『民族学研究』63-2: 192-202, 1999所収

 

考古学者が提示する狩猟採集社会イメージ

 

                                         小川英文(東京外国語大学)

要約

 考古学は東南アジアの狩猟採集社会のイメージを、博物館展示やモデルなどの場で生産してきた。これらのイメージの変遷を検討すると、研究の枠組みや方法論の変化があったにもかかわらず、現在でも考古学は狩猟採集社会を「非文明」イメージのなかに「隔離」してきたことが理解できる。しかし先史時代の狩猟採集社会と農耕社会との間に相互依存関係が存在したとする最近の仮説は、カラハリ論争における修正主義者の論点と同様に、狩猟採集社会に対する「非文明」イメージの虚構性に再考を迫るものであった。本稿では考古学者が東南アジアの狩猟採集社会に対して抱いているイメージの虚構性を打破し、狩猟採集社会の「歴史の回復」をめざす理論的枠組みの可能性について考察する。

 

キーワード:相互依存関係、 隔離性、時空間の均質化、イメージの虚構性、歴史の回復

 

目次

はじめに

. 博物館展示によって再生産される「狩猟採集社会=非文明」イメージ

. 隠蔽された歴史:狩猟採集社会と農耕社会の相互関係

. 東南アジア狩猟採集社会研究における「カラハリ論争」

. おわりに

 

はじめに

 東南アジアの熱帯雨林に生活する狩猟採集社会は、先史時代から今日に到るまで、農耕社会との交換をベースとした経済的、社会的相互依存関係を維持してきた、という仮説が考古学に提示されてからすでに20年以上が経過している(Hutterer 1976, Peterson and Peterson 1977, Headland and Reid 1989)。今日まで東南アジアの狩猟採集社会が存続してきたことからすれば、先史時代においても農耕社会と同時に存在し、なんらかのかたちの交流をもっていたことは容易に予測される。また相互依存関係の仮説は、狩猟採集社会と農耕社会が交換を行っていた可能性を示唆する考古資料の存在のほか、両者の言語的類縁関係、そして炭水化物獲得が困難な熱帯雨林の環境特性などによっても支持される(Headland and Reid 1989)。しかしながら、「外部世界」から「隔絶」された、「純粋」で「自立的な(self-sufficient)」、そして「野蛮な他者」としての狩猟採集社会イメージが考古学者の間にいまなお根強く残り、この仮説支持に多くの考古学者が消極的であることも確かである(例えば、Brosius 1991, Endicott and Bellwood 1991)。このように狩猟採集社会の「隔離性」や「原始的」イメージが根強く支持されている背景には、研究者自身がそうしたイメージづくりに深く関与し、博物館などでのイメージの再生産に寄与していることがその一因と考えられる。同時に、「文明から取り残された」狩猟採集社会イメージの生産と消費には、植民地主義や国民国家もまた、大きな役割を果たしている。 

 以上の議論を踏まえ、ここでは、東南アジアの狩猟採集社会のイメージが、考古学者によってどのように生産されてきたか、そしてそのイメージを乗り越え、狩猟採集社会と農耕社会の相互依存関係の歴史をどのように再構成するかについて考察する。具体的には、イメージ生産の場として博物館をまずとりあげる。次に東南アジア先史時代における狩猟採集社会と農耕社会の相互関係についての説明としてこれまでに提出されてきたモデルを歴史的に批判、検討する。この検討の過程で、「自立的」で「純粋」な狩猟採集社会イメージがどのように生産され、変化してきたか、さらにそれらのイメージ生産に関わってきた考古学者の責任の所在を明らかにしていく。最後に、抑圧されている狩猟採集社会の現実を直視し、国民国家、植民地主義の相対化、脱自然化の議論に参加することによって、農耕社会との相互関係の歴史を生きた狩猟採集社会イメージを再構築する理論的枠組みへの可能性が拓けることを提示する。

 

. 博物館展示によって再生産される「狩猟採集社会=非文明」イメージ

 東南アジアの博物館で展示された狩猟採集社会は、民族学コーナーでは多民族国家の一員として勇ましく展示されている。それに対して考古学コーナーでは、その国の歴史の初源、すなわち考古展示の最初のガラスケースに登場し、石器や骨格標本、当時の生活の想像図やジオラマとともに展示されている。しかしそれ以降の時代に関しては展示に登場することはまずない。現在の国家における、多様な民族の一端を担う国民として、民族学コーナーに展示される狩猟採集社会も、考古展示では農耕開始以降の歴史には登場してこない。たしかに民族学コーナーでも展示されるのはいわゆる少数民族が中心で、現代を生き、国民の大半を構成するマジョリティの人々が展示されることはほとんどない。民族学や考古学のコーナーで展示されるのは、現在の国民を形成している「伝統」であり、今日の姿にたどりつくまでの国民の来歴である。アンダーソンが述べているように、博物館が国ごとに造られ、そこで国民の来歴の物語を展開するかたちが制度として成立して以来、国民文化的な神話の生成と流通に重要な役割を果たしてきた(アンダーソン1997:X)。「固有な」国民性は、「過去に向かって掘り進めれば進むほど」(西川1995:156)純化されていく。抽出された国民性のエッセンスは、少数民族の「伝統」や考古遺物のなかに今日的残滓として保存されており、それを国民全員が共有していることを、博物館を訪れる人々に認識させる。博物館は、固有な来歴をもつ国民が共に暮らす、均質な空間を創出する強力な媒体として存在してきた(Russell 1997)

 しかしここで問題となるのは、国民の初源となるべき狩猟採集民が、現在の国民国家において、実際はその固有の位置を認められず、抑圧された、周辺的位置に追いやられているという現実である。考古展示で強調されるのは、国民文化の「純粋性」が歴史を遡って発見されるのとは逆に、むしろ、初源の「原始性」からいかにして今日の文明へとたどり着いたかという道程の方である。国民文化が希求する「純粋性」、「固有性」は、現在の狩猟採集社会の周辺的位置にも、そして過去の「原始性」にも帰着することはない。狩猟採集社会が国民の歴史の最初のガラスケースに登場する姿は、ただその国の興りの古さを強調するために展示されているかのようである。「はじまり」と「現在」以外の時間においては、「歴史」の存在を認められていない狩猟採集社会研究の現状は、植民地主義そして国民国家の枠内における考古学研究の限界を露呈している。すなわち、農耕社会に歴史の主役の座を譲って以降、「文明」への方向性をもたない狩猟採集社会の今日までの足跡は、国民国家の歴史から排除、隠蔽され、研究のための理論的枠組みすら構築されていない状況にある。「文明」へと方向づけられた国民の歴史によって、狩猟採集社会は「非文明」、「文明の対極」の代表として蔑まれてきたのである。そして狩猟採集民は、ホッブスとルソーの昔から現在に至るまで、「残虐な野蛮人」と「高貴なる野蛮人」の振幅のなかで対極的なイメージとして描かれてきたが、いずれのイメージを背負わされたにしても、「文明」の埒外の「他者」として表象されてきたのである。

 考古学研究の場で取り上げられ、議論されてきた遺物は一般に、考古学者によって「文明」の方向性をもつと解釈された遺物である場合がほとんどである。考古学では遺跡から出土した遺物全体の中からある特定の遺物のみが取り上げられ、再構成されるが、その際「文明」の方向性に沿った遺物の取り上げ方、技術の進歩の方向性に沿って選択された遺物のみが強調されているのが現状である。では逆に考古学者の取捨選択の網の目にかからなかった、たとえば、ここで問題としている農耕社会出現以降の狩猟採集社会の歴史過程における遺物の再構成の方法や理論的枠組みについては、これまでほとんど議論されることがなく、まさにこれからの課題であるといえる。たしかに発掘された遺物を時間の経過にそって並べてみた場合、遺物に反映される技術的変化は発展的な様相を示すのが一般的であるが、考古学者が遺物の技術的変化を発展の連鎖として提示するとき、「文明」への方向性のなかで技術や社会を位置づけようとする無意識の意図を見出すことができる。このように遺物を発展の連鎖の図式のなかでとらえ、技術的優劣の差異に位置づけようとする、これまでの考古学の議論の中心であった研究の方向性の陰で、東南アジアの先史時代においては、古い技術体系を保存するメカニズムが存在していることを示す遺物やその出土状況があることも確かである。

 東南アジアの先史時代に出土する剥片石器や礫器を例にとると、これらの石器は単純な技法で製作されており、その技法を反映している形態的特徴を、特定の時期に限定することが困難である。そのため東南アジアの石器はホモエレクトゥス(Homo erectus)の昔から現在まで、時間の流れが止まったかのように変化しなかったと考えられてきた(小川1996, n.d.)。先史時代の人々の生活の残滓である石器の様相から、考古学者はその担い手である狩猟採集民の社会自体をも、「変化のない社会」として表象してきた。さらに、現存する狩猟採集社会までも、これらの石器を残した先史時代の狩猟採集社会と直接に結びつけられ、人類の最も古い段階の文化を現在に伝える「最後の生き残り」(Heine-Geldern 1958:13)として位置づけてきた。何万年の時間が経過しても変化のない「原始的な社会」が東南アジア全域に存在していたとする、「時空間の均質性」(homogeniety in time and space; Russell 1997:232)の概念のなかで、狩猟採集社会のイメージが考古学者によって語りつがれてきた。

 サイードは、こうした「原始性」の概念が植民地主義によって構築され、とくに西欧の研究者は対象地域の文化を、均質で、劣った、対極的なものとして表象してきたことを問題としている(サイード1978 [1993])。過去と現在の狩猟採集民の世界は、「他者が占める想像の時空間」として描かれてきた。博物館で提示される狩猟採集民の過去と現在、そして考古学者が描く狩猟採集社会のイメージも、時間的な変化がなく、静的な、社会構造の多様性のない、相互の交流をもたず影響を与え合うことのない、均質なものとして提示されてきた。トリッガーはかつて「植民地における考古学や文化史の目的は、原住民の先史時代が静的であり続け、社会を発展させる力に欠けることを証明することによって、原住民社会を侮辱することにあった」と述べている(Trigger 1984:362)。「文明」の側が一方的に掌握している支配的パラダイムのなかで、考古学者が東南アジアの狩猟採集社会の歴史を語ること自体が、狩猟採集社会を静的な、均質なイメージに凍結させることに加担してしまうこととなる。しかしこのような現状に対して、世界の狩猟採集社会をはじめとする少数民族は、自らの「歴史の回復」を主張し始めている。そして彼らの権利の主張に対して、これまで博物館やテキストなどで研究対象のイメージ生産に携わってきた考古学者や民族学者は、植民地主義、ポスト植民地主義そしてナショナリズムにおける支配的パラダイムの見直しと問題点の抽出、さらに今後の新たな研究の方向性の模索を始めている(Molyneaux 1997, Diaz-Andreu and Champion 1996, Lane 1996, Simpson 1996, Skotnes 1996, Schmidt and Patterson 1995, Kohl and Fawcett 1995, 吉田1998)

 これまで考古学者が、「野蛮な他者」の占める変化のない、均質な時空間に存在するものとして狩猟採集社会のイメージを生産してきたことによって、抹消され、隠蔽されてきた歴史がある。キージングが述べているように、「数千年間にわたって狩猟採集社会は周囲の農耕社会、牧畜社会、王国や帝国との交易などをとうした政治経済的関係を保ちながら、複雑な地域システムの一部をなしていた」(Keesing 1981:122)とすれば、これまで考古学者によって狩猟採集社会のイメージのなかに脈々と生き続けてきた「隔離性」や「時空間の均質性」は虚構であったことになる。博物館やテキストでのイメージ生産によって忘れ去られた狩猟採集社会の歴史は、農耕社会などのより複雑な社会と相互関係をもち、影響を与え合いながら、そそれぞれ特殊なコンテクストごとに多様な生業戦略と社会構造を構築してきた狩猟採集社会の歴史として、新たに生成されなくてはならない。

 

. 隠蔽された歴史:狩猟採集社会と農耕社会の相互関係

 東南アジアの先史時代における狩猟採集社会の歴史は、「隔離性」や「時空間の均質性」によって隠蔽されてきた。しかし狩猟採集社会が現存するという事実を前にして、考古学者はこれまで狩猟採集社会と農耕社会が同時に存在してきた歴史的経過を説明するために、さまざまなモデルを提示してきた。植民地時代にはじまった東南アジア狩猟採集社会の考古学では、文化史的な研究方法が主流で、現在でもその傾向はほとんど変っていない。文化史的アプローチは、経験主義的パターン化という性格をもっている。すなわち出土した考古遺物を記述、分類して、特定の、境界線が明確な時空間に関連づける。さらにこの領域には社会的な実体が存在すると想定する。そして考古遺物の背後に想定された、境界線が明確な時空間の領域と、その領域内に生活する人間集団の社会的実体は「考古文化」と呼ばれている。文化史的考古学者の手のなかに実体として存在する遺物は、過去における特定の人間集団のエスニック・アイデンティティを表象するものと考えられてきた。そのため現在の特定の「民族集団」や「国民」は、特定の「考古文化」と安易に結びつけられやすいという危険性も指摘されている(Veit 1989:42, Jones 1997:3-5, Härke 1998:56) ()

 東南アジアの狩猟採集社会が植民地宗主国の人類学者や植民地行政官などによって「停滞論」のコンテキストで語られるなかで、狩猟採集社会が今日まで存続してきたことについてはじめて説明を与えたのはハイネゲルデルンの「隔離モデル(isolate model)」であった。狩猟採集社会と農耕社会は互いに隔離された状態のまま、相互に交流をもたず、「自立的(self-sufficient)」に存続してきたという説明である(Hutterer 1976より引用)。「隔離モデル」はキージングが「モザイク・ステレオタイプ(mosaic stereotype)」と呼ぶように(Keesing 1981:111)、狩猟採集社会を明確な領域をもつ時空間に閉じこめてしまうものであった。民族のモザイクの各領域は均質で、時間の流れが止まっている。そしてモザイクの境界線を越えて民族間の交流が行われることはない。そこには「石器時代の生き残り」が保存さている。今日、狩猟採集民が利用する農耕技術や鉄器などは、「純粋(pure)」で「真生な(authentic)」狩猟採集社会の文化要素には元来含まれないもので、「文明」との接触によってもたらされた文化的「汚染」とみなされる。このように「隔離モデル」には過去を表象する際の文化史的アプローチの特徴が明確にみられる。植民地主義の時代に成立した文化史的考古学研究の枠組みは、ポスト植民地主義の現代にも受け継がれ、考古学者による狩猟採集社会の「野蛮な他者」イメージの生産と消費は依然として博物館やテキストで続けられているのが現状である。

 記述的で、経験主義的な文化史のアプローチから抜けだそうとする試みは、60年代の北米の考古学者によって始められた(Binford 1962, Binford and Binford 1968)。のちにプロセス考古学(processual archaeology)と呼ばれるこのアプローチの特徴は、文化人類学の影響下にあって、文化をひとつの機能的システムとしてとらえ直すことにあった。文化人類学、文化生態学、新進化主義の理論に依拠しながら社会変化のプロセスの分析やその説明モデルの構築を主題とする考古学的アプローチである。プロセス考古学は文化人類学の理論的枠組みのなかで、生業などの経済的適応戦略、交換システムや社会構造の変化の分析に貢献した(Hodder 1991:6)

 プロセス考古学の枠組みに依拠した北米出身の考古学者が東南アジアで調査、研究を行うようになると、上で述べたような石器にみられる形態変化の乏しさを、狩猟採集社会の「隔離性」や「停滞性」の反映として理解するよりも、熱帯という自然環境を利用する際の、特殊なコンテキストとの機能的関連のなかで理解しなくてはならないという研究の方向性が提示されるようになった(例えばHutterer 1976, 1982)。さらに狩猟採集や農耕といった技術的背景が異なる社会集団が、同じ時代に近接して生活してきたことがなぜ可能であったのかという問題が提起され、生業技術の多様性を助長してきたメカニズムの研究が、東南アジアにおけるプロセス考古学の中心課題のひとつとされるようになった。そして東南アジアの各地で、狩猟採集社会と農耕社会との相互関係の歴史を探る調査が開始されるようになった(例えばマレーシア:Dunn 1975, タイ東北部:Kennedy 1977, 中部フィリピン:Hutterer 1976, Hutterer and Macdonald 1982)

 この問題に対して明確にモデルを提示して答えようとしたのはピーターソンらであった。フィリピン、ルソン島北東部のパラナン(Palanan)で狩猟採集民アグタ(Agta)の民族・考古学の調査を行っていたピーターソンらは、アグタと農耕民との間にみられる食料、労働力、土地の交換による相互依存関係をモデル化して、狩猟採集社会が先史時代から現在まで存続してきた歴史過程を説明しようとした(Peterson and Peterson 1977, 小川1996)。これは「交換適応(exchange adaptation)」モデルと呼ばれ、狩猟採集社会と農耕社会それぞれがもつ技術によって、競争(competition)を避けながら異なった自然環境(低地と山地)を利用し、互いに不足する資源を交換によって補い合うという生業戦略で、結果的に2つの社会が適応、存続していくというものである。交換を媒介として互いに労働投下量を低く抑え、技術革新を推し進めることなく、生産の絶えざる集約化から免れ、低い技術レベルで人口を環境収容量(carrying capacity)内に維持することが可能となる。この適応戦略によって狩猟採集社会と農耕社会はひとつの共存のシステムをつくりあげ、結果として狩猟採集社会が現在まで存続したとピーターソンらは説明する。交換適応モデルは、ボズラップが提示した、農耕と定住の結果増加した人口を支えるため、絶えざる技術革新と労働の集約化を必要とする、農耕社会の発展モデル(ボズラップ1967)とは際立った違いをみせている。農耕を開始した人類はその後「文明」を築き上げることになるが、生産の集約化という絶えず「膨張」するシステムを維持し続けなくてはならなかった。一方、交換適応モデルでは狩猟採集社会と農耕社会がひとつのシステムとして「膨張」を抑えた、経済的、社会的均衡(equilibrium)状態を描き出している。

 しかしこのモデルの問題点は、狩猟採集社会を安定的で、静態的な、変化のない社会としてのイメージを生産している点である。交換を媒介とする相互依存関係は、農耕社会との間で実践されるため、これまでの「隔離モデル」とは違って、狩猟採集社会と外部との機能的関係を説明しているようにみえるが、実際は狩猟採集社会と農耕社会をともにひとつの閉鎖系のなかに閉じ込めている。交換適応モデルは、プロセス考古学の新たな研究の枠組みによる「隔離モデル」の乗り越えという目的をもっていたにもかかわらず、相互依存関係で結ばれたふたつの社会を、ひとつの安定した、長期間にわたって均衡状態を保つシステムとして提示しただけで、そのシステム外部との影響関係を論じていないという点では、かたちを変えた「停滞論」「時空間の均質性」の提示と考えることができる。「停滞論」を打破しようとして構築された交換適応モデルが提示したものは、結局、文化史的考古学と同じ「時空間の均質性」であり、かたちを変えた「隔離モデル」であったと考えることができる。

 この理由には70年代の狩猟採集民研究の潮流を考慮する必要がある。この時期(あるいは現在でも)Man the Hunter  (Lee and De Vore 1968)でリーらによって提示されたブッシュマン社会のモデルが考古学者に与えた影響力は大きい。このモデルが生み出した、狩猟採集社会が低い労働投下量で高い生活水準を享受し、自然環境の諸条件に密接に適応するかたちで柔軟に構成された平等主義的共同体であるというイメージは、考古学者に広く受け入れられ、世界各地の先史狩猟採集社会のイメージに重なり合うようになった。また同時に、リーらは現在の狩猟採集社会を「石器時代の生き残り」とすることは慎重に避けながらも、過去から現在までの過程を変化のない社会とみなす時間の観念(timeless sense)でとらえていた(Shott 1992:845)。同時期にプロセス考古学者によってはじめられた民族考古学(ethnoarchaeology)が生み出したモデルも、当初からカラハリ・モデルの影響を強く受けており、交換適応モデルもその一例と考えることができる。またより大きな時代的影響として考えられるのは、ベトナム戦争以降の、輝かしいはずの「文明」へ投げかけられた疑問や幻滅である。これによって人類学者のみならず、多くの考古学者が「非文明世界」における自然と人間との調和的関係にユートピア像を描く原因となり、「高貴なる野蛮人」イメージを狩猟採集社会に重ね合わせることになったものと考えられる。

 「文明」社会に幻滅や疑問を感じるようになっても、狩猟採集社会は依然として自己([文明])と対峙する「野蛮な他者」の世界として表象されてきた。プロセス考古学によって新たな理論的枠組みと方法が導入されたが、狩猟採集社会と農耕社会が同時に存在し、相互関係を保持してきた可能性のある数千年間の歴史は隠蔽されたままであった。狩猟採集社会の「隔離性」や「均質な時空間」の虚構性に対する議論が活発になるには(例えばカラハリ論争のように)、これまで科学的客観主義によって研究対象とされてきた狩猟採集社会自体から、一方的な表象のあり方に対する異議申し立てが盛んとなり、それに対して研究者が反応するようになる時期までまたなければならない。

 

3.東南アジア狩猟採集社会研究における「カラハリ論争」

 東南アジアの考古学において、狩猟採集社会の「隔離性」や「均質な時空間」の虚構性が議論されるようになるのは、ヘッドランドらによる問題提起以降のことである(Headland and Reid 1989)。フィリピン、ルソン島北東部カシグラン(Casiguran)のアグタに関する言語学的、人類学的調査を長年にわたって行ってきたヘッドランドらは、アグタ社会と農耕社会との間には相互依存関係にみられるような頻繁な交流があるにもかかわらず、一般にはアグタは「文明」から「隔離」された「野蛮」な状態にあるとされており、タイラーやモルガンがその進化主義のなかで定式化した、「野蛮」、「未開」段階から「文明」段階へと人間は文化的に進化するという虚構の図式が、いまだに信じられていることに対して疑問を提示した(Headland and Reid 1989:50)。そして「隔離性」の虚構を打破するために、アグタが農耕社会と相互依存関係を長い間保持してきたことを、言語学、生態学、考古学、民族誌、古文書などの資料をもとに検討した(小川1996)。その結果、ヘッドランドらは約3000年前までにはすでに農耕社会との相互依存関係が成立していたとする仮説を提示した。考古学的には複数の社会間に交流が存在したか否か、さらには相互依存関係のような交流のあり方にまで踏み込んで検証することは、考古遺物のみからはひじょうに困難である(Jones 1997, スチュアート・松本 n.d.)。しかしヘッドランドらが提示した仮説が根拠に乏しいというなら、同時に現在まで通用している狩猟採集社会の「隔離性」を考古学的に検証することも困難である。他の研究者がこの仮説を受け入れるには、考古資料以外のさまざまな状況証拠で仮説の補強をはかると同時に、「隔離性」の虚構に疑問を呈する時代的風潮も必要である。その後、この仮説に対して世界の熱帯雨林狩猟採集社会を研究する考古学者、人類学者が賛否両論の論争を展開し(Headland and Bailey 1991)、あたかも同時期に行われていたカラハリ論争(Shott 1992, 池谷1996参照)と類似した様相を呈していたが、ほとんどの研究者はヘッドランドらの仮説に否定的であった(Bahuchet, McKey and de Garine 1991, Brosius 1991, Dwyer and Minnegal 1991, Endicott and Bellwood 1991, Stearman 1991)。しかしこれら2つの論争はいずれも、狩猟採集社会イメージの虚構性を打破し、隠蔽された歴史を回復するという共通の目的のもとにはじめられたものであった。残念ながら東南アジアではカラハリ論争ほどの活発な議論は生まれなかったが、論争の帰結は相互依存関係を歴史的に検証する唯一の分野である考古学にゆだねられている。しかし東南アジア考古学がこの期待に応えるには、これまで自らが作り上げてきた狩猟採集社会イメージを大きく変革する作業を続けて行かなくてはならない。

 

4.おわりに

 東南アジアの狩猟採集社会に対して考古学が生産してきたイメージを、博物館展示と考古学のモデルの変遷を追って検討してきた。その結果、それらのイメージは現在でも「隔離性」や「野蛮な他者」を表象するかたちで生産されてきたことが明らかとなった。このため狩猟採集社会と農耕社会の相互関係の歴史も「均質な時空間」に閉じ込められたままであった。狩猟採集社会の「歴史の回復」の動きは、カラハリ論争と同じく、狩猟採集社会イメージの虚構性を打破する目的のもとに東南アジアでも開始されたが、カラハリの考古学者がこの問題に対してかかえるほどの切実さをもっては迎えられなかった。これらの論争の決着は考古学に期待されているが、複数の社会間に交流が存在したことを考古資料だけで検証することは困難である。そのため考古学の枠組みにそって自然科学分野の資料や民族考古学から構築されたモデルなどを援用しながら、交流のコンテキストを歴史的に明らかにする必要がある。同時に、狩猟採集社会のイメージを「均質な時空間」に閉じ込めてきた、植民地主義や国民文化の相対化、脱自然化の議論に考古学者が参入し、抑圧された狩猟採集社会の現実を視野に入れた「歴史の回復」をめざさなくてはならない。こうした作業によって、農耕社会との相互関係を生きた、新たな狩猟採集社会イメージを生産する考古学の理論的枠組み構築の可能性が拓けるものと考えられる。

 

:日本考古学を例にとると、文化史的考古学者によって、縄文土器から「縄文人」や「亀ヶ岡式土器人」が実体として語られるのはこのためである。またドイツでは文化史的アプローチが、ナチによる領土拡大や人種政策に正当性を与える根拠となったことが論じられている(Veit 1989, Härke 1998)。しかし奇妙なことに、これまで「考古文化」は民族概念を暗示しているにもかかわらず、政治的イデオロギーとは無縁のものとされてきた(Veit 1989:42)

 

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      1995     『地球時代の民族=文化理論−脱「国民文化」のために』新曜社

小川英文

      1996     「狩猟採集民ネグリトの考古学−共生関係が提起する諸問題−」スチュアート ヘンリ編『採集狩猟民の現在』: 183-222,

                   言叢社

      2000     「狩猟採集民と農耕民の交流−相互関係の視角−」小川英文編『交流の考古学』、岩崎卓也監修『シリーズ 現代の考古学』                  5巻、朝倉書店

Peterson, J. T. and W. Peterson

      1977       Implications of Contemporary and Prehistoric Exchange Systems. In Allen, J., J. Golson and R. Jones (eds.) Sunda and Sahul.: 567-599.                        New York: Academic Press.

Russell, L.

1997       Focusing on the Past. Visual and Textual Images of Aboriginal Australia. In Molyneaux, B. L. (ed.) The Cultural Life of Images -Visual Representation in Archaeology. London and New York: Routledge.

サイード、エドワード

      1978     [1993] 板垣雄三・杉田英明監修 今沢紀子訳『オリエンタリズム』上・下、平凡社ライブラリー (Orientalism. New York:                      Pantheon.)

Schmidt, P. R. and T. C. Patterson

1995     Introduction: From Constructing to Making Alternative Histories. In Schmidt, P. R. and T. C. Patterson (eds.) Making Alternative History. The Practice of Archaeology and History in Non-Western Settings. Santa Fe: School of       American Research Press.

Shott, M. J.

      1992     On recent trends in the anthropology of foragers: Kalahari Revisionism and its Archaeological Implications. Man 27(4): 843-872.

Simpson, M. G. (ed.)

      1996     Making Representations - Museums in the Post-Colonial Era. London and New York: Routledge.

Skotnes, P.

      1996      Introduction. In Skotnes, P. (ed.) Miscast. Negotiating the Presence of the Bushman:15-23. Cape Town: University of Cape Town Press.

Stearman, A. L.

      1991    Making a Living in the Tropical Forest: Yuqui Foragers in the Bolivian Amazon. Human Ecology Vol.19: 2: 245-260.

スチュアート ヘンリ・松本拓

2000     「極北地帯のチューレ文化にみる交流の読み方」小川英文編『交流の考古学』、岩崎卓也監修『シリーズ 現代の考古学』第5巻、朝倉書店

Trigger, B.

      1984      Alternative Archaeologies: Nationalist, Colonialist, and Imperialists. Man 19: 355-70.

Veit, U.

      1989    Ethnic Concepts in German Prehistory: a case study on the relationship between cultural identity and objectivity. In S. J. Shennan (ed.)                Archaeological Approaches to Cultural Identity : 35-56. London and New York: Routledge.

吉田憲司

      1998     「民族学展示の現在−表象の詩学と政治学」『民族学研究』62-4: 518-536.

 

 

 

Archaeologists’ Image of hunter-gatherers in Southeast Asian Archaeology.

 

keywards:interdependent relationships, isolation, homogeneity of time and space, fiction of image, making alternative history

 

Southeast Asian archaeology has produced the images of hunter-gatherer societies in the museum display or archaeological models. Examining the productions of these images in the archaeological history, archaeologists still convey the idea that hunter-gatherers had been isolated from the other societies into these images, even the changes of analytical frameworks and methods of archaeology. But the interdependent symbiotic model on the relationships between hunter-gatherers and farmers in Southeast Asian prehistory challenges to the archaeological representation of ideas on the hunter-gatherer societies. Sharing the issues with the Kalahari revisionists, the model provokes the reconsideration of fiction of “isolated hunter-gatherers”. I discuss the possibility to reconstruct the analytical framework for making alternative history of hunter-gatherers in Southeast Asia, overcoming the illusion of their isolation.