2000年度「カルチュラル・スタディーズ入門」 1学期レポート
透きとおる骨
――劇団“風琴工房”第2回公演より
タイ語専攻2年 熊原香奈江
性に関して扱う時、実にさまざまな方法が存在する。しかしそれらの多くは結果的に、その主張が受け手の反応とかけ離れてしまっていることが多い。例えばポルノグラフィであるが、これを芸術であるとし「表現の自由」を主張する意見と、「女性の平等権侵害」であるとする意見と、まったく異なる主張が存在する。また日本において、性はなにか隠さなければいけないもの、恥ずかしいもの、として扱われてきた傾向があるので極めて人工的な加工を施され、表現されることが多い。いずれにせよ、性を扱う際にそこには何か、スキャンダラスな雰囲気が生まれてしまうのは、事実であろう。
今回のレポートで扱おうとする演劇作品は、厳密には“テクスト”とよべないかもしれない。しかし、あえてテクスト、本、という形から外れたのは、演技=虚構という演劇の大前提と、それを生身の役者が演じるという、空間的・方法的限定性の中で性を扱っており、にもかかわらず非常に興味深い作品になっているからである。よってここでは、演劇そのもそのものよりもむしろ、演劇が扱うメタファーとしての半陰陽について述べる。
この演劇作品「透きとおる骨」は劇団“風琴工房”により、今年の6月下旬約1週間に渡り、品川にあるハーバードシアターで上演されたものである。演出・脚本は詩森ろば氏(女性・現在36歳)による。この劇団の特徴として、人間の肉体と精神のアイデンティティー喪失を扱った作品が多いことがある。よって、性に関する作品も多い。今回の「透きとおる骨」で、詩森氏は「半陰陽性」というあまり知られていない性をもって生まれてきた存在について扱っている。「半陰陽性」とは、「男女どちらとも判別できない性別を持って生まれてきた人たちの総称である。染色体と外性器もしくは内性器が一致しない、男性女性両方の性を未分化な状態でもつなど、様々なパターンの取り合わせがある」(脚本より引用、以下同様)。確率的には100万人に86人と、意外と多く存在している。これは、体の性と頭で認識している性が認識している性つまり性自認が、一致していないことによって起こる性同一性障害とは異なる。「通常は小児の時に手術によって無理矢理男女どちらかの性に転換させられるケースが多い」「しかし転換させられた性になじめない性別違和、末梢神経が密接な部分を切り取られたことにより後々まで様々な後遺症も見られ、また、心理的にも追い詰められ自傷行為、自殺などを図る人も多い」。現在、半陰陽性の人々の間ではインターネットなどにより互いにネットワークが広がっているが、一般の人々にはまだまだ知られていない存在である。この「透きとおる骨」は詩森氏自身が実際に半陰陽者に取材をし、「生物学的にも社会的にも「男」と「女」のふたつのカテゴリーしか存在しないことへの不自然さに思い至った。」「半陰陽は半陰陽としてただそのままのかたちで認知されるべきである」という考えのもと、この脚本を書いた。
今回の作品の大きなひとつの試みとして、映像を演技と同じくらいの割合で取り入れていることが挙げられる。中央の巨大スクリーンを中心に、左右2台のモニター計3台の映像を交えながら物語は進んで行く。物語の現在は2000年6月と設定され、そこを基点とした年・月が映像によって示される。また、主人公である半陰陽者、伽耶は現在は死んでしまっていることになっており、彼女(一応女性として生きてきたことになっていたので、便宜上彼‘彼女’としておく)をとりまく人々の回想によって話は進められていく。つまり、演劇というよりはむしろセミ・ドキュメンタリ風な演出が施されている。詩森氏はこのことに関して、「演劇的でない処理を試みたのはひとえに主題の質によるもので、半陰陽という一般的にあまり知られていない肉体をあまりスキャンダラスに扱いたくなかったから」と述べている。つまり彼女は演劇を行いながら同時に、極めてそれと対極的なものを目指したのである。
ある場面に、人通りの多い道で人々が街頭インタビューを受けている映像が登場する。インタビューは様々な年齢の男女に対しておこなわれている。質問内容は、以下の通りである。
Q1 あなたは半陰陽という性別を知っていますか?その映像の前に伽耶を演じる女性が呆然と立ち尽くす。映像が終わっても彼女は、何かに取りつかれたように動かない。ここで観客は、街頭インタビューを受けている一般人=半陰陽に対する自分、と伽耶が直接む向かい合い、彼女から直接問いかけられているかのような、奇妙なリアリティーを感じる。つまり、映像がOFFになっても半陰陽の人々は存在しており、いつかこのように自分の前に立ち現れるのではなか、という印象を観客ほとんどにあたえることができるのだ。これは、詩森氏が意図的に行ったものであるかどうかは分からないが、映像と演劇を利用した効果を、実によく発揮するものとなっている。
Q2 あなたが半陰陽だったらどうしますか?
Q3 あなたの愛する人が半陰陽だったとしたらどうしますか?
しかしここで注意したいことは、伽耶は本当は架空の人物であり、演じている女性も半陰陽なんかではまったくないということである。観客は演出家の意向に意図的に乗っかって、伽耶をまるで本物であるかのように自分に思い込ませることによって、捏造されたリアリティーを満喫できるのである。そしてそのためには、伽耶は本物の半陰陽者よりもむしろ、本物に思える半陰陽者でなくてはいけないのである。観客は、伽耶が初めから死んでいるという設定であり、役者の女性がブラジャーなしとわかるような服装で演技しており、言葉遣いが男優より男っぽいからこそ「本物らしい」半陰陽者であると感じるのだ。
劇中の伽耶の台詞にこのようなものがある。「あたしの体はこれでいい。ひとつも間違ってないってあたしは知ってる。なのに、恥ずかしい。あたしのからだを誰より自分が恥じている。このできそこないってののしってる」。街頭インタビューに登場した人達が自分がもし半陰陽だったら、と聞かれ「分からない」と答えたように、伽耶は自分の体を恥じている、というもっとも共感しやすい設定だからこそ、観客は彼女を理解しやすくなっているのである。
今回の公演は、ひとえに加工された映像と演技、という二重の効果によって成功した、と言えよう。つまり、生身の役者と映像の対比、そして、それゆえに裏付けされた伽耶のリアリティー、ということだ。もちろんそれは、他の芸術にはない演劇だけの特性である。しかしそこでは、目の前に役者が存在しているからこそ造られてしまうリアリティーがつきまとっている。
<参考文献>
詩森ろば、『透きとおる骨』、劇団風琴工房、2000年。
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