小川英文編著『交流の考古学』所収(近刊)、岩崎卓也監修『シリーズ 現代の考古学』第5巻、朝倉書店[éÖó—1] 

 

狩猟採集社会と農耕社会の交流:相互関係の視角

小川英文

はじめに

 本稿では熱帯地域の考古学で議論されている、狩猟採集社会と農耕社会社会間の交換をめぐる議論について考察し、東南アジア熱帯雨林地域における考古学資料をもとにしながら、技術的背景が異なる社会間の交流のあり方について考える。先史時代における資源の交換は、自分たちの集落を取り巻く微小環境では入手できない食料などの生活必需品から、装飾品など遠くから運ばれてきて付加価値が高くなったものまでさまざまである。特定の資源についての情報と集団間のネットワークをもとにして近場から遠距離まで、モノをとおした交流が存在したことを証拠づけるさまざまな考古資料が得られている。しかし、交流や交換の実態には単なるモノの交換をこえた、考古学で得られる証拠からは窺い知ることのできない諸側面がある。世界の熱帯地域における現在の狩猟採集社会と農耕社会との間にみられる相互関係には、交換をベースとした経済的、社会的そして政治的関係があることが、文化(社会)人類学的研究によって明らかとなってきている。これまで東南アジア考古学では、なぜ狩猟採集社会が現在まで存続してきたのか、という疑問に対して、さまざまなモデルが提示されてきた。そして文化(社会)人類学の成果を反映して最近議論されているのが、狩猟採集社会と農耕社会間の食料、土地、労働力の交換を媒介とした「相互依存関係モデル」である(1)

 このモデルが提出されるや、考古学者に人類学者を交えてその妥当性が盛んに議論されるようになった。その背景には、当時(80年代後半) Man the Hunter以降、世界の狩猟採集社会研究を席巻した、自己完結的に生業を営む「伝統的」狩猟採集社会像に対する疑問と、そこから発展した「伝統主義vs修正主義」論争の争点に、このモデルの論点が直接関わっていることがあった。この論争はその後、文化そのものに対する研究者の見方に大きな変革を迫るものへと発展するが、同時にこの論争の解決には、狩猟採集社会の外界との接触・交流を、歴史過程のなかで追求する以外にないことが確認され、その研究分野である考古学に対して、人類学から大きな期待が寄せられるようになった。ひとときの盛り上がりに比べると、論争は現在一応の終結をみたかのような静けさを迎えているが、論争の行方はむしろ考古学による検証にゆだねられたと考えたほうがよいであろう。それゆえ考古学がこの期待に対して果たすべき責任は重い。人類史のなかで「文明」へとは向かわなかった狩猟採集社会の生存戦略のひとつとして、交換のもっている(もっていた)意味が、考古学の内外から同時に問われているといい換えることができる。

 これらの議論を踏まえ以下では、東南アジアの先史時代において、狩猟採集社会と農耕社会が、交換をとおして経済的・社会的交流を維持してきたとするモデルを検討することによって、熱帯雨林狩猟採集社会の歴史の再構成に必要な理論的枠組みを模索する。具体的には、まず東南アジア考古学における相互依存関係を示唆する考古学的状況を、フィリピンの調査事例を用いて検討する。次に、これまで狩猟採集社会と農耕社会の相互関係について提出された3つのモデルの問題点を検討することによって、狩猟採集社会と農耕社会の同時存在の歴史が、「文明」によって周辺化されていると同時に、狩猟採集社会の歴史の研究枠組みも構築されていない現状を指摘する。最後に、「相互依存関係モデル」の適用が、「文明」によって隠蔽された東南アジア狩猟採集社会の歴史に、新たな研究領域を拓くものであることを提示する。