2000年度「カルチュラル・スタディーズ入門」 1学期レポート
解体しつづける「わたし」
――『ジェンダー・トラブル』論評
日本課程2年 佐藤 祐太
ジュディス・バトラーが1990年に発表した論文、『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(原題 Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity)は、フェミニズムやレズビアン/ゲイ・スタディーズを中心とするジェンダー/セクシュアリティ研究に対して、現在までに様々な面で実に多くの影響を与えてきた。本稿では、『ジェンダー・トラブル』(以下、本書)が達成した成果と、本書発表後指摘された幾つかの問題点を整理し、考察することを目的としたい。
はじめに、バトラーが本書の中で主張している議論とは一体どのようなものであるのかということを確認しよう。彼女は本書の中で、あるひとつの事柄を執拗なまでに主張しつづける。彼女は本書を通して、現在の社会において「自然な事実」とされる「セックス」や「セクシュアリティ」が、実は言説によって産出された「結果」であるに過ぎないということを主張するのである。本書ではフーコーを始めとして、ラカン、クリステヴァ、イリガライ、ウィティッグなどの知識人たちのテクストが幅広く検証されてゆくが、そこで主張されている事柄は終始一貫している。「生物学的な性=セックス」、「文化的・社会的な性=ジェンダー」という区分を彼女は理論の面から徹底的に脱構築したのである。
もともと「ジェンダー」は文化人類学の中で発達した概念であり、フェミニズムがこの概念を取り入れるようになったのは1960年代後半辺りからだとされる。その後、「ジェンダー」という概念が広まっていった要因としては、「ジェンダー」に関する2冊の著作――イヴァン・イリイチ『ジェンダー』と、ジョン・マネー、パトリシア・タッカー『性の署名――問い直される男と女の意味』――の発表があったことが挙げられる。前者は近代における性別役割分業の発生を社会構成主義的立場から論じ、後者は心理学者である著者が、「女/男」というカテゴリーが生物学的な要素だけではなく、文化的・社会的な要素によっても決定されるということを論じている。この2冊の著作の発表後、「セックス/ジェンダー」という性の区分は、様々な学問領域に広く普及していった。
ここで、「女/男」というカテゴリーが「変容しうるもの(transferable)」であると意識されるようになったのは画期的なことであった。だが、フェミニズムはこの「セックス/ジェンダー」という区分を取り入れることによって、必然的に新たなひとつの問題に直面することになる。すなわち、「文化的・社会的な性」である「ジェンダー」の変容の可能性を追究してゆくことによって、フェミニズムはもう一方の「生物学的な性」である「セックス」を「自然な事実」として硬直化してしまうのである。
このようなフェミニズムの袋小路的状況に対して、バトラーが本書『ジェンダー・トラブル』で試みたのは、「セックス」と「ジェンダー」を分断する境界の非-決定性を徹底的に暴き出すことであった。精神分析や文化人類学など、様々なテクストの中に潜む本質主義的な要素を彼女はことごとく批判する。彼女は社会構築(構成)主義(1)的な手法を用いて、「セックス」の前-言説性を根本から否定したのである。
もちろん、バトラーがこのような研究を行った最初の人物だというわけではない。彼女は、『性の歴史』を始めとするフーコーのセクシュアリティ研究に決定的な影響を受けているし、デリダからもその理論の多くを援用している。また、フェミニズムの中にも「セックス/ジェンダー」の区分に対して疑義を突きつけた人物はかなり早い段階から存在していた。本書の中にも登場するモニク・ウィティッグ、生物学の領域における「男性/女性」の非-決定的な連続性を指摘したダナ・ハラウェイ、そして歴史学の分野で「『性』に関する知」の研究を行ったジョーン・W・スコットなどがその代表的人物として指摘できるだろう。実際、フェミニストの多くは以前からこの区分を決定的なものとは捉えていなかった。彼/女たちは「女/男」というカテゴリーの可変性を主張するために、敢えて「戦略的本質主義」ともいえる方策を選択していたのである。
以上の歴史を踏まえると、バトラーが本書で達成した最大の業績は、「女」というカテゴリーを本質的な事実として還元しないうえで、更にそこからフェミニズムの政治の可能性を追究したところにあるといえるだろう。バトラーは「女」という主体を前提とするフェミニズムの政治を鋭く批判する。彼女は行為の前に存在するコギト的な「主体/行為者(subject / agent)」という概念を否定し、その代わりに行為とともに存在する「行為体(agency)」という概念を提唱する。首尾一貫した「主体」のように見えるものは実は絶え間ない行為の反復によって構築されつづける幻影にしか過ぎない、と彼女は主張するのである。彼女は「ジェンダー」や「セクシュアリティ」をそのような反復的な行為の構築物だと捉える。そして「ジェンダー」や「セクシュアリティ」を構築しつづける反復的な行為の中に潜む「パフォーマティヴ(演出効果的/行為遂行的)」な攪乱の可能性を示唆するのである。
バトラーが本書で示した理論では、もはや絶対的な「女」という基盤は存在し得なくなる。そのため、本書が発表された当時、フェミニズムには大きな混乱が巻き起こった。本書の出現により、いわゆる「シスターフッド」は解体されてしまったのである。当然本書に対しては多くの厳しい批判が寄せられた。その中で最も多かった批判は「『女』というアイデンティティのもとに連帯して闘うことが何故いけないのか」というものであった。バトラーは、本書の中でまさにこのアイデンティティの脱構築を試みている。本書の結論部分の初めに、彼女ははっきりとこう述べている。「本書は、フェミニズムの政治が、女というカテゴリーのなかの『主体』という概念を持たずにやっていけるかどうかという、推論的な問題提起から始まった」。(2)
「女」というアイデンティティを基盤とする連帯のもとに、他の様々な差異が隠蔽されてしまうという問題は、1970年代辺りから、レズビアンや「第三世界」に属する女性たちから指摘されてきた。彼女たちは、大西洋両岸のフェミニズムを「白人中産階級異性愛フェミニズム」であるとして糾弾したのである。結果として、アイデンティティに基盤を置く政治においては、いったん「女」として分節化されたカテゴリーは、また必ず別の差異軸(人種・階級・性的指向など)によるカテゴリーの再分節化を呼び込んでしまう。しかし、窮極的には「個のアノミー」状態を引き起こすことにつながりかねない、このようなアイデンティティの「名付け」の不可能性の中に、バトラーは希望を見出そうとする。
バトラーは、解放されようとする「アイデンティティ」に基盤を置き、それを前提として進められる政治は、結局はその「アイデンティティ」を解放する可能性を奪い、それを産出しつづける規範を強化することにしかならない、と述べる。彼女は「アイデンティティ」を意味付け、分節化することを可能にする、まさにその条件を政治的な場とすることを試みる。つまり、ひとを「男」とし、また「女」とする規範とはいったいどのようなものであるのか、ということを彼女は問うのである。彼女は「アイデンティティ」が自然化される系譜を批判的にたどりながら、それらの「アイデンティティ」が様々な言説による構築物であるに過ぎないということを示してゆく。そして「アイデンティティ」を絶対的な「基盤」としてではなく、あくまでもパフォーマティヴな攪乱の可能性を孕む反復的な「行為」として捉えることを提唱するのである。
バトラーが試みたラディカルなアイデンティティの脱構築は、またひとつの新たな問題を生じさせることになった。これはいわば本書の「誤読」から発生した問題であるが、本書を考察するに当たっては決して無視することのできない問題でもあるだろう。その問題とはすなわち、本書においてジェンダーを始めとするアイデンティティが「パフォーマティヴ」であると捉えられたことによって、人々がアイデンティティを「自由に選択することができるもの」として解釈するようになってしまったことである。バトラーの主張を局所的に利用して、両性間の権力の非対称性を維持したまま、「性」が越境されるということが起こるようになった。
このような解釈は無論正しいものではない。本書の中でバトラーはこう述べている。「アイデンティティが結果だということは、それが宿命的に決定されているとか、完全に人工的で任意のものだという意味ではない。構築されたものというアイデンティティの位置を、この二つの矛盾した見方でまちがって解釈してしまうと、文化構築についてのフェミニズムの言説は、自由意志と決定論という不必要な二分法の罠のなかにまたもや陥ってしまう。構築は行為体の必須の場面であり、行為体が分節化され、文化的に理解可能となる次元なのである」(強調原文)。(3) また彼女は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「ひとは女に生まれない、女になるのだ」を、「女」になるまえの超越的な主体としての「ひと」を想定しているとして批判する。つまり、彼女によれば、自由にアイデンティティを選択できたりするような超越的な主体というものは存在しない。ひとは「つねにすでに」構築されたものであり、ひとが規範に対して攪乱を起こすことができるのはその構築された内部においてのみなのである。
バトラーはこの問題に対して、次作『問題なのは肉体だ』(Bodies That Matter: On the Discursive Limits of "Sex")ではっきりと反論を展開している。彼女はこの中で、「すべては選択の問題である」というような、言語還元主義/文化本質主義的なアイデンティティの理解を“linguistic constructivism”とし、これを退け、彼女が提唱する“social constructionism”(社会構築主義)と区別している。両書を通じて彼女が問題にしているのは、物質性が実在するかどうかということではなく、物質性がどのようにして了解されるのかということなのである。
『ジェンダー・トラブル』がジェンダー/セクシュアリティ研究に対して与えてきた影響は、計り知れないほど大きい。90年代に台頭してきたクイア・スタディーズも、本書に間接的にではあるがやはり大きな影響を受けている。(バトラーや、「クイア理論」の命名者であるテレサ・デ・ラウレティスは現在このクイア・スタディーズに対する批判を行っているが、ここでは詳しく説明することは省略する)ここで、今、ジェンダー/セクシュアリティ研究を更に活性化させるために必要なのは、本書を常に「現在」の地平と照らし合わせて考察してみることであろう。本書は「過去」の偉大な業績などでは決してなく、常に「現在」の研究を導きつづける画期的な書物なのである。
《註》
(1)上野千鶴子氏によれば、日本においては「言語論的転回」以降の social constructionism は「社会構築主義」と呼ばれ、それ以前の「社会構成主義」とは区別して考えられる。
(2)ジュディス・バトラー 『ジェンダー・トラブル』 p. 250.
(3)Ibid. p. 258.
《参考文献》
Judith Butler, Bodies That Matter: On the Discursive Limits of "Sex", New York, Routledge, 1993
ジュディス・バトラー(竹村和子訳) 『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』 青土社 1999年
風間孝 「クイアはどこからきたか――クイア・セオリーにおける理論と実践」 『別冊アイデンティティ研究会』 動くゲイとレズビアンの会(アカー) 1997年 pp. 10-34
キース・ヴィンセント、風間孝、河口和也 『ゲイ・スタディーズ』 青土社 1997年
丸山茂 「セクシュアリティのデモクラシー」 『神奈川大学評論』 第32号 神奈川大学評論編集専門委員会 1999年 pp. 186-193
メアリ・エヴァンス(奥田暁子訳) 『現代フェミニスト思想入門』 明石書店 1998年
千田有紀 「構成主義」 『現代思想』 第28巻第3号 青土社 2000年 pp. 112-5
竹村和子 「アイデンティティの倫理――差異と平等の政治的パラドックスのなかで」 『思想』 第913号 岩波書店 2000年 pp. 23-58
冨山一郎 「困難な「わたしたち」――J.バトラー『ジェンダー・トラブル』」 『思想』 第913号 岩波書店 2000年 pp. 91-107
上野千鶴子、竹村和子 「対談 ジェンダー・トラブル」 『現代思想』 第27巻第1号 青土社 1999年 pp. 44-77
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