狩猟採集民ネグリトの考古学

ー共生関係が提起する諸問題ー

小川英文

 

はじめに

 フィリピンに住む狩猟採集民ネグリトは、現在フィリピン諸島内全域を合わせて1万から1万5千人と推定されている。ネグリトはかつてマレー系人が移住する以前からの先住民として、この諸島内全域に暮らしていたが、長い年月にわたって、くりかえし行われたであろうマレー系人の移住によって、ネグリトは低地から徐々に山岳地帯に追いやられ、低地農耕民の進入を容易には許さない熱帯雨林や人口希薄な島にのこされたものと考えられている。ネグリトとは元来、スペイン語で「小さな黒人」を意味し、フィリピンの低地に住むマレー系の人々とは形質的に異なり、山中に住み、低身長、縮毛、暗褐色の皮膚をもつネグリトをみたスペイン人が呼んだことに由来する。アジア地域にはマレー半島のセマン族やインド洋のアンダマン諸島民が同じような形質的特徴をもち、同様にネグリトと呼ばれている。現在、フィリピンのネグリトは、ルソン島北東部シエラマドレ山中、同じくルソン島中部のピナトゥボ山中、さらにフィリピン中部のネグロス島の一部やパラワン島、そしてフィリピン南部に位置するミンダナオ島北東部などで生活している。各地域のネグリトはそれぞれ異なった民族名称で呼ばれているが、本稿でとりあげるルソン島北東部のネグリトは「イタ」、「アグタ」などの呼称をもつ民族集団である。

 近年、とくに70年代以降これらいずれの地域においても、木材伐採や開拓農民の入植など、低地民の熱帯雨林への侵入によって、各地のネグリトの生活領域は急速に浸食・圧迫されている。その結果、ネグリトの社会・経済生活は急激な変容を余儀なくされ、主要な生計活動も伝統的とされる狩猟採集から焼畑耕作、さらには農業労働へと変化の道筋をたどっている。狩猟採集民として遊動生活を営むネグリトを、国家のワクの中に組みいれようとする試みは植民地時代からみられるが、組織的な定住化政策はアメリカ統治時代の今世紀初頭からはじまり、独立後も多くの失敗をへて現在でも継続している。

 最近のネグリトに関する人類学的研究を振り返ってみると、70年代と80年代では時代状況・学界の趨勢などに大きく制約されてか、論点や結論が10年間で大きな変化をみせていることがわかる。以下で議論の中心となるネグリトと低地農耕民との「交換」をめぐる説明をみても、論点や研究目的の違いは明確である。70年代にはベトナム戦争をはじめとする東西冷戦のさなかで、研究者の厭戦気分、現代社会への幻滅を反映して、ネグリトと農耕民の関係を調和的、安定的なものとしてイメージし、「高貴なる野蛮人」神話あるいは"Man, the Hunter (Lee and De Vore 1968)"神話を作り上げていった。しかし80年代には「交換」は少数者としてのネグリトが多数者である農耕民と共生するための窮余の適応手段として提示されており、より実態を直視した説明に変わってきている。ただしこの2つの時代に変らないものは、ネグリトと農耕民の「交換」をどれだけ過去にさかのぼらせることができるか、という議論である。このことは、2つの技術的背景が異なる集団がなぜ一方に同化・吸収されることなく現在に到っているのか、という疑問に説明を与えようとする学問的チャレンジには変化がなかったことを示している。

 このように人類学が提起した過去への問いかけに対して、長い時間のプロセスにおける人間行動の変化を取り扱う考古学はどのように応答することができるだろうか。従来のように東南アジア考古学にありがちな絶対的な調査不足や資料不足を楯にしていては、怠慢のそしりを受けかねない。この論考では、熱帯雨林の環境下で生活するネグリトと農耕民の間に長期間にわたって存在したと考えられる「交換」を軸とした経済・社会関係についての人類学の問いかけに対して、考古学の側からどのような返答を準備できるのかを念頭において、研究上の問題点を整理し、新たな調査方法を提示する。

 

I.ネグリトの考古学;熱帯雨林狩猟採集民の考古学はどのような問題をかかえているか?

 考古学研究とネグリト研究の接点は、まず石器研究にみることができる。人類史において石器は、土器や金属器が出現する以前、あるいは農耕・文明出現以前に、人類が狩猟採集生活を営んでいた旧石器時代の代表的な考古学遺物である。旧石器時代以降も世界中で石器は使用され続けているが、新石器時代には土器、その後は金属器へと、時代を代表する技術的所産の座を譲っている。

 かつて筆者はフィリピン、ルソン島北東部、カガヤン州ペニャブランカにある石灰岩洞穴出土の剥片石器群を、石器製作上の技術と使用上の機能に注目して分析を行なった。剥片石器とは石のかたまりをたたいてはぎ取った石の破片を利器としたもので、旧石器時代から長く人類によって製作され、利用されてきた石器である(図1, 2, 3, PL. 1, 2)。

 ペニャブランカはルソン島の東海岸つまり、太平洋側を南北に走るシエラマドレ山脈の西麓の石灰岩台地上に位置している。洞穴群は熱帯雨林に覆われたこの石灰岩台地で発見され、フィリピン国立博物館が70年代後半から80年代前半にかけて調査を行なった遺跡群である。ペニャブランカでは現在までに7カ所の洞穴遺跡が発掘され、12.000年前の剥片石器群や7.000年前の年代をもつ土器群から15、16世紀の中国・タイ・ベトナムの陶磁器が出土し、生活址あるいは墓地として長い期間利用された遺跡であることが分かっている。これらの洞穴群では、12.000年前の剥片石器群をのぞいて、すでに農耕が開始されていたと想定される7.000 年前以降の土層から、剥片石器と土器が共伴するかたちで出土している。このような考古学的状況からは、剥片石器がすぐに狩猟採集民ネグリトの所産であるとか、土器が出土するから農耕民が営んだ遺跡であるとにわかに断言はできない。このような遺跡の「担い手」の問題、あるいは農耕以降の時代においてネグリトがわれわれにのこした考古学的資料を明確に提示できない問題については、本論の主題である「交換」に関連しており、次章以降で議論したい。

 ペニャブランカの洞穴群のひとつ、金属器時代から陶磁器の時代(約2.000年前から16世紀までと推定される)の遺物を出土する洞穴から出土した剥片石器群の分析を行った結果、これらの剥片石器群は非常に単純な技法で製作され、植物性の素材を加工して新たに道具を製作する機能をもっていることが明らかになった(小川1984)。石器研究において、製作技法の分析を行なうのは常套手段であるが、石器の刃部にのこる使用痕からの機能分析は非常手段である。この方法をあえて使わなくてはならなかった背景には、東南アジアにみられる剥片石器の特殊性について述べなくてはならない。

 東南アジアの剥片石器は概して、ポイント(鏃や槍先)やナイフ型石器といった定形的な、つまり形からその機能を類推できる石器とは異なり、不定形な形態を有している(例外的に東南アジアの定形的な剥片石器としてスラウェシのマロス・ポイントなどがあげられる)。考古学では発掘で得られた未分化の状態にある遺物群の中に何らかの(とくに形態の)パターンを見い出しそれを基に分類を試みるが、形態が不定形な剥片石器は、分析の最初の段階から分析を拒んでいるいるかのようである。このような遺物のもつ特殊性・異質性ゆえに、形態を分類の基準として成果を挙げてきた考古学先進地域(欧米地域)の研究者からは、東南アジアの不定形剥片石器は技術的に劣ったもの、そしてついには文化的にも劣っているものとしてみられて来た。東南アジア考古学の研究は調査件数の少なさに加え、こうした西欧的な見方にも縛られてなかなか進展しなかった。

 東南アジアの剥片石器の形態や器種の貧弱さイコールこの地域の文化的停滞という認識が長い間横行していた。文化的「停滞論」はさらに、「未熟な」石器の存在の説明として狩猟採集民が現在でも東南アジア各地に存続する理由へと結びついていく。しかし実際、石器群を使用して旧石器時代さながらに生活している狩猟採集民は存在しない。ただ単に「停滞論」が石器と狩猟採集民という「未熟な」者同士を短絡的に結びつけたにすぎない。このように考古学先進地域が「停滞性」、「後進性」、「未熟さ」という解釈・説明を与えていればよかった風潮のなかで、ハイネゲルデルンだけはなぜ現存する狩猟採集民が長い時間の流れの中で農耕民に同化しなかったのか、という一歩踏み込んだ問題を設定していた(Heine-Gelderun1932)。この問題に対する彼の説明は、隔離モデル(isolate model)と呼ばれており、東南アジアにおける狩猟採集民は長期にわたって隔離状態が継続した結果、農耕に移行・同化するための技術を知らなかったというものである。隔離モデルは民族集団の多様性を説明するには格好のものとして長い間受けいれられてきた。現在でも多くの狩猟採集民研究者の頭の中に長い間の「隔離」、狩猟採集民としての「純粋さ」というバイアスを抱かせる「神話」的力をもっている。

 70年代以降になると、「停滞論」に変わる新たな研究の方向性を見いだす努力が行われるようになった。それは地域の特殊性を十分考慮に入れて、地域の脈絡の中で問題を説明していこうとする学問的枠組みである。不定形剥片石器へのアプローチの仕方としては、形態よりは石器がどのように使われていたかという機能の問題に着目するようになった。石器が不定形なのは、それなりの理由があるからだという相対的な考え方が定着しはじめた。また同時に、石器は自然に対して直接的に働きかける道具であり、それによって得られた資源をもとにして先史時代の人々は生計を立てていたと考えられるから、東南アジア島嶼部をおおう熱帯雨林という自然の特徴を認識し、そこで繰り広げられる人間と自然の生態学的関係を知ることは必須の要件であるという認識も生まれてきた。石器という道具が特定の環境下でどのように使われたのかという脈絡を問題にするように研究のアプローチの仕方が変ってきたのである。

 そのような新たな研究の枠組みが与えられて調査・研究に大いに弾みがついたが、石器研究には考古学固有の資料的制約が問題としてのこっている。遺跡から植物性の遺物、つまり腐りやすい有機質の遺物が出土することはまれで、将来的にも石器以外に先史時代の道具箱の中身がどのようなものであったかを発掘資料に期待することはほとんど不可能である。狩猟採集民の考古学的研究をより実態に近いものにするためには、考古資料以外の資料である現在の狩猟採集民から得た経験的な資料を用いて、先史時代と現在との間隙・断絶を埋める質の高い「詰めもの」が必要となってくる。そこで考古学者自らが特定の環境下で暮らす民族集団の中に入って行き、どのように自然環境を利用して生計を営んでいるかを調査する方法が採られるようになった。この方法は民族考古学(ethnoarchaeology)と呼ばれ、民族資料からのアナロジーによる直感的・主観的な考古資料の解釈を排除するために、特定のフィールドへ考古学者が自らおもむいて、目の前で繰り広げられる人間行動と物質文化の間の相関関係をもとにモデルを構築し、数ある可能性の中から最も妥当性の高い解釈を引き出すという方法である。モデルの有効性と解釈の妥当性は、他の研究者が検証することによってより一層高められることになる。石器による先史時代の狩猟採集民研究は、自ずから現在の狩猟採集民の調査・研究へと方向付けられることとなった。

 

II.ペニャブランカ・ネグリトの生活誌;熱帯雨林の狩猟採集民

 石器研究の結果から、過去の資料には欠落していた「植物性素材を用いた道具製作」の実態調査を目的として、ペニャブランカ山中のネグリト(ここではイタと呼ばれている)のキャンプへおもむいた。以下では839月における筆者の調査をもとにイタの生活実態を概述する(小川1985)。

 イタのキャンプはペニャブランカの石灰岩台地を両断して東西に流れるピナカヌアン川を遡って(東方向)徒歩一日の地点、川沿いにあった。ペニャブランカのネグリト、イタについては先行するいくつかの調査例がみられる(三吉1942,  Griffin 1978,  Barbosa 1985,  西田1985 私信)。

 イタの集団は、推定60才のエヨックという男性を中心とし、その妻、子どもの家族、親戚の家族で構成されている。到着時には6家族24人が世帯ごとに住んでいたが、一週間後には8家族31人に増えていた。この時期は雨期のはじまりにあたり、乾期の間分散していた家族が集まってより大きな集団を形成する時期であった。彼らはペニャブランカの川筋を雨季と乾季という季節ごとに上流・下流へと移動し、周囲の熱帯雨林を糧として生計を営んでいる。ピナカヌアン川の他の支流にも彼らと姻戚関係にある集団が住んでおり、さらにこの姻戚関係をたどってシエラマドレの西側の太平洋岸のネグリト集団とも絶えず往来している(図4, PL.3)。

 調査時は雨期にあたり、イタの集落は乾期に比べて集団も大きく、より定着的である。そのため住居のつくりも、乾期に用いられる差し掛け小屋よりはしっかりとした床面積5から10uの高床式であるが、材料は木の枝と竹、ヤシの葉でできた簡単なものである。集落は家族ごとにこのような高床式住居8個で構成されていた。

 イタの所有する道具は、それぞれ家族ごとに弓矢セット1、木の枠にガラスをはりつけた手製水中メガネと銛各1、段ボール1個分の衣服、鉄鍋1〜2個、ホーローびきの皿数枚、懐中電灯1、ラジオ1、山刀1が基本的な生活用具として備えられている。この他に個人的所有物として一人の音楽好きのイタは、単一電池で動くレコードプレーヤーと手製ギターをもっていた(PL.4)。

 彼らの集落は熱帯雨林に取り囲まれている。イタはこの森に棲む動・植物を対象として、狩猟・採集・漁撈活動を行なっている。熱帯雨林環境は高温多雨で、莫大なバイオマス(生物量)を抱えているため、外観からは人間が利用可能な資源が豊富なようにみえるが、実際はエネルギー循環のスピードが速いうえにそのシステムが非常に安定的なため、人間が食料として利用できる部分が非常に限られている。その結果、植物を食料とするシカやイノシシ、サルといった狩猟対象動物の個体数も同様に限定されてくる。このような理由から、熱帯雨林の自然に依存する狩猟採集生活は、かなり苦しいものである。「緑の砂漠」とも呼ばれる所以である。

 狩猟活動は主に弓矢によって行われる。弓はヤシ科植物を素材とした大弓で(男性の平均身長150cmよりも長い)、弦には特定の木の根を叩いたものにヨリをかけたものを使っている。矢柄は細身の竹、鏃には太い針がねを金槌あるいは石で叩いて柳葉状にしたものを用い、装着にはヤシ科植物の繊維の糸を巻き付け、さらに樹脂で固定している。矢羽根は大型の鳥(フィリピン鷲)の羽を用い、鏃と同様に矢柄に装着する(PL.5)。新しい矢には矢羽根を装着する箇所にあらかじめバーコード様の線条痕をつけて矢の所有者を明確にする。矢には男性のみならず女性の名前も記されている。女性が猟をしたときの方が男性よりも効率がよいという資料も提出されている(Griffin 1981)。弓矢の手入れ、とくに矢の補修作業は狩猟の前後に必ず行なわれ、作業に必要な備品(弦、矢柄、鏃、ヤシ科植物の繊維、接着剤としての樹脂を出す木)は常時、集団内にストックされている。弓矢のほか、イタは散弾銃で狩猟を行なうこともある。しかし銃で狩猟を行なうのは、のちに下で述べるように、農耕民がシカやイノシシを捕ってくるように依頼し、散弾を供給した場合に限られる。

 狩猟に出かける時は2〜5人のパーティを組む(PL.6)。パーティにはしばしば女性も同行し、前述のように弓矢猟を行なう。筆者の調査では、女性が同行した狩猟パーティは7回中5回であった(表1)。ときには母親が赤ん坊をかかえて狩猟パーティに同行することもあった。1回の狩猟にかけた日数は平均で約2日である。調査時はエヨックの娘の結婚が近く、獲物の肉を現金その他と交換して婚礼費用を捻出するために何度も狩猟に出かけて行った。

 シカやイノシシが捕れるとその場で解体し、蔓で背負子を作り、葉にくるんでキャンプまでもち帰る。肉は集団内で平等に分配される。サン・ブッシュマンやピグミーでは、動物を射止めた矢の所有者が、肉の一番いい部分をまず取るといわれている。イタも前述のように矢の線状痕によって所有者を特定するが、獲物を射止めたものが分配の優先権をもつということはない。むしろ矢の所有者の特定は、その維持・管理の責任者を明確にすることにある。

 漁撈活動は日常的に集落付近の川で行われる生計活動で、手製の木枠にガラスを樹脂で張り付けた水中メガネをつけて川に潜り、太い針金状のモリをゴムバンドで送り出すようにして魚を突く(PL.7)。漁撈活動は、狩猟活動が非日常的な生計活動であるのとは対照的に、日常的なタンパク質摂取を可能にするための重要な生計活動である。

 一方、炭水化物は採集活動によって得られると一般的には考えられているが(Man, the Hunter以降、採集活動が狩猟よりも重要であると認識されて、採集・狩猟民というように名称も逆転したほど)、これに反してイタの採集活動はあまり活発ではない。すでにふれたように熱帯雨林の環境下では人間が食用として開発可能な植物資源が、同じ熱帯の季節林やサバンナと比較しても非常に限られている。熱帯雨林は豊富な日射量と高温・多雨という気候条件に支えられて、単位面積当たりの膨大な生物量や生産量、種の多様性には目をみはるものがある。しかしその実態をよくみてみると、熱帯雨林全体が、栄養の分解・摂取・循環のサイクルが非常に速く効率的に行われるシステムを形成しているため、人間が食用としてこのシステムからもち出し可能な果実、葉、花といった再生産機能をもつ部分の生産に、栄養が十分に分配されていない(Hutterer 1982:121-2)。しかもそれら食用となる部分は高い樹冠の上に位置している。さらにはアルカロイド、タンニンなどの毒やトゲで防御されている。栄養分の多くは木質部に蓄えられ、地下の根部にはわずかしか蓄えられていない。季節性に乏しく、光・熱・水分供給の条件がほぼ安定している熱帯雨林では、水分供給が年間を通じて一定でない熱帯の季節林のように、再生産が雨期に一斉に起こり、それを人間が集中的に利用できるというわけにはいかない。種の多様性も食物利用の可能性を広げているようにみえるが、一定の範囲の内で同一種が分散して互いに距離をおいているため、利用の際にはかなりの距離を移動しなくてはならないというコストがかかる。このように炭水化物の摂取には多大な困難が予想される(Hutterer 1982:135(PL.8)

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 イタの集落の周囲には森を切り開いた小規模な焼畑が開かれており、トウモロコシ、オカボ、イモ、各種野菜、タバコなどが耕作されている(PL.9,10)。つまりイタも「農耕」を知っていることになるが、彼らの小さな焼畑だけでは、日常的な炭水化物摂取量を年間を通じてまかなうことはできない。コメやトウモロコシなどの炭水化物を必要量入手するため、イタはシカやイノシシの肉、魚や蜂蜜、籐などの森林産物を農耕民と「交換」している。農耕民がイタのキャンプまで来て肉を注文し、用意できた段階でイタが農耕民の家に後日届けて、必要なもの交換するということが、筆者の短い調査中に2度あった。イタが受け取る交換品はコメやトウモロコシに限らず、電池や針がね、水中メガネのガラス、ラジオ、酒、紙巻きタバコ、現金にまで及んでいる。

 この状況をどう理解すればいいだろうか。世界の他の狩猟採集民、例えばカラハリ砂漠のブッシュマンの場合には、獲得する食料の大部分は、女・子供・老人が採集活動によって得たものであることが知られている。しかしイタは、熱帯雨林では採集困難な植物性食料を、隣接する農耕民との交換によって補なっている。すると「交換」は、熱帯雨林の環境下では獲得が容易でない炭水化物の食物を、農耕民と社会的関係を結ぶことによって獲得し、生計戦略上の弱点を補なっている行為と考えることができる。反対に農耕民は、タンパク質確保のために家畜を飼っているが、日常の食用に向けることができるほど多くのブタやニワトリを飼っているわけではない。反対に農耕民はタンパク源が欠乏す

る傾向にある。つまり互いの弱点を補ないあうところに、交換が成立しているとみることができる。

 狩猟採集民と農耕民はそれぞれ熱帯雨林と、その外部の低地という異なった自然環境に生活基盤をおき、それぞれがアクセスしやすい資源を、互いに利用できるよう交換を行なっている。つまり異なったニッチ(生態的地位)に特殊化した適応を推進し、互いにコンペティション(競争)を避け、互いが開発しやすい資源を交換することによって、不足を補なうシステム(ある種の共生関係)を構築していると解釈できる。

 もしもこうした社会・経済的関係が非常に長い歴史(たとえばこの地域で農耕が開始されて以降、現在まで)をもっているとすれば、熱帯地域に住む狩猟採集民と農耕民の交換をベースにした共生関係を、考古学的に解明することが可能かもしれない。元来、この2つの人間集団は、技術的背景も社会組織も、生活様式も異なった集団なのである。人類が道具を使いはじめた約350万年前から農耕が開始される約1万年前まで、一様の戦略やシステムには限定できないが、人類の生計は狩猟採集によって支えられてきた。その後農耕社会が成立し、国家が出現すると、世界中でさまざまな社会システムの下に諸文明が築かれ、現在では世界に限られた数の狩猟採集社会しかのこっていない。その数少ない例であるイタは、農耕民との密接な接触・共生関係をもちながらも、なぜ現在まで存続することができたのだろうか。ここでみた「交換」はこの疑問に答えられるほどの歴史をもっているのだろうか。いずれにしても考古学はこうした過去における長い間の、人間行動の変化のプロセスを追うことのできる唯一の学問的手段である。

 

 石器研究のみでは補ないきれない人間行動を実際に観察して、先史時代における狩猟採集民の考古学に有効なモデルをつくろうという関心は、「交換」へと移行していった。それというのも「交換」モデルが、イタをはじめとするネグリトの存続、そして過去における農耕民との共存あるいは共生の問題について、隔離モデル(isolate Model に代わる説明を提示できる可能性と有効性をもっているからである。この問題について同じルソン島北部の他のネグリト集団で、より長期間にわたる調査と定量的データをもとにしたモデルが提示されている。次章ではこれらをめぐって議論したい。

 

III.狩猟採集民と農耕民は共生可能か?

 ここでは2人の人類学者がネグリト調査をもとにして提示した「交換」モデルについて議論したい。

(1)パラナン・ネグリト

 ペニャブランカからシエラマドレ山脈を越え、太平洋岸を南に約200kmのところに他のネグリト集団、パラナン・ネグリトが住む。パラナン地方はカガヤン州の南、イザベラ州に属し、前は太平洋、西側にはすぐシエラマドレが迫り、地理的にはカガヤン河流域に沿った幹線道路から隔絶された場所である。この地理的条件のため、かつて(今世紀はじめ)フィリピン独立軍司令官アギナルド将軍が、アメリカ軍の追求を逃れ潜伏していた場所としてフィリピン史上に名をのこしている。60年代の末から70年代のはじめにかけて、アメリカの人類学者ピーターソンがこの地域に住むネグリト集団を生計戦略の視点から、エネルギー収支の定量的調査をベースとして、「交換」についてのモデルを提示している(Perterson 1978a, 1978b, Peterson and Peterson 1977)(図5)。

 パラナンのネグリト(ここではアグタ:Agtaと呼ばれる)集団は、湾に面した平野部とその後背地の内陸地域に、3つの集団に分散して住んでおり、人口は合わせて約800人である。パラナン地域に元来住んでいたいわゆるマレー系の人々はパラナンと呼ばれ、湾に注ぐ川沿いに集落を形成し、水田と焼畑農耕を営んでいるが、第二次世界大戦後、外部からイロカノ(ルソン島北西部の民族集団)を中心とした移民の増加にともない、ピーターソンが調査を行った70年代はじめの農耕民の人口は約1万人である。

 アグタの生計活動は狩猟・漁撈活動を中心とし、さらに小規模な焼畑耕作を行なっている。一方、パラナンの生計活動は焼畑・水田耕作を行ない、トウモロコシ、ヤムイモを主要作物とし、このほかにコメ・パイナップル・バナナ・野菜などを作っている。家畜の保有は各家族平均して、農作業用のスイギュウ4頭、ニワトリ30、ブタ1頭である。これらの家畜は日常の食事で消費されることはなく、儀礼に供されるか現金収入のためのものである。一方タンパク源の獲得ではアグタが勝っており、アグタの狩猟と漁撈活動によって獲得される肉の量は、1家族平均で1カ月にイノシシ12kg、シカ3k、魚類43kgである。しかしこれと対照的に採集活動のほうはあまり活発ではなく、野生植物の果実、根茎類、貝類を補足的に採集し、焼畑耕作も小規模なもので、そこから得られる農作物は補完的・予備的な量しか供給できない。また焼畑は移動に際して放棄されるのが常である。

 アグタの3つの集団はそれぞれ異なった微小環境に応じて、獲得する食料資源の種類と量が異っている。食料資源の種類と量の違いは季節性によっても左右されるが、一つの地域で食料が不足した場合、他の地域から「交換」によって補足される。食料の交換はアグタの集団を越えた婚姻関係をたどって相互補完的に行こなわれている。

 さらにピーターソンが注目するのは、互いに技術的・社会的背景が異なるアグタとパラナンとの間で行なわれる「交換」である。食料交換によるエネルギーの相互補完性は非常に高く、パラナン人口の3分の2がタンパク源の30〜50%をアグタに、アグタ人口のほとんどが炭水化物の70〜100%をパラナンに依存している。「交換」は食料だけに限らず、労働力と土地(農地)にもみられる。アグタはパラナンの農地で行われる植え付け、収穫などの農作業に労働力を提供し、そのみ返りに作物や賃金を受け取っている。またアグタが集落付近で切り開いた焼畑が、季節的な移動によって放棄された後にパラナンが利用する場合には、アグタへ農作物などを送って補償する。

 アグタとパラナンとの間で行なわれている主食・労働力・土地の「交換」は、資源の相互依存関係を確立しているが、この「交換」を社会的に規定しているものは、イバイ(ibay)と呼ばれるアグタとパラナンとの間に結ばれた擬制的親族関係である。アグタとイバイ関係を取り結んでいるパラナンは全体の3分の1、反対にアグタはそのほとんどが自分のイバイをパラナンにもっている。さらにイバイは親から子へと受け継がれ、相互依存関係を安定させている。食料のほかにもアグタがパラナンから薬や電池などをもらったり、パラナンがアグタに山越えのガイドを依頼する時にも利用される。

 アグタとパラナンの間にみられる「交換」は主食や主食を生産する労働力を、技術体系と社会組織が互いに異なった集団に依存し、互いに不足する部分の確保をより確実にするために、イバイという制度化された社会関係を結んでいる。このように「交換」が確固として存在し、その社会関係が制度化されている生計戦略を、ピーターソンらは「交換適応( exchange adaptation )」という名でモデル化している(Peterson and Peterson 1977)。つまりアグタとパラナンとの間の交換は、2つの生業形態(subsistence mode)・生計戦略(subsistence strategy)の異なる集団が、それぞれの自然環境の中で開発可能であるが、限られた資源に適した労働力の特殊化を行なうことによって、1つの生計集団ではなし得ない、より高次元の経済システムを作りあげているというものである。

 ではなぜ双方の集団が、このような生計戦略の特殊化を行なったかのかという理由を考えるためには、それぞれの集団の労働投下の実態を検討しなくてはならない。パラナンは、アグタとの肉の交換のために、自らが生産した作物の10〜30%を充てている。もしもパラナンが、自分たちで飼育している家畜だけにタンパク源を頼った場合、作物の一部を家畜の餌に充てたり、家畜が作物を荒らさないよう柵を作ったりという労働力のコストがかかる。この労働投下を嫌って、アグタのようにタンパク源を狩猟や漁撈に求めるとすると、生計活動の幅があまりにも多岐にわたりすぎ、実行不可能である。

 現実に展開しているのは、交換をとおして労働投下量の増大を押さえながらも、より多様な食料資源を獲得するという方法である。逆にアグタにとって採集活動は、前述したように熱帯雨林の環境下では、労働投下に見あうだけの炭水化物を得ることが非常に困難である。しかし炭水化物を補なうためにもしアグタが、焼畑・水田耕作をはじめれば、パラナンと耕地をめぐって競争(competition)が起こってしまう。そこでアグタはパラナンとの食料の交換をとおして、狩猟・漁撈という低い技術レベルにとどまりながらも、労働投下量を少なく押さえることに成功しているのである。

 約1万年前に人類が農耕と定住生活をはじめ、その後農耕社会が成立して以来、増加した人口を支えるため、人類は労働投下量の増大と技術革新という手段によって、絶えず環境収容量(carring capacity )を増やす努力をつづけてきた。しかしいったん回復した環境収容量も農耕の集約化によってさらに人口は増大し、更なる労働投下と技術革新による集約化が必要となってくる。一方、アグタとパラナンにみられる「交換適応」は、集約化という膨張の方向を採用することなく環境収容量を増大させる適応戦略ということができる(図6)。

 いったん農耕社会が成立すると、その後の人類社会は、文明へと向かって膨張をつづけて現在にいたっている。ボズラップが提唱した農耕発展のモデルが、文明社会へのポジティブな方向性を代弁しているとするならば( Boserup 1967 )、「交換適応」はネガティブな側面(いったん農耕をはじめれば絶え間ない膨張をつづけなくてはならない)を浮き彫りにしているとも考えることができる。

 

(2)カシグランネグリト

 パラナンから南へ約100kmに位置する海岸地帯、オーロラ州カシグランに住むネグリトと低地民にみられる交換を媒介とした「相利共生関係(symbiotic mutualism)」を調査したのが、ヘッドランドである(Headland 1986)。カシグランは太平洋に面したオーロラ州の北部に位置し、半島部を含むその広さは南北85km、東西10〜15kmで、海岸線の総延長は200kmに達し、その3分の2はサンゴ礁を形成している。その背後、つまり東側にはパラナン同様、シエラ・マドレ山脈が横たわり、山の斜面には熱帯雨林が広がり、西側の地域との交通を困難にしている。カシグラン地域全体の総面積は700平方キロである(図1)。

 ネグリト(ここでもパラナン同様、アグタと呼ばれている)と低地民(カシグランと呼ばれている)の人口は、1961年当時の統計によると、アグタ1.000人、カシグランが1万人で、両方合わせた人口密度は1.5人/kuであったが、1984年にはアグタ600人、カシグランが3万5千人で、人口密度は51人/kuと大幅に増加している。この理由は、過去20年間におけるフィリピン低地社会における人口増加とそれによって引き起こされる移民、開拓民の増加に原因が求められる。その一方でアグタの人口は確実に減少している。

 ヘッドランドは60年代からカシグランでミッション活動を行ないながら、まずアグタの言語調査を行なってきたが、70年代後半からは生計活動を中心とする人類学的調査を行なうようになった(Headland 1986)。

 その生計活動の性格から、ヘッドランドはカシグランアグタを、商業的狩猟採集民(commercial hunter-gatherer)と呼んでいる( Headland 1986:77)。これはカシグランの自然環境が、アグタが狩猟活動をほとんど行なえないくらいに悪化していることに起因している。この環境下でアグタはその労働力を資本として、低地農耕民とパトロン・クライアント関係のなかで生きている。つまりアグタはカシグラン農民の申し出に応じて山中に入り、籐(ラタン)の採集を行なったり、農作業の手伝いをして、コメやトウモロコシなどの主食やその他の生活雑貨を受けとっている。これでは農業労働者と変わりがないが、実はアグタにとってアクセスが容易な、もっとも労働投下量が少ない生計戦略である。アグタ男女の18カ月間の活動別労働投下の時間配分をみると、最大がラタンの採集で、以下、カシグラン農地での農業労働、自分たちの畑での農作業、漁撈、農作業以外の賃労働、道具の維持・管理、狩猟の順となり、もっとも時間をさいていない活動は植物性食物の採集活動であった(Headland 1986:557-562)

 このようなアグタの生計活動のあり方は、同時に摂取する食物のバラエティーと量にも反映されている。アグタの主食について5ヶ月間、558回の食事について調査したところ、コメを食べた回数が90%以上を占めていた。さらに5ヶ月間、460回の食事の副食についての結果は、魚貝類が53%で、副食なしが22%、野菜などが12%、購入したバゴオン(魚やエビから作る塩辛の類)や缶詰が9%、イノシシなど狩猟活動により獲得した肉が5%であった(Headland 1986:553-556)。主食のコメはアグタ自身が栽培したオカボではなく、そのほとんどは農耕民カシグランから、農作業の労働報酬として受けとったものである。いずれにしてもこの主食・副食のあり方は、上記の労働投下の実態と密接に関連しており、アグタの労働とその報酬を明確に反映するものとなっている。われわれが狩猟採集民に描くイメージから、かなり遠いところにカシグラン・アグタの生活の現状があることに驚かされる。分析の枠組みの違いが大きな原因と考えられるが、パラナン地域のアグタと比べて、カシグラン・アグタが狩猟採集民本来の生計活動から、いかにかけ離れているかが分かる。

 カシグランのアグタと農耕民の「交換」関係を、ヘッドランドは相利共生関係と説明している。つまり、アグタ・カシグラン間の「交換」は、2つの生業形態が異なる集団が、それぞれの自然環境に適したかたちで労働力を特殊化し、互いの生計上の欠損部分を補完することによって、互いに異なる生態的地位にありながら、全体として一つの 生態システムを形成している、とするものである。実際ヘッドランドの説明は、ピーターソンがパラナン地域のアグタと農耕民の「交換」関係を、「交換適応」として提示した説明と変わるところがない。しかし上でみてきたように、両者が描いた民族誌は質的に大きく異なっている。つまりピーターソンが描くパラナンの場合は、「安定的」で「神話的」であるが、ヘッドランドが描くカシグランの場合は、「不均衡」で「現実的」である。両者の生計活動の実態をみればその違いは明らかである。

 ではこの違いはどこから生起したものであろうか?それは「交換」を、技術や生態の視角からみているからであって、そこにアグタ・農耕民両者の社会的関係という視角を得ると「交換」の現実がより鮮明になる。

 アグタと農耕民の社会的関係を、なぜアグタは農耕を導入しないのか、という観点から考えてみたい。この設問は一見、いかにも技術的・生態的観点のようにみえる。しかし、狩猟採集民は農耕という技術を知らなかったのではなく、選択しなかったのだと考えれば、社会的関係の重要性が浮き彫りにされてくる。ヘッドランドの報告には、アグタが焼畑や常畑あるは水田耕作をはじめようとすると、すぐに農耕民との土地をめぐる競争に陥ってしまう事例が記されている(Headland 1986:426-434)。しかもこのような事例は過去にすでに何度もあって、アグタも農耕民との「競争」がどのような結果を招くものであるかをよく認識している。つまりアグタよりもはるかに大きな人口をもつ農耕民と、土地争いをしても勝ち目はないことをよく知っている。このような場合にアグタは、農耕民に自分たちの畑を奪われても、ただ黙って引きさがるのみである。

 アグタと農耕民の間の土地争いに関連して、政府主導によるアグタ定住化政策が、これまでいく度も失敗してきた事例をみてみよう。この理由としてよく語られるのは(実は農耕民側の語り口であるが)、アグタは政府の役人が定住キャンプを去ると、山へ戻ってしまうというものである。低地に定住することで、マラリヤ、コレラなどの病気にかかる。それを恐れて、定住キャンプの畑を捨てて山に戻るという説明である。しかしヘッドランドによると、役人が立ち去った後に、アグタがそれまで耕した焼畑を、農耕民がさっそく横取りしようとして、アグタを山へ追いやっているという(Headland 1986:431-4)。また農耕民は、アグタに頼っている森林産物や農作業の労働力、森林内のガイドなどの助力が引きつづき必要なため、定住化されてはこまるのである。農耕民は引きつづき、アグタとのパトロン・クライアント関係を望んでいるのである。このような事例は、アグタが農耕を選択しないのは、技術的に困難で彼らの生活習慣にも合わないというそれまでの説明を大きく覆すものである。この場合、アグタが農耕を選択しないのは、むしろ農耕民がそれを望まないからである。

 さらにアグタが農耕を選択しない別の理由を、狩猟採集民としてのアグタの社会原理の中にもみいだすことが可能である。アグタ自身が畑で生産する農作物は、彼らの平等主義の原則にしたがって、肉やその他の食料同様、分配の対象となる。アグタが「真正」な農耕民となるためには、彼らの社会原理である分配の原則(そして平等原理)から、農耕民に特徴的な貯蔵(そして私有財産)へと大きな飛躍が必要である。さらに遊動生活(nomadism)とそれによって形づくられる狩猟採集民の社会構造、生産様式全般にわたる大変革が必要である。

 この点に関連して、カシグランで取りあげられている事例は、アグタのキャンプよりもさらに山奥に定住し、水田耕作を営み農耕民になろうとするアグタ家族の実態である(Headland1986:425)。この家族はアグタとして生きることを拒否し、農耕民の生活様式、価値観にしたがって生きようとする。山奥でさまざまな困難があるにも関わらず、水田耕作を行なおうとする。言語も日常的にカシグラン語やイロカノ語を話している。息子たちはアグタの女性を結婚相手としてふさわしいものと認識していない。この事例は、アグタが農耕民に転換するするということは、同時に、狩猟採取民としてのアイデンティティ、自文化、自集団そしてアグタ経済システムとの決別を意味していることを物語っている。

 しかし、これほどまでに農耕民になろうと努力しても、彼らがなれるのはもっとも貧しい農耕民である。そのうえ、今でこそ彼らの耕作地は山奥にあるが、農耕民の人口が増加すれば山奥まで進出してきて、農耕民との土地をめぐる競争の危険性が表面化する。アグタが農耕民になろうとすれば、多大な努力が必要であるということが読者にもわかっていただけると思う。むしろアグタの大半は、農耕民との競争をあえて避ける道を選択したと考えることができる。

 

 「交換」をめぐる2つの事例と議論をみてきた。ピーターソンの「交換適応」は、ネグリトと農耕民との交換関係が、全体として一つの安定した生態システムを形成していることを示している。しかしシステムの安定性ばかりを強調すると、ネグリトがおかれている現実を見失うことにもなりかねない。ヘッドランドの「共生関係」が提示しているのは、より強大な集団(低地農耕民)に隣接し、同化・吸収の危機に直面し、追いつめられた狩猟採集民が選んだ適応戦略である。

 ここで議論が避けられないのは、現在狩猟採集民がおかれている状況は、近代の世界システムが浸透した結果であり、過去においては異なった状況を想定しなくてはならないとするウイルムセンに代表される修正主義者(revisionists)の主張である(Wilmsen 1983, Stiles 1992, Shott 1992)。しかしここでは修正主義ほどに、強烈な現状否定を支持するのではなく、ただネグリトと農耕民が形成しているシステムを、あまりにも安定的なものとして受けいれることに対して注意を喚起するにとどめておきたい(修正主義者と伝統主義者の論争、そしてこの論争を乗りこえるために重要な考古学の役割については、序論スチュアート論文参照)。

  

IV.共生関係はどのくらい遡れるか?

 さて長い間、人類学の議論をつづけてきたが、ここからは考古学の問題に入っていきたい。これまでみてきた、ネグリトと低地農耕民の間の共生関係のモデルを、東南アジアの過去あるいは考古学にあてはめてみるとどうなるだろうか? ネグリトと農耕民との間にみられる交換のように、確固とした、あるいは制度化までされている(パラナンのイバイのように)関係が成立する背景には、「交換」を契機とした共生の歴史が、かなり古いもの、歴史的深度をもったものである可能性を想定しておかなくてはならない。この点をふまえて以下では、共生関係のモデルを過去に適用する際、考えておかなくてはならない2つの考古学上の問題を検討する。

 

(1)考古学的枠組みの再検討

 共生モデルが考古学に提起している最初の問題点は、考古学の学問的枠組み自体に関わる問題である。考古学では、特定の遺跡から出土した遺物は、特定の時間や空間、技術や生業形態、あるいは人間集団や社会組織と互いに関係づけられ、それら文化類型の指標とされている。そこで石器と旧石器時代・狩猟採集経済、土器と新石器時代・農耕という文化段階の指標として考古遺物が位置づけられている。遺跡から出土した一片の土器片は、その背後にあるが目にみえない「関係」の網の、一つの結び目に位置づけられている。その「関係」は、土器製作者とその作業場にはじまって、その集落と社会組織、さらに他の集落との社会的・政治的関係、そして地域から時代へと、拡大していく。すべての考古学者はこの学問的枠組みを自明なものとして研究を行なっている。そして西欧を中心とする世界の一部地域では、この枠組みが大変有効に機能してきた。

 しかし、現在でも狩猟採集民が存続している東南アジアにおいて、狩猟採集民と農耕民が同時代的に混在する農耕出現以降の時期に、段階的・画一的に輪切りにされた時間と特定の考古遺物を結びつけられるものであろうか?土器や鉄器が出土すれば農耕民の遺跡とされ、石器が出土すれば狩猟採集民の遺跡であると断言できるのであろうか。東南アジア考古学の実際は、土器・鉄器・石器さらには中国陶磁器が同一文化層中から出土する事例がしばしばみられるのではないだろうか。

 たしかに人類史における技術の発展は、石器・土器・青銅器・鉄器という序列で起こった。そして狩猟採集民が、土器や鉄器を自ら作り出している事例は少ないこともたしかである。しかし技術の波及、人やものの移動は常に想定しておかなくてはならない、ましてやネグリトと農耕民の「交換」がすでに長い歴史をもって存在していたと想定される東南アジアの先史時代においては、土器や鉄器の製作者ではない狩猟採集民がこれらを所有し、利用していたと考えるのが自然である。

 ネグリトと農耕民の交換関係が、東南アジアの過去においても存在したと想定する時、画一的な文化発展の枠組みを当てはめることはできない。技術レベル、社会的統合のレベルが異なる集団が、互いに複雑な関係をもち、影響しあう状況を想定しておく必要がある。しかしこのような複雑な考古学的状況下では、まず遺跡の「担い手」が問題となる。一つの遺跡から石器や土器、場合によっては陶磁器が同じレベルで出土する状況から、遺跡を形成した人々の生業形態を特定することは困難な作業である。遺跡から出土した特定の遺物からその遺跡が狩猟採集民のものであるか、農耕民のものであるかという判断は容易ではない。かつてペニャブランカのイタが河原に営んでいたキャンプ址を廃棄直後に観察した結果からは、差し掛け小屋のあとに河原石のくぼみと炉址とみられる炭化物の残存、そして生計活動の残滓として廃棄された籐やヤシ科植物の繊維などがわずかに散乱している様子をうかがえた程度であった。このような集落址はひとたび大雨に流されれば、後世、発掘によって発見される可能性は非常に少ないと考えざるをえない。過去における狩猟採集民の考古資料においても、土器を共伴しない、1万年前の年代をもつ遺跡であれば狩猟採集民のものと判断できるが、ここで問題としているネグリトと農耕民の「関係」の時代に、狩猟採集民の遺跡と断定できる明確な資料はない。遺跡の「担い手」を特定するにはひとつの遺物や遺跡のレベルを越えた資料が必要となってくるのである。

 ではどのような方法で狩猟採集民、農耕民がそれぞれ営んだ遺跡を特定できるのだろうか。これには特効薬はないが、遺跡の立地条件、遺跡周囲の古環境データ、生計活動の資料、ある遺物が遺物全体の中で占める割合、特定の遺物の集中の度合い、道具製作の残滓の有無など、これらもろもろの資料の関連性の中で総合的に遺跡の担い手を判断しなくてはならない。さらに遺跡の担い手の問題を、集落から地域的な集落群全体に広げ、時代的変化を追求することで、狩猟採集民と農耕民の関係の歴史が明らかになるであろう。考古学的方法としては、地理的に限定された地域全体の遺跡群の性格を明らかにし、その時間的変化を追求するセテルメントアーケオロジーの手法が必要である。

 東南アジアにおける狩猟採集民の考古学は複雑な問題を抱えているといえる。しかしここで取りあげた考古学上の問題点は、単に東南アジアという特定の地域に、そして狩猟採集民の考古学という特定の課題に限定された問題ではない。文化段階の転換期、あるいは文化段階の典型を示す中心地域からみると周辺に位置する地域においては、元来、別々の文化段階に属すべき技術が同時に混在することはよく知られている。しかし最近までこのような文明の輝かしい方向性から「取りのこされた」時代や地域の問題は、考古学的な例外として置きざりにされてきたし、議論の中心にはなりえなかった。 狩猟採集民と農耕民との交換関係が考古学に提示している新たな学問的枠組みは、これまで考古学が取り扱ってこなかった、あるいは不得手としてきた問題に新たな道を開く可能性をもっている。同様の枠組みは、東ヨーロッパの中石器時代から新石器時代という文化段階の転換期の研究にも用いられている(Gregg 1988, 1991,  Zvelebell 1981, 1986)。このような考古学的問題がなぜ今日まで議論の対象にならなかったのか? その理由は明白である。狩猟採集民と農耕民の「交換」や周辺地域の限られた時期の考古学的問題は、輝かしい文明への進化の道筋から取りのこされた問題であるため、関心を向けられることがあまりなかったからである。考古学者の研究対象は、どのように人類は進歩してきたかであり、歴史の記述も文明を指向した描き方であった。同じ狩猟採集民の考古学でも、一定の方向性をもった、つまり進化への道筋なら、旧石器時代研究の王道である。しかし文明への方向性から取りのこされた問題は、あまり輝かしくないものとして議論の対象とはならなかった。それゆえ中心的な研究対象になることもなく、考古資料が少ないのが現状である。

 研究の「王道」からはずれた問題へのアプローチは、非常に複雑な手つづきを経て解決されなくてはならない。その手つづきは考古学の調査方法に限定されたものではなく、単純なものから複雑なものへ、絶えず変化の方向性を模索する文化の追求のみが、研究価値があるものとする偏見をも解消して行かなくてはならない。さもなければ将来にわたって、「狩猟採集民は旧石器時代の生きのこりである」とする先入観が生きつづけることになる。しかもそうした偏見や先入観をもっているわれわれ研究者によって、大部分の歴史が研究され、記述されるのである。人類史の中には、進化や発展だけでなく、文明へと向かわない方向性もあるのだという認識が必要である。農耕開始以降から現在までの一万年間に、狩猟採集民がたどってきた道筋は確かに輝かしい文明へとは向かわなかった。しかしその過程で、彼らが「生きのびる」ためには、さまざまな適応戦略が採られてきたことは明らかである。現在、ネグリトと農耕民の間にみられる、「交換」を媒介とする諸関係もその戦略の一つである。「進化」という学術用語は元来、生物の適応過程を示している。そして狩猟採集民が現在まで生きのびてきたプロセスも「進化」の一つのあり方ということができよう。

 

(2)狩猟採集民は熱帯雨林で自立できていたのか?

 共生関係モデルを東南アジアの過去に適用する際、考古学の問題として考えておかなくてはならない2つ目の点は、われわれ研究者が狩猟採集民に対して描いているイメージの問題に端を発している。すでに上で述べた、発展方向追求のバイアスと同様な問題であるが、ここではわれわれがイメージの中に描いている、「自立した存在」としての狩猟採集民の問題である。「自立した存在」とは、周辺の他の集団から独立、隔絶して交渉をもたず、生計を営んでいることを指す。このイメージは「真正な」あるいは「純粋な」狩猟採集民と呼ぶことができるかもしれない。はじめから多くの研究者が、狩猟採集民は現在でも周囲の他集団、ことに生業形態を異にする集団となんの交渉ももたずに、独立して生計を営んでいると想定しているなら、共生モデルを受け入れる素地があらかじめ奪われていることになる。そして実際、ヘッドランドら(Headland 1987464-7, Headland and Reid 1989,1991)とバイリーら(Bailey et al. 198959-60)は、現在でも驚くほど多くの研究者が、異なった生業形態をもつ集団から、独立して生計を営む狩猟採集民の姿を描いていると指摘し、この先入観の再検討を訴えている。

 熱帯雨林環境下における狩猟採集民と農耕民との共生関係の研究を、東南アジアと南米で互いの存在を知らずに進めていたヘッドランドら2人は、世界の熱帯環境下で暮らす狩猟採集民の民族誌と考古学資料を検討した結果、そもそも狩猟採集民は、農耕民との直接あるいは間接的な関係なしに(この場合、農耕の影響とは、交換のような農耕民との直接的な関係ばかりではなく、作物栽培による熱帯雨林環境の改変なども含む)、単独で生計を営むことが可能であったのか?という同じ疑問に到達した。換言すれば、他の集団との交流をもたず、「真正」で、「純粋」な狩猟採集民が、熱帯雨林環境下で存続し得たかという疑問である。ヘッドランドらはその後、雑誌論文で互いの存在と研究を知り、1990年に東南アジア、南米、アフリカの熱帯雨林にすむ狩猟採集民について研究する人類学・考古学者を集め、この問題についてシンポジウムを開いている(Headland and Bailey 1991)。ここにおいて「交換」を媒介とした「共生関係」のモデルは、世界中の熱帯雨林でかつて生活していた狩猟採集民の考古学的資料をもとにして、再検討されることになった(Brosius 1991:ボルネオ, Endicott and Bellwood 1991: マレー半島,  Dwyer and Minnegal 1991:ニューギニア, Bahuchet, McKey, and de Garine 1991:コンゴ, Stearman 1991:ボリビア)

 狩猟採集民は、農耕民との交換なしには、熱帯雨林のなかで生きのこれなかったのではないかという彼らの疑問は、熱帯雨林の中では、炭水化物の食料つまり植物性食料の採集が困難であるという点に発している。この事情に関してはすでにII章で述べたが、ここで略述すると、熱帯雨林はエネルギーを蓄積しないという生態システムの特徴をもっているため、人間が利用できる食用植物は、その量が限られていると同時に分散して生育している。さらにエネルギー量の蓄積が少ないヤムイモなどの炭水化物を掘り出す際の採集のコスト(労働投下)をかけたとしても、これを食べられる状態にするためには、またその上に加工のプロセス(水さらしなど)などのコストがかかる。結果的に炭水化物獲得には多大な労力が要求されることになる。本来、熱帯雨林では、炭水化物を十分に獲得できないのではないか?このことが熱帯雨林の狩猟採集民の人口を低く抑え(Hutterer  1983:179, 1986)、農耕民との「交換」を前提条件としなければ、熱帯雨林の中で適応できなかったのではないかという問題が提示された。

 現在の狩猟採集民が熱帯雨林で自活できているという事例がこれまでにも多く報告されている。もし「自活」が事実であったとしても、その理由は狩猟採集民が、長い年月の間、森を徐々に切り開き、本来の熱帯雨林環境を改変し、そこに食用となりうる新しい植物を熱帯雨林の外、つまり農耕民から導入してきたからこそ可能になったと考えることもできる。

 ヘッドランドらが世界中の熱帯雨林にすむ狩猟採集民の民族誌を調べたところ、狩猟採集民が農作物なしに生計を営んでいる(いた)という明確な民族誌や考古学資料はみられなかった(Headland 1987, Bailey et al. 1989)。そこで彼らは、農耕民による植物栽培と森林の開拓によって食料が密に分布し量も豊富になるまでは、人間の熱帯雨林への適応能力は従来考えられているよりもずっと限られていただろうという仮説を提示し、シンポジウムで討議している。

 すでに述べたように、シンポジウムの参加者はいずれも世界各地の熱帯雨林で狩猟採集民の研究を行なっている。彼らはそれぞれの調査で、炭水化物の生産量と獲得・摂取の実態、さらに考古学とエスノヒストリーの資料を再検討した。その結果、以下の批判が述べられている。

1.熱帯雨林の生態学的調査例が少なく、上の仮説の前提自体が資料不足により検討の余地がある。

2.現在も過去においても、熱帯雨林の狩猟採集民は、農耕民との関係なしに自活している。

3.仮説を支持できるほど、「交換」の民族例自体が十分ではない。 

 これらはいずれも仮説に対して否定的であった。これに対してバイリーとヘッドランドは、民族例では依然として、狩猟採集民が農作物に依存しており交換も存在する、そして農耕民による改変を受けた雨林環境を利用していると回答している。熱帯雨林環境についても、熱帯季節林との違いなど基本的な認識の誤りを指摘している(例えばサゴヤシの利用は熱帯季節林に限定されるなど)。真っ向から対決する結果となってしまったが、それというのも資料の絶対的不足に起因しているからである。そのため熱帯雨林の形成過程とその後の極相状態を示す花粉などの生態学的資料を早急に集積する。同時に考古学的資料の収集も急務である。農耕との関係を示す栽培植物遺体を出土せず、雨林に生息している動物骨を出土する遺跡の検出によって、農耕民との関係をもたない「自立的」狩猟採集民の考古学的資料を提示することができる。ここで狩猟採集民と農耕民との「交換」の歴史を探求するためには、考古学が唯一の方法あることが再確認された。

 

 食料資源が少ない熱帯雨林では、食料獲得のためにさまざまな新しい方法を試してみたことだろう。そのひとつが農耕民との「交換」である。農耕民の出現以降、狩猟採集民はさまざまな機会を利用して、新たな生計手段を模索してきたと想定できる。旧石器時代から新石器時代への移行期(Mesolithic: 中石器時代)には「生計手段の多極化(broad-spectrum  exploitation)」あるいは「タコ足的生業形態」(西田1981)を新たな生計戦略として食料獲得手段を模索した。その後、農耕という生計戦略が人類史の中で主流となると、狩猟採集民の生計戦略の変化のプロセスについて、「自立的」にしろ「共生的」にしろ、ある程度まで解明されている地域は、新大陸を除いて、世界中ほとんどないに等しい。そして現在、ネグリトの事例をみる限り、彼らの生計戦略は農耕民との共生関係に特殊化している。移民による低地民の増加、開発による森林伐採などによる生活環境の悪化が、熱帯雨林に住む狩猟採集民の生計戦略の選択肢を狭めているのが現状である。「交換」関係は、このような状況を前にしたネグリトの窮余の選択であると解釈できる。

 では狩猟採集民の研究例や資料の不足がどこに起因しているのか?その理由は前節で議論したように、文明の方向性からはずれた人類史の過程であることが研究者に大きな予見を事前に与えている、ということに求められるであろう。

 

V. 結論;考古学は狩猟採集民研究に貢献できるか?

 狩猟採集民と農耕民の「交換」関係が、過去にも存在したと仮定すると、東南アジアの熱帯雨林地域、とくに島嶼部の文化進化の複雑な過程をよく説明してくれる可能性を秘めている。そのプロセスについては、それまでの単純な西欧的発展段階モデルとは違う、複雑な様相を想定しておく必要がある。考古遺物や文化要素の累積性・存続性、そして狩猟採集民の現存については、長い間、「文明」の方向性から取りのこされた、あるいはその方向性に貢献してこなかったという説明がなされてきた。しかしピーターソンの「交換適応」やヘッドランドの「共生」モデルは、東南アジアの文化進化の説明に新たな視座を与えるものである。

 最後に検討したヘッドランドとバイリーの仮説は、熱帯雨林に住む狩猟採集民の研究に大きな波紋を投げかけている。これを受けて考古学は狩猟採集民研究に貢献できるかを再度考える必要がある。その際注意しなくてはならないのは、狩猟採集民の現状を安定的なシステムとして過去に反映させるのではなく、同時に、狩猟採集民社会の過去を「豊かな社会(affluent society)」として「伝統的」な狩猟採集民モデルをあてはめるのでもなく、しかしながら狩猟採集民の現状のすべてが世界経済システムに「強要された」結果とみるのでもない、という視点や立場である。つまり「現状」に制約を受けながらも、「現状」を「過去」に無理強いしないモデルが必要なのである。

 

 「交換」の議論の最後に、ここでは結論にかえて、新たな問題設定と考古学的アプローチを提唱したい。まず問題を以下のように設定したい。

 熱帯雨林環境下の狩猟採集民と農耕民との「交換」、「共生関係」はいつごろから、どのような過程を経て現在に到っているのか、そしてこの問題へのアプローチとして、さらに以下の考古学的方法(考古学が過去における人間社会のすべての分野に対する総合的・学際的な学問であるという意味と期待をこめて)を提示したい。

(1)熱帯雨林の形成史:古生態学的資料の蓄積は限られている。まずは特定の調査地のなかで基礎的な資料の集積を行ない、その地域の熱帯雨林がいつごろから形成され、どのようなプロセスをたどって現在にいたったかを検討する。その際、資料の収集には花粉分析などの方法を用いる。

(2)熱帯雨林における植物性食物のバイオマスと分布密度に関する生態調査:炭水化物がはたして熱帯雨林では本当に獲得困難であるのかどうかを再検討するため、世界の熱帯雨林における生態学的資料を比較・検討する必要がある。熱帯雨林の地域的偏差は「交換」のあり方にも大きな影響を及ぼすものと予測される。

(3)狩猟採集民と農耕民の間で行なわれている交換についての資料収集:「交換」を契機とするコストとリターンについて、カロリーや時間量などの経済的定量データと同時に、社会的・精神的データを今後いっそう収集する必要がある。現在、農耕民との関係においてネグリトの側に生じている社会的立場の不均衡はネグリトの存続にも関わる重大な問題である。「交換」関係は単純な適応論や機能論で解釈するのは困難であり、こうした不均衡が「交換」にどのような影響を及ぼしているかという実態調査は、それがいつ頃から始まったかを考える上で必要な作業である。

(4)セトルメントアーケオロジーの方法:(4)(5)は、ここにあげたアプローチの中でもっとも考古学的な方法である。狩猟採集民と農耕民との関係がどのような変化をたどっていたかということを知るためには、調査対象地域全体の中でそれぞれの遺跡を、時代ごとに有機的に関係づけていこうとするセトルメントアーケオロジーの方法を用いた資料の収集が必要である。つまり、地理的に限定された広範な地域全体にわたって、年代・性格・機能が異なる遺跡の分布調査と発掘を行ない、農耕出現以降、約1万年間の遺跡と遺跡群の変化を地域的な広がりの中で把握する。このような地域全体の遺跡群の遺構と遺物を総合的に比較・検討することなくして、どれが農耕民の遺跡で、どれが狩猟採集民の遺跡であるという判断はできない。

(5)動・植物遺体の検出と検討:熱帯雨林に生活していた人間集団の生計活動の実態とその変化のプロセスを把握するためには、人工遺物の資料のみでは不十分である。有機質である動物骨・植物遺体の検出が可能な遺跡(貝塚・泥炭層などに形成された遺跡)を発掘する必要がある。収集された資料は動物・植物学者の手を経て、人工遺物からは得られない類の情報を提示する。

(6)文献研究:ミッショナリーの記録や行政文書にみられる狩猟採集民についての歴史的記録の検討:農耕民によって狩猟採集民がどのように記述されていたかについての研究は、両者の関係のあり方とその変遷を探る格好の資料である。同時に、修正主義者(revisionists)が提唱するように、はたして世界システムが入り込む前には、狩猟採集民の状態が現在とは異なっていたのかについて検討する材料ともなる。

(7)以上のような方法で収集された資料群は、構築されたモデルとともに比較・検討・統合され、最終的に、調査地の過去における「関係」のプロセスの説明が提示されることになる。

 

 このようなアプローチによる考古学的調査は、ネグリトが低地に住む農耕民と交換を行なっているルソン島北部のカガヤン州でスタートしたばかりである。ペニャブランカの遺跡群から北へ約70kmのカガヤン河下流域を対象に、1985年から遺跡の分布調査、発掘調査を開始し、現在までにカガヤン河河口から50kmさか上った地点までの河岸で、21カ所の貝塚遺跡と2カ所の墓地遺跡を確認している。これらの貝塚遺跡群は、土器出現以前(年代測定値はないが)から形成され、約3000年前の土器を中心に出土する時代、元・明代の陶磁器を出土する時代を経て、現在でも貝の採集と消費・廃棄が継続され貝塚が形成されつづけている(青柳他1985,1986, 1988, 1989,1991, Aoyagi et al. 1993, Ogawa 1993, 小川1994, Ogawa and Aguilera 1992)。今後、河岸の貝塚発掘を継続しながら、山側に分布する遺跡の調査に入る段階である。

 ここで提示したアプローチの特徴は、狩猟採集民研究を地域ごとに別個におこなわなくてはならないという視点であり、同時に狩猟採集民研究に一般理論化が可能か、という問題をも包含している。さらにこれによってはじめて、従来、考古学資料の解釈を民族学の資料に依存してきた民族考古学研究とは違ったかたちで、従来とは逆に、考古学が文化(社会)人類学・民族学に貢献できるという可能性を提示することができる。

 

 Man, the Hunter はリチャード・リーらの呼びかけによって開催された人類学者会議で、狩猟採集民を研究する世界中の人類学者がこの会議で発表した際の論文集である。この会議よってそれまで厳しい環境下で食料を求めて移動していると考えられてきた狩猟採集民の生活が、リーらの定量的データにもとづく分析によって現代人よりも時間に追われない生活であることが解明され、それまでの狩猟採集民に対するイメージが大きく塗り替えられた。70年代以降このイメージは、人類学・考古学者の頭の中で狩猟採集民に対する先入観として肥大化し現在にいたっている。筆者もこうした先入観をもつひとりとして自戒的に「神話」ということばを用いた。

 

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