貝塚洪水伝説

−フィリピン、ルソン島北部カガヤン河下流域における貝採集民の民族考古学−

Shell Midden was made by the Noachian Deluge.

-Ethnoarchaeology of the Shell Middens and Shell Gatherers

in the Lower Cagayan River, Northern Luzon, Philippines-

小川英文[1]

Hidefumi Ogawa

 

 

 「おまえは日本人だから知らないだろうけれど、昔、世界を覆う大洪水があったのだよ。その洪水が聖書にあるノアの洪水なんだ。洪水が引いてみると、それまではなかった貝塚がここにできていたというわけさ」(カタヤワン村の老人のことば)。

 

はじめに

 フィリピン、北部ルソン島のカガヤン河下流域には、河口から遡ること約40キロにわたって、大小さまざまな規模の貝塚遺跡が分布している。その立地条件は、海岸砂丘・河岸段丘・内陸低地そして石灰岩台地上と多様である。また各貝塚遺跡の貝層分布のありかたも、厚く広範囲におよぶものから、薄く小規模なものまで変化にとんでいる。最大規模の貝塚は幅100m、長さ500m、深度2m以上におよぶものもみられる。またこれらの貝塚を構成する貝種は、海岸砂丘の貝塚をのぞけば、いずれも淡水産二枚貝一種(現地イバナグIbanag語でカビビkabibiと呼ばれる)が他の貝種に比べて圧倒的に優勢な貝塚である。これら貝塚の年代については、C14年代測定値によると、台地上に立地する貝塚で約3,000年前、河岸段丘上の貝塚で約1,000年前の年代が得られている(青柳1977Aoyagi 1983, 青柳・田中1985, 青柳・Aguilera・小川・田中 1986, 1988, 1989, 1991, Ogawa and Aguilera 1992, Aoyagi, Aguilera, Ogawa and Tanaka 1993, 田中 1993, 小川 1996, Fig. 1, 2, 注1)

 このような大規模貝塚はどのような形成過程を経て、現在のように厚く大規模な貝塚としてのこされるようになったのであろうか。貝塚を形成した先史時代の貝採集民の生業の実態は、農耕の副業としての貝採集であったのか、あるいは専業として特殊化した生業形態(subsistence mode)であったのだろうか。また彼らの生計活動(subsistence activity)の実態はどのようなものであったのだろうか。自然環境の年間をつうじた微妙な変化のなかで、貝採集活動はどのようにスケジュールされ、人々を組織して行われたのであろうか。また貝採集以外の狩猟・漁撈・採集・農耕などの生計活動は、貝塚が立地する河岸・内陸低地・台地上・海浜という環境をどのように利用しながら行われていたのだろうか。さらに、カガヤン河下流域にのみ遍在する大量に利用可能な貝という資源をもとにして、貝採集民は周辺の社会集団とどのような交流関係をきずいていたのだろうか。 

 貝塚遺跡を目のまえにしていると、このようにさまざまな疑問がわいてくる。しかし考古学者が発掘調査によってじっさいに手にすることができる遺物は、このような疑問のすべてにたいして答えてはくれない。たしかに貝塚から出土する土器や石器、ビーズなどの人工遺物、貝殻、人骨、動物骨、植物種子、花粉、炭化物などの自然遺物、さらに貝塚が立地する地域の地質や現在の自然環境からえられる情報は、ながい期間にわたる貝塚形成過程について物語ってくれる。人工遺物は貝塚というゴミ捨て場としての機能を裏付けるように、破損して廃棄された道具・器物で構成されており、技術体系の変遷を物語ってくれる。また自然遺物は貝塚周辺のさまざまな微小環境から集落へもちはこばれたであろう食物残滓というかたちで構成されており、生計活動の復元に大いに貢献する。

 このように考古遺物は技術や生業など、先史時代人間集団の経済的側面をある程度まで復元してくれる。しかし考古遺物自体が明らかにする領域にはおのずと限界がある。遺跡に遺物としてけっして残留することのない生業や環境についての知識体系、生産組織の実態や他集団との社会関係などについて、遺物みずからがかたることはない。遺跡に痕跡をのこさないこれら人間行動の領域へアプローチするためには、これまでの考古学とはことなる目的と方法による調査・研究が必要となってくる。

 このようなアプローチのしかたはすでに日本でもながく議論されてきた領野である。先史時代の考古遺物がもたらす「事実」と現代のわれわれが提示する解釈や説明との断絶を埋める方法としてのミドルレンジセオリー、そしてこの方法に実定性をあたえる民族考古学、あるいは土俗考古学の有効性については、これまでさまざまなかたちで提唱されてきた(阿子島1982、安斎1990:III章、1995:5章、佐藤1992:40-45, 184-6)。しかしこのアプローチが日本の考古学者によって実行された例は、これまで非常にかぎられているのが実状である(安斎他1989, 高橋1993, 新田1995, 飯尾1996)。そしてそれらの成果も、正当に評価され、ひとつの大きな学問的流れや方向性をもつにはいたっていないのが現状である(2)。考古学的事実をまえにして、解釈や説明を誘発し、みえない部分に実体性をあたえ、同じようなコンテクストをもつ遺跡や遺物にあてはめられて、修正をせまられ、鍛えられていくモデルを構築するには、民族考古学が考古学のさまざまな領域で試みられ、その可能性がひらかれていく必要がある。

 しかし最近ではモデルの罪状が伝統主義と修正主義の論争の過程で議論されている(小川1996:216-19)。カラハリ砂漠のブッシュマン研究の成果から導き出された狩猟採集民のモデルは、生業における採集食物の重要性、採集活動における女性の貢献度の高さ、余暇の時間の長さなど、それまでの狩猟採集民に対して抱いていたイメージを大きく変えるものであった。その成果をまとめた " Man the Hunter " (Lee and De Vore 1968)が世にでて以来、カラハリ・モデルは、そこでもちいられた定量的分析方法とともに、世界中の狩猟採集民に適用されるようになった。この傾向は先史時代狩猟採集民の考古遺物の解釈においても同様にみられ、カラハリ・モデルは狩猟採集民の過去と現在双方の研究者のもののみかたを決定づけた。しかし世界中の人類学者や考古学者が、自分たちのフィールドの狩猟採集民に対してカラハリ・モデルをとおしてみるようになると、その帰結として、自然・社会環境などのコンテクストの軽視や性急な一般化を招く結果となった。はじめに理論やモデルがあり、それに対して地域的で、特殊な諸条件が解釈の場で迎合する事態が生まれるようになった。モデルをコンテクストにあてはめるのではなく、コンテクストをモデルにあてはめるという逆転が生じるようになった。不用意な一般化はいっそうカラハリ・モデルをとおした研究視角を喧伝し、人類学者や考古学者はより「伝統的」で「純粋」な狩猟採集民をもとめ、世界中でモデルの検証がおこなわれた。しかしこの検証の過程で、カラハリ・モデルには歴史的な視点が欠如しているという考古学者や歴史学者の批判にさらされるようになる(Wilmsen and Denbow 1990)。この批判はその後、伝統主義vs.修正主義論争へと発展し、狩猟採集民の純粋な「伝統性」の保持か、喪失か、をめぐる激しい議論の応酬が展開する(Lee 1992, Solway and Lee 1990, Wilmsen 1989, Silberbauer 1991, Shott 1992, Kent 1992, 清水1992:466-68, スチュアート1996b7-9、池谷1996a157, 池谷1996b)。

 文化(社会)人類学の分野で文化概念の再検討がおこなわれている現在(太田1993, 清水1992、クリフォード、マーカス1997)、狩猟採集民へむけるわれわれのまなざしのあり方も変わろうとしている。伝統主義者にみられるように,より「伝統的」で「純粋な」狩猟採集社会をさがし求め,それをモデルとして過去を再構築しようとする姿勢の背後には、狩猟採集社会の周囲に存在するさまざまな社会的統合のレベルにある諸集団との「交流」を,「伝統」や「純粋性」の汚染とみなす視角が潜んでいる。目の前の狩猟採集社会から「伝統的」なるものだけを恣意的に抽出し、先史時代にあてはめるためのモデル構築の材料にするとしたら、それは世界システムのなかにある狩猟採集社会を現実から切り離す一方的な態度にすぎないであろう。

 文化(社会)人類学では「未開と文明」、「伝統と近代」、「周辺と中心」という文化についての二分法的な考え方がみなおされると同時に、世界各地の民族にはそれぞれ固有の価値観が所与のものとして存在するという文化の見方、すなわち文化に対する本質主義的な考え方(エッセンシャリズム)への反省がうながされてきた。これまでのような文化や民族についての見方では、「民族」が国民国家の中で再編成されたり、あるいは他国へ移民することによって、他の価値観や世界観をもつ「民族」と混在し、たがいに影響しあうなかで、新たに形成し、表象する「文化」やエスニシティをとらえきることはできない。これまで調査や研究の「対象」として、また静的なものとして、われわれの側から一方的にまなざされてきた「民族」は、国家の中で「国民」やあるいは新たなかたちの集団(エスニック・グループ)へとダイナミックに再編成されつつあるのが現状である。このような動態的状況において新たなかたちで文化を表象する民族は、世界システムや国家からの政治経済的圧力による変容を一方的に受けているばかりではない。現在の狩猟採集社会は、国家のなかで「周辺」に位置づけられながらも、「外圧」に対して自らの社会・経済システムを柔軟に改編しながら、社会の「再生産」を成し遂げているという見解も提示されている(岸上1996、スチュアート1996a、窪田1996、大村1996)。このように文化概念が再検討され、現在の民族へアプローチするための学問的枠組みが大きく変わろうとしているとき、「伝統主義vs.修正主義」論争が提出した最大の課題は、文化に対するわれわれの見方の大きな変革であると考えられる。

 「伝統主義vs.修正主義」論争の過程で得られたいまひとつの成果としては、モデル自体の有効性やモデル構築の条件も限定されるようになってきたことがあげられる。カラハリ砂漠でつくられた狩猟採集民の生業モデルを、環境や歴史的過程などの諸条件を無視して、世界の他の狩猟採集社会にあてはめるという轍を踏んではならない。「伝統主義 vs. 修正主義」論争は、不用意な一般化やコンテクストの軽視など、モデルを構築し、応用するわれわれの側の罪状を明確に指摘した。しかしそれでも考古学にとって、理論と現実のあいだによこたわる大きな断絶を、時を越えた質の高い詰め物で埋めることは依然として必要である。そしてコンテクストに細心の注意をはらい、安易な一般化を目的としないモデルであれば、その有効性や考古学への貢献度は高いといえよう(小川1996:219, Shott 1992:848)。

 本稿の目的は、以上の議論をふまえながら、現在カガヤン河下流域で貝採集活動がどのようにおこなわれ、その際どのような技術、知識体系や組織がみられるのか、また貝採集が生計活動全体のなかでどのような位置を占めているかを課題とした生計適応戦略についての民族誌を提示することにある。さらに民族誌からあきらかにされた貝採集の実態をもとにして、先史時代における貝採集社会の諸問題を説明し、解釈するためには、どのようなモデルの構築が可能かを模索するものである。

     

I.調査方法

 現在、貝採集を中心にカガヤン河で生計を営んでいるのは、カマラニウガン(Camalaniugan)、ラロ・セントロ(Lal-lo Centro)、そしてカタヤワン(Catayauan)の各村にすむイバナグ(Ibanag)族の人々である。これらの村のなかでカタヤワン村を調査地に選定し、調査をはじめる前に、貝採集で生計をいとなむ人々の活動を観察しながら、調査の視角をどこにおくべきか、調査項目をどのように設定するか検討をおこなった。

 貝採集の観察をつづけるうちに、貝採集を主要な活動として生計を立てている世帯の割合は、河で生計をたてている世帯全体のなかではむしろすくなく、貝採集とあわせて漁撈活動が並行しておこなわれていること、また農業や賃金労働なども組み合わせて生計を営んでいることが分かってきた。同時に現在採集されている貝は、貝塚を主体的に構成する一種類の淡水産二枚貝だけではなく、その他に2種類の二枚貝がさかんに採集されていること、採集された貝は自家消費されることはまれで、村の仲買の女達に売られ、彼女たちによって近在をはじめ、遠くの市場(もっとも遠距離で80km)まではこばれ、売買されていることもあきらかになった。またひとくちに貝採集活動といっても、ひとつの河のなかにはさまざまな微小環境(micro-environment)のちがいがあり、人々は活動領域内のそれら微小環境の特徴におうじた採集技術と、それにもちいられる道具によって対処していることもあらたな知見であった。たとえば河の浅瀬と深みでは採集の道具と貝種が微妙にことなったり、そこではたらくひとびとの性別や年齢もことなってくる。漁撈活動にも貝採集同様、微小環境と生業技術のきめこまかい対応関係がみられた。

 このように貝採集民の生計活動全体に機能しているメカニズムは、環境にたいするはたらきかけとしての技術体系、技術と対応関係にある性別・年齢別の生業集団、商取引という「交換」を契機とした貝の消費行動が構造的に連関していることがわかった。このように民族考古学的調査からえられた知見である貝採集生計活動のシステム、その要素群であるサブシステムとそれらの連関的機能構造は、考古学的遺物のみの分析から帰納することは不可能な領域である。遺物の背後にかくされた過去における人間集団の活動において機能した技術、生態、組織のメカニズム解明のためには、考古学者がまのあたりにできる資料からのアプローチが必要である。そのためには、貝の採集から交換、売買、消費、貝殻の廃棄までの過程における、生計活動の技術、生態、組織の実態を調査し、記録することによって、過去の失われた人間行動を補足するモデル構築に資することがもとめられる。

 以上のように、カタヤワン村における貝採集を中心として、漁撈その他の生計活動の実態とそれらのシステム的連関を、実際の調査を開始する前に観察することによって、以下のアンケートフォームと質問事項を策定し、調査を開始した。調査期間は1986から87年を中心とし、その後96年まで断続的に調査を継続した。

 

1)センサスフォーム(Census form):貝採集民各世帯ごとに以下の項目について聞き取りを行った。

家族構成、主要生計活動(4種類の貝採集方法、漁撈、貝売買)、所有する貝採集用具の種類と数量、所有する漁撈具の種類と数量、魚・漁具・漁期の対応関係、貝と魚の卸先(仲買人名)。主要生計活動については、貝採集民自身に、河での生計活動6種類のうちから、各自が従事している活動を選択してもらった。ほとんどの場合、1人が複数の生計活動に従事しているので、その際には各自の判断で、まず主要な生計活動を1つだけ選び、そしてその他の活動を副次的なものとして複数選択してもらった。以下の議論では、主要な生計活動として1つ選択されたものをフルタイム、その他複数選択された活動をパートタイムとして便宜的にここでは呼んでいる(Table 6)。貝種、魚種、道具の名称についてはイバナグ(Ibanag)・イロカノ(Ilocano)・タガログ(Tagalog)語の順で記録した(以下同様)。

2)貝採集活動フォーム(Shell Gathering Activity form):特定日に特定採集者がおこなう貝採集と貝の卸売活動(フォーム1)および仲買人の貝売買活動 (フォーム2) を以下の項目について聞き取りを行った。

Form 1:採集活動日、採集者名、活動時間、活動域、採集貝種と重量(キログラム、以下同様)、自家消費量、卸売量、卸売先仲買人名、卸売キロ単価と総収入(通貨単位=ペソ、以下同様)、Form 2:貝採集民からの買入総量、取引先貝採集民数、市場販売価格、市場地名

3)河活動フォーム(River Activity form):特定の貝採集者の貝採集と漁撈活動を以下の項目について聞き取りを行った。採集活動日、家族名、採集者名、活動時間、活動域、活動時間、採集貝種と量、自家消費量、卸売量、卸売先仲買人名、卸売キロ単価と総収入、漁撈者名、魚種名と対応捕獲具、漁撈活動時間、活動域、魚種と漁獲量、自家消費量、卸売量、卸売先仲買人名

4)栄養摂取フォーム(Nutritional Research form):貝採集のみ、貝採集と漁撈、賃金労働という異なる生計活動を営む3世帯について、毎月5日間、エネルギー摂取量の調査を栄養士に依頼して以下の項目について行った。世帯主名、朝・昼・夕・おやつの食種、食材名と入手量、食材入手法(購入・自家生産の別)、購入食材の価格、メニュー、調理方法、レシピと使用調理用具の対応関係、調理用燃料の種類、量と入手方法、世帯構成員ごとの食物摂取量とカロリー摂取量(調査結果は3者に大きな差が認められなかったため、本稿ではこれについて論じていない)。

5)貝仲買人調査フォーム(Shell Vendor Research form):特定日における貝仲買人の購入・販売活動を以下の項目について聞き取りを行った。調査日付、貝仲買人名、購入貝種と重量、貝種ごとの購入価格、購入先貝採集人数、貝種ごとの市場販売価格、市場地名

 

II.貝採集村カタヤワンの概要と自然条件

1.カガヤン河下流域の自然・地理・歴史・貝塚遺跡群

 ルソン島北東部の山脈から流れ出す水を集めてアパリ(Aparri)で海に注ぐカガヤン河は、ヌエバビスカヤ(Nueva Viscaya)、イサベラ(Isabela)、カガヤン(Cagayan)の各州を250kmにわたって流れ、広大な平野を擁するカガヤン渓谷をつくりだしている。ラロ貝塚群はカガヤン河河口から40km遡った地点までの下流域両岸に分布しており、現在までに21カ所の貝塚遺跡が確認されている(Fig. 2)

 貝塚遺跡群はこれまでの調査結果から、その立地条件によって3つのグループ(1.標高50mの石灰岩台地上、2. 標高7〜10mの河岸段丘上、3. 河岸から12kmの内陸低地)に分類することができる。

 石灰岩台地上の貝塚はカガヤン河を眼下に見おろす位置にあり、そのうち尾根と尾根の鞍部に堆積する貝層の発掘調査(マガピットMagapit貝塚)では、5.5mの貝層深度が確認され、約3,000年前の年代測定値が得られている。貝層中からは赤色スリップ土器・土製装飾品・片刃石斧などの石器をはじめとする多数の人工遺物、獣骨・魚骨、植物種子などの自然遺物が得られた。

 河岸段丘上の貝塚は河岸端部に貝層が堆積したもので、カガヤン河両岸に分布している。約1,000年前以降の鉄器時代に属す黒色土器を出土するほか、埋葬人骨、魚骨・獣骨、植物遺体などの遺物が得られている。河岸貝塚のなかには幅100m、長さ500m、貝層深度2mにおよぶ大規模なものがある。このような大規模貝塚は、上述したようにカマラニウガン、ラロ・セントロ、カタヤワンの3カ所で確認されており、これらの村では現在でも貝採集が行われており、先史時代から継続して貝採集が行われていた可能性を示唆している。

 内陸低地貝塚は3カ所確認されている。いずれも河岸から12km離れた標高6から7mの水田が広がる低地に位置している。これらの貝塚の発掘調査はまだ行っていないので測定年代は得られていないが、土器や片刃石斧などの磨製石器が表採されていないため、この地域の土器の出現以前に形成された貝塚である可能性が高い(注3)。

 貝塚遺跡群が形成されているカガヤン河下流域を河口から遡りながらその景観をながめてみよう。まず河口のアパリの港から遡ること約10kmにわたってはデルタが形成されている。デルタ部がはじまる地点では、河に対して平行につまり南北方向に横たわる石灰岩台地がそこでとぎれている。ここはデルタが発達する前には、波に石灰岩が洗われる海岸地帯であったと考えられる(大井私信1996、注4)。河口での河幅は1.5km、デルタの始まりでは1.25kmである。

 デルタ地形がはじまる地点に築かれたカマラニウガンの町には、1597年製造の紀年名をもつ鐘がカマラニウガン教会の鐘楼に今も備え付けられている。1572年以降に行われたサルセド(Juan de Salcedo)やロンキリオ(Don. Juan Ronquillo)による海からの北部ルソン遠征の後、この地域ではスペインに対する住民の2度にわたる反撃があったが、それも鎮圧され1596年にドミニコ派修道会による布教が許可されている。往事を物語る遺跡として、教会から約200m下流の岸辺には、河口からの侵入者を監視する物見の塔が残されている。

 カマラニウガンの貝塚は教会がある町の中心から1kmほど南、ドゥゴ(Dugo)村の国道から西側に分布している。河岸までは現在150mほどの距離があるが、これは砂州が発達して岸と一体化してしまったためで、国道から旧河岸までの間に貝層分布がみられる。現在貝塚が残されているドゥゴ村では貝採集を行っている人々はいないが、カマラニウガンの町中には少数ながら貝採集が行われている。そのため教会の周辺でも30cmほどの厚さで貝層堆積が観察できる。ドゥゴ村の貝塚はすでにフィリピン国立博物館による発掘調査が行われている(Orogo 1980)。この時、貝層深度が1m以上と確認された時点で調査は終了している。

 またカガヤン河では潮の干満の差で海水が河に逆流し、水位の上下動がある。6時間42分ごとに干満の差が155cmという観測値がカマラニウガンで得られている(Bureau of Coast and Geodetic Survey 1971, 1982)

 カマラニウガンより上流へ7km程遡るとラロ・セントロの町がある。ここでの河幅は800mとやや狭くなるが、それでもカガヤン河は悠々とした流れをみせている。カマラニウガンからラロ・セントロ、そしてさらに上流30kmのマガピットまでは、石灰岩台地が河岸から2kmほどの間隔をおいて、南北方向に横たわっている。河と石灰岩台地との間の低地には現在水田が広がっている。河岸の標高は78m、河面との比高は満潮時で約5mである。

 河岸段丘上のラロ・セントロの町にも層厚2mにも及ぶ貝層が広範に分布することが確認されている。カマラニウガンほどではないが、河岸には幅2050mの土砂が堆積しているため、河岸段丘面での貝層の確認は不可能であるが、村内の家々に掘られた井戸の断面観察によって貝層の深度と分布域を確認することができる。このようにして推定された貝層分布範囲は、長さ300m、幅50mである。

 ラロの町はかつてヌエバ・セゴビア(Nueva Segovia)と呼ばれ、19世紀前半(1839年)まではカガヤン州の州都であった。スペイン人による初期のフィリピン諸島探検の時代にヌエバ・セゴビアの町はフアン・パブロ・カリオン(Juan Pablo Carion)によって1582年に建設された(モルガ196652, 302-3, Keesing 1962:168-181)。その時すでに河口の港を占拠していた中国や日本の「海賊」を排除しながら、河口から8マイル上流のラロに居留地を確保することができたとされている。その後、ヌエバ・セゴビアは、現在ではカガヤン、イサベラ、ヌエバビスカヤの3州にあたるカガヤン河流域の行政・軍事・経済・布教の中心として、ルソン島内陸部経営のための重要な位置づけを与えられてきた。しかし司教座は1755年にイロコス・スール(Ilocos Sur, 北部ルソン西海岸の州)のヴィガン(Vigan)に移り、さらにカガヤン州の州都も1839年にトゥゲガラオ(Tuguegarao)に移った(National Historical Institute 199381, 124)。ヌエバ・セゴビアの重要性は徐々に薄らぎ、この町は現在ではラロの名で呼ばれるようになっている。

 カリオンが居留地を築いたラロの町は、当時河口から8マイルにあるとされている。1マイル約1.6kmとすると、8マイルは約13kmとなり、これは現在の河口からラロまでの距離(17km)と比べ4kmの誤差がある。河口から8マイルという記録が正しければ、400年前の河口は現在よりも4km短く、カマラニウガンから6kmの地点にあったことになる。その後の400年間にデルタは4km発達し、現在の河口付近を形成したことになるが、このことからデルタの形成過程を単純に計算すると、100年に1kmの割合で形成され、現状まで発達するには1,000年を要したことになる。

 地質・花粉分析班の調査では、デルタが形成される以前は、石灰岩台地が海食される景観が予測されていることは上述したが、同時にその当時の下流域の地形は、河の流れが緩慢な沼沢、湖沼の可能性が高いと予想されている(大井私信1996, Aguilera 1996)。この可能性はカマラニウガンからラロを経て後述するカタヤワン、さらにマガピット遺跡群までに到る約10kmにかけての下流域の調査から導き出された、現時点での結論である。デルタの形成の開始は、湖沼性環境をもっていた下流域の緩慢な水の流れが、ある時点でなんらかの原因(海進・海退が有力)によって速くなり、土砂が河口へ押し流されることによるものと考えられる。

 貝塚が両岸に分布するカガヤン河下流域の環境・地形は、貝採集と貝の消費・廃棄によってもたらされる貝塚の形成に大きく影響する。貝塚は淡水産と考えられる二枚貝1種を主体として構成されているが、この貝の生息地は砂の河床で、湖沼性の環境ではない。すると下流域が湖沼性の環境にあった時期には、この二枚貝は生息しておらず、それゆえ貝採集も行われず、貝塚の形成もなかったことになる。この点についての議論は、今後の地質班・花粉分析班の調査と成果を待って十分に検討したい。

 ラロの町から4km上流に今回調査を行ったカタヤワン村がある。この村の河に面した河岸段丘上には深さ2m, 幅100m、長さ500mにわたって貝塚が形成されている。貝採集を行っているこの村に入ると、地面は貝に覆われており、貝の上を人が歩き、貝塚の上に家が建っている。貝を採り、貝を消費して捨てられた貝殻が、長年の間に積もり積もって巨大な貝塚をつくり出している。カタヤワンよりは規模が小さいが、対岸のカトゥガン(Catugan)やサンロレンソ(San Lorenzo)村でも河岸段丘上に貝塚が形成されている。カタヤワンの上流2kmのサンタマリア(Santa Maria)村にも段丘上の貝塚がみられるが、ここでの貝塚形成は河岸1kmにわたって、径10m、深さ2mほどの貝層が3050m間隔で分布している。その間にもレンズ状の貝層堆積が断続的に観察できる。貝層堆積が深く、連続的にみられるカタヤワン村とはずいぶん異なる様相を呈している。この理由は貝採集の組織のあり方、人口密度、貝利用のあり方などに求められるが、そのメカニズムの実態は今後の検討課題である。

 サンタマリアからさらに上流3kmの地点、マガピット村で河幅はいっきに半分の400mに狭まる。これは石灰岩台地が河の両岸に接近して横たわっているためである。マガピット貝塚はこの石灰岩台地上に立地し、鞍部に流れ込んだ貝層の深度は5.5mにも達している。すでに述べたとおりマガピット貝塚からは赤色スリップ土器が出土し、年代も約3,000年前と測定されており、黒色土器の出土と約1,000年前という年代をもつ河岸段丘上貝塚(カタヤワン貝塚)とは性格を大きく異にしている。

 マガピットの対岸のバガッグ貝塚は石灰岩台地下の沖積地に立地しており、径100m、深さ2.8mの規模をもつ。バガッグ(Bangag)貝塚はカタヤワンやサンタマリアのように河に面した段丘上には立地しないが、貝層の密な堆積や黒色土器の出土などから、同じく鉄器時代に属す貝塚と考えられる。

 以上、カガヤン河下流域の地形・景観・環境について、貝塚遺跡群との関係を交えて概観してきたが、さらにこの地域の環境条件についても述べておきたい。カガヤン下流域の気候については、気温は、最高月で29.1度(5月)、最低月が23.2度(1月)で、年平均気温は26.7度である。年間降雨量は1991年の記録では2,178.4mmで、月別降雨量は図に示したように6月から徐々に増え、11月でピークになり、12月からは一転して減少し、4月が最も少ない(Fig. 5, 国立天文台1995:136-7, 180-1)。

 河幅についてはすでに述べたがもう一度まとめると、河口のアパリでは1.5km、カマラニウガンで1.25km、ラロ・セントロで800m、カタヤワン、サンタマリアで800m、マガピットで400m、上述していないが最も南に位置するドゥモン貝塚地点で1kmとなっている。貝塚がみられる下流域では、上流からの土砂が堆積して、河の中央部に中州が形成される。ラロ・セントロからカタヤワンにかけて、河中央から対岸よりに大きな砂州が発達しており、対岸に接する勢いである。また岸で発達した砂州は、カマラニウガンやラロ・セントロでみられたように、しばしば岸と一体化する。堆積作用は特に台風後に著しく、カガヤン河は岸を削っては新たな砂州を形成する。このような急激な砂州の形成や土砂の運搬・堆積作用にもかかわらず、河の水深は中央部でほぼ57mを保っている。

 水深の違いは、河底地形の深浅の違いばかりでなく、潮の干満による海水の流れ込みによっても大きく左右される。すでに上述したが、カマラニウガンでの潮位の測定から、海水の干満の差は6時間42分ごとに155cmという値が得られている。このように水深は、河で行われる生計活動のパターンと季節的なもしくは日常的な関係をもっている。たとえば8月から11月におとずれる台風によって増水した河の水は、河岸を削り取り、下流に土砂を押し流す。押し流された土砂は下流域に中州を形成し、ここに新たな貝や魚の漁場が生まれる。これは年間を通じた漁場環境の季節的な変化である。そして満潮時に海水が河口から流れ込み、河の流れが下流から上流へと逆転し、水位が一日に2度上下して、河の塩分濃度・水温を変化させる。このような日常的な水深の変化に呼応する漁場環境の変化を読み取りながら、貝採集民はその日その日のポイントにあたりをつける。

 海水の流入は河口から26km上流のマガピットにまで達するといわれている。下流域の河面傾斜は、40kmの距離に対して、標高差10mという緩やかなものであるため、満潮時にはこれほどまでの距離を海水が流入するものと考えられる。海水の流入は貝の漁場に影響すると貝採集民は言う。試みに河水の塩分濃度を干潮・満潮それぞれの時間に、河の表面・中位・河底ごとに計測してみたが、塩分濃度は満潮時でも1%以下の値であった(注5)。その後、より精密な塩分濃度計を用いて、計測値と貝種ごとの生息域の対応関係を調査してはいないが、貝採集民からの情報をもとにして貝種ごとの生息域の違いを予測することは可能である(Fig. 4)

 

2. 貝採集村と貝塚

 すでに述べたように、現在までにカガヤン河下流域で確認されている貝塚21ケ所のうち、3ケ所の貝塚がある村や町では, 現在でも貝採集が行われている(カマラニウガン、ラロ・セントロ、カタヤワン)。これらの村や町での貝採集は主にイバナグ族によって行われている。カガヤン河下流域には元来イバナグ族、イタウェス(Itawes)族、アグタ族(Agta:ネグリト)などの諸民族が住んでいたが(注6)、そこへルソン島西海岸のイロコス地域にすむイロカノ族がカガヤン州へ移住を続け、現在ではカガヤン河下流地域のみならず、北部ルソン島で人口のマジョリティを形成するに至っている。カガヤンにおける1846年の人口統計と1948年のそれとを比較するとカガヤン全体で7倍以上の人口増加がみられるが、その8割がイロカノ族で、イバナグ族の人口はほとんど増加していない。19世紀以降のフィリピン低地全域における人口の増加傾向からすると、驚くほど少ない増加率である。その理由はイロカノ族の移住とその後の人口増加によって引き起こされた、19世紀におけるイバナグ、イタウェス族のカガヤン南部への移動によるものと考えられる(Keesing 1962:219-8)

 貝採集が行われている村や町には、元来イバナグ族が住んでいたが、イロカノ族の移住や人口増加とともに現在ではイバナグ族とイロカノ族が混住する状況が一般的となっている。しかし貝採集をおこなうのはイバナグ族で、イロカノ族は例外をのぞいて貝採集を行わない(注7)。

 19世紀におけるイロカノ族のカガヤン州への移住は、イバナグ族をはじめとするカガヤン河下流域在住の諸民族を南に排除するかたちで行われたにもかかわらず、現在の村や町にみられるように、イロカノ族とイバナグ族との混住を可能とした背景には、移住してきたイロカノ族との間に、政治・経済的な、なんらかのバランス調整があったものと考えられる。

 貝採集が現在行われているこれらの村の貝塚は、カガヤン河に面した河岸段丘上に位置している。貝塚はカビビと呼ばれる淡水産二枚貝によって主体的に形成されており、2m以上の深度をもつ純貝層が連綿と堆積している、その範囲は長さ500m、幅100mである。

 貝塚から出土する貝種は、淡水産二枚貝3種、淡水産巻貝3種、陸産のマイマイが1種である。そのうち現在おもに採集されている貝は3種で、いずれも淡水産二枚貝である(Table 8) 。これらの貝の特徴を述べると以下のようになる(呼称はイバナグ語である)。

カビビ(Kabibi):サイズは大型のもので縦横6x5cm、高3cm、小型のもので縦横2.5x2cm、高1cmである。殻重量は大型で55g、身(未乾燥)重量10gである。貝塚を主体的に形成し、現在でもこの貝が採集の主な対象である。カマラニウガンからガッタラン(Gattaran, 河口から約40km地点)までの範囲に生息し、年間を通じて採集されている。採集量には変動があり、8687年には減少傾向にあったが、90年代初頭に一時的に増大した。採集量に反映されるカビビのバイオマスの増減の要因については明確になっていない。現在では採集後ほとんどの場合、採集者から仲買人に売られ、仲買人から市場に運ばれ消費者に売られている。このため採集者による自家消費そして採集村での貝殻の廃棄はほとんど行われていない。

アシシ(Asisi):平均的サイズは縦横1.5x1.5cm、高1cmである。シジミの一種と考えられる。フィリピンに広く分布し、タガログ語ではトゥリア(tulya)と呼ばれている。カガヤン河下流域にも広く分布している。貝採集民は河の上流域にも分布するという。この貝は一度に大量に採れるが、雨季(101)には収量が減少する。この貝を採るようになったのは最近になってからとのことで、カビビが採集過多で減少し、それまで採集しなかったこの貝の採集が始まり、減少したカビビの分を穴埋めしたものと考えられる。発掘資料からもこれを裏付けるように、その大半は表土1層でしか出土しない(Table 8)。この貝もカビビ同様に売買の対象とされ、自家消費は少ないが、売買の際に貝殻から身だけを取り出したほうが高く売れるため、採集後に殻剥きが行われ、貝殻は集落内に廃棄されることがしばしば見られる。現在、日本の食卓では見かけないが、かつては全国の河や田んぼにたくさん生息していたというマシジミによく似た貝である(注8)。

ギノオカン(Ginookan):平均的サイズは縦横2.5x1.5cm、高0.8cmである。横長で殻が薄い。その分布範囲は、採集民からの情報を総合すると、ラロ・セントロからサンタマリアまでに限定される(Fig. 4)。3種の貝のうち最も収量が少ないが、発掘資料によると小量にもかかわらず連綿と採集されていたことが分かる(Table 8)。カタヤワン貝塚の南5kmの石灰岩台地上に位置し、約2,800年前のC14年代が得られているマガピット貝塚のHill Top発掘地点からもギノオカンの出土が確認されている。ギノオカンの採集後の売買と自家消費の割合については採集量が少ないため明確になっていない。しかし採集後のこの貝の寿命は短く、翌日には死んでしまうため、集落外の市場での売買には適していない。仲買人からはカビビやアシシの買い取り量や値段についての情報が毎日もたらされるが、ギノオカンについてはこの手の情報が入ってこなかった。採集後のギノオカンは、そのほとんどが自家消費されるものと考えられる。またこの貝はアラマン(alamang)と呼ばれる塩辛の一種に加工されることがあるので、この場合にも貝殻が集落内に廃棄される。

 この他淡水産巻貝3種(Agurong, Liddak, Biruko), 陸産のマイマイ1種(Bisukol)が貝塚から出土するが、出土量は少量で、アグルン(Agurong)1種をのぞけば現在では採集されない。

 

3. カタヤワン村の概要(Fig. 3

 カタヤワン村はカガヤン河河口から約21km地点の東岸河岸段丘上に位置している。東岸を南北に走る国道5号線の両側に集落が展開しているが、貝塚は国道と河の間に約100mの幅で500mにわたって分布している。貝採集民の集落はこの貝塚の上に営まれており、人々は白い貝殻が一面に広がる場所で生活している。

 貝採集民の生活空間を、ひとつの世帯を例に紹介しよう(Fig. 6)。河に面して住居は構えられている。寝室・居間・作業場・台所をもつ家屋を中心として、屋外にはさまざまな果樹や野菜が植えられている。家屋の近くには小さな野菜畑が設けられ、ここからとれる作物が日々の食卓に供せられる。さらにその外側にはマンゴー、パパイヤなどの果樹が植えられている。この家はアボガドの木が多いことで有名であった。村にはこのように各家で自慢の果実や有用植物(ビンロー、トウガラシなど)があり、年間のある時期にどの家でどんな果樹が実るかを村人はよく知っている(Table 0)。段丘端部と斜面にはバナナが植えられている。村人によるとバナナは段丘の貝層や土壌の崩落を防ぐ作用があるという。そして河岸には木の杭が打たれ、貝採集に使うボートが繋がれている。

 家屋内には河での生計活動に用いられるさまざまな道具類が整然と並べられ、収納されている。この家では貝採集と漁撈で生計を立てているため、これらの活動に用いられる網や仕掛け、そしてこれらの道具の維持・管理に用いられる竹材、籐材、木材、針金、縄、紐などが屋根や壁に釣り下げられている。またこれらの消耗材を加工する工具が木箱や戸棚の中に納められている。

 仕掛けや網などの道具の修理、野菜の皮むきなどの食事の準備、家族や隣人との語らいなど日常生活の多くを占める時間は、おもに母屋の前につくられた屋外のベンチで過ごされる。家屋とそれに隣接する屋外施設を生活空間の中心とし、河を生計活動の場として日常生活が繰り広げられている。

 貝塚考古学の観点から気になるのは、生活廃棄物の処理についてである。まずどのようなものがゴミとなって廃棄されるかであるが、すでに述べたように現在採集の主体であるカビビは殻のまま売買されており、わずかな量の自家消費をのぞいて、貝殻がゴミとなることはまれである。後に述べるアシシやギノオカンの加工(塩辛づくり)の場合には大量に貝殻が廃棄されるが、その際、地面にばらまくように棄てられたり、炊事場の裏に掘られたゴミ穴の中に棄てられる。貝殻の他のゴミには貝採集や漁撈に用いられる道具の修理の際に出る竹や籐の削りかす、庭掃除で集められた椰子やバナナの枯葉などがある。炊事から出る生ゴミのほとんどは犬や猫が処理するのであまりみられない。プラスティック製品のゴミもほとんどない。ゴミはバナナ林の中に掘られた直径30cmほどのゴミ穴か、河岸段丘斜面に棄てられる。発掘調査では、貝層表面から1m深度くらいまで多くの撹乱がみられる。多くの人々が住む集落では、貝層の撹乱が激しい。これはゴミ穴やバナナ、キャッサバ畑の耕作など、生活に伴う撹乱である。貝層形成には貝塚に貝殻が継続して廃棄されることが必要であるが、現在、カタヤワン村では採集した貝を村外に売りにだしているため、貝殻の廃棄量、あるいは貝塚への貝殻の供給量は非常に限られたものとなっている。

 カタヤワンの村の人口は1985年の統計では2,125人である(Municipality of Lal-lo 1985Table 5)。センサスフォームの調査結果によると、このうちなんらかのかたちで貝採集に関与しながら生計を立てているのは68家族(431人、男性243人、女性188人)で、世帯数では約100世帯である。すなわち村の全人口の約四分の一が貝採集に関わっていることになる。これらの世帯構成員のうちフルタイムの活動として、つまり貝採集者自身が主要な生計活動と認識して、貝採集、漁撈、貝の仲買などに従事しているのは、男性101, 女性16人(貝の売買も含む)である(Table 6)。またパートタイム、つまり貝採集者自身が副次的と認識している生計活動も含め、10代以上の年齢で河での生計活動に関わっているのは、男女あわせてのべ369人である(注9)。貝採集活動の中で最も基本となるのは、後に述べるようにタクという道具で河底を掻いて、貝をすくい上げる方法である。タクによる貝採集に従事している人数は、フルタイムとパートタイムあわせて96人である。カタヤワン村では河を舞台とする生計活動以外、水田耕作、賃労働等がみられるが、貝採集民の多くもこれらの活動を組み合わせながら生計を営んでいる。

 

III. 貝採集活動

 ここでは貝採集による生計活動がどのように営まれているか、考古学的な観点からみていきたい。つまり貝の採集から消費そして廃棄までを一連の活動としてとらえ、最終的に貝塚が現在のかたちで残されるようになったプロセスを想定しながら、カタヤワン村での貝採集活動を把握していきたい。

 採集から廃棄までの活動は、1. 貝採集,  2. 貝選別,  3. 加工,  4a. 自家消費,  4b. 売買,  5. 廃棄というプロセスを経て行われている。

 

1. 貝採集

(1)貝採集方法

 貝採集の方法には、a)タク、b)貝採り網漁、c)素潜り、d)潮干狩りという4つの方法がみられる。以下、これらの採集方法について個別に説明してみよう。

a)タク(taku)

 タクと呼ばれる道具で行われるこの方法は、貝採集の中で主要な方法である。使用道具はタク(taku)の他にリギック(liggik)とバランガイ(barangay)と呼ばれるボートである(Fig. 7, 8, 9)。3種類の道具を用いるにもかかわらず、この採集方法は「タク」の名で一般的に呼ばれており、この採集活動をおこなうことは、名詞タクを動詞化させて「タクをする」と言い表される。

 タクは三角形の木枠に針金を編んだ網で、これにながい柄をつけたものである(Fig. 8)。リギックは竹を編んでつくった3x1mほどの大きさの戸板のようなものである。リギックはつねに2枚一組で用いられる。ボートは長さ5m、幅1mほどの、板材を組んでつくったものである(Fig. 9)。タクの網は現在では針金であるが、かつては籐を材料として編み込まれていた。籐製のタクが現役で用いられている例はこれまでに1点だけ観察することができた。

 タクによる採集方法は、まずボートを河の中央部に漕ぎ出し、タクを河底に降ろす。タクの長柄はロープでボートに繋がれている。つぎに2枚のリギックをボートと直角になるように両側にとりつける。リギックの片方は事前にロープでボートに結ばれていて、ボートの舳先を河の流れに対面するように向けると、自然とボートの長軸に直角になるようにロープの長さが調節されている。リギックが河の流れを受け止め始めると、自然にタクが引っ張られて河底の砂を引っ掻くようになる。頃合を見計らってタクをボートに引き上げ、中身の貝を取り出す(Fig. 7)。

 河底に接するタクの下面には竹を削って先端をとがらせた、長さ20cm、幅1.5cmの「歯」(ニパン、nipan)が何本も差し込まれていて、歯と歯の間隔を広げたり、狭めたりすることで採集する貝のサイズを変えることができる。採集する貝のサイズはタクの網の目の大きさによっても変わるが、こちらの方はほぼ2cm間隔と一定で、むしろニパンの間隔を調節することによって採集する貝のサイズを決定している。ニパンの間隔を変えて、採集調整の対象となる貝はカビビである。カビビのサイズはすでに述べたように、大型のもので縦横6x5cm、高3cm、小型のもので縦横2.5x2cm、高1cmである。

ニパンの間隔を狭めて小さなカビビを採集し続ければ、たしかに一定期間だけは収量が増えるが、これを続けているとカビビに採取圧(collecting pressure)がかかって、ある時期からは採集される貝がなくなることは明白である。しかし不漁が続けば採集するカビビのサイズを落としていく以外に生計を立ちゆかせていく道はない。細々でも現在の収量を確保し、しかも将来にわたってカビビが採集できるためには、どのくらいまで採集するカビビのサイズを落としていくかを決定しなくてはならない。ニパンの間隔はこのようなぎりぎりの選択に迫られて決められるものである。

 カビビよりもサイズの小さいアシシを採る時には、ニパンをより周密に、間隔を空けずにタクに差し込む。さらにタクの網の目も小さくする。アシシの採集開始はカビビの減少に起因していることはすでに述べたが、タクによる採集方法については、ニパンの間隔に違いがあるだけで、カビビ・アシシ間に採集方法の大きな違いはみられない。またニパンはタクの先端にあって、河底を常に掘り返しているため消耗が激しい。採集活動の合間に採集者は竹を削ってニパンを常備しておく。採集に向かうときにもボートには10本程度のニパンを携えている。

 タクを用いる貝採集は、6時間40分ごとにおとずれる海水の逆流の周期、つまり潮の干満の周期にあわせ、一日2回の干潮時に行われる。河岸に繋がれたボートには2枚のリギックがボートの中央に重ねて置かれ、その上にタクが置かれている。艫綱を解いてボートを漕ぎだし、その日あたりをつけたポイントへ向かう。出漁前に仲間内で貝が集まっていそうな場所の情報を集め、その日のポイントを決める。特定の場所に多くのボートが集中することもあるが、採集民各自はポイントについての情報を経験に基づいて蓄積しており、ひとり他の場所へ向かい豊漁を期することもある。しかしカガヤン河下流域全体から見ると、これらのポイントも貝の生息域によっておのずから限定されている。貝採集は昼間のみならず夜にも行われる。昼夜いずれに出漁するかは採集者各自の好みによるが、夜の方が収量が多いという採集者もいる。夜になるとそれまで河底の砂中深くにいた貝が河底表面に上ってくるという。

 タクによる貝採集が実際どのように、どのくらいの時間をかけて行われているか、ある採集者(59才)の活動事例を紹介しながら説明しよう。以下は198667日、朝7:35から午後1:00までに行われた貝採集活動に同行した際の記録である。

 朝7:35、船を漕ぎ出す。河岸は流れが緩やかで、風も穏やかだったが、岸から遠ざかるにつれて徐々に流れは速く、風は強くなってくる。7:55、その日のポイントに着く。800mの河幅の中心よりやや東よりである。この頃、干潮になって河の流れは海に向かっている。10艘のボートが周りに出て採集している。まずタクを河底に下ろし、リギックをセットする。8:301回目のタク上げ。上げる時にはリギックをいったん水中から引き上げて水面に流す。リギックがセットされた状態では河の流れを受け、タクが引っ張られて河底に咬んだままなので、タクを引き上げるためにはリギックを緩めなくてはならない。ボートに引き上げられたタクは三角形の網部分の底辺を船縁に置き、ボートを傾けて中身を取り出す。タクをいったんボート上に安定させて、採れたものの中から貝を選び出し、自動車のオイル用のプラスティック容器に入れる。この容器が貝でいっぱいになると1ガンタ(ganta,3kg)である。これら一連の作業が終わると、もう一度タクを河底に沈め、リギックをセットする。タク上げからリセットまでにかかる時間は2分〜3分である。

 8:50、タク2回目のセット。9:023回目のタク上げ。9:204回目。9:335回目。9:416回目。9:557回目。10:00,風が強くなってきたのでリギックの「入れ」を半分にする。風によって流される力がより強くなったので、タクへ力がかかりすぎないように、リギックで水の「引き」を半分弱めたものと考えられる。この時点で最初のポイントから約300m下流に流されていた。

 10:138回目。10:18、ここでいったんタクを引き上げ、上流にある最初のポイントへ戻る。10:33、リセット。この時までに半ガンタ採れていた。風はよく吹いているが、日差しと河面の照り返しが強く、とても暑い。10:559回目。11:1510回目。11:2811回目。11:4512回目。3分の2ガンタになった。12:0813回目。12:2514回目。また下流に流されたので、最初のポイントへもう一度戻る。12:33、リセット。12:4215回目。12:5316回目。この時点で1ガンタになったので、タクとリギックをボートに乗せて採集活動を終了する。1:00に岸へ戻る。

 この間の作業時間は5時間半で、カビビの収量は3kgであった。各回のタク上げの間隔は15分〜20分である。また活動中に下流へ流されるため、約2時間ごとに最初のポイントに戻っている。この日は2度、最初のポイントまで戻った。活動時間5時間半に対して収量3kg(1ガンタ)、その日の売り値の相場で32ペソという結果であったが、活動効率の問題は後に議論したい。5時間半という活動時間は、ほぼ引き潮の時間と一致し、貝の採集活動が可能な時間帯をいっぱい使って行われていたことになる。また3kgというカビビの収量は、19866月における他の採集者の収量と比較しても、平均的な量であると評価できる(Table 1のカビビ収量参照)。しかし強い日差しと照り返しから逃れる場所のないボートの中で5時間半にわたる作業は、ずいぶんとつらいものであった。そのような作業の中で、なんとかその日の目標である1ガンタのカビビを採集できたことは幸運であった。貝採集活動input/output(Table 1)の作業時間とカビビ収量(kg)を比較しても、時間をかければ必ず収量が増えるものではないということを読み取ることができる。カビビの収量の多寡は、何よりもその日の採集ポイントに大きく影響を受けるのである。

 

b)貝採り網漁(カルワスkarwas)

 昆虫採集の捕虫網を径50cmほどに大きくし、ながい柄を付けたようなカルワス(karwas)と呼ばれる網を用いて行われる貝採集活動である。採集する貝はギノオカン主体である。採集方法は、胸くらいまで水深のある河辺や砂州の浅瀬で網を河底に着け、柄を前方に両手で持ち、足で河底の砂を網に蹴り入れる。そして網に入った貝を集めるというものである (Fig. 10)。ギノオカンは収量が少なく、そのほとんどが世帯内で調理されたり、塩辛に加工されて自家消費され、売買されることがほとんどない。そのため一回のカルワスによる収量がどのくらいのものであるかは明確にはなっていない。また貝採集民年齢別しごと関与表(Table 6)によると、カルワスに関与する人数は男女ともに非常に限られており、貝採集活動中で従事する人数が最も少ない。

 

c)素潜り(diving)

 これは河の中央部に泳いで、あるいはボートで行き、水中メガネを着けて河底に潜り、手で河底の砂を探って、手づかみでカビビを採るという方法である。この採集法は人間が直接河の中に潜って貝を探さなくてはならないので、水の透明度が高い時期(4月〜9)に盛んな採集法である。雨が多く、水が濁っている雨季にはあまり行われていない。しかし透明度が高いといっても、下流域の当該地では水中の視界は1,2mほどしかなく、まして河底を掘り起こして貝を探すとなると手元しか見えない。ほとんど手探りで河底表面近くの貝を採ることになる。

 河底に潜って手づかみで貝を採るという、なんとも単純な方法であるが、年齢別しごと関与表(Table 6)およびしごと比率グラフ(Fig. 12)を見ると、76人もの人々が関与していることがわかる。しかも、この方法で貝を採っているのは10代、20代の男性がほとんどである。そしてそのほとんどがパートタイムで行われていることも読み取れる。

 センサスフォームを見ると、彼ら10代、20代の男性は、まだボート・タク・リギックのセットを所有しておらず、親から独立していない者たちがほとんどである。パートタイムでこのしごとに関与していても、これ以外にフルタイムのしごと、つまり職業を持っているわけではない。10代の少年たちは河遊びの中で潜り、または手製の水中銃で魚を捕る合間に貝を採ってくる。20代の青年たちは、父親や兄弟・従兄弟たちと一緒に2人でおこなうタクでの貝採集の合間に、あるいは魚を捕るための仕掛けをセットした後で潜って貝を採ってくるのである。このように素潜りによる貝採集は、データが示すように多くの人間が関与しているにもかかわらず、しごとよりは遊びの要素を強く持っているのである。

 しかしたしかに遊びの要素は強いにしても、12才の少年が素潜りで一家5人の生計を支えるという事例もある。この少年は幼い頃木から落ちて片腕となったが、父が死んでからは、母と3人の弟を食べさせるために毎日素潜りでカビビを採っている。タクを行っている大人たちも、時にはこの少年が自分たちよりも多くのカビビを採ることを評価する。

 

d)潮干狩り(hand catching)

 潮干狩りはカガヤン河の河辺や中州の浅瀬に出かけて行って、素手で砂を掘り起こして貝を採る方法である。日本の潮干狩りのように熊手で砂を掘ることもなく、素手で行われるため、これに用いられる道具は、採った貝を入れて持ち帰る袋だけである。めあての貝はギノオカンが中心であるが、カビビやアシシが混ざって採られることもある。潮干狩りをおこなう主体となる人々は、年齢別しごと関与表(Table 6)を見ると100人以上の人間が関与しているが、そのほとんどは10代以下の子どもと女性であることが分かる。潮干狩りには少人数の大人の女性と子ども達が集団となって出かけることがほとんどである。素潜りに比べると女性の関与が多く見られるが、道具は素手であること、遊びの要素が強いことなどの点が共通している。

 

e)その他の貝採集方法

 1993年から94年にかけて、カビビの生産量が増えて、ボートからホースを河底に降ろして、コンプレッサーでカビビを吸い上げるという採集法が行われたことがある。この間カビビの豊漁が続き、ボートにエンジンを取り付けてポイントへ向かう貝採集世帯もあった。しかし95年以降はカビビの豊漁期も終わりを迎え、現在ではコンプレッサーによる吸い上げ法は行われなくなっている。村では以前のようにタクなどによる採集法に立ち戻っている。コンプレッサーによる採集法への移行は、突然のカビビ生産量の増大によって始まったが、それもわずかの間だけで終わり、いまではコンプレッサーもボートのエンジンも売り払われて、豊漁期の活気は見られない。しかしカビビの増大に呼応して、すぐに新たな機械を導入し、採集量を増やしていく進取の精神、そして収量が減るとまたもとのタクに立ち戻る切り替えの早さ、柔軟性には感服させられる。

 

(2)貝採集量

a)貝採集の労力と採集量

 上で述べた方法によって採集された貝は、いったいどのくらいの量になるのだろうか。そしてそれに要した時間や労力はどのくらいになるのだろうか。これらの疑問に答えるために、貝採集の労働投下量と収量の関係について考えてみたい。貝採集活動input/output表を見ていただきたい(Table 1)。この表は1日のうちに何時間貝採集を行って、どの種類の貝を何キロ採り、そのうち何キロを自家消費し、あるいは売ることによって、いくらの収入があったかを示した表である。1986年の6月から11月までの間に、73人の貝採集者について調査したデータをもとに作成したものである。

 この表から、ひとりあたりの貝採集に対する労働投下量(ここでは労働時間)をみてみると、最大8時間、最小2時間で、1日の労働時間の平均は5.2時間である。採集量についてみてみると、カビビの最大量が9.5kg、最小が1kgである。アシシの最大は48kgで、最小が3.3kgであった。これに対する各人の収入(ここでは貝を売って得た現金)は、最大105ペソ、最小16ペソで、平均45.5ペソである。

 採集された貝はほとんどが売買されて現金に換えられるが、一部は自家消費される。自家消費量については、カビビに14例あり0.53kg、アシシが5例で0.51kgであった。また採った貝すべてを自家消費した例は、カビビのみについて3例あり、その量は13kgである。

 73人の貝採集例をみたが、注目すべきは、どの事例も貝がまったく採集されなかった、つまり採集に失敗した事例はなかったことである。6時間かけてカビビ1.5kgの採集量で16ペソの収入という事例が、最大努力の最小効果であった。しかしそれでも一日の収穫があり、その日の糊口をしのぐことはできる。特定の個人について継続的に毎日の採集量を調べたデータではないので、貝採集という生計手段がどれだけの安定性をもっているか即断できないが、ランダムに選んだ貝採集者のいずれもが収入を得ており、平均では50ペソ近い現金を手にしていることから、高い確度での安定性を指摘することができる。「カビビは鉱脈(minas)のようなもの」というカタヤワンの貝採集民のことばがある。河へ行けばカビビの鉱脈・鉱床が河底に広がっていて、いつでも手に入れることができる、まさにカビビはカガヤン河の賜物という意味である。

 カビビの「鉱脈」へのアクセスも容易である。採集民はすべて河を見おろす河岸段丘上に暮らしている。一日の平均採集時間は5時間であるが、「鉱脈」は集落のすぐそばにあり、採った貝を現金に変えることも仲買人をとおせば容易である。たしかに貝採集はカビビの生産量に大きく左右されるが、生計を成り立たせるという意味において、安定性は高いといえるであろう。陽射しと照り返しのなかでの長時間の労働、カビビの生産量の近年の減少傾向などの不安定性はあるが、採集場所への容易なアクセス、日々の暮らしを支える程度に安定した収穫、そして仲買人をとおして行われる売買と換金の容易さなどを考慮すると、カビビが「鉱床」にある限り、一定の安定性をもった生計手段として貝採集は存続するものと考えられる。

 このほかに表のデータから指摘できることは、各採集時ごとに採集対象貝種が明確に設定されている点である。つまり採集に出かける時には、どの貝をその日の狙い目とするかが決まっているということである。もちろん採集者自身は、事前に対象貝種とポイントを選定すると証言しているが、データもこれをサポートしている。

 採集者73人の事例中、カビビのみの採集例は54例、アシシのみが14例、そしてカビビとアシシがともに採集された事例は5例である。採集者各人がお互いに貝が集中する地点についての情報を交換しながら、その日の採集ポイントを決定することはすでに上で述べた。採集事例が示しているのは、採集民はその日その日の貝が集まりそうなポイントを狙って出かけて行き、特定の貝種を採集するという点である。カビビとアシシがいっしょに採集された例をみても、2種のうちのどちらか一方の収量が多く(10)、採集の狙い目は定まっているものと考えられる。

 しかし採集対象が事前に明確にされていると断言する前に、議論されなくてはならない点が残されている。そのひとつは、貝種ごとのすみわけの問題である。残念ながらこれまでに、カガヤン河のカビビやアシシについて、生態学的調査が行われた例はないため、種間のすみわけの実態や個体群分布密度などについてのデータはない。しかしカビビとアシシが共に採集される事例が少なく、ほとんどの場合、別々に採集されていることは、これら2つの貝種間にすみわけがある傍証ではないだろうか。

 もうひとつの問題は貝の価格差に由来している。すなわち採集対象が明確に設定される理由には、カビビとアシシの値段の違いが関与していると思われるのである。3kg4ペソと価格の低いアシシは、大量に採らなくては採算が取れない(カビビ1kgに相当する収益をあげるには、アシシ8kgを採集しなくてはならない)。アシシの場合、この点ではうまく成功しており、アシシ単独採集の最小採集量は16kg=20ペソ)である。しかしアシシは一年間をとおして採集することができない。雨季にあたる10月から1月にかけてその数は大きく減少する(11)。一方、3kg35ペソ前後のカビビは、量が少なくても高く売れる。しかしカビビのマイナス面は、個体ごとの分布密度が低く、群生していないためか、一日の収量も73例中最大で9.5kgと少ない点にある。そこで問題は、採集者がどのような生計戦略をたてるかということに移行していく。多くは期待できないが、少なくても値段の高いカビビを選ぶか、あるいは価格は安くても、大量に採れるアシシを選ぶかという二者択一に迫られる。双方のマイナス面とプラス面を比較し、さらにその日の生活状況や差し迫った現金の必要性が加味され、日々の採集対象となる貝種が決定されるのである。このように個体群生態学と採集戦略は、貝種別の採集量を大きく左右しているのである。

 

b)年間総収量の推定

 つぎにカタヤワン村で採集される貝の年間総収量はどのくらいの量になるものかについて考えてみたい。この推定値は、カタヤワン貝塚をはじめとするラロ貝塚群の形成年代を考える上での基礎的データとして後に用いる予定である。年間総収量を推定するために、カタヤワン村のある一人の貝仲買人からの聞き取り調査で得た情報を利用する。仲買人の調査項目は、何人の採集者から、カビビ・アシシいずれの貝を何キロ、いくらで買い取り、それをどこでいくらで売ったか、というものである。調査は断続的に、1986年6月から87年3月までの107日について行われた。このデータをまとめたものがTable 2(月別平均収量表)である。このデータをもとにしてカタヤワン村での貝の年間採集総量の算出方法は、まず一人の仲買人が一日に扱う貝の量は平均何キロかを計算し(Table 3)、この値に365日をかけて年間総取扱量を算定する。さらにこの値にカタヤワン村全体の仲買人数12(注12)をかけて、カタヤワン村全体の総水揚げ量を算出するというものである。ただしアシシに関しては雨季をのぞく8カ月の日数で計算した。貝種ごとの計算式は以下のとおりである。

カビビの一日平均取扱量5.1kg x 365 = 1,861,5kg x 12= 22,338kg = 22トン

アシシの一日平均取扱量31.1kg x 30x 8カ月= 7,464kg x 12= 89,568kg = 90トン

 つぎに別の計算方法で同じ年間総収量を算出してみたい。上で用いた貝採集活動input/output(Table 1)から、カビビ・アシシ双方について、採集者一人当たりの一日の収量平均値を算出して、これに年間作業日数をかける。ただしこの表のデータではアシシの採集例は少なく、カビビ54例に対してアシシ14例であった。このデータの比率41を、作業日数と採集者数にあてはめて算出することとする。すなわち作業日数はカビビ年間274日に対して、アシシが月 7.5 X 8カ月、採集者数100人のうちカビビが75人、アシシ25人である。計算式は以下のとおりである。

 カビビの一人一日平均収量4.2kg x 274 x 75= 86,310kg = 86トン

 アシシの一人一日平均収量26.6kg x 7.5 x 8ケ月 x 25= 39,900kg = 40トン

 2つの計算式から得られた結果は大きく異なるものとなったが、カビビ2286トン、アシシ4090トンという数値を上限・下限とし、その間にそれぞれの貝種の年間総収量が収まるものと考えたい。

 

(3)貝採集のまとめと考察

 貝の採集活動について、その採集方法と採集量について述べてきた。ここでは貝採集活動のまとめと若干の問題について議論したい。 

a)貝種・生息域・採集場所・採集用具の対応関係

 採集対象となっている3種類の貝種に対して、採集行動のあり方はさまざまである(13)。貝種ごとの生息域と採集場所、そして貝種と採集用具との特定の対応関係は、貝採集行動にいくつかのパターンを与えている。

 カビビはタクを使って河の中央部で採集される。またカビビの生息域はカマラニウガンからガッタランまで約30kmにわたっている(Fig. 4)。この領域を採集者は大きな採集領域とし、その中で特定の採集場所を日々模索している。

 アシシの採集具もタクであるが、アシシの場合にはカビビよりもサイズが小さいため、タクのニパンと網の目を小さく調整する。逆にニパンの間隔を大きくするのは、小さなカビビを残し、乱獲から守るための手段となっている。ギノオカンは、生息域がラロ・セントロからサンタマリアまでの狭い範囲(約10km)に限定され、中州や河辺などの浅瀬で、カルワス(貝採り網)か素手で採集される。

 貝種・採集場所・採集用具にみられる特定の対応関係は、つねに固定的であるとは限らない。浅瀬のアシシはカルワスや素手で採られることもあるし、カビビを河底へ潜って素手で採ることもある。たしかに採集行動には特定のパターンをつくり出す限定要因がある。まず第一に貝の生態や生息域、そして次に貝を最も効率よく採集するための先行投資が必要な道具類があげられる。しかし道具を所有しえない場合や道具の転用によって、特定の対応関係からの逸脱を許容する柔軟性が生まれるのである。

 また貝類の生態学と道具が特定の関係をかたちづくって現れる採集行動には、年齢や性差も大きく関与していた。青壮年層の男子の場合、技術的に最も複雑だが、多くの収穫が期待できる「カビビのタク」が行われる。一方、若年層の男女では、単純な採集方法を用い、収穫の期待値も低い。この収穫が結果として成功を収め、タクと同じくらいに生計を支えたとしても、採集行動には「遊び」の要素が多く含まれているのである。

 

b)貝採集活動の季節性

 貝塚の形成過程の復元において、特定の貝層単位を構成する貝が、採集され廃棄された季節を同定することは、この種の研究においてまず第一のステップであることはいうまでもない。二枚貝の成長曲線の分析をとおして、貝層の季節同定の研究が最初に行われた日本では、採集され、廃棄された貝層群が、四季をつうじた層序として復元されている(小池1979, koike 1980, 1986, 樋泉1987)。現在、この貝層の季節同定やその他の分析をベースとした貝塚形成過程の復元の手法は、いまでは日本における貝塚発掘調査のスタンダードとなっている。しかし熱帯地域においては、温帯地域のように四季の移り変わりが明確でないため、生物がその体内に記憶した季節的変化の痕跡を見つけることはなかなか困難である。ラロ貝塚群の調査でも貝塚の形成過程復元のための発掘方法を導入しているため、カビビその他の自然遺物に残された季節的変化の痕跡を追求してきたが、現在、カビビの貝殻成長曲線の分析にその足がかりが見え始めた段階にある(樋泉私信1996)。 

 一方、貝採集民の採集活動の観察をとおして得られた季節性についての情報は、貝種によって雨季には採集されない、もしくは採集量が大きく減少するということである。すでに述べたように当該地域では、明確な雨季・乾季の区別はできないが、比較的雨の多い時期が10月から1月にあたる。年間を通じて採集できるカビビに対して、この時期アシシはほとんど採集されていない(Table 2, 3)。なぜ雨季にアシシが採れなくなるかの理由は明らかではない。雨量と河の水量の増大や日射量と気温の低下がもたらす環境の季節的変化は、アシシのみならずカビビにも生態学的な影響(貝の日常活動域の変化や成長、産卵などに対する)を与えると考えられる。しかし貝採集民の採集行動に季節的な違いを見せるのは、アシシに対してのみであった。

 

c)年齢、性差と貝採集活動

 貝採集民の年齢差と性差が、採集活動にどのような影響を与えているかを考えるために、年齢, 性別しごと関与表と年齢別しごと比率図を作成した(Table 6, Fig. 12)。これらを分析することによって指摘できるいくつかの傾向について考えてみたい。

 まず採集活動における性差について、年齢, 性別しごと関与表をみると、男と女では貝採集をはじめとする河での生計活動への関わり方が大きく異なっていることを示している。タクや素潜りについては、女性の関与はほとんどみられない。またのちに述べるが、漁撈についても、女性の関与はほとんどない。一方、潮干狩りには男性とほぼ同数、カルワスには男性11人に対し女性5人が関与している。このことは浅瀬での貝採集には女性も男性同様に関与するが、河の深みでは男性が中心になることを示している。このように貝採集民の男性と女性とでは、河へのアクセスのあり方が異なっており、河生計の中心には男性がおかれ、女性は周辺に位置づけられている。

 しかし、貝の売買、仲買い、そして市場での販売は女性の独壇場で、男性の関与はほとんどない。カタヤワン村で貝の仲買人をしている女性たちは12人で、そのすべてが貝採集民世帯の主婦であるが、40代、50代の年齢の女性が大半を占めている。60代になると女性のほとんどが、貝をめぐる河との関わりを持たなくなっている。

 つぎに男性間の年齢差が、河での生計活動のあり方にどのような違いを生じさせているかについて考えてみたい。まずタク、漁撈といった河生計の代表各には20代男性の多くが関与するが、一方で遊びの要素が強い素潜りにも20代は多くが関与している。30代以上の男性は一家の生計の柱として、タクや漁撈に活動の中心を置いている。10代では潮干狩りや素潜りなどの「遊び」に多く関与しているが、10代前半と後半では生計活動への関与のしかたが異なるものと考えられる。その結果が10代男子のタクや素潜りのフルタイム関与に現れている。素潜りは貝採集の効率からすれば、生計活動の中での重要性は低いかもしれないが、タクや漁撈同様に極端に男性の比重が大きい生計活動として、年長者の間でも続けられている。それとは逆に、潮干狩りは年齢と共に行われなくなり、20代以降になると急に減少する。また漁撈活動では専従者の数が少なく、パートタイムの比率が高いが、これはちょうど貝採集の「裏作」のような関係にあるものと考えられる。

 

d)河生計活動のフルタイムとパートタイム

 すでに6つの河生計活動への関与しかたについては、これまでさまざまなかたちで議論してきたので、細かいデータ分析にはふれない。むしろここではフルタイムとパートタイムという活動への関与のあり方自体について論じる(Table 6)。すでに調査項目の部分で述べたように、主要生計活動については、貝採集民自身に、河での生計活動6種類のうちから、各自が従事している活動を選択してもらった。ほとんどの場合、1人が複数の生計活動に従事しているので、その際には各自の判断で、まず主要な生計活動を1つだけ選び、そしてその他の活動を副次的なものとして複数選択してもらった。ここでは主要な生計活動として1つだけ選択されたものをフルタイム、その他の複数選択された副次的活動をパートタイムと便宜的に呼んでいる。

 Table 6は以上の調査結果をもとにして、貝採集民の河を背景とした生計活動のあり方をまとめたものである。この表によると、貝採集活動中、最も主要なタクにフルタイムで従事している人数が57人で最多であった。貝採集以外の活動では、フルタイムよりもパートタイムで従事している人数の方が多いという結果であった。タクについては、生計を担うべき2040代にパートタイマーが多く、逆に5060代の老年層にはフルタイマーが多いという傾向がみられる。この傾向は貝の売買以外の生計活動にもみられ、年齢が低いほどパートタイムが多く、逆に年齢が高いほどフルタイマーが多い。この要因について、高齢者は河での生計手段を継続し他の生計手段へ関与を嫌うが、一方、新しい世代は貝採集や漁撈以外にも、この表には出てこないが、賃金労働などへも関与しながら(注14)、多くの生計手段を確保しようとしている、と説明することも可能である。しかしTable 6の表に現れたパートタイムの実態からは、高齢者は「伝統的」な生計手段に固執し、若い世代は「河」から離れようとしているという、近代化の波による「伝統の変容」は読み取りにくい。たしかに生計手段をめぐって世代間の乖離がみられるが、「近代化」による貝採集社会の変容のみにその要因を求めることはできない。むしろ老人は、それまでの経験や知識を生かした複雑な技術を要するタクと漁撈に専従し、若い世代は貝採集や漁撈、農耕だけでなく、さまざまな収入の道をさぐり、生活の危機に対して柔軟に対応しようとする。そして子供から大人・老人までを含む世帯構成員全体が、生計手段をさまざまに分散させながら、結果としてひとつの世帯が生活していけるよう、構成員全体で生計を成り立たせている、と考えるほうが妥当であろう。

 

2. 貝選別   

 採集された貝はいったん家に持ち帰り、サイズの選り分けが行われる。すでに貝生息域と道具の関係にみたように、採集行動を起こす時点でその日にどの貝をどこに採りに行くかが決められ、実際、採集された貝に異種が混ざることはほとんどないので、異種貝間の選別はあまり必要ではない。むしろ同種内ではサイズの選定が行われる。カビビは採集量が少なく、主要な収入源なのでサイズの大小に関わらず売られるため、サイズの選別が行われることはない。ただ時折、小さな貝を選別して河に戻すことがある。

 貝の選別が常に行われるのは、一回の採集の収量が多いアシシである。家に持ち帰られたアシシは、アキア(akia)というザルで小ものをふるいにかけ、サイズを揃える。均一なサイズにされたアシシは売りに出し、アキアの目からこぼれ落ちた小さなもの(径5mm前後、小さなアシシはsagasaという別称をもつ)は、自家消費に供したり、塩辛に加工されたり、ゆでて身を取ってから売りに出す。このようにサイズを均一化するための選別は、おもにアシシにみられる。

 

3. 加工

 貝を塩辛にしたり、殻を取るために煮たりする加工は、上述したようにアシシにみられる。アキアで選別された小ものは煮て殻を取り、身だけを売りに出す。小ものだけでなく標準サイズ(11.5cm長)のアシシをそのまま大鍋やドラムカンで煮て、身を取ることも行われている。この作業はアシシが80kgの場合、約2時間煮たのち、殻から離れた身を水洗いする。この作業には約45時間を要するが、売り値は1ガンタ(3kg15ペソになり、殻付きのままのアシシの2倍になる。

 塩辛(バゴオンbagoon)への加工については加工のプロセスすべてを実見していないが、塩辛に加工されるのはカビビやアシシよりもギノオカンがほとんどである。採集されたギノオカンは、まず家の庭先で貝殻でこじあけて身を取り、塩をまぶしてカメに漬ける。数カ月後にできあがった塩辛は、そのままでもおかずとして食べられ、あるいは調味料としても使うことができる。こうして完成した塩辛は、売りに出されたり、自家消費に供される。しかし塩辛の加工は日常的に行われているものではなく、むしろまれである。以前はカビビも塩辛に加工していたというが、現在ではみられない。

 

4. 自家消費

 採集された貝のほとんどが現金に換えられるため、自家消費される貝はわずかな量である。自家消費量については、すでに述べたように、貝採集活動 input/output (Table 1)のデータでは、カビビに14例あり0.53kg、アシシが5例で0.51kgである。また採った貝すべてを自家消費した例は、カビビのみについて3例あり、その量は13kgである。自家消費する場合もほとんどは1kg以下で、売りに出す際にでた端数である。現在では採集した貝をすべて自家消費にまわす事例はほとんどなくなっている。また自家消費される貝の調理法は、野菜とともに貝汁にしたり、炒めものにしたりさまざまである。

 

4b. 売買

 採集された貝は貝殻のまま仲買人に売られる。すでに述べたように、貝の採集までは男の役割が卓越しているが、貝を売りに行くのはほとんどその家の主婦である。そして主婦達から貝を買い取って、村の外へ売りに行く仲買人も女性である。カタヤワン村では調査時に12人の仲買人がいた(Table 4, 6, 12)。彼女たちはすべて貝採集世帯の出身である。親や夫、息子が採集してきた貝の他に隣家の貝も買い取り、翌日早朝に市場へ持って行き、そこで貝採集とは無縁の人々に売り、利ザヤを稼いでいる(Fig. 14)。

 月平均収量表は、すでに年間総収量を推定する過程で十分検討したが、これは元来カタヤワン村の一人の貝仲買人の売買に関する記録である(Table 2)。彼女は平均して1回に100kg(最大200kg近く)ほどの貝をもって早朝にバスに乗り、近くはラロ・セントロの町へ、遠くは50km以上離れた、カガヤン河対岸の町の市場へ売りに行く。こうしてカビビ1kg5〜7ペソ、アシシでは2〜3ペソの利ザヤを稼ぎ出している(注15)。

 採集民は、現在では採った貝のほとんどを売って現金に換えている。そこには仲買人が介在し、採集者から日常的に貝を買い取るシステムができあがっている。仲買人は買い取った貝を日帰りできる距離にある市場に運び込み、売ることによって利ザヤを稼ぎ出している。このように採集された貝の換金を契機として、貝の流通のシステムがカガヤン河下流域で成立している。このような貝をめぐる経済システムがいつごろ成立したかは不明だが、いったんこのようなシステムが成立して貝が流通し始めると、貝採集活動のあり方自体も市場原理に大きく左右されるようになる。貝が現金に変わることによって、自家消費していたころとは比べられないくらいの量の貝が採集されるようになる。そして一日に採集する貝の量は、日々の価格をにらみながら行われるであろう。採集者は日々の生活に必要な金額を目標として、採集する貝種と採集場所、活動時間を決定する。しかし価格を決めるのは貝採集民ではなく流通システム全体である。貝採集生計は自然の一部である貝を取り出すことによって成立しており、採集民は貝の養殖や採集調整などを行って、貝の流通システムを制御しながら価格の安定化を図るといった方策がとられていない。このためいったん貝の生産に変化が起こると、流通システム全体に波及し、システムの分節点で生計を立てている全員の生活に影響が及ぶ。貝流通システムは、市場からの需要よりは貝生産という供給のほうがカギを握る。システム自体が単純であるだけに、生産量の変化の影響は大きい。

 しかし過去10年間における貝流通システムは大きな変化を受けていない。90年代はじめにカビビの豊漁にわいた時もあったが、それも一時のことであった。かつてカビビの生産量が落ち、採集圧がかかりはじまると、貝採集者たちはカビビの不足を補うためにアシシを商品として流通させはじめた。それがいつの頃かは明確ではないが(一説には第2次大戦後の豊漁が終わってからともいう)、このときに流通システムにアシシが加わるという大きな変化が生まれたが、現在ではそれも過去のこととなっている。

 貝自体の増産が不可能ならば、貝をさまざまなかたちに加工して付加価値を高め、流通システムを活性化させて、増収を図るという試みも考えられるが、単純なシステムのもとでは大きな効果は期待できない。また付加価値の高い貝商品に対して、市場側からの強い需要があるわけでもない。貝に付加価値を付けても、それを歓迎するほど市場や消費者も成熟していないのが現状である。

 貝の生産量がカギをにぎる流通システムの単純さ、そして付加価値の高い加工品を受け入れることのできない市場の未成熟さは、貝採集生計の不安定さの要因となっていると考えられる。このため採集民は、ひとつの生計手段に専従することなく、生計手段をさまざまに分散させて、危機管理を行っているのである。システム自体の単純さはさまざまな危機をはらんでいる。しかし単純さの危機を柔軟性で補うという戦略によって生計を成り立たせているのである。

 

5. 廃棄

 イバナグ語で貝殻はカップゥ(kappu)と呼ばれる。採集された貝は食べられ、最終的に貝殻が棄てられる。そのほとんどが市場で売買されている現在では、貝採集村で貝殻が大量に廃棄されることはほとんどない。自家消費や塩辛などに加工するため、わずかな量の貝がむき身にされ、その貝殻が家の裏手の径1m程のゴミ穴や河岸段丘上から河に向けて棄てられるのみである。こうして現在では、大量の貝が採集されているにもかかわらず、貝塚への貝の供給が停止した状態にある。

 廃棄された貝殻がさまざまなかたちで利用されることがある。噛みタバコ用の石灰、漆喰の原料などは現在では行われていないが、以前には盛んに行われていたという。石灰に加工するためには貝殻を焼かなくてはならない。また道路の基礎材や、貝殻を細かく砕いて肥料にすることもある。このとき貝殻が大量に貝塚から持ち出されるため、遺跡が大規模に破壊される。カタヤワン村から7km上流のバガッグ(Bangag)貝塚では、96年初めにニワトリのエサに混ぜる飼料として利用するため、大規模に貝塚のマウンドが破壊され、現在では一部分を残すのみとなってしまった。

 

IV. その他の生計活動

 ここでは貝採集以外の採集民の生計活動として、漁撈、農耕、賃金労働について述べる。

. 漁撈活動

 カタヤワン村の貝採集民にとって、貝採集と漁撈は、米とその裏作の麦のような表裏の関係にある。Table 6によると、カタヤワン村での漁撈活動は、貝採集のパートタイムとして行われている。貝採集がある程度安定しているときには、漁撈が貝生計を補てんする。漁撈においても採集民の環境や魚の生態についての知識が生かされ、対象魚種に応じた捕獲法が用いられている。現在、捕獲対象となっている魚種は4050種で、これらに対して10種類の捕獲法で対応している(Fig. 13)。 

 魚の生息域(人の漁撈活動域), 漁具, 魚のサイズ, 魚種, 捕獲期の対応関係を示したものがTable 7である。

 魚種と漁具の間には魚のサイズという限定要因がある。捕獲する魚のサイズに応じて仕掛ける漁具の大きさも決まる。そして魚の生息域と習性が捕獲法を限定し、漁具を仕掛ける場所と時期が決まる。仕掛けられる漁具はまた、対象となる魚の集まる場所と習性を利用して、巧妙に仕掛けられなくてはならない。魚のなかには、このカガヤン河下流域に通年棲むものもあれば、特定の時期にしか現れないものもある。そのような魚の時期がやってくるのを待ちかまえて、それらの魚の習性に応じた場所に漁具を仕掛ける。

 カガヤン河下流域で一年のうち特定の時期にだけしか現れない魚にヌロン(nurong、イロカノ語ではludong)がある。ヌロンは体長5060cmで、一年のうち10月〜11月だけに捕獲される回遊魚である。ヌロンは普段、河の上流域に棲み、産卵の時期になると海へ出て卵を生む降河性回遊魚(catadromous)である。サケなど日本でなじみの深い遡降河性回遊魚(anadromous)とは逆の習性を持つ魚である。ヌロンのように一年のうち特定の時期にしか捕れない魚の骨が、特定の貝層中で発掘されれば、その貝層の季節性を特定でき、貝塚形成過程の復元に寄与するであろう。

 漁具は4つの種類に分類することができる。柴を束ねたもの(Buttul)と竹筒(Bulu)、竹で編まれた筌(Bubu, Pateng)、網(Kafu, Tabak, Tanggar, Sigay)、釣り針(Banyui)、水中銃(Pisga)である。柴と竹筒は魚がこれらをすみかとする習性を利用した漁法である。筌はエサで魚を誘い込み、いったん入ると出られないというものである。捕獲対象のサイズによって筌の大きさが異なる。網にはさまざまなサイズがあるが、いずれも魚を追い込むものである。釣り針はサオを用いるものではなく、ながいひもにたくさんの釣り針を付けたものである。水中銃はゴムバンドで矢を放つものである。このように漁具は単純なものから、材料や部品が複雑なものまでが混在している。特定の漁具と魚種の関係が固定化し、特殊化することがない。たしかに漁具と魚種の関係は、魚のサイズと習性に限定されている。しかし特定の魚種を特定の漁具, 漁法で捕獲するといった特殊な関係はみられない。これについては漁具の性格をみるとより鮮明になる。柴束、竹筒、筌はおそらく古くからおこなわれていた漁法にもちいられていた漁具であろう。そこに漁網と釣針をもちいる新たな漁法が導入されるようになったものと考えられる。古い漁法にもちいられる漁具は河の岸辺を中心としてしかけられるが、漁網や釣針は河の中央部を中心としてもちいられる。このように漁具の新旧のセットがそろうことによって、河の中心から岸辺まで、魚のあらゆる生息域で漁が可能になり、幅広く水中資源を利用できるようになったものと考えられる。漁撈においても生業の危険分散を図る戦略で対応していることが分かる(Fig. 14)

 魚の売買には、貝のように流通のシステムが確立しているわけではない。捕獲された魚のほとんどは自家消費されている。時折、ヌロンや鯉などの大きな魚が捕れると、主婦が買い手を求めて村内を売り歩くのみである。このように漁撈活動には貝のような恒常的な換金システムがなく、捕られた魚はほとんどが自家消費されている。

 

. 河以外での生計活動

 河以外での生計活動には、農耕と賃金労働があげられる。これらについては、河での生計活動のような詳細なデータを集めることはできなかったが、いくつかの問題点を指摘しておきたい。農耕は水田と家庭菜園にみられる。水田での米作は、後背地に水田や山林を所有している貝採集民の世帯で行われている。しかしすべての貝採集民世帯が水田を所有しているわけではなく、所有していても1ha以下である。広い水田を所有する場合は、手間や人手の面から、貝採集のパートタイムという訳には行かなくなってしまう。家庭菜園は家の周囲に野菜や果樹を植えて日常の食に供するものであるが、これには多くの時間を割かれることはなく、貝採集民の生計活動全体の中で農耕が占める割合は低い。もしも貝の収益を水田の購入にまわして、水田を大きくし、肥料代や農業用水代をやりくりして経営がうまく行くようであれば、貝採集を廃業して農民に転化するであろう。しかしそれが不可能である以上、貝採集を続けるほかに生計の道はない。

 貝採集民が従事している賃金労働には、木材会社やバス会社の臨時雇い、トライシクル(注16)やジープの運転手、建設工事、田植, 稲刈りの手伝いまでさまざまである。これらは貝採集民にとってパートタイムの仕事で、基本的に日雇いである。貝や魚の収量がはかばかしくないときには、即座に現金収入につながる手段となるが、実際にはそれほど日雇い仕事があるわけではない。ルソン島の端に位置する地方には、公共事業投資はほとんどなく、地元の民間企業がつくりだす雇用機会も少なく、賃金労働につながる定職はほとんどないに等しい。役場の職員か学校教員などの公務員が地方の賃金労働者になるほとんど唯一の機会である。80年代まではシエラマドレ山中から切り出した木材の製材所が近隣にいくつかあり、日雇い労働を提供していたが、90年代に入ってから木材輸出の全面禁止によって、もともと数カ所しかなかった製材所もすべて閉鎖され、現金収入の道はいっそう閉ざされてしまった。

 カタヤワン村にはめずらしくバス会社が3社もある。小さな村に3つもバス会社があるのは、カガヤン州全体でもほとんど例がないであろう。2社はアパリから州都トゥゲガラオまでを路線とし、1社はアパリとマニラをつないでいる。3つのバス会社とも、創業者はかつて貝採集民であった。家族で蓄えた資金をもとに、まず1台のバスからはじめ、徐々にバスの台数を増やしていき、現在ではもう貝採集を行っていない。貝採集民出身の起業家としては非常に成功を収めた例であろう。採集民は日雇いとしてこれらのバス会社で働き、現金収入を得ている。しかしバス会社で働ける人数も年齢も限られているのである。

 農耕と賃金労働は、貝採集や漁撈と同様に生計手段のひとつに数えられるが、その機会は限られたものでしかない。しかしその限られた機会を、貝採集世帯の構成員のうちの誰かがつかみ、世帯全体の生計に貢献しているのである。カビビの収量が一日せいぜい3kg、現金収入が3040ペソでは貝採集世帯の生活はなかなかきびしい。世帯構成員は全員でさまざまな機会を利用して家族の生計を支えている。もしも賃金労働の機会がカタヤワン村に豊富にあり、カビビの生産量がこのままであったとしたならば、若い世代から「河ばなれ」が始まっていくであろう。しかしそのような機会に恵まれない以上、河を生計のよりどころとしているというのが貝採集民の現状である。

 

V. 結論

 カタヤワン村における貝採集民の生計戦略のあり方について論じてきた。彼らの生計戦略の特徴は多岐にわたるが、先史時代の貝採集を考えるうえで重要と考えられる環境、経済、社会的側面についてまとめると以下のようになる。

1)カガヤン河下流域には約30kmにわたってカビビとよばれる淡水産二枚貝が生息する。このように遍在する資源領域の一画を占めるカタヤワン村の貝採集民は、現在、3種類の貝とそれに対応する特定の道具をもちいて採集活動を営んでいる。採集用具としてもっとも多くもちいられ、しかも収量が多いのはタクである。

2)カビビの個人的採集活動には季節的な変化はみられない。いっぽう、アシシは雨季にほとんど採集されないという季節性がみられた。カビビの収量の変動は雨季・乾季のちがいよりむしろ、日々の個人差のほうが大きい。

3)貝採集活動への男性の関与に比べて、女性の関与は低い。いっぽう、貝の売買は女性の独壇場である。漁撈にかんしても女性の関与は低い。このように河を舞台とする生計活動の関与のしかたには性差があり、男性は資源を環境から抽出する役割を担い、女性は抽出された資源を管理するという分業が成立している。

4)男性の貝採集者のなかで、10代の少年層は潮干狩りや素潜りといった技術的に単純な貝採集から河での生計活動に関与しはじめる。2050代の青・壮年層は技術的により複雑なタクや漁撈を生計活動の中心におきながらも、依然として潮干狩り、素潜りを一定の割合で継続している。60代の老年層になると河での生計活動をつづける絶対数が減少し、その少ない人数はタクか漁撈に集中するといった傾向がみられる。

5)生計手段の多角化は、貝採集をはじめとする河での生計活動以外に農耕や賃金労働などによって、世帯構成員全体で図られている。その結果、ひとつの世帯の生活が成り立つように生計手段の危険分散が達成されている。

6)カビビの個人平均収量は、一日平均5.2時間の採集時間に対して4.2kgであった。そして調査事例中、貝の収穫が全くないという事例は一例もなかった。この結果からカタヤワン村の貝採集は、生計活動としてある程度の安定性をもっているものと考えられる。

7)採集された貝はそのほとんどが売りに出され、自家消費される量は非常に限られている。また貝の塩辛への加工も量的に限定されていて、大量の貝殻が村落内に廃棄されることはない。そのため貝塚への貝殻の供給は、過去のある時点で止まったままである。

8)採集された貝は村の女性によって買い取られ、市場へ運ばれて貝採集とは無縁な消費者に売られる。貝採集者、仲買人、消費者の間を結ぶ貝の流通システムは、貝採集生計そのものを成立させる要素となっている。生産と市場が交換を通じて一体となることによってはじめて、カガヤン河下流域の貝採集が成立している。

 カタヤワン村の貝採集は、量的には少ないが収穫が確実に得られる、失敗の少ない生計活動である。採集された貝は、自家消費されることが少なく、売買されて現金収入を得る。女性の仲買人が買い取った貝は、市場に運ばれて売られる。このように生産と市場が一体化したシステムによって貝採集生計が成立している。さらに貝採集以外の生計手段を多角化することによって、世帯構成員全体が生活の安定化を図っている。

 このような現代の貝採集民の生計戦略のあり方は、にわかに先史時代の貝採集行動にモデルとして投影することはできない。貝採集や漁撈活動における、環境についての長年にわたって蓄積された知識や生産技術については、先史時代における貝採集民の生計戦略についてのモデル化が可能であるが、現代の貝採集活動と考古学から得られた先史時代における貝採集のあり方とは大きなちがいがみられる。考古学データとの食い違いは、貝殻がゴミとしてカタヤワン村に廃棄されない、つまり貝塚に貝殻が供給されない点である。この相違から予測される先史時代と現在の貝採集民の人間行動の違いは、貝の利用のしかた、つまり消費行動にみられる。先史時代あるいはスペイン到来以降の歴史時代において、村内で貝殻が廃棄されるには、貝が日常的に大量に自家消費される、あるいはむき身に加工された後に、村外へ搬出されるための交換や流通のシステムが存在した可能性が想定される。カタヤワン村の貝塚の規模は、予想をはるかに上回るもので、1,000年間の貝塚形成期間から推測すると、先史時代の貝収量は現在の8倍から2倍であったと予測されている(注17)。この予測をもとにすると、大量に廃棄された貝のすべてが自家消費されたものとは考えにくい。自家消費量を大きく上回る貝を採集し、大量の貝殻を廃棄する背景となった、先史時代貝採集民の人口、カビビの古生態とそれに対する採集行動、消費行動、他集団との社会・経済的ネットワークの実態に迫ることのできるモデルを構築する必要がある。これには他の貝採集民の民族考古学的事例と比較することも必要である。

 しかし貝採集民の民族考古学的調査事例は世界的にも非常に限られている。食料としての貝の役割、採集・消費行動、男女の分業、採集組織の実態など、モデル構築に資する事項について調査された例は、これまで南アフリカ(Bigalke 1973, Hockey and Bosman 1986, Siegfried et al. 1985, Hockey et al. 1988, Voigt 1975)、北オーストラリア(Meehan 1982)、バハマ(Classen 1992)の3例しか知らない。これらの事例はいずれも海の貝を対象とする貝採集で、狩猟採集民、農耕民、漁民の生計活動の一部としての貝採集活動である。カタヤワン村のように河の貝の採集に特殊化した民族考古学的調査例は知らない。またこれらの事例と当該地とは環境、生計基盤、社会関係などのコンテクストに大きな違いがみられ、これらとの比較からモデルに資するデータを引き出すことはかなりの無理がある。貝塚遺跡は世界中の海浜、河川環境を背景に営まれ、その担い手の生業形態もさまざまである(Classen 1992:269-271)。地域的に特殊なコンテクストを無視した、貝採集行動の一般化は慎むべきであることはいうまでもない。

 一方、貝塚の発掘調査では、採集・消費行動復元を目的とする一連の方法がとられている。すでに述べた貝塚形成過程の復元のための調査、分析方法では、同時に廃棄された貝層を個別に検出し、貝殻成長曲線の分析から、貝層ごとに季節が特定されている。また貝層に供伴する動物骨、植物遺体の種同定、生息環境同定、齢構成などの分析によって、当該集団の生計活動、食物摂取における、貝採集活動の位置づけが鮮明となってくる。しかし貝塚の発掘調査から得られた先史時代貝採集民の生計戦略の実態には、考古資料からは導き出せない環境や技術の知識体系や性差にもとづく分業等の集団組織のあり方、そして周辺他集団との政治・経済的諸関係を補うことが必要である。考古学と民族考古学のデータが補完的に作用するとき、考古学本来の目的である、特定地域における社会集団の長い間にわたる変化のプロセスを引き起こしたメカニズムを解明することが可能となる。

 しかしひとつの地域の長い時間にわたる文化進化のプロセスをたどり、進化を引き起こしたさまざまな要因を検討しながら、メカニズム全体を解明することは容易なことではない。それにはメカニズムの複雑な関係のアミの目をひとつひとつ解きほぐしていかなくてはならない。その際民族考古学は、技術、資源、環境、社会関係、政治的統合のレベルなど、メカニズムの運動の基本的諸条件を限定する効能をもつ。農耕のはじまりや国家の成立など、人類史のなかで社会、文化に大きな変化をもたらしたプロセスに影響をあたえる諸要素は、民族考古学的手法によって抽出されてきた(Harris 1977, Cohen 1977, Wright 1977, Carneiro 1981)。さらに民族考古学は、考古学資料から導き出された仮説や、モデルに修正を迫る力をもっている。ロングエーカーらによるカリンガ土器についての一連の民族考古学的研究(Longacre and Skibo 1994)の中で、スタークは国家成立モデルには必ず登場する工人の専業化、食料生産活動からの解放、威信材の生産と流通による他の政治集団との社会関係の維持というサブシステムの前提に異議を唱えている(Stark 1994:195)。民族考古学はまた、定説化してしまって疑問の爼上にものらないモデルに再考を迫る力を秘めている。冒頭で概述した、考古資料と人類学の成果との食い違いを発端とするカラハリ・モデルをめぐる論争は、この典型といえよう。

 貝塚考古学の世界には”California School”とよばれる考古学者の一群がある。彼らは、カリフォルニア北西海岸の貝塚調査や北西インディアンの民族資料をもとにしながら、貝の採集・消費行動についてのさまざまな仮説を提示し、あたかもカラハリ・モデルのような影響力の強い仮説・モデルを世界の貝塚考古学界に送り出してきた(Classen 1992:270)。しかし”California School”が想定する貝採集活動は、狩猟採集、農耕、漁撈社会という昔ながらの静的な社会のタイポロジーのなかでの一生計手段である。カタヤワン村のように貝採集活動を生計活動の中心に据えながら、市場を背景とした交換をおこなう一方で、貝採集以外にもさまざまな生計手段にうったえるような、社会・経済的な柔軟性をもった集団の動態モデルは想定されていない。ステレオタイプとしての「伝統社会」を先史時代の集団に当てはめることは再考を迫られているのである。

 本稿の冒頭で述べたように、考古学研究におけるモデル構築とその応用の有効性は、民族考古学の誕生以来約30年にわたって確認されている。しかし安易なアナロジーとしての類推やコンテクストを無視したモデルの一般化は厳に慎むべきである。これまで考古学は文化(社会)人類学の成果から導きだしたアナロジーを援用して考古資料の解釈を行ってきた。そして解釈の根拠となるデータの収集と確度は一方的に文化(社会)人類学に負てきた。今後もこのように、考古学者みずからが民族データを集め、モデルを構築することなく、依然として解釈の根拠を人類学に求めていくならば、重大な責任回避といわざるをえない。文化(社会)人類学では解決できない、歴史的過程における狩猟採集民と他の社会集団との文化的・社会的交流の問題をめぐって,「伝統主義vs.修正主義」論争が高まりをみせる現在、論争の解決のために考古学によせられた期待はますます大きくなっている(小川1996:216-19)。このような期待にこたえるためにも、考古学はアナロジーの援用でみせたような責任回避の怠慢な態度を棄て、考古学独自の解釈の方法論を開発することが急務である。

 カガヤン河下流域で現在進行中であるラロ貝塚群調査プロジェクトの目的のひとつは、貝塚遺跡が分布する沖積低地とその後背地である丘陵地帯をふくめた広い地域における、さまざまな技術と環境を生計の基盤とする諸集団の政治・経済的関係がどのような変化をたどっているかを明らかにすることにある。さらにそこから当該地域先史時代における文化進化の様相と要因、そしてそのメカニズムを解明することにある。さまざまな生業技術を背景にもつ集団には、ここで検討した貝採集民、同じく低地に住む農耕民、そして丘陵地帯の狩猟採集民がある。これまで丘陵地帯に住む狩猟採集民の民族考古学的調査をおこない、低地農耕民との交換の分析をとおして、狩猟採集民の生計活動が交換を前提として成立していることを明らかにしてきた(小川1996:191-209)。今回の貝採集民の分析では、貝の流通システムを前提とする交換によって、貝採集生計活動が成立していることを明らかにした。この貝流通システムのために、現在では貝殻が村内で廃棄されなくなってしまい、先史時代のカタヤワン村における貝殻の大量廃棄という実態から大きくかけ離れる結果となってしまった。しかしその反面、貝採集民が、狩猟採集民と同様に、交換を前提とする生計戦略をもっているという新たな知見を得ることができた。今後、両者に農耕民を加えて、3者それぞれの生計戦略の実態、そして彼らの生計手段を成立させている交換のメカニズムをより精緻に研究し、当該地域の先史時代の社会・経済関係をよりよく説明するモデルの構築をめざさなくてはならない。

 

謝辞本稿は、フィリピン国立博物館考古学部門と日本人研究者によって構成されたラロ貝塚調査団の人々、そしてカタヤワン村をはじめとする、ラロの町の人々の協力によって実施することができた調査の成果をもとにしている。末尾ながら以下に記して感謝したい。フィリピン国立博物館前副館長エバンゲリスタ氏(Mr. Alfredo Evangelista)、現副館長ペラルタ博士(Dr. Jess Peralta),考古学部門長ロンキリオ氏(Mr. Wilfredo Ronquillo)、首席研究員ディソン博士(Dr. Eusevio Dizon)、動物考古学科長バウティスタ氏(Mr. Angel Bautista)、考古学部門主任研究員デラトーレ女史(Ms. Amalia de la Torre)、上智大学アジア文化研究所所長・青柳洋治教授、上智大学講師・田中和彦先生、九州大学大学院教授・小池裕子先生、日本学術振興会特別研究員・樋泉岳二氏、(株)計測技術センター主任研究員・大井信夫博士、カタヤワン村のコンシーソ家(Conciso Family), メディナセリー家(Medinaceli Family)。加藤毅(早稲田大学OB)、小池力(東京外国語大学)。またスチュアート ヘンリ、古城泰、高橋龍三郎の諸先生方には文献およびさまざまなご指摘や貴重なコメントをいただいた。

 なお本稿は、石坂財団(198588年), 三菱財団(1985年), 高梨学術奨励基金(1985年), および平成7, 8年度文部省科学研究費(国際学術研究「ラロ貝塚群の発掘調査」, 研究代表者:小川英文, 課題番号07041006) による成果の一部である。

 

1:C14年代測定値は、マガピット貝塚で2点:2,800±140BPN-5396、半減期5,730年), 2,760±125BPN-5397、半減期5,730年), カタヤワンで1点: 1,060±290BP(N-5398, 半減期5,730)が得られている。

2 :日本考古学で民族考古学的手法を用いることの困難さは、先史時代の遺物や遺跡などがしめす考古学的状況に対して想像力をかきたてるような今日的生態、技術、社会、文化的状況をさがしにくくなっていることが原因のひとつにあげられるであろう。また東南アジア考古学の側から日本考古学をみると、遺跡や遺物のデータの絶対量が多く、これらのデータだけで考古学的な言説が成立してしまうくらいに材料がそろっていることも原因にあげられる。

31996年の内陸部遺跡踏査によって、新たに3カ所の内陸低地貝塚を確認した。これらはいずれも現在、水田中か丘の裾に立地し、土器や石器等の遺物が確認されなかった。これらはいずれもカガヤン河東岸から5km前後の距離にあり、3カ所ともカガヤン河の支流に近接している。この他カガヤン河東岸から直線距離で約10kmの丘陵地帯に立地する石灰岩洞穴内でも、カビビの貝殻の堆積が確認された。

4968月の調査では、デルタに面した石灰岩台地の先端部を広範に踏査し、海食涯の存在を確認しようとしたが発見できなかった。海食涯が地表面に出ていないとすると、発掘調査で確認する以外に方法はない。

5:この測定に用いた塩分濃度計はガラス製のスポイト状にながく、河水の中に浮かべて水の表面の目盛りを読んで塩分濃度を測定するものであった。マニラ市内で購入した中国製である。河の水は表面、中位、河底から採取し、塩分濃度の測定を行った。

6:この3者のうちでのマジョリティはイバナグ族である。イバナグ族はカガヤン河東岸下流域のアパリ(Aparri)、カマラニウガン(Camalaniugan)、ラロ(Lal-lo)、ガッタラン(Gattaran)やカガヤン河西岸海岸地域のパンプローナ(Pamplona)、アブルッグ(Abulug)などを故地としていた。1948年の人口統計をみると、マジョリティはイロカノ族であるが、これらの町のイバナグ族の人口比は7030%を示している。一方、カガヤン河西岸海岸地域のラガガン(Langangan)、クラベリア(Claveria)、サンチェス・ミラ(Sanchez-Mira)、バレステロス(Ballesteros)、東岸海岸地域のブゲイ(Buguey)、ゴンサガ(Gonzaga)、カラヤン(Calayan)、そして西岸下流域のアラカパン(Allacapan)では、イロカノ族が大半を占め、イバナグ族の人口比は5%以下である(Keesing 1962:204, 219)。この人口統計から、イロカノ族のカガヤンへの移住は、イバナグ族の人口希薄な東部海岸地域やアラカパンなどの内陸地域を中心に行われたと解することができる。1948年の人口統計では、イバナグやイロカノなど民族分類を「母語」の認識に基づいて分類している。現在では、このような民族集団の判別をおこなう人口統計調査は行われていない。

7 :例外として、貝採集世帯で育ったイロカノ族の男性(現在は農業と高校勤務)の例がある。

8:マシジミは淡水産で、かつて日本全国の用水や田んぼに生息していたが、農薬・化学肥料などにより壊滅的打撃を受け、現在では食卓に上ることはなくなった。日本の食卓でみられるシジミはヤマトシジミで汽水域に生息する。島根県宍道湖・中海や茨城県利根川下流域が主な産地である。琵琶湖特産のセタシジミは、縄文時代前期の石山貝塚にみられるように、古くから食に貢献していた。1980年代前半までは宍道湖、利根川に並ぶ三大産地に数えられていたが、水質汚染でこれも壊滅状態にある。セタシジミが徐々に食卓に上らなくなったことを疑問に思った人々が、その原因が水質悪化にあることをつきとめ、琵琶湖浄化運動の引き金となった話は記憶に新しい。またセタシジミは近江、京都では味噌汁の具として親しまれてきたが、京都の友人が東京の大学に出てきて、シジミの味噌汁を出された時、はじめてヤマトシジミを見たという。このとき彼はセタシジミ以外にも、シジミがあるのだということをはじめて知ったという。

9:センサスフォームの主要生計活動について、貝採集民自身に、河での生計活動6種類のうちから、各自が従事している活動を選択してもらった。ほとんどの場合、1人が複数の生計活動に従事しているので、その際には各自の判断で、まず主要な生計活動を1つだけ選び、そしてその他の活動を副次的なものとして複数選択してもらった。以下の議論では、主要な生計活動として1つ選択されたものをフルタイム、その他複数選択された活動をパートタイムとして便宜的にここでは呼んでいる。センサスフォームで収集したこのデータをもとにして、年齢、性別ごとにそれぞれの生計活動への関与のあり方を、フルタイムかパートタイムかに分類して作成した表がTable 6である。また独立して生計を営んでいない子供の活動については、すべてパートタイムの活動として記録されたものである。

10:一度の採集活動でカビビとアシシの両方が採られた事例は5例で、表の上から順に提示すると、1.カビビ6.6kg・アシシ3.3kg, 2.カビビ1.5kg・アシシ18kg3.カビビ3kg・アシシ30kg4.カビビ1.5kg・アシシ45kg5.カビビ3kg・アシシ16kgである。1例目は収量、収入ともカビビに比重が置かれている。2例目はカビビ17ペソ、アシシ24ペソで、アシシに。3例目はカビビ32ペソ、アシシ40ペソで双方ともに良い成績を納めている。4例目はアシシに、5例目はカビビに比重がある。3例目だけは一挙両得の希な例であろうが、5例目はいっけん一挙両得のようではあるが、アシシからの収入は低い。

11:雨季にはアシシが採れないという聞き取り情報は採集民からも得られているが、貝の仲買人の取扱量のデータを示した月別平均収量表(Table 2)でも、10月から1月までの間にアシシの取扱量はゼロである。

12:カタヤワン村の貝仲買人は後で述べるように12人いるが(Table 4)、このうち一人の売買取扱量のみについて調査を行った。他の11人については取扱量の調査を行っていない。またTable 6の「vending=貝売り」の項ではこの12人の他に男女1名づつが貝の売買に関与していると記録されている。男性1名の場合は、その妻が市場に売りに行く際に貝の運搬を受け持つ。女性1名の場合は、市場での貝売りを手伝うというものである。これらは2名はいずれもたまに貝の仲買を補助するというもので、カタヤワン村の人々に貝の仲買人として認知されていないので、ここでは仲買人リストから除外した。

13:ここで用いている「採集活動」と「採集行動」の用法の違いについて定義しておく。「採集活動」は生計活動の一種としての用語であるが、「採集行動」は環境条件や対象生物の生態についての知識、道具やそれを使いこなす技量などを総合的に修得した人間たちの採集活動のあり方の総体を示す用語として用いている。

14:貝採集民は、河以外の生計手段として、米作・畑作やさまざまなかたちの賃金労働に従事することがあるが、今回はこれらの生計手段を、河での生計活動と同質の調査は行っていない。

15:ギノオカンはすぐに死んでしまうので、売買されて翌日市場に運ぶまでに売り物にならなくなってしまう。

16:トライシクルは三輪の乗合バイク。フィリピンではジープに並んでポピュラーな乗り物である。

17:カタヤワン貝塚の規模と形成期間を推定するにあたっては、以下の計算式と結果によっている。カビビ年間収量の予測を2286トンという数値を上限・下限とする。カタヤワン貝塚の規模が500m 100m 2m = 100,000u、サンプリングの結果から、20cm(0.008u)の貝の重量=3kg、これから1uの貝重量=375kg100,000u = 37,500トン÷年間総収量22トンとすると、形成期間は1,705年、37,500トン÷年間総収量86トン=436年となる。先史時代の貝採集民が20家族の場合、貝塚形成期間は、8,525年〜2,180年となる。しかしカタヤワン貝塚の形成期間は、約1,000年と推定されるため、形成期間が長いとするよりも、貝収量が多かったと考える方が妥当である。すると先史時代の貝収量は現在の8倍〜2倍であったと推定される。

 

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[1] 東京外国語大学フィリピン語