東南アジアと日本の貝塚を比較する

 

東南アジアと日本の貝塚の類似と相違

 東南アジアと日本の貝塚を比較するとき、以下ではまず貝塚の立地、規模、貝種、共伴遺物と年代などを視点として、その類似と相違を比較してみたい。

 東南アジアの貝塚を概観するためには、東南アジア考古学会編の『東南アジア・南中国貝塚遺跡データ集』(1994)が、全体を見渡す大まかな情報を与えてくれる。東南アジアで貝塚の分布密度が高い地域を遺跡地図で見てみる。東南アジア大陸部では、ベトナムの北部マ川デルタと中部海岸地帯、タイはシャム湾に面したチャオプラヤデルタと内陸の東北部盆地、そしてマレー半島ではマラッカ海峡側とその対岸のスマトラ北東部海岸地域にみられる。東南アジア島嶼部では、スラウェシ島、ティモール島、ボルネオ島の内陸部、そしてフィリピン全域に分布している(1)

 この貝塚分布密度の低さを見て、読者は縄文の貝塚と比較することが可能なのかという疑問を抱くかもしれない。たしかに各国の遺跡調査の密度や貝を動物骨や植物遺体ともに自然遺物として認識し、文化層中の共伴遺物として取り上げているかという問題点があり、われわれが貝塚遺跡として認定する遺跡数はこれよりも増えるものと考えられる。しかしながら絶対数の少ない完新世前半の遺跡や、海進とその後の沖積作用で埋没してしまって、その存在が知られていない遺跡などのような考古学的状況については、相対的に日本の状況と同じと考えられるため(遺跡の絶対数は別として)、現時点で大まかな比較を行うための遺跡情報量としては許容できるものと考えたい。実際、完新世はじめの海進によって陸地の二分の一が水没したと考えられる東南アジア地域では、南シナ海沿岸部の海底に多くの遺跡が水没している可能性が高い。以上のような制約があることを念頭に入れた上で、東南アジアの貝塚遺跡の検討をはじめたい。

 まずその分布と立地を見てみると、東南アジアの貝塚遺跡は内陸の石灰岩洞穴や河川沿いの微高地、そして海岸付近の石灰岩洞穴やデルタの微高地、海浜砂丘とその後背微高地に分けることができる。

 

内陸貝塚

 内陸洞穴貝塚

 内陸の洞穴内貝塚には、大陸部では北部ベトナムの紅河デルタの南側に位置するホアビン山地(ホアビン洞穴群)、および北部(スピリット洞穴)・西部タイ(サイヨク岩陰、バンカオ洞穴群)の石灰岩山地、島嶼部では、フィリピン諸島のルソン島北東部(ペニャブランカ洞穴群)とパナイ島内陸部、ボルネオ島北東部(マダイ洞穴群)と西部(ニア洞穴群)、そしてスラウェシ島南部(ウルリアン洞穴群)がある。大陸部の洞穴貝塚はそのほとんどが完新世前半以前のいわゆるホアビニアン(Hoabinhian)文化期の遺跡で、遺物としては土器を伴わず、石器群を出土する。ただしタイ西部の洞穴群は、ホアビニアンから新石器時代前半(BP4000年以前)まで継続し利用されている。一方、島嶼部の洞穴貝塚は年代幅が広く、C14年代によると更新世末から数百年前のものまでみられる。しかし大陸部・島嶼部ともに共通する点は、貝種がいずれも淡水産貝を主体としている点である。内陸という海から離れた環境にあって、海進の影響を受けることなく、洞穴近郊の河川で淡水産の巻貝・二枚貝を採集して食料レパートリーの一部としていたものと考えられる。ホアビン洞穴群のソムチャイ(Xom Trai)洞穴の貝層は堆積密度の高さで知られている。またスラウェシ島のリアンブルン2(Leang Burung II)洞穴では更新世の25000年前にタニシなどの淡水産貝を利用していたことが報告されている。

 

 内陸開地貝塚

 一方、内陸の東北タイでは新石器から金属器時代にわたる開地貝塚が知られている。それらのなかでバンチェン(Bang Chian)遺跡は、新石器時代から鉄器時代まで継続して居住されていた遺跡である。この遺跡の貝層は土器を出土する最下層に集中し、淡水産貝によって構成されている。遺跡は川に面した低位段丘上に立地し、付近の川で貝とともに魚、川エビ、カエル、ミズガメなどを採捕していたものと考えられる。バンチェン遺跡をはじめとする当該地域で発掘調査されたノンノックター(Non Nok Tha)やバンナディ(Ban Na Di)遺跡などは、東北タイのおける新石器時代のはじまりとその後の青銅器、鉄器時代への発展過程についての活発な議論に対して、これまで多くの資料を提供してきた。バンチェン遺跡では最下層のBP4000年頃には、貝をはじめとする淡水産動物とともに、ネコ科やネズミなどの小動物、そしてシカ、イノシシ、スイギュウ、ウシなどの陸上動物などの骨も出土している。しかしバンチェン遺跡の後半期にあたる鉄器時代になると、河川に生息する動物や陸上の小動物の利用は相対的に減少し、陸上大型獣の比率が増えるようになる(小川1986:2)。このような自然遺物の変化を生業パターンの変化としてとらえ、狩猟・採集・漁労から徐々に焼畑、そして水田耕作へと生業の主体を変化させていったプロセスとして考えることも可能である。しかしバンチェン遺跡の調査報告が出た当初は、古いC14年代のみを根拠として、東南アジア農耕文化の初源、青銅器文明の初源などと取り沙汰されていたが、80年代以降の調査件数の増大や大陸部の新石器時代遺跡の相互比較研究の進展により、その年代は下方修正されている。農耕文化の初源を示すかどうかの問題は北部ベトナムやタイのチャオプラヤデルタの新石器時代遺跡との比較が必要であるが、バンチェン遺跡の長期にわたる居住と文化・自然遺物の資料は、東北タイにおける生業の変化、農耕社会への発展過程を考える上で重要である。

 フィリピン、ルソン島北東部のラロ貝塚群については、本号の田中氏の論考に委ねる。

 

海岸付近の貝塚遺跡

 つぎに海岸付近の貝塚遺跡に目を転じると、その立地は内陸の貝塚遺跡よりも多様で、石灰岩台地やデルタの微高地、海浜砂丘とその後背微高地に貝塚遺跡を見出すことができる。

 海岸洞穴貝塚

 海岸線付近の洞穴貝塚遺跡はタイ南部、インドネシアのティモール島北東部、フィリピンのパラワン島のタボン洞穴群やスルー諸島に見られる。これらの洞穴はいずれも海に面した石灰岩台地に立地するもので、貝種は鹹水産・汽水産貝を主体としている。

 タイ南部、マレー半島のくびれ部分の西側に位置するパンガ湾(Phang Nga)には石灰岩洞穴群にホアビニアン文化期以降の居住が認められ、貝層形成が見られる。この貝層は洞穴付近に広がるマングローブ林で採集される汽水産貝を主体としている。C14年代は得られていないが、調査にあたったタイ芸術局の見解では、ホアビニアンから新石器段階にいたる遺跡群とされている。さらにこの海岸線を南に下ると、同様の立地を示す洞穴遺跡が調査されている。ランロンリエン(Lang Rongrien)岩陰、モーキエウ(Moh Khieu)洞穴も一万年以前のホアビニアン文化期以降、新石器時代まで居住が続く遺跡で、貝種も汽水産、鹹水産貝を主体としている。

 インドネシア、ティモール島北東部石灰岩洞穴群ではBP8000年からBP1000年までの長期にわたる文化層をもつ貝塚遺跡が報告されている。貝種は汽水産・鹹水産を主体としている。BP5000年の文化層からは土器とともに有舌ポイント、貝斧、貝製釣針、貝製ビーズなどの人工遺物、そしてアワ、ヒョウタン、ココナッツなどの植物遺体の検出も報告されている。

 フィリピン、パラワン島の南シナ海側海岸線に面した石灰岩台地に立地するタボン洞穴群は更新世末から金属器時代にかけて居住が続けられ、最近まで墓地として利用されてきた遺跡群である。その中のタボン洞穴はBP30000年から完新世はじめのBP9000年までの剥片石器群を主体とする文化層が確認されて、BP20000年の年代をもつ、いわゆるタボンマンの頭骨もこの洞穴から出土している。貝が多く出土するのは上層で、BP9000年頃の文化層である。これらの貝は淡水産で、鹹水産のものは含まれていない。現在洞穴の開口部は海に面しているにもかかわらず、当時は海岸からかなり離れていたものと予測される。60年代末からタボン洞穴の発掘を行っていた青柳洋治(上智大学教授)によると、当時の海岸線がタボン洞穴からどのくらい離れていたかを計測するために、ロープを使って水深100mの地点を計測したという。その結果は洞穴から16kmの距離があったとのことである。完新世はじめのスンダ陸棚の広がりを想像させるものとして興味深い。一方、タボン洞穴群のなかでも、完新世に入ってからの居住を示す他の洞穴貝塚では、鹹水産の貝を主体としている。グリ(Guri)、ドュヨン(Duyong)洞穴からは完新世前半の剥片石器群やBP4600年のC14年代をもち貝斧や貝製耳飾を副葬された人骨が報告されている。貝層の主体は最下層の剥片石器群を出土する層にある。両洞穴からはその後の鉄器時代包含層からは、中・南部ベトナムとの交流を示唆するネフライト製玦状耳飾やソケット状の青銅斧の陶製鋳型が出土している。

 タボン洞穴群のあるパラワン島から南下し、ボルネオ北東岸に接する、スルー海のサンガサンガ島のバロボック岩陰も海に面し、鹹水産の貝で構成された貝層をもつ。ここではBP8000からBP5000までの上下2つの文化層が検出され、剥片石器、土器、貝斧などが報告されている。また60年代の調査では、ソケット状青銅斧が表面採集されている。

 つぎにデルタに立地する貝塚遺跡はベトナム北部マ川デルタ、タイのチャオプラヤデルタに見られる。両デルタの開地貝塚群は、それぞれの地域の海進・海退や農耕の開始を考える上で重要な遺跡群である。

 

 デルタ開地貝塚

 ベトナム北部マ川デルタの小河川に接した微高地の縁辺に位置するダブート貝塚(Da But)は、貝層深度5m、貝層範囲1400uが確認されている巨大貝塚遺跡である。同時にここからはBP6400年の年代をもつ土器が出土している。この貝塚からやや北の山地に立地するホアビニアン文化期の洞穴貝塚遺跡群については上で紹介したが、そこからダブート貝塚のある開地への進出は、新石器段階への移行、新たな生業としての農耕を想像させる。この遺跡は現在海岸線から20kmほど距離があるが、貝層は汽水産・鹹水産の貝で構成されており、当時海岸線がこの付近まで及んでいたことを示唆している。土器とともに局部磨製石斧やスイギュウ、ウシなどの動物骨の出土は、当該地域のホアビニアンから新石器段階への移行を示す重要な資料と考えられている。

 タイのチャオプラヤデルタ東部に位置するコックパノムディ遺跡(Khok Phanom Di)は、BP4000年頃から約500年間にわたる、墓域を含む居住を示す遺跡である。遺跡形成当初は海岸線に近く、デルタ支流の川の河口付近に位置していた。その当時、貝種は汽水産貝で構成されていたが、その後の海退により徐々に淡水産貝種が主体となっていく。魚骨の出土状況も貝と同様に海退の過程を物語っている。海岸近くの河口に広がるマングローブ林に生息する動物種は、海岸線とともに後退し、淡水に生息する動物種に替わっていく。人工遺物では、土器や方角石斧・有肩石斧とともに、墓の副葬品として貝製・石製の腕輪も出土している。また骨製の銛頭や釣針も見られる。コックパノムディ遺跡はタイにおける新石器時代の開始とその後の発展について考えるとき、上述の東北部のバンチェン、西部サイヨクとバンカオの両洞穴群とともに、新石器段階の人工遺物の比較、生業変化を示す自然遺物の検討が相互に行われることが、今後重要性を増すものと考えられる。

 

 海岸開地貝塚

 海岸低地に立地する開地貝塚の代表的な遺跡として、ベトナム北部、マラッカ海峡両岸のスマトラ島北東部、マレー半島西岸部、フィリピン、ミンダナオ島北東部に分布している貝塚を紹介したい。

 ベトナム北部紅河デルタ北部のハロン湾に浮かぶカットバ島(Cat Ba)のカイベオ遺跡は前面に岩礁性の海岸が広がる湾内の砂丘上に位置する。貝の出土は少ないが、魚骨が大量に出土しており、海に依存した生業の様子を如実に示している。文化層は上下2層に別れ、下層がBP5600年、上層がBP3800年のC14年代が得られている。下層からは量的に少ないが土器が出土し、局部磨製石斧が共伴する。上層では土器の増加し、方角石斧、有肩石斧、有肩有段石斧、石製腕輪等が出土する。新石器段階の遺物を有するが、遺跡の立地と自然遺物の出土傾向は、海に依存した生業を示している。

 カイベオ遺跡から海岸線を南に下ったゲアン省(Nghe An)北部の海岸に位置するクインバン遺跡群(Quynh Van)は、海岸低湿地に面した微高地に立地している貝塚群である。20ヵ所前後の遺跡が確認されているが、発掘調査の結果得られたC14年代は、この貝塚がBP5000からBP4000年頃に形成されたことを示している。貝層は汽水・鹹水産貝によって構成されており、貝層範囲100m、深度6mに達する純貝層も報告されている巨大貝塚遺跡である。しかしクインバン貝塚群はほとんどの貝が口を閉じた状態で堆積しているため、自然形成されたとも言われている。筆者が偶然立ち寄った、海岸線から6kmほど内陸に位置する国道1号線の道路の下に堆積する貝層では、4m以上の二枚貝、巻貝数種で構成された純貝層が厚く堆積していたが、人工遺物は見られなかった。しかし純貝層の中に打製の礫石器や土器等と共に、破砕貝層、動物骨や炭化物を含む層が見られると報告されている(西村1993:29)。この貝塚群が自然か人工的に形成されたものか、今後大きな課題として残されている。

 マラッカ海峡の両岸、スマトラ島北東岸と対岸のマレー半島南西岸のムダ川(Muda)河岸には、貝層深度5m以上にも及ぶ開地貝塚群の存在が知られている。これらの貝塚遺跡はいずれも現在、海岸線から10キロほど離れた、標高数mの河岸に位置しており、規模は径1530mで、貝層深度は47mに達する。貝塚の形成年代は、スマトラ島側ではホアビニアン期に限られるが、マレー半島側ではホアビニアン期から新石器時代にわたる。ホアビニアンのスマトラリスという片面加工の礫石器の名称は、スマトラ島側の貝塚遺跡に由来している。これらの貝塚群の中で一点のみC14年代がスマトラ島側で得られており、BP8000年の年代を示している。貝塚の貝種はハマグリを主体とした汽水・鹹水産貝で構成されている。人工遺物はスマトラ島側ではホアビニアンの石器群、マレー半島側ではホアビニアンの石器に加えて、土器の出土も見られる。また両者とも埋葬人骨が出土している。スマトラ島側のビンジャイ‐タミアン貝塚(Bindjai-Tamiang)では剥離面にカキや藻が付着した石器が検出されており、このことから貝塚形成後に貝塚は海進によっていったん水没したものと考えられており、マラッカ海峡の海水準変動曲線に準拠した最大海水面の時期であるBP6000年以前にこの貝塚は形成されたものと推定されている(川名1993:15)。またこれらの貝塚の利用形態については、ベースキャンプとしての集落が後背河岸段丘に存在し、貝採集を行うためのキャンプという機能を貝塚遺跡がもっていたという指摘もある(ibid:20)。このような東南アジアの貝塚形成の諸問題を解決するために、再調査が行われることが期待される。

 

 以上、東南アジアの貝塚遺跡をその立地条件に依拠して概観してきた。縄文時代の貝塚遺跡をよく知る読者に対して、東南アジアと縄文貝塚を比較するのは筆者の任ではないので、特記すべき点をいくつか挙げるとすると、まず内陸の洞穴および開地貝塚に淡水産の巨大貝塚が見られる点、マラッカ海峡両岸で見たように巨大貝塚が最大海進以前に形成されている点、さらに新石器段階に入っても海岸付近では貝塚が形成され続ける点などが指摘できる。最後の点については、農耕と貝採集が生業活動全体の中でどのように関係づけられていたのか、今後の興味ある課題である。また日本の貝塚調査で行われる貝層形成過程復元のための調査方法などは、現在、東南アジアの貝塚調査で定式化していないという現状では、読者の関心に十分応える比較材料も提示できないが、現在でも貝採集が行われているところがあり、過去における貝塚形成を考える上で興味深い示唆を得られるという点は東南アジアの利点でもある。そこで以下では筆者が調査したラロ貝塚群カタヤワン貝塚の貝採集活動を簡単に紹介し、結びにかえたい。

 カタヤワン貝塚は100mx最大500m、深度最大2mの巨大な規模をもち、貝塚の上には現在の村が営まれている。しかも貝採集活動が現在でも継続されており、ほぼ100世帯によってカガヤン河に生息する淡水産二枚貝3種が採集されている。貝採集の代表的な方法は、図3にあるような三角形の籠に柄のついたもの(タク)を河底に沈め、リギックと呼ばれる竹で編んだ戸板をボートの両舷に取り付け、川の流れを受けて、その力でタクを引き、河底を浚うという方法である(2)。この方法で採集される貝種は3種であるが、現地でカビビと呼ばれる二枚貝が集中的に採集される傾向にある。カガヤン河の河口から20kmの地点にあたるこの村では、潮位の変化の影響を受け、それに採集活動も左右されている。干潮時は河の流れによってタクを引き、満潮時には潮の逆流の力を利用する。貝の平均収量は一人一日平均3kgであるが、これは貝殻ごとすぐに女の仲買人に売る。仲買人は次の日の朝、村から100km以内のさまざまな市場へ売りに行く。このため現在では貝塚に貝殻が供給されていない(小川1997)。カタヤワン貝塚の形成期間は現在のところ1000年間ほどと考えているが、その貝のほとんどはカビビで構成されている。発掘結果では1.2立米に13万固体のカビビを確認した。発掘個所の混貝率は90%近い(青柳他1988)。貝殻がこれほどの貝塚を形成するには採集者の自家消費をはるかに上回る収量を予測できるが、貝を剥き身に加工して干貝にして交易を行っていたことが想定される。このような問題は日本の貝塚で最近報告されている三河湾東岸の大西、水神貝塚や東京湾の中里貝塚のような巨大貝塚との比較検討が課題となる。

 

文献目録

青柳洋治・M.L.アギレーラ・小川英文・田中和彦

 1988  「ラロ貝塚群の発掘」『上智アジア学』6:63104

川名広文

1993              「マラッカ海峡沿岸の先史貝塚」『東南アジア考古学会会報』13:10-24

中島広顕・保阪太一

 1996  「東京都北区中里貝塚」『日本考古学年報』49:489-493

西村昌也

1993              「ヴェトナム・タイの貝塚遺跡」『東南アジア考古学会会報』13:25-50

小川英文

1986              「東南アジアの初期農耕論をめぐって」、スチュアート ヘンリ編『世界の農耕起源』:175-223

1997              「貝塚洪水伝説-フィリピン、ルソン島北部カガヤン河下流域における貝採集民の民族考古学」『東南アジア考古学』17:119-166.

東南アジア考古学会編

1994              『東南アジア・南中国貝塚遺跡データ集』

豊橋市教育委員会

1995              『大西貝塚』豊橋市埋蔵文化財調査報告第19集.

1998  『水神貝塚(2貝塚)』豊橋市埋蔵文化財報告書第44集.