河出書房新社「アジア読本」フィリピン原稿 小川英文

漂流考古学 ールソン島北部の山からー

 

発掘現場から

ナサアン シィ トニー ンガヨン? ワラ バ シャー?(トニーはどこ行ったの。来てないの)

ヒンディー ラウ シャー プマソック ンガヨン。(今日は仕事に来ないってさ。)

バキット?!(何で?!)

メイロン ダウ カセ トゥラバホ サ ブキッド カサマ ナン タタイ ニャ。(オヤジと山で畑仕事があるって言ってたぞ。)

バキット ガンニャン!(なんでこうなるの!)

 こうして発掘現場の朝が始まった。トニーは長男で、両親も年だし、弟や妹も大勢いる。一家の支えだ。そして日本の初夏にあたる5、6月は田んぼ仕事が一段落ついて、山の焼畑にイモの一種であるカモティンカホイを植えなくてはならない時期にあたる。いくら現金が得られるからといって、発掘は1年も続かない。こういった事柄がひとしきり頭の中をよぎってから、しかたなく今日一日働いてくれる別の人間を探しに行った。

 発掘現場は、ルソン島北東部カガヤン河の下流域に点在する貝塚遺跡の一つである。世田谷の、家と家の間で発掘して来た者には、ここは宝の山だ。国道沿いの岡の斜面や川辺には、貝塚から崩落した貝殻と一緒に土器片、石器、骨などを容易に採集することが出来る。貝塚群の中には長さ500m、深さが2m以上という比類ない規模を持つものがいくつもあり、さらに貝塚遺跡がある村では、村人が現在でも貝を採っていて、過去から引き続いて貝塚の形成が進行中という状況にある。考古学を志す者にとって、このような遺跡群を前にして触手が動かないはずはない。こうして発掘調査は始まった。

 日本の考古学界では、海外をフィールドとする研究者を外国考古、国内の場合を日本考古というふうに色分けをしている。現在日本にはプロフェッショナルとして考古学で生計を立てている人が、多く見積もって約5000人もいる。アメリカが500人、オーストラリア200人、東南アジアあわせて300人くらいなので、他の国々はよく知らないが、世界中でも5000人くらいだろう。とすると人類の約半数の考古学者は日本人ということになる。しかしその反面、外国考古を専門にする日本の考古学者は50人くらいしかいない。どうしてこんなにアンバランスになってしまったのか、その理由にはいろいろ考えられるが、一つにはマネージメントの大変さが上げられる。日本からわざわざ外国へ出かけて行って地面を掘るわけなので、お金もかかるし、発掘は一人ではできないので人手もかかる。また自分の国ではないので、相手国の関係部局からさまざまな許可を取らなくてはならない。海外調査は自らプロデュースしないことには始まらない。現場で調査中にも、冒頭に出てきたような不測の事態が発生する。大きなものから小さなものまで、さまざまな問題に対処しなくてはならない。多大な労力と時間を費やしてマネージメントをこなして、ようやく調査の成果らしきものが日の目を見ることになる。

 このようにいろいろな苦労をしなくてはならないのに、私が今まで続けて来た理由は、研究活動を通して、フィリピンとの繋がりを持ち続けることができるからとしか言いようがない。調査中に起こったさまざまな困難もフィリピンで出会い、調査に関係した人々の助けがあってはじめて乗り越えることが出来たのである。そして若い時期に3年間も過ごした場所の記憶がすぐには消えないものとなってしまったわけだが、そこに至るまでには十年以上のフィリピンとのつき合いがあった。

 

不定形剥片石器

 フィリピンとのつき合いはまず石器研究から始まった。当初はこの国のこともよく知らず、ただ過去の人間集団の遺物を研究する対象として渡って行った。

 東南アジア地域の石器の中でも剥片石器と呼ばれる遺物がある。剥片石器は世界中で、人類史のごく初期の段階から見られる石器であり、石の塊を叩き割って取れた小片を使って、切ったり、削ったりする作業用の道具である。東南アジアの剥片石器の特徴は、矢じりやナイフといった定形的な、つまり形を見てある程度の機能を類推できる石器とは違って、一体何に使われたのかよく分らない不定形な石器群という点にある。東南アジアの剥片石器はアモルファスなのである。これでは分類のしようがない。考古学では発掘で得られた未分化の状態にある遺物群の中に、何等かの(特に形態の)パターンを見い出し、それを基に分類を試みるが、不定形な剥片石器は分類の最初の段階から分析を拒んでいるかのようであった。

 形態を分類の基準とし、成果を挙げてきた考古学先進地域(いわゆる欧米地域)の研究者から見ると、不定形剥片石器は技術的に劣っている、そしてついには文化的にも劣っているものとして見られて来た。東南アジア考古学の研究はこうした西欧的な見方に縛られ、随分と遅れていた。研究者の数自体が極端に少なかった。しかしこのような状況も70年代から徐々に変化し始め、形態よりは石器が作られた技術やどのように使われたかという機能の問題に着目するようになり、石器が不定形なのには、それなりの理由があるからだという相対的な考え方が定着し始めた。また同時に、石器は自然に対して直接的に働きかける道具であり、それによって得られた資源をもとにして先史時代の人々は生計を立てていたと考えられるから、東南アジア島嶼部を被う熱帯雨林という自然の特徴を知ることは必須の要件であるという認識も生まれてきた。石器という道具が特定の環境下でどの様に使われたのかという脈絡を問題とするように、研究のアプローチの仕方が変ってきたのである。

 剥片石器研究のため、私が始めてフィリピン国立博物館人類学部門の扉を叩いたのは、大学院の2年、1982年夏だった。今振り返ると大変な迷惑を博物館にかけてしまったが、正式の紹介状もなくいきなり飛び込んで来た私に、博物館が発掘した剥片石器群資料の分析を任せてくれた。これらの石器が出土した遺跡は、ルソン島北東部シエラマドレ山脈の西麓に広がる石灰岩台地にあるラトゥ・ラトゥ洞穴遺跡である。この地域はペニアブランカと呼ばれ、この一帯に100ヶ所近くの洞穴・岩陰・開地遺跡が報告されており、現在でも国立博物館で調査中である。ラトゥ・ラトゥ洞穴は石灰岩台地が川によって分断された崖面下部に口を開ける細長い洞穴で、明るいのは10平米くらいの入口付近だけである。発掘はこの開口部に2x2mの範囲で、深さ約2mまで行われていた。剥片石器はどの深さからも出土するが、群として捉えられるのは2ヶ所の深度で見られた。一つの石器群は、ある時期の人々が生活を営む上で必要な道具類と言うことができる。

 さて先史時代の人々の道具箱の中味には、ハンマーやノコギリ、カッター、その他が考えられるが、不定形剥片石器の刃部に注目して、その形や角度をもとに機能を分析した結果、「切る」と「削る」道具に分類できた。剥片石器以外の道具類には、河原石のハンマーやミルがあった。石器群全体を概観してみると、道具類として十分に分化していない状態にあることが読み取れる。石の塊から剥ぎ取っただけの剥片石器は、刃の形や長さから一応「切る」と「削る」道具に分類できるが、私達が日々使っているカッターのように、切ったりも削ったりもできる汎用の道具と考えることもできる。同様に、河原から拾ってきたままの石のハンマーもミルも、「叩く」という機能には変りがなく、いつでもスイッチ可能なのである。もっと大きな問題は、これらの道具類はいかにも日曜大工セット的で、庭先での作業風景しか思い浮かばない。他にも生活を支えるための道具はあったはずだ。もっと活動的な道具、弓矢などはどうだったのか、獲物を捕らえるワナやアミ、荷物を運ぶカゴやヒモ、食べ物を盛る器はどうだったのか。確かに石器群と同じ土層から、土器が出土しているが、これは煮炊き・貯蔵用に限られる。その他の道具類は、植物、中でも竹・ラタンやヤシ科植物を素材にして作られていたと考えられる。現在でも、これらの植物は東南アジア各地でいろんな道具として利用されている。とすればラトゥ・ラトゥ洞穴の石器群が「切る」「削る」「叩く」機能しか備えてなくても、その石器で植物素材の道具を作り出せばよいのである。もちろん石器と土器以外の植物製道具類は、長い年月の間に土中で消えてしまったのである。消えてしまったものに想いをめぐらしても、想像力には自ずと限界がある。熱帯雨林の自然の中でラトゥ・ラトゥ洞穴の人々はどのように生活していたのか。それを考える糸口を見つけるため、そしてより良い先入観を植え付けるために、今度はシエラマドレ山中に住むネグリートの人々のところへ出かけて行った。

 

採集・狩猟民ペニアブランカ・ネグリートの生活

 ネグリートは、マレー系フィリピン人より肌の色が黒く、身長も低い、そして頭髪が巻毛、といった身体的特徴を持つ人々で、現在でもシエラマドレ山中で採集・狩猟生活を続けている。ここの他にもフィリピンには、最近の大噴火で有名になったピナトゥボ火山の山麓、ネグロス島、ミンダナオ北部、パラワン島に住んでいる。さらにマレー半島山中やアンダマン島でも生活している。ネグリートは低地に住むフィリピン人から、アタ、イタ、アッタ等、地方によってさまざまに呼ばれているが、ルソン島北部ではアグタの呼び名が一般的である。近年、政府による定住化政策や森林伐採その他の理由で、ネグリートの生活も大きな変化を迫られ、採集・狩猟活動から焼畑農業へ転換せざるを得ない、というところまで追い込まれているのが現状である。しかし彼らこそ、現在大多数を占めるフィリピン人の祖先であるマレー系の人々がこの地に移動してくる以前から、フィリピンに住んでいた先住民なのである。

 ペニアブランカ山中に住むネグリートの人々を最初に訪問したのは、ラトゥ・ラトゥ洞穴出土の石器群調査の後のことである。彼らのキャンプまでの行程は、ペニアブランカの川を遡つこと1日である。朝、食料とお土産を持って出発し、遠くにシエラマドレの山並を眺めながら川を何回も越え、農耕民の集落が絶えてさらに川を登り、夕暮れ時に到着した。キャンプはサッカーボール大の河原石がごろごろしている川辺に営まれていた。到着時、キャンプには5家族22人が世帯ごとに住んでいたが、帰るときには32人に増えていた。それはこの時期が雨期の始まりにあたり、乾期の間分散していた家族が集まって、雨期には大きな集団を形成するからである。人々は家族ごとに、木の枝と竹、ヤシの葉でできた簡単な、床面積5平米くらいの高床の家に住んでいた。その内の1軒に泊めてもらうことになって、調査が始まった。

 この集団は、推定60才のエヨックじいさんとその子供達、親戚の家族で構成されている。彼らはペニアブランカの川筋を季節ごとに上流・下流と移動し、周囲の森を糧として生計を営んでいる。また別の川筋にも彼らと姻戚関係にある集団が住んでおり、絶えず往来している。姻戚関係はシエラマドレの西側、太平洋岸まで広がっており、エヨックの息子のひとりもこの時、親戚がいる海辺のキャンプに行っていた。雨期のこの集落は、乾期に比べて集団も大きく、より定着的である。そのため家のつくりも、乾期の差し掛け小屋よりしっかりしている。キャンプの中では、男達はふんどしかパンツ姿、女達は上がTシャツに下がスカートという出で立ちである。家の中を覗くと、各家に弓矢セット1、木枠の手製水中メガネ1、段ボール1個分の衣服、鉄鍋が1、2個、ホーローの皿数個、懐中電灯1、山刀1が基本的アイテムとして見られる。この他に単一電池で動くレコードプレーヤー、手製ギターを持っている音楽家もいる。

 彼らの集落は熱帯雨林に取り囲まれている。この森に住む動・植物を対象として、採集・狩猟・漁ろう活動を行っている。熱帯は雨も多く、気温も高いため、人間には住やすい環境と思うかも知れないが、実際は莫大な生物量を抱えエネルギー循環のスピードが速く、人間が食料として利用できる部分は非常に限られている。そして植物を食料とするシカやイノシシ、サルといった狩猟対象動物の数も同様に限定されてくる。そのため熱帯雨林の自然に依存する採集・狩猟生活は、かなり苦しいことが分かる。

 狩猟活動は主に弓矢によって行われる。弓はヤシ科植物を素材とし、矢柄は細身の竹、矢尻は太い針がねを叩いて葉状にしたものを取り付けている。狩猟に出かける時は3、4人のパーティーを組む。獲物が捕れるまで2、3日は帰ってこない。私がいた頃は、ちょうどエヨックの娘の結婚が近くて、彼は何度も狩猟に出かけて行った。シカやイノシシが捕れるとその場で解体し、蔓で背負子を作り、葉にくるんでキャンプまで持ち帰る。肉は集団で平等に分配される。漁ろうは日常的に、集落付近で行われる生計活動で、手製の木枠にガラスを樹脂で張り付けた水中メガネをつけて、川に潜り、モリで魚を衝く。漁労活動は、日々のタンパク質摂取を可能にするため、重要な生計活動である。

 一方、炭水化物は植物の採集活動による、となるところだが、実際はあまり活発ではない。彼らのキャンプの周囲には小規模な焼畑が作られており、トウモロコシ、おかぼ、イモ、各種野菜にタバコまで耕作されている。しかし彼らの小さな焼畑だけでは日々の食料は賄えない。もっとトウモロコシや米を入手するため、ネグリートはシカやイノシシの肉、魚や蜂蜜を農耕民と交換して入手している。農耕民がネグリートのキャンプまで注文にやって来て、ネグリートが後で届け、必要なものと交換するということが、私の調査中に2度あった。交換品は炭水化物に限らず、電池や針がね、酒にまで及んでいる。このような状況をどう理解すればいいだろうか。世界の他の採集・狩猟民、例えばカラハリ砂漠のブッシュマンの場合には、彼らが獲得する食料の大部分は、女・子供・老人の採集活動によるものであることが知られている。しかしネグリートは、森では困難な食料採集を、隣接する農耕民との交換によって補っている。そうすると交換は、熱帯雨林の環境下では獲得が容易でない炭水化物の食物を、農耕民と社会的関係を結ぶことによって獲得し、生計戦略上の弱点を補っている行為と考えることができる。反対に農耕民は、タンパク質確保のために家畜を飼っているが、これを頻繁に食用にすることはできない。つまりお互いの弱点を補い合うところに、交換が成立しているのである。

 ネグリートの調査は当初、植物を道具としてどのように利用しているかという興味から始まったが、終ってみるとそこで見た「交換」を軸に関心がめぐり始めていた。採集・狩猟民と農耕民は、森と低地という異なった自然環境に生活基盤を置き、それぞれがアクセスしやすい資源を、互いに利用できるよう交換が行われている。こうした社会的関係が、長い歴史を持っているとすれば、熱帯地域に住む採集・狩猟民と農耕民の交換をベースにした共存関係を、考古学的に解明することが可能かもしれない。元来、この2つの人間集団は、技術的背景も社会組織も、生活様式も異なった集団なのである。人類が道具を使い始めた約300万年前から、農耕が開始される1万年前まで、人類の生活は採集・狩猟によって支えられてきた。その後、農耕社会は高度な文明を築き、現在では世界に限られた数の採集・狩猟社会しか残っていない。その数少ない例であるネグリートは、農耕民との接触を持ちながらも、なぜ現在まで存続することができたのか。ここで見た交換は、この疑問に答えられるほどの歴史を持っているのだろうか。いずれにしても考古学は、こうした過去における長い間の、人間行動の変化を追える唯一の学問的手段である。

 しかしそのためには時間と空間の幅をより大きくとった調査が必要となってくる。時間的には農耕が開始される1万年前から現在まで、空間的には地理的に限定された1つの地域を調査範囲として選定しなくてはならない。新たな問題と地域を求めて、今度はカガヤン河の下流の貝塚遺跡群の調査を開始した。

 

ふたたび発掘現場へ

 再度、過去の問題へ立ち帰るように、発掘現場に戻ってきた。しかし今度は洞穴ではなく、貝塚遺跡である。今度も遺跡と民族が一緒に調査できる現場である。現場は南北がカガヤン河の河口から50km上流まで、そして東西は河岸から山裾までの広い地域である。3年間の住み込み調査によって、河岸の貝塚遺跡群の分布調査と試掘、そして貝採集を行っている人々の生活についての基礎的調査を終え、現在、その結果をまとめている段階である。これからあと何年の調査になるか知らないし、私の関心もどこへ持って行かれるのかも分からない。

 過去と現在を行き来しながら、私の関心も漂流している。それというのも東京では及びもつかないくらい、ここでは過去への想像力がかきたてられるからだ。現場では毎日、新たな事実が次々と迫ってくる。尽きない興味と好奇心で、これからもフィリピンとの長いつきあいは続きそうだ。