川英文編著『交流の考古学』所収(2000年刊)、岩崎卓也監修『現代の考古学』第5巻、朝倉書店

 

『交流の考古学』総論:

「交流考古学の可能性−考古学の表象責任をめぐって」

小川英文

 

はじめに

1.「交流」の考古学とグローバリゼーション

2.「交流」の考古学と本質主義

3.「交流」の考古学と「カラハリ論争」

4.「交流」の考古学と政治的ジレンマ

おわりに

本書論文の解説

 

はじめに

 考古学における「交流」の問題を考えるにあたって、ここでは日本の考古学自体が文化を研究する隣接諸分野との「交流」を果たしていない現状を問題として提示する。さらに隣接する文化研究諸分野との「交流」をとおして、考古学の新たな研究分野を拓く可能性を提示する。現在における「交流」を契機として、考古学にどのような新たな可能性を提示することができるかという問題にアプローチすることによって、本書の総論にかえたい。

 80年代以降の冷戦構造の崩壊や地球規模の環境破壊、貧困をめぐって政治・経済・文化・環境まで多岐にわたる問題を包括する南北問題などの惹起によって、現実世界の大きな変貌とそれに対応する転換・再編の動きは、人びとの世界観を大きく揺り動かし、それまで自然なものとして受け入れてきた市民、国民、教育・教養、健康、科学性、国家、イデオロギーなどの制度や価値観、権力関係などの近代の所産に揺らぎを生じさせてきた。こうした転換は当然ながら学問諸分野にも大きな動揺を与え、それまで支配的であったパラダイムの転換が迫られている。こうした転換の時代のなかで、近代の知の機制を批判する立場としてポスト構造主義やカルチュラル・スタディーズが注目されるようになる。同時にこうした批判的立場と交錯するかたちで、そして植民地の抑圧経験をとおして登場したオリエンタリズム批判やポストコロニアル批判と共存するかたちで、サバルタン研究やディアスポラなどの研究視角も生まれている。今日の時代的転換を端的に示すグローバリゼーションの浸透とともに、現実世界の変化を反映するかたちで学問の再編成が行われている。しかし日本の考古学はこうした時代の転換に連動した隣接学問分野の営みを自らに内在化し、考古学自体のあり方の再検討・再編成を行っているとは言い難い状態にある。

 隣接諸分野では近代の再検討の過程で、研究者と研究対象の関係がけっして他の影響を受けない透明な関係ではありえず、世界システムや国民国家などの近代の機制によって規定された経済的・政治的な関係を内包する権力関係の影響を受けることを明らかにしてきた。考古学が過去をめぐって歴史を再構成する行為は、これまで無批判に「非政治的」なものであり、われわれもそのことを自然なものとして受け入れてきた。しかし転換の時代の学問が生成する成果は、こうした「非政治性」の自然化自体に批判的検討を加えるものである。考古学も実は現在を過去に投影しており、イデオロギーや政治のせめぎあう磁場を生成してきたことを明らかにする必要に迫られている。

 考古学という過去における人間のあらゆる営みの再構成にかかわる学問が、なぜ、そしてどのように現在の世界の変化と関係があるのか。以下では現在の「交流」を契機として、日本の考古学では議論されることのない、分断されている過去と現在の関係の回復が拓く批判的視座の可能性を、文化に関する隣接諸分野への浸透のなかで考える。その過程で、学問のあり方自体が現在、「誰が、誰のために、誰に向けて」語るのかという、研究者のまなざしと行為主体としての倫理性が問われており、過去の表象に対しての説明責任(アカウンタビリティ)が問われていることを提示する。

 

本書論文の解説

 『交流の考古学』の企画にあたって構想したことは、まずこれまでの日本の考古学とは異なった枠組みと方法を用い、理論的に論旨を展開する論文集をつくろうというものであった。しかし日本の考古学者には理論的、抽象的議論を思考のうえでつなぎあわせながら、ひとつの結論をつむぎ出すような研究者は数少ない。多くは文化史的枠組みなかで、自分の手のなかに実体としてある遺物から経験主義的に結論を導き出している。交流の考古学も日本の考古学ではこの傾向を強く保持している。これまでの日本考古学における交流へのアプローチのしかたは、多くの場合、経験主義的な枠組のなかで、遺物の型式的・様式的類似性を根拠にしながら、空間的に距離をおく社会間の交渉関係を論じ、時間的に異なる社会間の類縁関係を「伝統」概念のなかで論ずるものであった。しかしこれらのアプローチでは、考古学者が実際に手にすることができる遺物や遺跡の分析・検討について膨大なエネルギーを投入してきたことに比べて、交流のメカニズムや交流の担い手である諸社会の発展プロセスという想像的、理論的議論にまで踏み込むことは、ほとんどなされていないのが現状である。

 本書では、これまで日本考古学が踏み込まなかった想像の領域を、交流を視角として渉猟する理論的方法について論じるものである。モノという実体のうらに隠れて目には見えないが、実在したことが確実な社会の組織や構造を想定しながら、そのシステムの諸関係を検討することによって、想像領域を実体化させていく試みである。

 欧米の考古学では、交流はモノの交換や交易のなかでとらえられてきた。しかしそこでは先史社会における交換・交易のメカニズムを解明することのみが目的であったわけではない。むしろ交換・交易のメカニズムを解明することによって、社会の発展プロセスを探求することにこそ真の目的はあった。社会の統合化、国家の成立過程や文明伝播の問題では、交換・交易が経済・社会・政治の各領域とのシステム的連関のなかで論じられてきた。また遺物の型式やスタイルを情報としてとらえることによって、集団の社会構造や他集団との社会関係の実態を明らかにしようとする試みも、交流の問題として論じられてきた。また土器を中心とする遺物の細かい分析によって、集団の親族構造、社会形態、婚姻関係、政治的友好・緊張関係などが、交流の枠組のなかでアプローチされてきた。このように交流が提起する考古学的可能性は、単に人やモノの移動をあとづける交換・交易の問題のみに限定さられるものではない。それは流通ネットワークにおけるモノや情報の移動をもとにした、交換・交易自体のメカニズムの解明であり、さらにネットワークを支える諸集団の関係態の諸相(社会・経済・政治的様態)を探求するうえでの、重要な分析枠組を提示できることも示唆している。

 先史時代の交換や交易の問題は、これまで考古学に理論的議論の場を数多く提供してきた。ランバー・カーロフスキーの文明の交流、グレゴリー・ジョンソンやヘンリー・ライトからステポナイティスへと至る70年代の国家や首長制の起源と社会統合化のプロセス、レンフリューの交換物資のフォールオフ・モデルとインド・ヨーロッパ語族言語の拡散過程に関するモデル、ティモシー・アールによる首長制社会間の比較にもとづく社会統合論、そしてウイルムセンの世界システム論と周辺社会の問題をとりあげた狩猟採集社会の「カラハリ論争」など、60年代以降の考古学史を概観すると、先史時代社会間の交流の問題が考古学のさまざまな研究分野に活発な議論を提供してきたことが理解できる。そして90年代以降の考古学では、北米を中心とした、法則定立的にデータを検証して行くプロセス考古学の伝統から発展したもの(例えばBaugh and Ericson 1993, Earle 1991, 1997など)と、イギリスを中心とするポスト構造主義の影響を受けた、考古学のなかに残る近代の知の機制と支配のテクノロジーを解体・脱構築するアプローチ(例えばラウトリッジ社から出版されている一連の考古学文献)に二分される。

 このような考古学の思潮をふまえながら、本書では交流によって生み出された考古遺物を手がかりとして、その背後で交流を支えた社会の実像にいかに迫っていくかという問題に対して、理論的なアプローチの枠組みと方法論を提示したものとなっている。

 スチュアート、松本論文は、アラスカからカナダにわたる極北圏に高い均質性を保持してきたと考えられているチューレ文化(A.D.1000年〜1500)を題材として、考古学における交流の議論の前提を再検討する論文である。従来提示されてきたチューレ文化の均質性は、銛頭の型式学を根拠にしており、その他の遺物や、地域的な生態条件、生業形態の差異は十分には考慮されてこなかった。本論ではイヌイトの多様な物質文化とチューレ文化の考古資料とを比較しながら、先史時代における交流のあり方を考古遺物のみで論じる危険性に注意を喚起している。結果としてホッダーのバリンゴ研究の結果が提示したように、特定の考古資料の分析結果を先史文化の性格として表象する考古学研究の枠組みに対する批判が展開されている。

 印東論文では、オセアニア考古学のコンテクストにおける交流モデルの比較検討が行われている。鉱物資源がないなど、自然環境に大きな制約がある珊瑚島に暮らす人々は、近隣の火山島との交流をもつことによって、巧みにその居住を継続してきた。このような交流は二方向的ではあるが、交換される物資の社会的重要性には珊瑚島と火山島とでは差がある。本稿では、単に珊瑚島と火山島との間の物資の移動(交換)を検証するのではなく、その交流の社会的意味が、珊瑚島と火山島とでは大きく異なっていることを、メラネシアとミクロネシアとの交流モデルの比較をとおして検討している。

 山浦論文は、続縄文から擦文文化成立期にかけての北海道・東北間における交易形態を、考古・文献資料をもちいながら検討したものである。東北の弥生時代から9世紀のヤマト朝廷の時代にかけて、狩猟採集社会蝦夷(エミシ)との交易関係を考古資料と文献資料で補いながら、記録に残った公式の交易(朝貢・饗給)をもとにして、そこには現われてこない非公式の交易活動の活発さを読み取ろうとしている。交易の考古学モデルにはレンフリューによる10の「交換モード」がもちいられている。

 田中論文は、長距離交易とレシーバー社会の統合化過程のメカニズムについて、これまで提示されてきた社会統合論、長距離交易と首長国の成立などの理論を検討している。フィリピン低地社会にみられる中国陶磁器など長距離交易によってもたらされた遺物が出土する集団墓や集落の資料をもとにしながら、世界システムに組み込まれる直前のフィリピン前近代の様相を首長制の発展プロセスとしてとらえたモデルが検討されている。

 小林論文では、土器属性の伝播についての民族考古学的研究をとおして、その地域的コンテクストを生かしながら、新たなモデルが提示されている。従来の縄文・弥生土器の文様の分析では、文様の類似が集団間の交流の度合いを反映するという前提にたって、スタイル属性の類似度から集団間の交流の度合いが論じられてきた。しかし土器製作の民族例をみると、集団間の交流度が必ずしもそのまま文様の類似性に反映されているわけではない。本稿ではフィリピン、ルソン島山岳地帯に生活するカリンガ族の土器文様と器形の属性について、土器製作村間の差異と時間的な変化を観察し、その要因を検討している。最後にその結果をふまえ、土器のスタイル属性の伝播についての「カリンガ・モデル」が提示されている。

 古城論文は、縄文中期の東京における石器の交換組織が、石材産地から離れた場所に形成されていることを提示しながら、当該期の社会組織の様態に迫ろうとするものである。すでに古城によって発表されている同じ地域のチャートの交換組織についての研究成果(古城1999)と、今回とりあつかった石皿の交換組織とを比較検討することによって、石材産地から離れたこれらの供給の中心地は首長制等における再分配センターを想定できるものではなく、したがって階層制社会との直接的結びつきは否定されている。遺物の数量データをもとにした交換組織の復元の重要性を指摘し、このアプローチが拓く縄文社会研究への可能性が提示されている。

 細谷論文では、農耕の日本列島への伝播と受容は、単に食料としてのコメという経済的側面の重要性のみに注目して導入が図られたわけではないということを前提としている。そこには大陸と日本における社会的、政治的諸関係をベースにしたさまざまな交流のあり方が想定される。このような問題へのアプローチのしかたとして農耕技術をひとつの情報としてとらえ、最近のレンフリューによって主導される認識考古学とホッダーを代表とする情況考古学(contextual archaeology)とを比較する。そしてこれらのアプローチの相違を明らかにしながら、農耕技術伝播を契機とした大陸と日本の交流のあり方への視角を探求している。

 高梨論文は、奈良・平安時代併行期の奄美、沖縄諸島の「島嶼社会」の様相を、螺鈿細工にもちいられるヤコウガイの交易を視角として検討している。奈良・平安時代以来、日本における「周辺社会」に位置づけられている奄美、沖縄諸島では、長い間、階層社会の登場が遅れたものと解釈されてきた。そこには日本の中心からまなざした、歴史家、考古学者による「周辺史観」が反映していると指摘する。しかも奄美諸島は、そののち琉球王朝を形成する沖縄諸島からも周辺化され、日本と沖縄によって二重に周辺化されてきた。本論考では「周辺史観」を批判しながら、ヤコウガイの考古資料と交易にかんする文献資料とを検討し、奄美諸島社会が日本との交易をつうじて社会の統合度を高めていくプロセスをモデルとして提示している。奄美諸島が日本と沖縄によって二重に周辺化されてきたという指摘は、南西諸島の先史時代ばかりでなく、歴史へのまなざしの政治性を批判するものとして受け取らなくてはならない。

 小川論文は、東南アジア考古学における狩猟採集社会存続の問題解明のために提示された3つのモデルを検討し、狩猟採集社会と農耕社会との相互依存関係のモデルが拓く考古学の可能性を提示している。「周辺社会」、「非文明」とされる狩猟採集社会の存続について構築されたモデルは、考古学者の問題意識や時代状況によって大きく左右されてきた。本論稿では「カラハリ論争」が提起した、いまなお狩猟採集社会研究に強く残る、隔離モデルの残影としての「純粋性」の問題の所在を検討し、高梨論文が指摘する他者へのまなざしの政治性批判を展開している。

 

 各執筆者はそれぞれ海外と日本のフィールドをともに経験し、理論をフィールドで検証する作業を長年つづけている。当初から意図していたわけではないが、執筆者のフィールドは興味深いことに、極北、オセアニア、東北・北海道、奄美、フィリピンという、世界システムと国民国家の「周辺」におかれた社会をフィールドとしている。縄文と弥生をテーマとして寄稿された古城、細谷両氏も長年にわたって、海外での理論研究とフィールド調査の経験をもつ。しかし各執筆者は「周辺社会」に考古学があつかう過去の時間に似た初源性を求め、より「プリミティブ」な社会でのモデル構築とデータによる検証をめざしてフィールドに赴くのではない。各執筆者は「周辺社会」がいやおうなく背負わされた抑圧を、フィールドで磨かれた感性で感じとり,その感性を研究室にもち帰って考古学の理論を鍛え上げ、考古学の「中心」に向けて強力なアンチテーゼを投げかけるのである。本書に寄稿された諸論文はそのひとつのかたちにすぎない。これから各執筆者はフィールドに舞い戻り、新たな理論と考古学の多様な可能性の探求をめざそうとしている。

 

 本書の各論文は脱稿後、執筆者全員が眼をとおし、執筆者間で論文についてのコメントを送り、それに応えるという作業を行った。それらは編者が『交流考古学通信』なるニューズレターを適宜発行して、どの論文に対してどのようなコメントとリプライの応酬があったのかを執筆者全員で共有してきた。当初、カレントアンソロポロジー誌のようになればという思惑があったが、執筆者はそれぞれ多忙な毎日を過ごしていることもあり、一部をのぞいて熱い議論は展開されなかったものの、『交流考古学通信』は2年間に8号まで発行することができ、執筆者間で互いに成果の共有が可能となったことは、ただ単に論文集に寄稿する以上の意義があったものと思われる。これもひとえに執筆者各位の熱意の賜物であったと思う。また各原稿とそのコメント、リプライ、毎回の『交流考古学通信』、そして改稿を執筆者全員に苦労もいとわず、ただよりよい原稿の完成を願ってコピーし、配信しつづけてくださった朝倉書店編集部の片瀬氏に、そのご苦労に対する深い感謝の意を表したい。そのおかげで各論文は、寄せられたコメントに応えるかたちで、少なくとも一度は改稿することが可能となった。片瀬氏に対する感謝の気持ちは執筆者のいずれもが感じていることと思う。

 最後に、『現代の考古学』の企画段階で本書の編集を託してくださった岩崎先生、常木先生、高橋先生、そして本書の企画に賛同し、寄稿してくださった執筆者各位にあらためて感謝と敬意をあらわしたく思う。