コンピュータサイエンス誌『bit』1998年2月号

海外事情・アジアから
モンゴル編 「モンゴル国、パソコン事始め」

上村 明




 「モンゴル」といえば、「草原」「遊牧」「チンギス・ハーン」といったイメージがまず思い浮かぶのではないだろうか。そのモンゴルでも1989年末に始まった「民主化」以降、コンピュータは着実に社会に浸透してきている。モンゴル国のコンピュータ事情について、コンピュータの浸透ぶり、モンゴル語処理の問題、インターネット事情といったテーマで紹介して行きたい。今回は、モンゴル社会がコンピュータをどのように取り入れてきたか、乗り越えるべき課題は何であったか、その特殊性にふれながら概観してみたい。

「民主化」と経済発展の夢
 モンゴル国は1924年に人民共和国を宣言してから世界で2番目に歴史のある社会主義国として体制を維持してきた。日本人の持つイメージからは意外かもしれないが、モンゴル人民共和国(現モンゴル国)の都市人口は、1979年に全人口の2分の1を上回っている。また牧畜従事者の数も、80年代終わりの統計で全就労人口の3分の1を割り込んだ。これは、社会主義時代のモンゴルが-それが成功したかどうかは別として-工業化を推し進めようとしてきた結果といえる。しかし、この工業化はソ連の援助にたよっていた。70年以上にわたる社会主義は、国民の生活水準をたしかに大きく引き上げたが、同時にソ連の経済と援助への依存体質と巨額の債務という負の遺産を残すことになった。
 新時代の幕開けとなった「民主化」運動は1989年の末に始まった。モンゴルは1992年には新憲法を発布し国名を「モンゴル国」として社会主義の看板を下ろした。このような体制の転換が必要だった最大の理由は、ソ連経済が崩壊したあと援助を旧西側諸国に肩代わりしてしてもらう必要があったからである。
 これはまたモンゴル経済のソ連からの開放と飛躍を約束するものと期待された。新憲法のもとで初代の大統領に選ばれたP.オチルバトは、モンゴルが今世紀中に日本、韓国、台湾、シンガポールなどに次ぐアジアの7国目のトラ(新興工業経済地域のこと。モンゴルでは「竜」の代わりに「トラ」にたとえる)になると希望的観測を謳いあげた。

先進技術にかける期待
 このころモンゴルでもっとも早い私企業のひとつ「MONEL」がコンピュータとカラーテレビの組み立て生産を始めている。モンゴルは人口推計250万人たらずの小国だが、中国とロシアの広大な辺境地域と接している。これらの地域がモンゴル製品の市場となるというのが、今でも変わらない経済戦略の考え方だ。
 「MONEL」コンピュータの基本的なスペックは、CPU286、640Kのメモリー、20Mのハードディスク、1.5インチ・フロッピーディスクドライブ1基、ビデオボードはEGAというものだった。ほかにもシンガポールからIBM互換機を輸入し販売する業者が現れ、コンピュータはモンゴルに短期間で急速に広がった。
 モンゴルは社会主義国だったのでココムの対象国とされ、西側のコンピュータを表だって輸入することは出来なかった。またソ連ゆずりの科学技術信仰の伝統もあって、「民主化」以後コンピュータは新しい時代の象徴として見られるようになった。日本への留学生は情報処理関連の学科に集中していたし、国内でも教育にコンピュータが取り入れられ、大学に情報処理学科が作られたりする。
 飛躍を夢見たモンゴル経済だったが、もともとインフラの整備が遅れていたうえに、ロシアからの石油の輸入のストップで、電力供給や部品・製品の輸送もままならなくなり、基幹輸出産業となるはずだった「MONEL」のコンピュータ組み立て工場もまもなく操業をストップせざるをえなくなった。
 インフラ整備はモンゴル経済のアキレス腱で、日本の援助も交通・通信・エネルギー関連の基盤整備事業に大半が向けられている。しかし人口は少なく広さは日本の4倍というモンゴルで産業基盤の整備をするのは莫大な資金と時間がかかる。また整備したとしても管理にコストがかかる。
 通信に例をとると、電話網はいちおう各郡の中心地までは整備されているのだが、旧社会秩序の崩壊とともに治安が悪くなり、電話線が盗まれるという事件が各地で起こっている。草原の真ん中に見張りを立てるわけにも行かない。こうしたことから郡の中心(遊牧地域の中核となる、役場・病院・学校などのある定住地)を結ぶ衛星通信ネットワークを作ろうという計画が進みはじめている。もちろんインターネットとの接続や将来の遊牧民各家庭へのサービスも視野に入っている。
 このように経済発展の失敗は、コンピュータも含む先進技術への期待をますます高めることになっている。

情報化社会へのとりくみ
 筆者が93年から96年までのあいだ合計1年以上お世話になった、西部の中核都市ホブド市にあるモンゴル国立大学ホブド分校では、1993年当時すでにコンピュータを使った授業が行われていた。
 コンピュータ教室には、キーボード・本体・ディスプレイが一体となった旧型のアップル・コンピュータ1台、1992年ごろ日本の援助で入ってきたヤマハのMSXパソコン約20台、同じころやはり援助で入ってきたと思われる日本の「98」によく似たデザインの韓国HYUNDAI製パソコン約10台、CPU286ビデオ・ボードEGAのIBM互換機2・3台、CPU386VGAのIBM互換機1台が、博物館の展示物のように並んでいた。物置にはさらに旧東ドイツあたりで生産されたらしき「robotron24」というパソコンも数台あった。
 ここで行われる授業はヤマハのMSXパソコンを使い、数学教育の一環としてBASICを教えるものだった。( MSXパソコンには半角カタカナの部分にモンゴル語用のキリル文字フォントがのっていた。)教師も数学が専門で、BASICのほかはPASCALしか知らなかった。国中探してもC言語を知っている人はめずらしかった。
 大学以外の銀行や役所の経理にもコンピュータがいちはやく導入された。しかしどれだけ信頼の置ける道具として使いこなされていたかは疑問だ。第一に今でも地方はそうだが予告なしの停電が当たり前で、電気の来ていない時間のほうが長いという状態だった。またコンピュータも多くの場合年配の幹部の部屋に置かれ、しかも故障したら管理者責任が厳しく問わるから、コンピュータに関心のある若者に自由に使わせるということもなかった。ときには高価なものだからと倉庫に「大切に」保管されてしまうことさえあった。こういった古い考え方からの開放があってはじめてコンピュータはモンゴルに根づくようになった。
 パソコンの台数が増えコンピュータに接触する人間が多くなってから深刻化しはじめたのがウィルスの問題である。代表的なのがXAM(ハム)というウィルスで、ブート・セクタに感染し、しまいにはBIOSのCMOSデータを破壊しコンピュータをブート不能にしてしまうという悪質なものだ。またアンチ・ウィルス・ソフトの対応が追いつかないほどすぐに新種が出る。このウィルス対応をうたったロシア製のアンチ・ウィルス・ソフト自体が新種の「ハム」の媒体であるという噂さえあった。「ハム」というのはロシア語で「恥知らずな奴」「下司な奴」という意味である。このことが示すようによく使われるソフトはたいていロシアで作られたりロシア語化されたものだった。英語の出来る人材はまだまだ少なかったからだ。この点でも今は英語学習熱の高まりとともに急速に改善されつつある。
 モンゴル国の発展を占うプラスの要素のひとつとされているのが、国民の高い教育水準である。識字率はアジア諸国の中でもトップクラスにある。また初等・中等教育で教えられる数学の水準は日本より高い。モンゴルでは、初等教育の一年生から代数を使った抽象度の高い「数学」を教える。一時期具体的な事物に例を取った日本式の「算数」教育に切り替えることも検討されたが、結局従来どおりの教育がいまも行われている。それが生徒全体の学力の向上にとって好ましいかは別として、これもモンゴルの将来の情報化社会に向けた対応と見ることが出来る。

プロフィール
上村 明(かみむら あきら)モンゴル地域文化研究。パソコン歴はPC6001から。Z80の機械語プログラミングにはまる。以来コンピュータになるべく時間を取られないよう注意しているが、モンゴル語処理など自力で解決するしかないケースは多い。

(雑誌掲載の記事とすこし異なります)

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