ペニャブランカ・ネグリトの民族考古学

 

I−1はじめに

 過去2年間に2ケ月ずつ、フィリピンの剥片石器の実態を知るため、北部ルソン島カガヤン州のペニアブランカにある洞穴群出土の剥片石器を分析してきた(小川1984)。ペニアブランカに滞在する間に、シエラ・マドレ山脈西麓を流れ、カガヤン川にそそぐピナカナワン川の上流にネグリートのグルーブが住んでいることを聞いていた。その時から、一度訪れてみたいものだと考えていた。

 石器と狩猟・採集民との結びつきが強い以上、現在まで営まれてきた彼等の狩猟・採集生活にふれて、先史時代に対する自分なりの認識を持つことは重要なことと思われる。ちょうど筆者が分析している割片石器群には、矢尻や槍先のようなポイント類がみられず、「道具をつくるための道具(加工具)」としての性格が浮かび上った。では、これらの剥片石器が道具をつくるために材料としたものは何であったのだろうか。東南アジア考古学では、竹や籐、蔓の類、木材等を加工して、周囲の自然環境に対処していたのではないか、と考えられている。そこで、現在では石器こそ使用していないが、今なお狩猟・採集の生活を続けているネグリートが、植物をどのように利用しているか、調査してみようと思いたったわけである。

 滞在期間は10日間である。1983912日出発、22日に帰着した。長期間滞在したわけではないので、多くの成果は得られなかったが、この探訪によって得たものを以下に報告したいと思う。

 

I−2 フィリピン・ネグリートの分布と実態

 報告の前に、現在フィリビンに住むネグリートの分布や生活の実態について述べておきたい。

 フィリピン国立博物館から出ている民族分布地図をみると、ネグリートは現在、北部ルソン島東側を南北に走るシエラ・マドレ山脈の山中、そして南シナ海に面したリンガエン湾からバターン半鳥にかけての山地一帯、またルソン島南部の海岸や山地に点在している。その他、ビサヤ地域のパナイ・ネグロス両島、そしてミンダナオ鳥北部スリガオ山中にも分布している。しかし、人口が一番集中しているのは、北部ルソン島である。

 ネグリートの調査・研究は、今世紀のはじめから行なわれているが、戦後では、パラワン島の調査で有名なフォッグス博士が、バターン半島北方、サンバレスのネグリートについて、物質文化を中心とした調査を行なっている(Fox 1952)。北部ルソン、イザベラ州東海岸のパラナン地区では、ビーターソン夫妻が永年にわたり、生態学的謂査を巾二心に行なつている。(Peterson 1978a,b.Peterson and Peterson 1977)。また、パラナン地区から、シエラ・マドレ山脈を越えた西側のカガヤン川下流域でも、グエデスによる調査が行なわれている(Guedes 1980)。フィリビン大学のベナゲン教授(Bennagen)は、フィリピン全域のネグリート研究を統括している。

 日本人の研究者も60年代からネグリートを調査している。菊地靖はサンパレス・パラナン両方のネグリートを調査している。また、合田清はネグリートの低地民化政策のために設けられた「収容所」ともいうべき、北部ルソンの海に浮かぶ、パラウィ鳥で調査している。最近では、清水展がサンバレスのネグリートを約3年にわたって調査を行ない、低地民化の過程での文化変容について論じている(清水1981a,b)。

 ペニアブランカのネグリートについては、ハワイ大学のグリフィン夫妻が民族考古学の調査を行なっている(Griffin and Griffin 1975, 1978, 1981)。日本人の研究者では、西田正規が、198211月に2週間滞在して、生態学的調査を行なっている。また、フィリピン国立博物館研究員のバルボッサ(Barbosa)は、過去5年間、たびたびこのグルーブを訪れて調査を続けている。

 フィリピンにおけるネグリートの生活の実態は、現在、低地民化(農民化)政策の下で、かなりの文化変容が認められ、今でも狩猟・漁撈・採集の生活を営むグルーブは徐々に少なくなってきているのが実状である。しかし、山間の僻地や三方に囲まれた海岸部では交通の便が悪く、低地民との接触も頻繁ではなく、ネグリートの生活環境もあまり荒されていない。けれども彼等の生活圏も徐々に、しかし着実に侵されできている。低地民化政策も、ネグリートを一ケ所に集めたはいいがその後の管理に間題があり、「収容所」でのコレラの発生などによって離散する例もある。それでもなお、シエラ・マドレ山脈とその東側の海岸地域には、山と海の恩恵にあずかっているネグリートがかなりいる。彼らはそれぞれのテリトリーで取れる「特産物」を低地民の農作物や日用品と交換するシステムをつくり上げており、これに関しては、時問的にもかなり遡りうるという考え方もある(Peterson and Peterson 1977)。彼らの生活様式が今なお崩壊していない理由は、交換システムの中で、ネグリートの受け持つ狩猟・漁撈・採集の役割が重要であったこと、彼らのテリトリーまでは、低地民も容易に近づけないような自然的・地理的環境にあったことなどがあげられるこれらの理由から、ネグリートのテリトリーが狭まったとはいえ、今なお、狩猟・漁撈・採集の生活が確保されている。

 

I-3ぺニアプランカ・ネグリート

  カガヤン州都トウゲガラオから東へジープで20分ぐらいのところにペニアブランカという町がある。この地域一帯の中心をなす町である。ここからさらに東に30分ほどで、ピナカナワン川の舟着場でカラオという村に到着する。この地域一帯は、南北に石灰岩台地が広がっており、そこに点在する洞穴遺跡群の調査を、フィリピン国立博物館が1977年から組織的に行なっている(図1)。カラオの村には、博物館がフィールド・ステーションを建てており、私の調査もここをベースにして行なった。約一ケ月間、石器の分析・実測を行なった後、雨期の到来を恐れながらも、ネグリートの集落へ出かけて行った。まずカラオから舟でピナカナワンを遡る。舟で上れるのは30分ぐらいで、後は1時間はど歩くするとラグーンという開けた盆地があり、一面のトウモロコシ畑である。ここからさらに歩いて六時間、ピナカナワン川を遡ったところにバックライというネグリートの集落がある。ここは標高約100メートルと思われる。ここまで来ると畑は見られない。それでも最近は入植者が入ってきている。ネグリートと入植者の関係はうまくいっているようだ。この入植者たちは私と同年配くらいの青年3人であった。その他には、木材会社が時おり木の伐採にくるくらいである。集落にははじめ20人くらいの人がいたが、10日問のうちに徐々に増え、帰る時には30人を越えていた。この集落はピナカナワン川上流域をテリトリーとして、川にそって乾期と雨期に移動する。乾期はだいたい4月から9月にかけて、雨期は10月から3月にかけてある。雨は9月のはじめくらいから降りはじめ、11月には最高潮に連する。この時の川の水位は乾期の水位よりも2メートルは増水すると言われている。年間降雨量は平均2500ミリである。

  ピナカナワン川を源まで遡ると、シエラ・マドレ山脈の尾根筋に達する。彼らの足で約半日と言う。そこから海岸にあるネグリートの集落まで、また半日で行くことができる。海岸の集落との往来は頻繁に行なわれている。また尾根筋をたどって、北から南への往来も行なわれている。こうしてネグリートの行動範囲はかなり広いものとなっている。彼らの行動範囲は、彼らのテリトリーから遠くにまで及ぶが、日常生活をおくるテリトリーの範囲は限られている。しかし、自然はまだ彼らが生活するに十分なほど残されている。こうした自然の中で彼らは、狩猟・漁撈・採集民としての生活をおくっている。

 

II−1  テリトリー

  彼らのテリトリーとは、シエラ・マドレの尾根筋から西側の一帯をさす。この地域の中には、さらに彼らと姻戚関係にあるニつのグルーブがいる。1つは北に3キロメートル行ったバワンで、もう一つの南方のカラオワンは地図に地名がのっていないので不明だが、いずれもビナカナワン川に注ぐクリークに面しているので、あまり遠方ではないと思われる。これらの2つのグルーブと彼らは姻戚関係にあり、テリトリーを共有しているものと思われる。3つのグループの人口を推定すると、ほぼ100人である。南北のテリトリーの広がりについては不明瞭だが、北へ20キロメートルのバッガオにも姻戚関係にあるグループがいるとのことであるが、これは一応別のテリトリーと考えると、はぼ南北に10キロメートル、シエラ・マドレへ向かって東へ10キロメートルと思われる。これが彼らの日常利用できるテリトリーと言える。しかし、姻戚・友人関係はさらに山づたい、海岸づたいに延びており、北はバッカオから海岸の夕ブアン、南はマコナコンにまでひろがって

おり、これが彼らの言葉が通じる範囲とされている。

 ネグリート同志でテリトリーを侵害することはピーターソン(Peterson 1978 b:25)によれば死を意味する場合もあると言われている。調査前までは半信半疑であったが、実際に彼らのテリトリー内に見知らぬ集団(30人程度)がバワン付近に侵入してきた時、他の2つの集団の男達が総出でみな殺しにしたという話を聞いた。これはほぼ2530年ほど前のことである。実はシエラ・マドレの尾根づたいに彼らと姻戚関係をもたない、言葉も通じないグルーブがいる。このグルーブを彼らばラディンと呼び、恐れ、かっ軽蔑している。ラディンは、低地民との接触を好まず彼らと散対している。海へ行く途中、小人数なら襲撃されることもあるという。このラディンについてはグリフィンがすでに接触をもち報告しているエヴキッド(Ebulid Negrito)と考えられる(Griffin and Griffin 1975:240)。彼らも今では低地民との物々交換を行なっているそうだが、それも最近のこととされている。

 

II−2集団構成

  私達が訪れたのは雨期のはじまりの頃で、グルーブが一ケ所に集まり、構成員が増える時期にあたっていた。図3で示したように、このグルーブの中心をなすエョックの兄弟とその子等が集団を構成している。彼らの集落に私達がおとずれた日には、ティポイとウサッブの家族、トットク、ウセン夫妻、アンシャン、メリナ夫妻は不在であったが、2日後にティボイ、トットグの家族が南のカラオワンから帰って来た。またアンシャン夫妻は、さらに6日後に海岸のマリブーからシエラ・マドレを越えてやって来た。最終的に集団は32人となった。

  表lは、構成員の生地名と、その生地が彼らのテリトリーの内か外かを示したものである。マヌキット、ミントウクル、トットクは兄弟で、イザベラ州のナビラカンで生まれ、それぞれエヨックの娘のウダン、アッバグ、ティボイの娘ウセンと結婚している。彼らにはもう1人兄弟がいるが、北のバッガオに婿に行っている。彼らの生地ナビラカンは地図上で確かめられなかったが、イザベラ州の海岸マコナコンからさらに南にあるらしい。しかしさらに南のパラナンには短りサ合いがいないとのことなので、マコナコンからパラナンの問と思われる。彼らはかなり遠方からこの地へ〃入り婿〃のようなかたちでやって来ているが、エヨックの親族がナビラカンにいるわけではない。マヌキットが親戚のいる海岸のマリブーへ行った時、現在の妻、ウダンを見そめて、結婚したと言う。

 エョック自身、テリトリー外で生まれている。しかし妹ウサッブ、弟アリューはテリトリー内で生まれているので、彼らの父母の代からこの地で生活していたと考えられる。エョックの娘ウダン、アッバグ、ティボイの息子ニニン、マヌキットの息子オンギョットは本来この地の人間だが、テリトリー外で生まれている。エョックも含めて、テリトリー外の生地マリブー、タブアン、バリコッブには彼らの親戚がおり、この集団と親密な関係を保っている地域と考えられる。アンシヤン・メリナ夫妻はアリユーの妻リリンが、アンシャンの先妻の娘であった関係でエョックの集団に加わった。その意味では一番関係のうすい立場にある。そのためか彼らの家はやや離れた所に建てられていた(図2)。しかしアンシヤンの生地は、エヨックの集団と関係の深いタプアンなので、なんらかの関係があったはずである。一方、妻のメリナはこの集団の中では際立った存在である。彼女の父はイロンゴットで、彼女によれば犯罪者だったらしく、山中に隠れ住むうちメリナの母(ネグリート)と結婚したと言う。メリナが生まれた頃には、バッカオの西、カガヤン川沿岸のトウパンで小作農をしていた。その頃にはメリナの父が、トウバンのネグリートグループの中心的存在であったが、父の死後グループはトウパンを離れ、やや南のアムルンのダッタへ移り、ここで小作を続けた。メリナは1972年、グループからはなれ、アムルンの町でベビーシッターや洗濯女を1年ほどやり、マニラへ出ている。マニラでも同じような仕事を1ケ月やったが、今度はアルカラの町へもどっている。彼女の母や兄弟は、トウゲガラオへ行ってその後連絡がないそうである。メリナはその後ダラウェグで小作をしているおじのグルーブに加わり、ここでアンシャンと結婚した。年がはなれているため、メリナは気が進まなかったと話していた。メリナは山での狩猟・漁携生活よりは、低地民、都市の生活が長く、そのため英語もわずかながら理解でき、数をかぞえることもできて、自分や娘の誕生日を記憶している唯一の人間だった。そのためか血はネグリートでも、ふるまいや衣服などから醸し出される全体の雰囲気は他の構成員から際立つものであった。アンシヤンの娘マリロはまだ七つの子供だが、ジャニとの関係は将来の結婚を予定されたものであって、何人も侵すことのできないものであるという。このように子供の頃から婚約し、さらには夫婦として共に大人になり結婚するまでの間、親もとでくらす形態はしばしぱ見られるという。

 婚姻関係を見ると、本来この地で生活してきたエョック、アリユーは〃嫁取り〃のかたちを示しウサップ、アモイ、ウダン、アッバグ、ウセンは〃婿取り〃のかたちを示している。パラナンネグリートを調査したピーターソン(Peterson 1978 b)は妻方居住婚を指摘しているが、このグルーブでもその傾向がつよい。私達がグループをはなれた数日後にエョックの娘イバンがカラオワンに住むティボイの甥と結婚したが、この場合も婿はこの集団に残るということである。しかし、この結婚式の後、マヌキットとウダンの家族はマヌキットの生地ナピラカンヘ帰り、トウモロコシ畑で耕作を行なうということであった。この点について彼らが説明するところによれぱ、一定の期問どちらかの親もとで暮らし、次に一方の親もとにもどりバランスをとるとのことである。一見婁方居住婚の形態をうかがわせながら、必ずしもその枠組にはまりきらないところがあるのは、その裏側に彼らの〃移動性〃があるからだと思われる。もちろん集団としての移動性はピナカナワン川を中心とした彼らのテリトリー内に限られているが、僧人や象族単位でめ移勤は彼らの姻戚関係をたとって、自由に行なわれるものであると考えられる。エョッグ自身や彼の子供、そしてティボイの子供の中でもテリトリー外を生地とする者たち、そしてアンシャン・メリナ夫婦などはこのような夫婦・家族単位での頻繁な移動を示していると思われる。

 

II−3  集落の構成

  彼らの集落は川面比高約3メートルの河原上に位置する。河原石は大型で直径50センチから1メートル以上のものまでさまざまの大型石が河原を形成している。河原上集落の中心には砂利が敷きまかれたようになっていて安定している。集落は9軒の家で構成されている。ほぼ1家族1軒の割で建てられているが、エョックの家族は未婚の子供がまだ3人もいるので、もう1軒小さな家を持っている。やや東に離れてアンシャンの家が建てられている。彼の家まで砂利は散布していないので、大型の河原石がごろごろしている。

  集落の立地する河原からさらに3メートルほど高いところに本来森がせまっていたものと考えられるが、現在では焼畑になっでいた。そしてさらにその奥に森が広がっている。焼畑はちょうど彼らの集落と森との緩衝地帯のような位置にある。焼畑を分断するかたちで小川の痕跡が見られるがこの小川は乾期には涸れ、雨期の間だけ山の水を集めて流れている。河原の石は午前七時にもなれぱ日に焼かれて触れても熱いくらいだが、これは河原の乾燥のほどを示している。一方、森の中は樹木の繁茂が著しく大木が樹冠を形成しているため日の光が入らず、昼間でもうす暗く風も通らない。止湿度も高く、地面にはシダ、コケ類が生え朽木がおり重なっている。さらにアリや他の有害な虫類も多い。特にアリは集団であるため、うかつに足を踏み込めぱ噛まれて大変である。森はこのように不健康な環境と思われる。反面河原は日が直接あたるが、家の中へ入れぱ風通しも良く、視界も開けているので生活の場に適している。しかしこうした河原の好条件もひとたぴ台風が来れば状況が異なる。台風シーズンは日本と同じく夏の終わりから秋にかけてである。台風の時は風雨を避けるため、家財道具を持って、集団で森の中の大木の根もとにうずくまり台風が過ぎ去るのを待つという。集落立地として河原は台風の時をのぞけば好条件をそなえていると言える。彼らの集落が河原に立地するのもその辺に理由があるものと考えられる。

 

II-4 

  ネグリートの家は一般に、差し掛け小屋が主であると言われている。去年彼らがやや下流のラミカに住んていた時には確かに差し掛け小屋であった。今年になってどうして高床の家にしたのかは不明であるが、彼らが当然こうした家のつくり方を知っていたと思われるし、以前どこかで高床の家の集落を営んでいた可能性も考えられる。

 構造は4本の柱を立て、4辺を囲む。出入口となる2ケ所にさらに棟上げのための柱を2本立てる。この2本の柱に梁として1本よこたわして骨組みが完成する。床は4本の柱を囲った4辺のうち2辺に対し水平に何木かの木を渡す。さらにその上に直交する形で今度は竹(幅3センチほど)を何本もわたしてつくる。屋根は木を格子状に組んで籐の葉でふく。籐の葉は互性で、一方の葉を片方によせ、幾重にも屋根の骨組に結びつける。そして屋根を棟上げして完成する。木や竹、籐の葉等を結ぶ時にはすべての籐の茎をタテ割にしてつくった紐で結ぱれる。この過程は相前後するところもあるかと思われるが、ほぼこうしたものと考えられる。家の大きさには大小あるが、大きなもので床が5x5メートル、小さなもので3x2メートルであった。床の高さもいろいろで、地面から30センチのものから1.5メートルのものまである。この家の構造は基本的に壁体を必要としないが、妻が東をむいている家には、日をさえぎるために、屋根と同じように籐の葉を結び込んだ壁がつけられていた。しかしこの壁は屋根を支えるものではない。

  家の内には、衣類をダンポール箱に入れ屋根からつるしてあったり、矢、矢柄となる細い竹、ホーローびきの皿、その他の日用品を屋根の籐の葉の間に差し込んでおく。炉は家の出入口のすぐ外につくられている。簡単に河原石をならべて鍋を安定させる程度のものである。それぞれの家に1ケ所、調理や夜の暖をとるために用いられる。

  差し掛け小屋(サヒブグ)は1枚の屋根と同じ構造で、これを地面に差し掛け、一本の木で支える。地面には床にわたす竹を細く割ったものを籐の紐で結び、敷き物として用いる。

 

II-5  狩猟

  ネグリートは植物採集ははとんど行なわず、狩猟が活動の主流である。"Man the hunter"(Lee and De Vore 1968)以後、狩猟民の生計戦略の主流が植物採集にあることが指摘され、考古学者の間でも、そうした認識が根付いて久しい。しかしここペニアブランカのネグリートはまさにハン夕−である。なぜ彼らが狩猟を生計活動の中心に置き、採集をほとんど行なっていないか。その理由は低地民との交換システムにある。ネグリートは森の中の根菜や葉等の野生植物を主食としない。苦労しても疫せた野生の植物しか採集できない。一方、狩猟で得られる動物タンパク質は豊富である。彼らはタンパク質を低地民との交換材料として、低地民からは米やトウモロコシを入手し、炭水化物を補給している。このような交換システムがいつ頃から成立していたか不明だが、生葉形態を異にするニつの集団が、それぞれの生活環境の中で得られる特定の産物を交換することによって、相互補売的関係を、長い間維持してきたからこそ、現在でも、狩猟民と農耕民が混在する状況が出来上がったものと考えられる。狩猟民と農耕民との経済的相互補完関係の一翼を任うという意味からも、ネグリートの狩猟活動は重要な位置を占めている。

  彼らの狩猟具は弓矢である。シエラ・マドレの他の、不グリートは槍も使うが(Griffin and Griffin 1981)、この集団には見られなかった。弓矢のほかに二丁の散弾銃をもっていた。当初はワナが発達しているのではないかという予測を立てていたが、狩猟に関する限り、ワナは使用していなかった。

 矢の形態には4種類あり(図4参照)、それぞれ鹿、イノシシ、サルなどの対象によって使いわけがあるが、臨機応変の混用も当然ありうる。ただ矢尻の大きさはそのまま獲物の大きさに比例しているものと思われる。一般的で量的にも多いのがパガルである。主にイノシシ用に使う。柳葉形をした偏平の矢である。パルソックは鹿用で、先端部はすぼまっているが、すぐに幅広になる。これも太い針金を偏平に敵き出したものである。幅広なのは傷口を広げるためと言われている。これは、鹿に対して、2番矢として用いるという。ギラットは左右に多くの逆刺をつけた離頭矢であるこの逆刺の矢尻は鉄製であるので、逆刺を取りつける時にはかなりの技術とフイゴが必要と思われるが、彼らはフイゴを持っていない。彼らは自分達でつくると言っていた。おそらく金ヅチとヤスリで製作するものと思われる。矢尻は木製の中柄部に差し込まれ、さらにソケット状になった矢柄の先端に取り付けられる。矢柄は、他の矢同様に竹を用いている。矢尻と矢柄は2本の丈夫なナイロンの撚紐によって結ぱれている。この矢は、獲物を物かげに隠れて待ち伏せし、不意に打ち込むものだという。この矢を打ち込まれた獲物は森の中を逃げる問に、矢柄が木に巻きついて逃げられなくなるという仕組みである。このような離頭矢の例は同じネグリート系のアンダマン島民にも見られる(オズワルド1976,清野謙次1942)。同じ仕組みで逆刺の数が少ないものは、ティナナッド呼ばれている。サル用の矢尻パタックは、獲物の大きさにみあった形で小さい。径五ミリくらいだだの丸い針金の先端を議いて偏平にしたものである。数は少なく主に子供が所有していた。

  矢のサイズはパガルが長さ約20センチ、最大幅約34センチ、パルソックが長さ約20センチ、最大幅約5センチ、ギラットが長さ約1315センチ、最大幅約三センチ、パタッグは長さ約1012センチ、最大幅約1センチである。矢の全長は90100センチ。ギラットは中柄部の分だけ長く、100110センチある。矢柄は径約1センチの細い竹を用いている。矢を放つ時に指に引っかからないように、竹の成長方向とは逆、つまり根もとに近い方を先端にし、この反対方向に矢筈を刻む。矢には3枚の矢羽根をつける。3枚の羽根を同じ長さに切りそろえ、羽根の心部を矢柄に結束する。矢羽根と矢尻の結束には、スカという糸と、サッギという木の赤い樹液を接着材(ディギ)として用いる。スカは同名の木の皮の繊維を利用したもので、海側へ行かなければ入手できない。矢尻、矢羽根の結束には、スカを幾重にも巻き着け、その都度ディギをぬり込める。}本のスカを巻き終わると灰をぬり込め、またその上からスカを巻き、ディギをぬる。灰はディギによるべとつきをとるためと思われる。

  こうして1本の矢が出来上がるが、みんな新しい矢をつくる時には必ず、矢羽根を取りつける前に、矢筈に近いところに数本の溝切りを入れる。23本の溝は幅広で、他は幅が狭い。これは力へンと呼ばれ、矢の所有者を示す記号である。図5に示した例ぱティポイとカミロの親子のものである。カヘンは父が決めるのでそれらはよく類似している。そこで他のカヘンを図にして、いろいろな人に見せると、なかなか正確に矢の所有者を当ててくれない。なぜかというと、溝と溝の間の幅で読み取るので、模式図では分からないと言う。今度は、それぞれの家から矢を持って来てふいに見せてみると、ちやんと所有者を当ててくれた。矢に所有者の印をつけるのはブッシュマンにも見られるが、それは、誰が射た矢が獲物を殺したかを見分けるためで、その射手に獲物の上等な部分が行くことになっている(田中二郎1980)。彼らネグリートも同様かとたずねたところ、はたして、獲物は平等に分配し、射手がおいしいところを得るということはないという。一度猟から戻って来ると、矢の管理・維持はまず第一に行なわれることである。この時は各人自分の矢の修理を子供の頃から行なっている。回収された矢の管理・維持を各人の責任のもとで行なうためのカヘンかとも考えられる。

  弓は大型でネグリートの身長よりも長い。成人男子の身長は150160センチであるが、彼らは、一様に170センチ以上の長さの弓を持っている。

  弓幹(タキ)はバランと呼ばれる木を素材とし、弦(ダラス)はアブサグという大木の根を用いている。バランの木は海辺へ行かなけれぱ見つけられないが、アブサグの木は、付近でも見つけられるという。弦は撚ってあり、溝切りされた本 に輸をつくってひっかけ、他の端に結ぶ(図6)。こうして出来上がった弓は大変な強弓で、引きしぼるにはかなりの力がいる。子供も10歳を過ぎるあたりから自分の弓矢を持つようになるが、彼らもよくこの強弓を使いこなしている。弓が大型であることは森の中での活動をいくらかでも規制する要素になるのではないかと思われる。彼らがなぜこのように長い弓を選んだかは不明である。

 狩猟活動が生計上最も重要な位置を占めているところから、弓矢の管理・維持には多くの時間をさいている。狩猟から戻ると必ず、矢の修理が行なわれた。矢は各人10本は持ち、予備の矢柄用の竹もまた10本以上所有している。弓幹はさすがに予備を各人が持っているわけではないが、集団内で2,3本は備蓄されている。また矢尻となる鉄の太い針金はもちろん、金ヅチ、ヤスリも各5本程度所有していた。矢羽根のストックも猿食いワシの羽根を何十本かをエョックの家に保管してあった。結束用のスカは各家ごとに所有している。接着材用のサッギの木は彼らの集落のすぐ近くに高くそびえており、高みに登って適当な部分を切り取り、キザミを入れ、その赤い樹液をにじみ出させる。矢の修理は各家の前でよく行なわれており、修理が終われぱ、キザミをたくさん入れられたサッギの枝が放置されている。また時々は古くなってすてられた矢柄や、ギラットの中柄部をひろうこともできる。

 弓矢の他に狩猟具として用いられるのが散弾銃である。2丁所有していたが、いずれも低地民手製のものを購入したとのことである。1972年の戒厳令以後、銃刀所持は制限されているが、狩猟のための所持に関しては認められている。散弾銃で鹿やイノシシなどの大型獣をたおすとなるとかなりの至近距離まで近づかなくては有効ではないだろう。銃器の使用と獲物の捕獲量の間に正の関係があるかどうか確かではない。散弾銃は弓矢とちがい、常に弾が必要となってくる。常時散弾を備えておくこともできないので、弓矢ほど頻繁に用いられることはない。だだ、低地民が散弾を持って来て、ネグリートに獲物を依頼することがある。その時は獲物を散弾の提供者と折半する。散弾くらいで獲物を析半にしなくてはならないのは不合理な話だが、低地民をおそれるネグリートにはしかたのないことである。しかしこのような不正をはたらく低地民は、特定の人間に限られているという。

  狩猟に出かける時の人数は25人である。私たちの滞在中、狩猟に出かけたパーティーは延べ7組であった(表2参照)。日数は数時間から4日以上にわたるものまである。7回のうち獲物はシカ・イノシシ各1頭であった。狩猟には女も同行する。この場合は夫に同行するかたちである。女は狩猟中の食事の用意をするものと考えられる。しかし女も矢を所有している。一応は夫との共有ということになっているが、矢のカヘンを訪ねていた時、しぱしば女の名も出てきたことから、狩猟活動でも重要な役割をはたすものと考えられる。ネグリートの女の狩猟についてはグリフィンの"Woman the hunter"という論文がある(Griffin and Griffin 1981)。

 表を見ると、エョックの家族の出猟回数が多い。これは、数日後に行なわれる娘のイバンの婚資や結婚式に招待した客への食事を用意するためだという。私達の滞在中、エョックは2晩しか集落にいなかった。

  狩猟に出かける時には、何日も山中で暮らすことを予測して、その間の食糧を携行する。トウモロコシ・米・塩等が主で、調理用の鍋もかかえてゆく。また途中のタンパク源補給のために、魚獲り用の道具類も持って行く。この他集落から出る時にいつも携行するのがタバコである。タバコはスブットという布の袋に入れて持ち歩く。スプットの中には、タバコ用のビートルナッツ、石灰を入れた容器、これらをつつむギワッドの葉、そしてタバコの葉が入っている。この他にはビニールにつつんだマッチ箱、ナイロン製の撚紐など山中での必需品が入っている。また香港のタイガー印の軟こうも入っていた。

  ネグリートは大を飼っている。この集落には12匹の犬がいた。しぱしば狩猟には大を連れていった。犬の中にもリーダーがいて、なかなか堂々として精悍なメス犬だった。猟に行く時、樹液を犬の体にぬると元気が出るという樹皮もあっだが、効力の程は知らない。ネグリートの犬は飼主だけでなく、私達に対してもおとなしく、低地にいる大ほど恐ろしいものではない。だがいつも飢えていて、しばしぱ食い物の取り合いで犬どうしケンカをしている。ケンカを始めたり食事中にうるさくつきまとうと、ネグリートは容赦なく大きな石を投げつける。これがまた遠くへ逃げてもよく当たる。大は鳴きながら走り去るが、すぐまた食べ物を求めて寄ってくる。飢えた大の効用は、おかげでゴミらしいものが集落にはとんど落ちていないことである。この効用をネグリートも知ってか知らずか、木や籐の切りくず以外のものは目につかない。その点ではマニラの町よりも清潔である。

 狩猟対象となる動物は、すでに述べたようにシカ、イノシシそして猿である。熱帯の森林の中では、単位面積あたりの動・植物の種類は莫大なものである一方、同一種が群棲することがないと言われている。これは植物種に限らす、動物種についても同様である。そのため、狩猟戦略も熱帯独特のものになると考えられる(Hutterer 1982)。対象動物の生態にあわせて狩猟戦路が異なるものになっていることについてはグリフィン(Griffin and Griffin 1978)の報告がある。これによると、乾期と雨期では、雨量によって森林の状況、対象動物の活動範囲が異なる。乾期は森林の樹木の繁茂も低下しており、ネグリートの行動も比較的自由に行なわれる。森林の成育同様、動物にとっては食物が少ない時期にあたる。動物のネグリートに対する警戒も強い時期である。一方雨期には樹木の成育が著しく、ネグリートにとっては活動も制約される。動物にとっては食物も豊富で、成長期にあたる。この時期ネグリートに対する動物の瞥戒はゆるむと言う。雨期は活動の白由が比較的制約される反面、獲物の数が増える時期である。

 狩猟は昼ぱかりではなく、夜間にも行なわれている。夜間の狩猟は、おそらく懐中電燈の導人以後から始められたものと考えられる。夜間の狩猟方法は、グリフィン(前掲)一によると、獲物の寝こみをおそう方法とシカに懐中電燈の光を向ける方法がある。後者はシカが光に対して一瞬立ち止まった隙に矢を射る方法である。これは鹿の習性らしく、この習性を利用して行なわれる狩猟法である。

 こうして射止めた獲物はその場で解体され、必要な部分(主に肉)だけを持ち帰る。現在では毛皮は棄てているが、以前には利用していだ可能性が十分考えられる。骨も同様に多くは肉だけ剥ぎ取って、棄てられる。肉はその場で、狩猟パーティーの人数に応じて分割され、各人がその肉を葉でくるみ、つるや籐で背負子(カランペイヤス、図7参照)をつくって背に負い、集落へ持ち帰る。こうして持ち帰った肉は集落の全員に対して平等に分配される。余った肉は乾肉にして低地民との交換に用いられる。

 調理方法は鉄鍋の中でブッ切りにした肉を煮て、シシ鍋にして食べる。今朝まで山をかけまわっていたシカやイノシシの肉の味は格別である。私もいつ「肉」が帰って来るかと心待ちにしたものである。美味な肉は、ネグリートも格別なものであるという意識を持っていると思われる。肉はまた、低地民との交換品としても重要である。しかし狩猟パーティーが肉を持ち帰った時、彼らは決して喚声をあげて喜んだりはしない。飽くまでも静かで、集落は粛々としている。

 

II-6  漁撈活動

  集落が面しているピナカナワン川はよく澄んでおり、漁撈に適した川である。日常的なタンパク源は、シカ、イノシシよりもむしろ魚によって得ているものと考えられる。私達の滞在中、毎日体長15センチくらいのハゼに類する魚を10匹以上、ネグリートにもらっていた。30人以上にのぼる彼ら全体の魚の消費量はかなりにのぼると思われる。

  漁携用具は、太めの針金のモリである。この他に漁網や金網の仕掛けを所有しているが、使用を目撃したことはない。このモリ(バホット)は長さ1メートル以上、径2ミリ程度のもので、基部えぐりに矢筈のような快を作り出している(図8参照)。先端部はただ石で研いで鋭利にしただけである。このモリをゴムバンドで送り出す。この作業は全て水中で行なわれるため、水中メガネ(スリップ)が必要となってくる。木を削り出して、各人の顔面にぴったりと合わせなくてはならない。低地民から得た板ガラスの破片を接着材で装着する。それをゴムバンドを用いて密着させている。水中メガネをつけて川にもぐり、ゴムの力でモリを放って、魚を捕る漁である。この漁法はガラスやゴムバンドが必要なことから、早くても数十年の歴史しかもっていないものと思われる。もう一つ漁撈の際の道具は籐の紐である。漁に行く前に、予めこの紐を用意し、魚を目刺しにして、つるしで持って帰る。たりない時には、漁場近くの笹を利用するが、こうした紐も漁具とセットになっている。

  魚用にも離頭モリ(バッテリ)がある。モリの部分は針金を議きのぱしたものに切り込みを入れ逆刺を作り出している。これにひもをつけ250センチ程度)、柄に結びつけている。柄は木製で径5ミリ、長さは1メートルくらいである。これもゴムバンドの力で放つ。ウナギ等大型の魚を捕るのに用いられる。

  魚の種類は、ハゼに似たダラッグ、フナに似たテラピアが捕獲量も多い。この他に体長80150センチのウナギ、コイに似たミルクフィッシユ(アグワット)、青色をした体長1520センチのエビ。また早瀬に住むため、あまり捕れないが、やはりハゼに似たフリヤッグなどがある。フリヤッグは早瀬を流されないように、腹の下に吸盤をもっていて、石の上にはりついているめずらしい魚である。野生のウナギは初めて見たが、この大きさには驚かされた。味もシカやイノシシに次ぐものであった。

  漁撈にもパーティーがある。総じて狩猟よりも人数が多い。これは女や10歳以下の子供達も一緒に同行するからである。山中の森に比べ川原は安全な場所である。森に比べれぱ歩行もずっと楽である。漁撈はまた狩猟のように2日以上にわだることはない。朝出て行けば昼にもどり、昼に出てゆけば夕方に戻る。夜出ていっても一晩たって朝にはもどってくる。三度三度の食事のおかずを捕りに行くといったものであろうか。毎日かなりの量を捕ってくる。しかし狩猟によって、何日かかけて苦労して捕った1頭の動物の肉の量は、1匹の魚の肉とは比べものにならない。魚は大量に捕ることで日常のタンパク源となっている。漁撈は狩猟的な方法を用いているが、その安定性、日常性から”採集”的な性格をもっているとも言える。

 漁撈にも狩猟同様に、雨期と乾期では活動のあり方に違いがあるものと思われる。雨期は増水によって流れも早く、水も濁り、水温も下がるであろう。こうした条件の違いによって魚の捕獲量も変化すると考えられる。また漁撈も懐中電燈の導入以後、夜問でも行なうことができるようになった。特にウナギは夜問の漁で捕る。

 集落に持ち帰った魚は、うろこをおとして鍋の中で煮て食べる。相応の分配も当然あるだろうが、各家族のうちの誰かが参加しているので、各家族にうまくいきわたる。干魚にして保存させる技術も持っているが、これは自分達のためではなく、低地民との交換のために行なわれるものである。

 余暇と労働の境目を九時から五時というように区分することはむずかしい。狩猟にもゲームの要素はあるし、漁撈は水あそびのようなものである。どちらも女が同行する。もしこれをやらなければ生きてゆけないといった切実な思いに押されて出てゆくのは狩猟の方ではないだろうか。交換材料の入手ということの上でもやはり切実だろう。10日間の滞在中、エョックは特にそうだったと思う。イバンの婿になる人の親からすでに婚資を受けとっており、結婚式の準備は自分の方でしなくてはならない。

 

II-7  焼畑

  ネグリートは狩猟・漁撈活動の他に、農耕も行なっている。集落の裏手に約2万平方メートル程の焼畑をつくっている。彼らの焼畑は斜面ではなく、平坦地である。平坦地の火入れの方法は明らかではないが、河原に近い側から、斜面同様に点々と火入れをするものと思われる。火入れの前にはやはりある程度の伐採を行なって火種用の木材を用意するのであろう。ただ火道のような防火帯を設けるかどうかは疑問である。サンバレスのネグリートは火道を設けず、日本とは逆に斜面の下から火入れするため、延焼をおこして山火事になることもあるという。こうして用意された焼畑は、まだ大きな木が生き残り、焼け残った倒木があちらこちらに残っている。畑というイメージからほど遠く、荒地のような風景である。焼畑で使う農具は掘り棒である。トウモロコシの種などを植える時、この掘棒を地面に刺して穴をあけ、その中に種を入れ、足で踏みかためる。各家に常備されている道具ではなく、必要な時近くの木の枝を切り出して、先端を鋭らせてつくる。作業が終われば、すてられる。このように簡単な道具だから、狩猟・漁撈具のような維持・管理はなされない。木の伐採などの作業には、錠を用いる。この錠はポロと呼ばれ、低地民にも広く普及している道具だが、ネグリートはこのボロ1本で、木の切出しや調理、矢の修理などあらゆる作業を行なっている。集落を出る時も携帯する。刃は薄く、幅広で、切と斬の機能を併せ持つ。大小さまざま、形態もいろいろだが、彼らが所有していたポロは全長50センチほどの大形のものであった。

 焼畑でつくられる作物は、トウモロコシやイモ類等の主食となる作物の他、豆類、野菜類などがある。作付面積が広いのはトウモロコシ(マイス)で炭水化物の重要な位置を占めている。調茸時、米は植えられていなかったが、雨が多くなると植えるとのことであった。イモ類は、サツマイモ、キャッサバが栽培されていた。この焼畑は河原に近いため砂地で、イモの発達には適している。イモは根の他に葉も青物として利用される。マメ類はエンドウと小豆の二種類がある。野菜はキュウリの類(カバティティ)と葉を食すカラバーサ、ガナガンがある。この他にはトウガラシ、タバコなども栽培している。

 私たちの滞在中、トウモロコシはまだ2050センチくらいしか育っておらず、実をつけ収穫ができるようになるのはかなり後になるものと思われる。当時、日々の食事に利用されていたのは野菜類である。

  彼らの焼畑は30人の人間が1年間食べでいけるような規模のものではない。主に炭水化物の保給は低地民との交換によっで得られるトウモロコシや米が主体である。ではなぜ彼らが焼畑耕作を小規模でも行なっているのか。狩猟の成呆という予測不可能な、その意味では不安定な肉の確保が、交換を媒介とした炭水化物の確保を直接左右する。

炭水化物の確保も不安定にならざるを得ない。彼らの焼畑耕作は、予測不可能な条件によって危急に陥った場合の一種の安全策と思われる。もちろんこの安全策もある限度を越えれぱ持ちこたえることは出来ないだろう。その時にはテリトリーを越えて、血縁、親族関係をたどって、狩猟範囲を広げるか、他の集団に寄食するものと思われる。

  彼らの焼畑が、一種の安全策、予備的な性格をもっているということは、ネグリートの移動性の点からも明らかであろう。当時彼らの集落は、長くても10ケ月くらいしか営まれていない。その後どのくらいの間をそこザト止まっていたかは明らかでない。長くて1年問くらいと思われる。移動後焼畑の作物は発育するまで放置されるが、その間に農耕民に横取りされてしまう場合もある。その時には異議を述べることもなく、自ら身を引くという。彼らの移動性は焼畑にしばられることがない。彼らの移動先ではまた集落の後ろに焼畑がつくられる。

  また別の観点から彼らの焼畑を考えてみると、森の中へ分け入って行なわれる採集活動の労力を軽減するためのものとも考えられる。その理由として、すでに森の中で活動することの困難さについては述べたが、同時に熱帯の森林生態の特徴である、個体の群棲が見られないことにも起因するものと思われる。熱帯森林では動・植物の種類は莫大だが、各個体は分散して生育する。このようjな状況の中で食用植物を採集するには、当然活動範囲が大きくなってしまう。こうした労力を軽減するだめには、1ケ所に食用植物を集めてしまう方が得策である。彼らが野菜の類を日々の食事に少ない労力で供することができるのも、焼畑がひかえているためと思われる。

 

II-8  交換シスデム

  ネグリートと低地民の間にある交換のシステムは、互いの環境立地から得られる特定の産物を享受できるような相互補完的な機能を持っでいる。ネグリートの交換材料は、シカやイノシシの肉、魚そしてハチミツなどである。これらをもとにして低地民から得られるものは、トウモロコシ、米塩、砂糖、酒、コーヒー、ミルタ、味の素などの食料品、針金、金槌、ヤスリ、錠、懐中電燈、電池などの道具類、タバコ、石鹸、衣類などの日用品、ラジオ、プレーヤー、レコードまでさまざまな物に及んでいる。これらネグリートが交換によって得る物品は、それぞれの性格に応じて町と農村から導入してきたものである。彼らの集団が住む所から歩いて23時間のところに農村があるここまで肉を持ってきて、換金したり、交換する得るのは主に食料品で、トウモロコシや米である換金した現金を持ってこの辺のサリサリストアー(フィリピンでよくみかける小店舗)で塩や酒、タバコを買うこともはぼ日常的に行なわれている町へ行く時は、現金を持って行く。彼らの集落から歩きと船で1日、ジープで1時間のところにカガヤン州都、トウゲガラオがある。ここでは矢尻用の針金や、ヤスリ、懐中電燈、ラジオなどを買入れる。土しかしトウゲガラオまで出てゆくには船やジープに乗らなくてはならないので金がかかる町まではなかなか出てゆけない。逆に低地民が集落までやってきて、肉、魚を依頼することがあるこの時は低地民とともに荷物をかついで下りて行き、見返りの物品をもって帰ってくる。ある時持ち帰ったものは、塩1ガンタス(コッブ6杯)、砂糖3ガンタス、コーヒー2ガンタス、タバコ4バンダル(1バンダルはタバコの葉10枚)、コーンライス(トウモロコシをつぶして粉にしたもの)10ガンタス、米1ガンタス、電池5本、懐中電燈2本、ゴムバンド1本、石齢3個であった。これに対して交換したものは、シカ、イノシシの肉各半頭ずつ、干魚20匹、ウナギ10匹である。見返りにもって帰った物品はだいたい300ペソくらいになると考えられる。また低地民自身がネグリートのテリトリー内に魚捕りにやってくる時にもみやげとして、米や酒、タバコ、コーヒーをもってくる。

  交換によって得ている物品は、彼らが主食としているトウモロコシ、米そして塩であり、また狩猟具の材料として欠かせないものが中心となっている。その意味で交換はネグリートの経済生活の上で重要な位置を占めている。そのうえ、交換によって主食である炭水化物を人手し、植物採集をあまり行なわないというところまで生計活動のパ夕−ンが変化している。ネグリートにとっての交換は狩猟、採集、漁撈と同程度の重要性をもつひとつの生計戦略にまでなづている。交換システムは、このように経済面で重要であるが、社会的にもその重要性を評価しなくてはならない。交換が成立する背景には両者の間に平和的関係が保たれなくてはならない。低地民の側にネグリートを軽んじるところが明らかに見られ、交換が不当に行なわれることもしばしぱあるようだ。しかし、1つの生計戦略と化している交換を今後も維持してゆかなくてはならないネグリートは、低地民と良い関係を保っておかなくてはならない。

  低地民との間にぱかり交換システムがあるわけではない。ネグリートの間でも交換が行なわれる。この交換のネットワークは姻戚関係をもとにしている。この場合の交換にはいろいろのかたちがある。まず1つの集団が全員で贈り物をもって他の集団を訪れる場合、個々人が集団をはなれ、他葉団に滞在しながら生活する場合、また他の集団のテリトリーの中に入って狩猟を行なう場合などである。これらは直接物品を交換する場合と場を交換する場合に分けられるが、いずれも婚姻関係をもとにして行なわれている。雨期になって食料が欠乏しはじめると、より一層この関係は利用されてくるものと思われる。ネグリート同士の交換のあり方は低地民との交換と比べてみると経済的には同じレベルで論じられても、社会的には異質であると思われる。そこには低地民との間のクールな関係よりは温かい、互恵的な関係があると考えられる。それを利用してエヨックは北のバッガオのテリトリーまで猟に行き、キリノ、オダグの2人は海辺のマリブに滞在している。娘のリリンを頼ってこの集団に加わったアンシャン家族の例もある。このように考えていくとネグリート間の交換には、経済的側面と社会的側面が分かちがたく深く根ざしているものと言えるだろう。

 

II-9  植物利用

  ネグリート探訪前から、彼らの植物利用には関心があった。有機物を材料とする考古遺物の遺存は極めて乏しい。しかし長い歴史をもつ東南アジアの狩猟民の生活の中で、植物の利用は、彼らの物質文化の中で大きな位置を占めていたものと考えられる。現在のネグリートの物質文化は、すでに過去の狩猟民のそれとは大きくかけはなれたものになっているものと思われるが、今でもその生活の大部分をまわりの自然に依存している以上、植物に対する知識は卓越したものであろう。植物の利用方法として、予め、@食用、A薬用、B道具の材料用、Cサイン、D燃料の5つに分けて調査しでみた。10日間で集まった植物の種類は限られているが、以下報告したい。

1.食用(表4)

 焼畑での作物の他に、野生の植物では12種採集できた。乾期の終わりということもあって種類も少なく、これで全てというわけではないと思われる。焼畑耕作以前にはもっと多くの野生植物に対する知識は豊富であっただろう。葉、実、茎、根など食用とする部分は種類によって異なる。葉は肉や魚といっしょに煮て食ベ、根は焼・煮両方に、実は生で、茎はしんの部分を取り出して塩をつけて食べる。ハチミツは良い交換材料として重要である。

2.薬用(表3)

 さまざまな種類の植物がいろいろな病気に対して用いられている。今回かみタバコ用をのぞいて二二種の薬草が採集できたが、全体では200種もあるそうだ。ネグリートに限らずフィリピンは薬草の多いところで、本もたくさん出ている。

3.道具の材料(表5)

 狩猟具、建築用、容器、装飾品等、幅広く道具の材料として用いられている。鉄器の導入以前には、直接環境に働きかけるための道具2次的道具)として矢尻、ナイフ、ワナ等、植物性の道具の利用範囲はより大きかったものと考えられる。

4.サイン

 文字のない社会では葉の切り込みなどその社会の人間の間に特有な惜報伝達の方法がある(ムブティ・ピグミーの例,Tanno 1981)。彼らにも植物を用いた情報伝達の方法がないか調べてみた。かなり瑚待したが一つだけしか間けなかった。それはパトウルドウと呼ぱれ、先行する人間が後から来る者に自分の位置を教えるものである。パトウルドウにはまわりに落ちた枯木や草、竹などを用いる。その木切れを石の上に置き、木の方向と傾きぐわいで位置を知らせる。

 彼らの遠いというのは30キロメートル、中位は5キロメートルぐらいである。このほか枝や草を析ったりして印にしないかどうかたすねたが、こうすると木や草のにおいで獲物が逃げるので行なわないとのことであった。

5.燃料

 最後に以上の4つのジャンルに入らない植物利用法がもう1つある。それはたき木のための木である。たき木ひろいは毎日やらなくてはならない重要な作業である。量は正確には分からないが1度集めに行くと20キログラムくらい担いで帰る。たき木は河原や焼畑からひろってくる。焼畑の朽木は焼けぼっくいになっているので、たき木としても都合がいい。案外焼畑のかくれた効用がこんなところにもあるのかもしれない。

 

II-10  その他の道具類と生活

  今まで述べなかった道具類について報告する。トウモロコシやコーヒーを粉にする時に石皿と敲石を用いるが、コーピー用、トウモロコシ用と分けて使っている。製粉用石皿、敲石のセットはビ二−ルに包んでしまっておく。便う時には、ビ二−ルを石皿の下に敷く。こうすると粉にしたコーピーやトウモロコシも散らぱらない。ビニール以前にも看皿、敵石のセットには獣皮や樹皮等の敷物が加わっていたものと思われる。

  他に石の道具は台石がある。石皿に比べて厚みが30センチくらいあり、これは針金を敵き伸ばす台として用いられる(アグパンダヤン)。矢尻をつくる時、曲がった鈷を真直にする時用いられる。こうした石製用具の石質は硬く、砂岩や花崗岩、閃縁岩等の比較的目の粗い石質とは異なる。使用中の石の硬度が要求され、また加工物の中に石皿、敵石の欠けから生じる細かい鉱物の混入をさけるためと考えられる。

  かみタバコ用の石灰は、川でとれるタニシのような巻貝を焼いてつくる。貝を鍋の上で焼き、細かくつぶす。これを竹の筒の中に約一時間入れておく。その間に筒の中で石灰が焼け、煙を出す。こうしてパウダー状の石灰が出きあがる。

  衣類は男はフンドシ姿がほとんどであるが、女は日常的にもスカート、ワンピースを着ている。写真を撮ってくれとやって来る時にはダンボール箱の中からズポン、シャツを出して着てくる。ある時、服はよくない、狩猟に行く時のかっこうがいいと言うと、ズポン、シャツのかわりに赤い布を出して腹にまいてやって未た。この赤い布は結婚式などの祝い事の時に付けるものだと言う。女のおしやれはここも同じで、衣服はよく洗濯している。よくも毎日洗濯するはど服を持っているものだと思うくらいである。また水浴も日に2度くらいは行なうので、石齢をよく使う。水あぴの後は女があつまって化粧をしている。各人コンパタトを持っていた。耳には草や花のピアスをするだめ、穴があいていた。この穴は海に住む大きなカニのハサミで穿つという。

 ラジオは朝起きるとすぐに鳴り始める。ほぼ各家に一台あってはとんど一日中鳴りわたっている。電源は電池で、懐中電燈、ブレーヤー同様消費量が多い。その補給も低地民との交換によらなくてはならない。ブレーヤーも1台あって、レコードもシングルばかり30枚以上持っている。ラジオ1100ペソ、ブレーヤーが360ペソくらいだから、彼らにとっては貴童な財産である。ティ、ポイはこの集団のミユージシャンで、低地民手製のバンジョウ(カホンプホン)を持っている。

  夜は日中に比べてかなり寒い。夜具としてタオルケットを使用していた。明け方4時頃が特に寒いが、そんな時、たき火をつけることもある。

 

III  おわりに

  いままで生計活動と物質文化を中心に報告してきた。最後に以下では、彼らの社会生活を支えている移動性・交換・平等主義について考えてみたい。

  移動性・交換・平等主義

  移動については集団としての移動と、家族や個人での移動に分けられる。集団としての移動は主にテリトリー内部での移動で、何ケ月かに1度、集落の位置を変える。私達が訪れたバッグライは乾期の集落で、雨期になるとやや下流のサライに移動すると言っていた。この場合の移動は季節にあわせたもので環境上の理由によるものと思われる。サライはバックライよりも川幅が広く、河原も大きいので雨期の集落としては増水に対処しやすいものと思われる。一方、家族や個人での移動は性格が異なっている。姻戚関係をたどって好きな時に集団から離れることができる。集団内でのいざこざが起これぱ、何ケ月か他の集団に滞在して、またはとぼりがさめたころ帰ってくることもできる。自由な移動性が集団の中の社会生活に変化を与え、軋礫の解消に役立っているものと考えられる。バックライのネグリートは婚姻形態が、夫方居住婚とか、妻方居住婚というように明確に分けられるものではない。マヌキットの例のように一定期間妻方居住を続け、その後に父方の集団に帰ることもある。ネグリート自身はバランスをとるという言い方をしているが、これは一定の集団の規模を保つためとも考えられる。エョックの末娘イバンの夫はこの集団に加わることになっていた。そのためマヌキット、ウダンの家族は集団をはなれ、何年間か父方の集団で暮らすことができるようになったものと思われる。このような家族の離合集散が、明確な父系バンドではないこの集団の特徴と言えるかもしれない。このため彼らの集団をバンドとは呼んでこなかった。しかし、そうかといって彼らの集団は合成バンドのような地縁的つながりや同一の利害で結ぴついているものでもないと考えられる。父系の出自を重視するといった強い要請はないが、しかしこの集団にも構成員の確保という要請はあり、しかもそれが血縁によって保たれていることも事実である。移動性は何よりも狩猟民の特徴であるが、生活に変化をもたせ、また集団内部での人間関係の正常化をはかるというプラスの面を持っている反面、マイナス面もうかがい知ることができる。そのマイナス面はやはり不安定な生活環境であろう。その生活基盤が白然環境を相手にしている限り、食料確保が不安定となることはさけられない。幼児の死亡率も高い。こうした移動牛活の不安定さを防ぐため、いろいろな装置が設けられている。まず第一に、彼らの食料分配の平等主義があげられる。そして次に婚姻関係をもとにした集団間での交換である。分配の平等主義はよく徹底したものになっていると思われる。というのは彼らは低地民との交換で欲しいものが手に入る。交換材料となるのは肉や魚、ハチミツなどである。もし誰かが、これらの交換材料をあまり分配せず、より多くを自分のもとに置けば、低地民との交換でより多くのものが手に入ることになる。ピグミーでは現にこうしたことが起こりつつあるという(市川1982)。簡単な理屈であるが、しかし彼らはこれをしない。交換して得た物品も平等に分配する。誰かが富んで誰かが貧乏ということがない。この理由はやや説明がむずかしい。ネグリート自身、個人に財を集中させることを自制しているのだろうか。こうした問題はいつ頃、なぜ人間は富を蓄積するのかという間題と関連しでいる。こうした問題は即座に明確な解答が得られる性格のものではないが、交換相手の低地民の側に、その理由があるように考えられる。交換の相手である低地民は商人でないというのも、その理由のひとつではないだろうか。ネグリートから肉やハチミツを入手する低地民はそのほとんどを自分達が消費している。これがもし商人なら、ネグリートとの交換も定期的なものになり、肉をより多く得るためにネグリートの物欲をかきたてるような手練手管でせまってゆくだろう。こうしてネグリートを徐々に一つのマーケットネットワークの中に引き込んでいくとは考えられないだろうか。ネグリートの側でも、確かに物に対する欲望は待ち併せているが、それを十分にかきたてるほど、積極的な「物」の流人までには至っていない。ネグリートの交換相手である低地民の社会も「静かな社会」であり、土着的な経済基盤をもつ社会であることが、かろうじてネグリートを「プアーソサエティ」に格下げしない理由の一端とは考えられないだろうか。

 移動性のマイナス面を防ぐもう1つの装置は、ネグリート間で結ぱれた婚姻関係をもとにして、テリトリーを越えて行なわれる交換である。この交換は互酬制がその行動原理となっており、経済的・社会的・儀礼的側面が重複しているものと考えられる。その意味では、ヨーロピアン・コンタクト以前の世界中の未開社会に存在した儀礼的交換と同じ機能を持っている(Dalton 1977)。他集団と社会関係を結び、儀礼の場においてこの関係を確めあい、維持し続けることで経済的基盤の保障にも役立ち、また家族・個人単位での移動も可能にしている。彼が自分達のテリトリー外で生まれている例が多いものも、こうした関係が確かなものでなくては起こりえない。自分達のテリトリー内で食料が不足した時にも、この関係をたどって他の集団に援助を求めることができる。このようにネグリートの葉団間に結ばれた社会関係は各集団内部での経済的・社会的な自由度を高めるよう機能しているものと考えられる。

  また、ネグリートと低地民の間、つまり生業形態の異なる集団の問における交換にまつわるさまざまな問題点は、束南アジア先史学においても、今後、重要なテーマとなるであろう。他の熱帯地域同様、ここでも現在に至るまで、狩猟・採集経済が存続している。従来、この問題に対しては狩猟・採集民が山の中に隔絶されていたために、より進んだ文化の影響を受けなかったからだと説明されてきた。しかし最近では、狩猟・採集民はけっして文化的に隔絶されたものではなく、生業形態の異なる、そして文化の発展段階の異なる農耕民と交流を持ち、経済的相互扶助関係が結ぱれていたのではないかという間題が、ピーターソン夫妻によって呈示されている(Peterson and Peterson 1977)。また、このように異なる文化的集団のモザイク状態がなぜ起こったのかについては、同様な研究がタイの考古資料を用いて報告されている(Kennedy 1977)。東南アジア以外の熱帯地域でも、こうした問題が論しられるようになつてきている(Milton 1984)。東南アジアでは、ホアビニアンに代表される狩猟・採集民の文化が長い間存続するといわれている。一方では農耕の発展とともに、新石器、金属器時代をむかえながら、他方で、狩猟・採集文化が併存していたのではないかという仮説も出されている(Hutterer 1976)。このような東南アジア先史時代における文化発展の様相を説明する有力な手がかりとしてネグリート(狩猟・採集民)と低地民(農耕民)との間にみられる交換は、今後重要なテーマとなろう。

 

謝辞

 この調査を行なうにあたって、以下の諸先生方の御教示・御指導をいただいた。末尾ながら、ここに明記し、感謝したい。フィリピン国立博物館副館長  エバンゲリスタ博士(Dr.Alfredo E.Evangelista)、同、人類学部長・ペラルタ博士(Dr.Jesus T.Peralta)、同、民族学部研究員・バルボッサ氏(Mr.Altemio Barbosa)、同、ペニアブランカフィールドステーション、バガヤン氏(Mr.Benjamin Bagayan)、弘前大学人文学部  田中二郎氏・丹野正氏、筑波大学  西田正規氏、上智大学アジア文化研究所  青柳洋治氏、民族文化映像研究所  姫田忠義氏、東京大学総合資料館  丑野毅氏・山浦清氏、中近東文化センター  川床睦夫氏、清水展氏、結城央隆氏をはじめとするフィリピン研究会の方々、ミシガン大学博物館  西村正雄氏、最後に、私たちを快く迎え入れてくれたペニアブランカのネグリートのみなさんに心から感謝したい。

 

1: 西田正規氏のご教示による。

2: 清水展氏のご教示による。清水氏の調査したサンバレスでは、焼畑を主たる生業としており、そのため森林が焼かれて雨で表土が流出し、年中、川の水が濁り、ペニアブランカのような漁撈ができなくなっている。

3: 「火道」は焼畑の火入れの際、延焼を防ぐための防火帯。姫田忠義氏のご教示による。

4: バルポッサ氏のご教示による。

 

 

文献目録

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市川光雄

1978     「ムプティ・ピグミーの屈住集団」『季刊人類学』9-l: 3-85

小川英文

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1983     『食料獲得の技術誌』加藤晋平訳、法政大学出版局

清野謙次

1942     『太平洋に於ける民族文化の交流』大平洋協会編

口蔵幸雄

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清水展

1981a   MtPlnatubo雨西麓ネグリート社会にける結婚と婚資−集団構成の変容をめぐって」『民族学研究』46-l:35-54.

1981b   MtPinatuboネグリートの経済生活;定着犂耕農業プロジェクトの成否とその影響を中心として−」『東洋文化研究所紀要』87: 145-196.

田中二郎

1980     『プッシユマン』第二版、思素社

丹野正

1981       Plant Utilizatlon of the Mbuti Pygmieswith Special Refefence to theif Material Culture and Use of Wild Vegetable Foods.African Study Monographs 1(1):1-53, Kyoto Universlty

1982       「ヒト化と道具の紀元についての一試」、弘前大学人文学部『文経論叢』17-3: 1-15