ5、6mの楕円筒状に加工した有肩石斧形の石が配されている。底面の石室は上下、側面あわせて5枚の石板で組まれている。側面一枚は取り除かれているがかつては存在した。上下の石板には側壁がはまるようにホゾが切ってある。副葬品として記録されているものは石斧のみ。ルーフ、マレット、ソーラン等の調査報告があるという。年代は初期鉄器時代に比定されている。遺跡の立地は高地と低地の境目にあたり、まわりは広大なゴム園が営まれている。

 バーリアヴンタオ省に入ると、いままでとは景観が打って変わる。海辺のマングローブが広がっている。しかしマングローブもいまでは埋め立ての土砂を運ぶトラックが行き交い、不動産屋が掲げた工業団地分譲の看板が立っている。丘の上にはアメリカ軍が残した巨大なパラボラが見える。新築コンクリート5階建ての高校は、石油景気で湧いている町を印象づけている。海辺のリゾートと石油開発基地として好況に湧いている姿がある。

 省博物館はかつてのフランス総督、そしてバオダイの別荘であった。タン館長の説明を受ける。省博は5年前に開設され遺物の管理を主に行っている。初期鉄器時代に属するブンバック遺跡はサフィン文化、ドンナイ文化いずれに属するかは論議が分かれるが、鍬状の木器、斧の陶版、腕輪製作過程の遺物、そして土器資料が多数出土しているとのことであった。

 バーリアブンタウ省に属するコンダウ島、かつてのプロコンドール島の調査からは土器、陶磁器の資料が得られている。また3艘の沈船から多量の陶磁器が引き上げられている。展示室には1690年にコンダウの一つの島、ホンカウ島付近に沈んだ船から引き上げられた大量の中国・景徳鎮製青花が陳列されている。これらはヨーロッパからの注文品で、いわゆるヴンタオカーゴの名で知られたコレクションである。また当時、船上で使われていた、あるいは交易品であったさまざまな生活用具も貴重な資料である。

 地下収蔵庫にも沈船の資料が多量に収蔵されている。1690年に沈没したヴンタオカーゴの、中国製青花を中心とする資料は収蔵庫のスペースの大半を占めている。その他、ミンマン帝時代のコインが出てきた1820年代の沈船出土の四耳壷と皿状の蓋は、クワンドゥック古窯址の製品と考えられる。四耳壷の中には米・銭が入っていたという。また1525年の沈没船出土の中国製青花大碗と青銅の大砲がある。この他、1973年池を掘っていて発見されたというドンソンT式銅鼓が1点とチャムの墓から出土の石灰入り素焼き小壷が大量に収蔵されている。

 省の博物館とは別に、コンダウ島についての資料館がヴンタオの町の寺に付設されている。写真パネルを中心に、フランスからアメリカ時代の政治犯の収容所の様子を描いている。

 

17. コンダウ島

 ヴンタオの南に浮かぶ大小16の島からなるコンダウ諸島はフランス統治時代から1975年まで政治犯の流刑地として使用されていた。18世紀始めにはイギリスが砦を築き、さらに遡って初期陶磁貿易の寄港地としても利用されていたと考えられる。以上の点を考古学的に確認すべく、コンダウ諸島最大のコンソン島で踏査を開始した。その結果、コンソン港の西側で大量の17世紀末から18世紀始めの景徳鎮青花が採集され、イギリスの倉庫であった可能性が示唆される。またここで1点ではあるが9世紀頃のイスラム陶器も採集された。さらに島の西側、ベンダム港からは9、10世紀の越州窯系青磁碗片、粗製白磁片が採集された。昨年のクーラオチャムに続き、今回のコンダウ島での初期貿易陶磁の発見で、東西交易ルートの結節点をまた新たに確認することができた。

 またこれに遡るドンナイ文化、オケオ文化期の遺物を産するハンズー遺跡踏査により、貿易陶磁以前の海上交易ネットワークの存在を実証する貴重な資料が得られた。

 

18. ホーチミン社会科学院

 考古学センター発掘のダイラン遺跡出土資料の予備調査

 ベトナム中南部山岳地帯のラムドン省南部に位置するダイラン遺跡では、ホーチミン市社会科学院が13基のマウンド状墳墓の発掘調査を行い、千点以上に及ぶ陶磁器を副葬品として検出している。それらには14〜16世紀までのベトナム北部陶磁、中部ビンディン系陶磁、そして中国陶磁と多彩な共伴関係が見られる。これらの墳墓は現在、遺跡周辺に生活するマ族あるいはムノン族の墓と考えられている。出土陶磁器の共伴関係は、ベトナム陶磁の編年と国内での消費のあり方を知る上で貴重な資料である。特にビンディン系陶磁の位置づけを明確にするには重要な資料であるため、われわれ調査団は95年春に現地調査を予定している。

 ホーチミン市ではこの他、歴史博物館が最近実施しているドンナイ文化期遺跡の発掘調査についての情報を得ることができた。これらの遺跡はホーチミン市南部の南シナ海に面したデルタに立地する甕棺墓群で、BC500年〜AD0年に位置づけられている。甕棺に副葬されていた耳飾りは、サフィン文化との関係を示唆するが、金製品の出土は独自の様相を示している。また海を隔てたフィリピン、パラワン島タボン洞穴群の甕棺墓およびその副葬品と深く関連していることが確認され、紀元前にまで遡って交易ネットワークが存在したことが明らかとなった。

 さらにその後のベトナム中部地域における初期チャンパ文化期に併行する、南部デルタ地帯に展開したオケオ文化の遺跡・遺構について、基礎的な情報を得ることができた。これまで中部諸省において、サフィン文化とチャンパの関係についての基礎的資料を見てきたが、南部デルタ地域に入ると、新たにドンナイ文化とオケオ文化との関係、さらに下ってプレアンコール期についても考慮しなくてはならなくなった。当面は、極めて図式的であるが、サフィン期とドンナイ期、初期チャンパ期とオケオ・プレアンコール期という併行関係で、編年的枠組みを設定しておきたい。

 

19.ロンアン省博物館

 次の日ホーチミンからメコンデルタに位置するロンアン省の博物館のある省都タンアンへ向かう。ロンアン省の各時代の遺跡ごとに出土品が展示されている。先史時代の部屋にはロクザン、カオスー遺跡、オケオ文化期の部屋にはロクチャン、バオルン遺跡。トゥオンさんのオケオプロジェクトでも省と共同調査を行っており、去年発掘のカオスー(早期オケオ)とバオルン(後期オケオ)遺跡の出土遺物をもとに、現在編年づくりのための共同研究が進行中とのことであった。オケオ文化期に特徴的な白色土器は中国陶磁との共伴関係から、10,11世紀まで続いているとの新知見も得られている。大急ぎで博物館を見学した後、ホーチミンに戻り、昼食後ラムドン省に向けて出発する。ドンナイ省を抜け、夜7時にダラット着。

 

20.ラムドン省

 今回の調査目的であるダイラン遺跡の出土遺物を保管しているのがラムドン省博物館である。これまでラムドン省では7カ所の遺跡が発見されている。これらはいずれも青銅器・鉄器時代以降のもので、ダイランに代表される墳墓が4つの県で確認されている(ラムハー、ドンズオン、バオロック、カッティエン)。この他、ドンナイ川添いに15kmにわたって点在する、プレ・アンコール期の遺跡がカッティエン(6〜7世紀)である。そのうちこれまでに発掘した遺跡は、ダイラン(1983年発掘、13の墓から18基の墓坑)、ダイラオ(1994年発掘、4つのマウンドから7つの墓坑)、カッティエン(1985年確認調査、1995年発掘)の3カ所である。

 ダイラン遺跡は1983年に、ブイチーホアン氏を中心とするホーチミン社会科学院によって、13基のマウンドが発掘された。墓のマウンドはそれぞれ隣接し、高さ1.5〜2m、径約5mであったという。この13基のマウンドで検出された墓坑のプランは、7つが長方形(60〜70x180〜200cm、深さ(8090cm)と確認されたが、他は明確には検出できなかった。副葬品としての共伴遺物は、土器・陶器・陶磁器が総計で2154個。鉄器が2369個、草刈り具、山刀は、その形態からマ族が現在使用しているものに近いと言われている。その他に鉄製武器剣、槍先等がある。装飾品は石・ガラス製のビーズ類、青銅・鉄製の腕輪等総計4782点が出土している。

 これら遺物の出土状況については一定のパターンが認められる。墓坑最下層には碗が伏せて置かれ、その上の層から鉄器装飾品などが出土する。さらにその上層には四耳壷など大きめの遺物が置かれる傾向が認められた。出土した人骨はほとんど破片の状態であるが、24個の歯(21才)、4個の歯(15才)も出土も見られる。また織物の断片も出土している。961年〜1400年の胡氏の時代の銅銭が出土している。

 ラムドンでの調査日程は、博物館側の準備が整うまで遺物調査の開始を待って、まず遺跡を踏査することになった。

 

ダイラン,ダイラオ遺跡

 ダラットからホーチミン方向へ国道を約2時間走ると、県庁のあるバオロックの町に着く。ダイラン遺跡は,国道から西方向へ約7km、茶畑の中の農道を通って墳丘のマウンドが集まる窪地に立地する。まわりに人家はなく、畑として開かれた丘陵となっている。窪地の底には小川が流れている。83年の調査時の写真によると、遺跡周囲は現在同様に畑になっていたようだ。発掘箇所に案内されたが、開墾によってマウンド状の高まりは見られなかった。窪地斜面の微妙な起伏と区別がつかないのかもしれない。ここで表採を始めると、陶磁器片の他にも鉄製槍先などを採集できた。

 一方ダイラオ遺跡は,国道から南に約30分歩いた丘の斜面に位置する。われわれが訪れたとき,いくつかの墓が盗掘され、陶磁片が斜面に散乱していた。この遺跡は昨年ハノイ考古学院によって発掘されている。岡の頂上部にも3カ所の盗掘坑がある。しかしここでも明確なマウンドは確認できない。頂上部から東側の斜面を降りると方形の石組み遺構が見られた。この遺構は南北に走る谷に面し、対岸や左右の台地を見渡せる位置にあった。石組み遺構は約15度の傾斜を持つ斜面上に組まれ、下端部の幅4m、上端の幅が34m。下端から25mのところには一段石組みが築かれており、ここでの幅が33m。さらに39mで上端部に達する。全長は約6mである。長軸はほぼ正確に東西方向である。石組みは2段から3段、子どもの頭大の丸石によって組まれている。石組みは墓域を画するように周囲にめぐっている。墳丘といえるようなマウンドはない。これが墓だとすると石組み墳墓と名付けることができる。このような石組み遺構は他には見られなかった。この周囲の墳墓同様に盗掘を受けることがが心配される。この丘の墳墓には、明確に墳墓といえるマウンドは認められなかった。丘の頂部に位置するため、マウンドの土が流れた可能性もある。しかし石組み遺構に見られるように、丘の斜面にわずかに盛り上がった墓地の可能性も考えられる。

 

プレアンコール期カッティエン遺跡 

 翌日はプレアンコールの遺跡カッティエンに向かう。バオロックから西へ2時間半、ドンナイ河畔15kmにわたって遺跡が点在するという。この地域はラムドン省の南端にあたり、ドンナイに接する。カッティエンの町にはカッティエン県の県庁がある。かつてはマ、コーホー、チュルー族の土地であったが、1978年中部からヴィト族の入植者を受け入れて、ダーホワイン県が成立した。1986年さらに北部のムオン、タイ、ヴェト族の入植者を受け入れ、ダーテエ、ダウワイ、カッティエンの3県に別れた。わずか72家族120人のシティン族も含め、現在の人口は約4万人。マ族、コーホー族はあわせて1000人が牛を飼い、カシューナッツを栽培している。

 プレアンコールの遺跡はカッティエン県にあるが、ダーテエ県ではダイランのような墳墓群があるという。県庁の庭にガネーシャ像と石柱が置かれている。県庁前の役所の前にもヨニと石柱とまぐさ石が運び込まれていた。カッティエンのプレアンコール遺跡は互いに10km離れた2つのグループ分けられる。これから向かう遺跡はクリンガイグループと呼ばれている。目的の遺跡に向かう道路沿いに高さ50mほどの円錐形の丘トックラップ遺跡を見る。丘の上にレンガと石造の遺構があるという。次にドンナイ川縁の遺跡に着く。ここは94年にハノイ考古学院が発掘調査している。遺構はレンガと砂岩で作られたヒンドゥー教の祠堂群である。これらが崩れて土に返り、マウンドとなって畑の中に点在している。第4の岡と呼ばれる遺構は6x6mの台形レンガ積みの遺構で、段上には八角のリンガが据えられていたという。第2の岡は3段のレンガ積みで、3段目には祠堂がある。内壁には白い漆喰が塗られている。石柱、まぐさ石があわせて5本転がっている。県庁前に置かれていたガネーシャと石柱はここのものだという。このマウンドから南50mの畑の中に第3のマウンドがある。中央に穴が空いていて石材が4点周囲に散在している。その東50mにはドンナイ川が流れ、対岸に小山がある。その上にもトックラップのような遺構があるという。以上でラムドン省南部の遺跡踏査を終え、ダラットに戻る。

 

ドンズオン県のチュールー族土器づくり村、第6村のマウンド墳墓

 翌日はダラットの南に位置するドンズオン県の土器づくり村プランゴー村に向かう。この村は他の6村とともにプロー社に属すが、このプランゴー村だけが土器づくりを行っている。村の人口は現在3800人。その3分の1がベト族で、残りは4つの少数民族チュールー、コーホー、チン、ザックライ族で構成されている。他の5つの村も混住しているが、この村はチュールーの人口が多い。昔からこの地域はチュールーの土地という。4つの少数民族はいずれも母系社会で、民族間で通婚が行われている。1975年以降、この地域に住むようになったベト族の女とチュールーの男の通婚は2例のみである。

 土器づくりは12月から3月の間に行われる。1975年以前はラムドン省内のドゥックチョイ、バオロック、ズィーリン各県まで土器のマーケットネットワークが広がっていたが、現在ではドンズオン県のみでの流通している。ここでは20リットルの大形水瓶や小形広口壷を主につくっている。粘土は村から10分ほどのウゴーの岡と呼ばれる場所で採取している。昔は全世帯が焼いていたが、今は土器の値段が下がったため、半数の世帯しか焼いていない。この村の土器づくりの始まりは、コーホー族がこの村に来てチュールーに土器焼きを教えたという。  

 あいさつが終わったところで土器を実際に作ってもらった。土器づくりのプロセスは以下である。円筒の粘土を板の上に置く→両手を添えて粘土を引き延ばしながら自分が回転する→外反する口縁の作り出しは濡れ布を使って両手で引き延ばす→天日で乾燥する→内面をブリキの輪っかで削り取って薄くする→外面をたたき板で軽くたたいて調整→削り取った粘土は水と砂を混ぜてこねる→この粘土を使って胴下半部の成形→天日で乾燥→下半部の削りと軽いたたきによる調整→ミガキによる調整後、乾燥→野焼き、1時間半ほど焼く。炭素吸着の場合は15分間枯草を被せておくという。

 土器づくりの後、村長の家で村人とドラゴンジャーの酒をストローで飲み合って交流する。村人と別れ、いったんドンズオンの町に戻り、町外れの墳墓を踏査する。谷間の奥の斜面に3つのマウンドがある。いずれも最近盗掘されている。年代は陶磁器等から18、19cと新しい。青銅製容器や鉄ナベ等が周囲に散乱していた。

 翌日はダラットの西に位置するラムハー県の墳墓を踏査する。ダードン社第6村という開拓村に向かう。サトウキビの刈り取りが終わり、コーヒーを植え付けている畑の中にぽつんと1つのマウンドがある。南北に横たわる丘の裾にあたる。あと2つマウンドが北の方角にあるという。径5m程のマウンドに3つの盗掘穴が空いていた。盗掘後の陶磁片が散乱している。それらは中国14世紀の青磁、色絵、肥前陶磁、ゴサインの他に、鉄製鎌、青銅製腕輪を採集した。畑の中では打製石器も採集できた。

 踏査終了後、ダラットの宿舎でこれまで踏査した遺跡と採集遺物を前に検討会を行った。ダイラン遺跡の遺物は中国もの15世紀以降の青磁3点、ゴサインの目アト碗・輪ハゲ碗3、カイメの鉄絵、青花では16世紀景徳鎮民窯もの、古赤絵、呉須手、障州青花・赤絵、平和窯、産地不明の青花、新しい中国白磁、褐釉壷はタタキで薄く引き上げたもの。化粧のある黄褐釉壷は中国もの。タイ青磁碗。クメール褐釉壷片2点。肥前陶磁は1650年以降の荒磯文。ベトナムものはビンディンもの以外にとハイフン省産の色絵・青花各1点。総合して15から17世紀のものと考えられる。

 ハノイのヴィンフック遺跡採集遺物も検討する。ベトナムものが3点、青磁蓮弁の碗、目アトと輪ハゲの碗。中国広州西村窯の白磁。ナムディンのハラン遺跡採集遺物には須恵質陶器の蓋、肩の張る縄簾文様のある広口壷である。

 

ラムドン省博所蔵ダイラン遺跡出土遺物の調査 

 博物館の準備が整い、これから6日間、ダイラン遺跡の遺物を調査する。収蔵庫の中に入れるのは1回だけということなので、はじめにどの墓の遺物を収蔵庫から出してきてもらうかを決めなくてはならなかった。そこでまず収蔵庫に入って2人一組で各墓の遺物数を種類別に記録し、その後でどの墓の遺物を選ぶかを検討した。その結果、まず青花が少ないところからということでG7M2、その他にG2M13、G8M2、G11M1、G13M1の遺物を出してもらうことに決定する。

 各墳墓からは中国製陶磁、ベトナム北部陶磁とともにビンディン陶磁(ゴサイン、カイメ、ゴートイ窯製品)、タイ陶磁、肥前陶磁等が見られた。以下、墳墓ごとに特徴的な遺物を概観する。

G7M2では総数62点、中国製には徳化の白磁、同安系の青磁、公正マークのない「公正」碗、蒲田の碗、龍泉青磁鍔皿、タイ製の白釉鉢、外面刻線のある青磁碗。ベトナム北部のものでは青花菊花文碗、目アト白磁碗(枢府うつし)、白磁瓜形擂座水注(陳朝期)、ビンディン陶磁には褐釉湯飲み5、端反り輪ハゲ小碗2、玉縁深鉢2、鉄絵碗3、ゴートイの水波刻文の鍔皿、輪ハゲ碗と目アト碗、褐釉小形長胴の三耳壷、輪ハゲ褐釉碗。これらの陶磁器の年代はほぼ14、15世紀にあたる。

G2M13の遺物は42点、中国製では「公正」碗1、「公正」碗の「正」のみ1、龍泉の盤2(鍔皿1、直口縁1)、厚手の青磁碗2、白磁端ぞりの碗1、皿1。人形手青磁碗(高台小さい、15世紀末〜16世紀初めだが、高台が小さいものは16世紀中頃)、呉須青絵赤壁賦碗(トルコブルー・黒・黄色で赤色なし)、青花蓮池水禽花唐草文皿、荒磯文、呉須手小壷、青磁双耳小壷1、白磁小壷1、景徳鎮青花片2、四耳壷4点(1点パスパ文字風のスタンプあり)。ビンディン陶磁では、輪ハゲ碗3、目アト碗4、目アトツバ皿1、褐釉四耳壷1、無釉四耳壷1。ベトナム北部の陶磁は、青花碗1、青花皿1(甲申造の墨書あり、1584年)、この他、肥前染付が2点見られる。タイ青磁碗1、産地不明の厚手青磁碗1。これらの年代については、肥前が17世紀第4四半期、人形手青磁湾は16世紀中頃であることから、全体として16世紀後半〜17後半と考えられる。

G8M4は224点と大量なので4回に分けて検討した。出土状況の写真を見るとまさに陶磁器葬とも言うべき遺物の多さである。蒲田碗は一列に並んで埋納されている。年代は中国ものが14〜18世紀初めと幅があるが、多くは17世紀のものである。

G11M1:遺物52点。このマウンドは撹乱を受けていない。中国ものでは龍泉鉢、白磁輪ハゲ碗、ベトナム北部ものは目アト白磁碗、ビンディンものには、碗・深鉢ともに目アトが多い。幅広で大きく浅く四角い高台は、大碗・深鉢に特徴的で中碗・小碗にも見られる。幅狭く低い四角な高台は、ゴサイン陶磁に一般的に見られる。

 中国製品では、龍泉III類の鉢が14世紀中〜後半、白磁口縁外反碗は福建北部、ミコミに蓮のスタンプ、14世紀中〜後半。15世紀になると口縁がやや内湾する。輪ハゲ白磁碗(蒲田?)ミコミにボタン印花文、外面高台付近にトビガンナ風削りあと(14世紀中〜後半)。ビンディンものは碗にカイメの鉄絵がない、ゴートイの鎬刻文はあるが波状文がない、唐草文の刻線もない、鍔皿もない、褐釉なし、無釉の四耳壷のみ、カイメの褐釉碗もなし。ビンディン陶磁の最も古いタイプがそろっている可能性がある。以上のことから、この墓の年代は14世紀後半と考えられる。

G13M1は合計121点、中国ものでは青磁印花碗15世紀末〜16世紀初(フィリピンのカラタガン遺跡でで出ているものと同タイプ)。ベトナム北部は、青花草葉文碗輪ハゲ、盤・小形四耳壷・小壷・湯飲みを出してもらう。中国もの青磁・青花の年代16中〜後半。

 以上の遺物の年代を整理すると以下のようになる。

G7M2 :14、15世紀(青花菊花文碗あり)

G2M13:16世紀後半〜17世紀後半(ビンディンもの少ない)

G8M4 :14〜18世紀初

G11M1:14世紀後半

G13M1:16世紀中〜後半

 

21.ドンナイ省博物館

 翌朝6時50分ダラット発。12時ビエンホア着。1時にドンナイ省博物館に着く。ここは展示がなく、収蔵庫のみである。まずサフィン文化との関係が問題となっているドンナイ文化の遺物である青銅器や石製装飾品(ソイチョン遺跡の子持ち耳飾りなど)の写真を撮る。その後、ドンナイ川から引き上げられた陶器・土器を見る。非常に押捺の深く粗い印文土器、オケオの注口土器や在地色の強いクメール陶器が集められている。別の部屋にはクワンドック窯址で見たランプスタンドやフィリピン、カラタガン遺跡で見られる瓜形土器がある。

 ビエンホアの町はメコンデルタの入り口に位置し、16世紀から始まる中国人のデルタ入植の基地となった町である。中国人との関係が深いためか、ビエンホアには現在100以上の窯があるが、陶器、陶磁器を焼ける土が出ないため、ベトナムでよく見かける象の置物などのビエンホアのやきものは、土器に釉薬をかけたものである。陶器はビエンホアから30km北西のソンベ省ライティウで焼かれている。約1時間の訪問を終え、4時半ホーチミンに着く。約2週間の強行軍であったが、長谷部、西田両先生はその夜のうちに日本へ帰国する。タンソニャットへ全員でお見送りする。

 

22.ホーチミン市

 ゾンカーボー遺跡

 ホーチミン市内から2回フェリーを乗り換えて、初期鉄器時代のゾンカーボー遺跡を訪れる。この遺跡はホーチミン市の中に入っているが、最も海に近いデルタの島に位置している。メコンデルタの風景を初めて見る。マングローブの沼地を走る道路は陸の世界を繋ぐもの、デルタは水の世界、船でしか繋げない。道路はドンナイ省から運んできた赤土によって、南部解放10周年を記念して1年でつくられた。それまでは船でしか行けないところであった。1回目のフェリーを降りたときから周りはデルタの風景に変わる。道路脇は水田・養魚池・ニッパ椰子。2回目のフェリーを越えるとマングローブ林にかわる。9時半カンゾー県に着く。ゾンカーボーはボーという魚の岡の意。10時半船で遺跡へ。ハタン(河青)川沿いのやや小高い浮島。パパイヤ、マンゴー、グアバの果樹園の中に遺跡がある。すぐ目の前は海である。マンゴーの木の根元に土器片が集められている。粗い印文をもつ内湾する口縁の土器片が多く見られる。これがゾンカーボージャーと呼ばれるアンフォラ型土器である。ホーチミンの歴博に展示されている刻線文土器群とは異なる。厚手大形のカメが甕棺型土器の破片も多く散布している。1,5mの文化層、上層が0〜ー70cm,下層がー70〜ー15

C14年代は1点、2484BPの年代が得られている。出土遺物はこのほか25個の双獣頭形耳飾りが見られる。ロンアン省ゴーカオスー遺跡でもゾンカーボージャーが出ている。ストーブ片もあり、4足のものと圏足に透孔のあるものが出ている。4カ所のトレンチを入れて合計250平米を発掘し、約100基の甕棺と数基の土坑墓が検出されている。1時間で踏査を村に戻る。川は塩辛い。この地域では9月が一番雨が多く、4月が一番乾燥するという。かつてのマングローブ林は現在エビ・カニの養殖池に変わっている。東に対岸のヴンタオの町が見える。

 

おわりに

 表1を見ながら5年間の調査を振り返ると、南北に細長いベトナムを、陶磁器が出るという情報だけを頼りに、南から北、海から山へとじつにさまざまな地域の遺跡を調査してきたものだという感慨がわいてくる。そして同時に、毎回短い期間にこれだけの調査を可能にしたベトナムの考古学者の方々の地道な情報収集や事前の準備・折衝の努力や熱意に想いをいたらさざるを得ない。

 

文献目録

青柳洋治・小川英文

      1992 「ベトナム陶磁器の編年的研究と古窯址の調査報告ーベトナムの古窯址と貿易港ヴァンドンを訪ねてー」『東南アジア考古                      学会会報』12: 5874

青柳洋治・長谷部楽爾・森本朝子・桃木至朗・小川英文

      1992       Archaeological Research of Old Kiln Site in Vietnam. -Preliminary Report-. Journal of East-West Maritime Relations. Vol..2. 

青柳洋治  

      1990 「陶磁貿易史からみたベトナム陶磁の動向〜東南アジア島嶼部を中心として〜」『アジア諸民族の歴史と文化』

Brown, R, M  

      1988    The Ceramics of South-East Asia Their Dating and Identification Second Edition. Singapore: Oxford University Press.

Diem, A, I       

      1991     Cham Ceramic Wares Found in the Philippines Chinese and Southeast Asian Greenware found in the Philipines. The Oriental Ceramic                       Society of the Philippines

Fox, R, B        

      1959   The Calatagan Excavations Two 15th Century Burial Sites in Batangas, Philippine., Philippine Studies Vol,7. No,3

Locsim, Land, C 

      1967   Oriental Cersmics discovered in the Philippines . Totyo

森本朝子

      1993 「ベトナムの古窯址」『南蛮・島物ー南海請来の茶陶ー』根津美術館

山本信夫・長谷部楽爾・青柳洋治・小川英文

      1993 「ベトナム陶磁の編年的研究とチャンパ古窯の発掘調査ーゴーサイン古窯址群の発掘調査ー」『上智アジア学』12: 163-180