スペイン歴史散歩(その8)

――マドリード自治州の記念日は、Dos de Mayo

 

よくガイドブックに中世スペインの首都capitalはトレードであったと書かれていますが、これは間違っています。6世紀半ばから8世紀始めには西ゴート王国の首都でしたが、1085年にキリスト教徒がこれを取り戻した後にトレードが首都となったことはありません。というより、カスティーリャ王国は中世を通じて定まった首都をもたなかったのです。レコンキスタで拡大する領土を治めるために歴代の国王は各地を転々とせざるを得ず、国王が滞在する場所が宮廷Corte、すなわちその度ごとの首都であったわけです。もっとも政治的中心は、このトレード(スペイン・カトリック教会の総本山が置かれ、現在はカスティーリャ=ラ・マンチャ自治州の州都です)やバリャドリー(先月号でお話ししたカスティーリャ・イ・レオン自治州の州都です)にありました。

 スペインがいつから定まった首都をもつに至ったかというと、ようやく1561年のことです。膨大な数の廷臣を引き連れて宮廷を移動することは困難で、かつ「太陽の沈まない帝国」を支配するための集権的行政機構を維持するには特定の首都が必要でした。そこでフェリーペ2世は、教会の影響力の大きすぎたトレードや貴族の力の強かったバリャドリーを嫌って、いわば中堅どころの都市であったマドリードを首都に選んだわけです。もっとも一度も首都の設立宣言はされませんでした。イベリア半島のほぼ中心に当たるとか、丘の上に位置し近くをマンサナーレス川が流れていて気候が厳しくないとか、王廟の置かれたエル・エスコリアル修道院兼王宮に近いとか、さまざまな立地条件も良かったので、その後、結果的に恒常的な首都になったのです。

 そのおかげで、1530年には15千人であったマドリード市の人口は17世紀半ばには13万人へと急増し、セビーリャを抜いて王国第一の規模になります。しかし19世紀までマドリードは、政治的中心でありながら商工業活動をあまり展開させることができませんでした。カタルーニャ地方の主都バルセローナとつねに批判的に対比されて、スペイン帝国の寄生的都市──宮廷と貴族による消費の町──と見なされていたわけです。

さて、1970年代末から80年代にかけて各地域で自治州設立が問題となったとき、それぞれの歴史的・経済的・政治的纏まりが考慮されました。カスティーリャ地方(レオン王国とその後につくられたカスティーリャ王国が中世盛期に包摂したイベリア半島中央部の地域)では、北がカスティーリャ・イ・レオン自治州、南がカスティーリャ=ラ・マンチャ自治州と分けられただけでなく、そのあいだに独立したかたちでマドリード自治州Comunidad de Madridが誕生しました。首都を抱えるという特殊条件からマドリード県は単独で自治州になったわけです。

カタルーニャやバスク地方のような歴史的自治州ではなく、まったく新たに誕生した自治州ですから、そのシンボルとしてつくられた旗banderaも紋章escudoも州歌himno de la Comunidadも暫くは馴染みがありませんでしたが(いずれも1983年に制定)、52 Dos de Mayo」は自治州の日Día de la Comunidadとして直ぐに受け入れられました。1808年のこの日、首都に駐屯していたフランス軍に対して市民たちが果敢にも愛国的蜂起levantamiento patrióticoを行ない、6年間にわたるスペイン独立戦争la Guerra de la Independenciaの端緒を開いたと捉えられてきました。“Dos de Mayo”は愛国主義patriotismoと自由libertadと独立independenciaのメッセージを伝えているわけですから、首都を抱えるマドリード自治州にとって州立記念日としてもっとも相応しいとされたのです。

しかし、こうした「独立と自由」を希求した運動としてこの事件を捉えることには、同意しがたいものがあります。現在の歴史研究によれば、52日の事件をすべての市民による自発的・愛国的蜂起と捉えることはできません。同時代のカルニセーロは、「とくに下層の地区の人々が、ナイフや棍棒しか持たないために大胆かつ機敏に武器を求めて走り回った」と記していますし、「思慮のある上品な人々」は家の中に閉じこもって騒ぎが収まるのを待っていたという記録もあります。また、さまざまな勢力によって扇動された事件だったという証言もあります。後の讃美とは異なって、この事件直後は、政府機関・市当局、教会・異端審問所などは、こぞってこの事件を「ナポレオン皇帝軍に対する下賎の者たちの馬鹿げた暴動el alboroto escandaloso del bajo pueblo」であると非難していました。

エスパーダス・ブルゴスは、「52日の蜂起は、マドリードにフランス軍が入城して以来、市内で日常的に起こった数々の事件の流れのなかに見なければならない」と述べ、どのような事件も同時代の社会的脈絡の中で考察すべきであるとこれまでのロマン主義的解釈を批判していますが、まったくその通りだと思います。いずれにしろ、この事件が、首都に駐屯し乱暴狼藉をはたらくフランス軍に対する民衆の怒りの爆発であったことは間違いないでしょう。

Dos de Mayo”と聞いて、プラード美術館の一室に飾ってあるフランシスコ・デ・ゴヤの大作「52日」を思い出した人もおられるはずです。太陽の門広場Puerta del Sol辺りでの反フランス民衆蜂起の様子を見事に描いています【絵を参照】。この絵と並んで置かれているのが「53Tres de Mayo」で、翌3日にかけてフランス軍が行なった民衆銃殺の光景がリアルに描かれています。怒り狂う民衆を描いたゴヤの鋭い眼差しに、あらためて感心してしまいます。

19世紀はスペインという国民国家Estado-naciónがつくられ、国民形成nacionalizaciónが目指された時代であると6月号で述べておきましたが、“Dos de Mayo”は愛国主義の象徴として利用されて、この事件を称えたさまざまな記念建造物monumentoや記念碑lápidaがつくられました。Carlos Reyero, La escultura conmemorativa en España, Madrid: Cátedra, 1999というような本も出ていますから、“Dos de Mayo”のものを含め記念建造物を探して各地を訪れるのも面白いでしょう。

ここではマドリードにある二つの記念建造物を紹介しておきましょう。中心街のグラン・ビアからサン・ベルナルド通りを北に15分ほど歩いて右に折れると、文字通り「52日広場Plaza del Dos de Mayo」という広場があります。この真中に「ダオイスとベラルデDaoíz y Velarde」という二人の軍人の大理石像が据えられています【写真1を参照】。この場所はかつてのモンテレオン砲廠Parque de Monteleónで、大砲などの武器庫のあったところです。王宮前広場で暴動を起こした民衆が、武器を求めてここに押しかけますが、ダオイスとベラルデは民衆に同調して大砲を取り出して、押し寄せるフランス軍勢力と果敢に闘って命を落としたといわれます。そこで、この二人は祖国愛の英雄的犠牲者として奉られるようになるわけです。なお、ダオイスはセビーリャの出身で、ベラルデはサンタンデールの出身ですから、当然それぞれの市には英雄として大きな銅像が建てられています。

もう一つは、プラード美術館の北に隣する「忠誠広場Plaza de Lealtad」の真中に建てられている「52日オベリスクObelisco del Dos de Mayo」です【写真2を参照】。忠誠広場という名前で尋ねてもスペイン人には分からないかも知れません。マドリードの最高級ホテル「リッツRitz」の前のヤマモモmadroñoの木が植わっている広場と聞けば、直ぐに教えてくれるでしょう(ちなみにマドリード市の紋章は、ヤマモモの実を食べようと木に攀じ登ろうとする熊osoです)。高さ約30メートルのこのオベリスクは1840年に完成を見ますが、下部の台座の石棺にはダオイスとベラルデの遺骸、そしてこの広場の辺りで倒れた数十人の民衆の遺骸が納められています。台座の上にはオベリスクを囲むかたちで4人の男女像が据えられており、それぞれに「勇気Valor」、「志操Constancia」、「徳Virtud」、「愛国心Patriotismo」を表象しています。そして台座の左右の横に刻まれた碑文は、「スペイン独立戦争の殉教者のために。国民の感謝を込めて。1840年、英雄的な町マドリードによって完成される。A los mártires de la Independencia española la Nación agradecida.」と「180852日の犠牲者の遺骸が、その血で洗ったこの忠誠広場に眠る。愛国心に永久の栄誉を。Las cenizas de las víctimas del Dos de Mayo de 1808 descansan en este Campo de la Lealtad, regado con su sangre.  ¡Honor eterno al patriotismo!」と書かれています。

ところで不思議なことに、自治州記念日の52日には、肝心のこのオベリスクの前ではなんの行事も催されません。ところが1012日にはこの碑のまえで盛大な式典が繰り広げられます。来月号ではその理由をお話しし、52日事件とスペイン独立戦争にまつわる歴史神話mito históricoをもう少しご紹介したいと思います。

 

スペイン歴史散歩(その9

                        ――スペイン独立戦争と歴史神話

 

マドリードでは、自治州記念日の52Dos de Mayoにいくつかの行事が催されます。観光客の目を引くところでは、市内のベンタス闘牛場Plaza de Toros de las Ventasで、18世紀から19世紀初めのマドリードの人々madrileñosの格好──ゴヤが好んで描いた風俗であるところから「ゴイェスコgoyesco」と呼ばれます──をした人々の行列が繰り広げられます。歴史的事件に関わる記念式典acto conmemorativoとしては、ゴヤが「53日」の絵で描いた銃殺の犠牲者たちが葬られたフロリダ墓地Cementerio de la Florida(北駅Estación del Norteから10分ほどのところで、ゴヤのこの絵をタイルで模した記念碑がある)での献花と、フランス軍と民衆の抗争の舞台となった太陽の門Puerta del Sol広場での州政府首班の演説、警察と治安警備隊のパレードdesfileが主なものです。

ところが奇妙なことに、1840年に建立され「ダオイスとベラルデ」の遺骸も奉られている忠誠広場Plaza de Lealtadの「52日オベリスクObelisco del Dos de Mayo」では、この日にはなんの行事も行なわれません。これには20世紀スペインの歴史が大きく関わっています。

19世紀を通じて自由主義的国家体制が築き上げられる過程では、52日は国民が自由と独立を希求した日として、事実上「ナショナル・デー」と位置付けられました。しかし、この日の事件は首都とはいえスペインの一都市マドリードの民衆蜂起であったわけで、記念行事は全国的な共感を呼び起こすには至りませんでした。一方は、この日は反フランス感情を掻き立てる日でもあり続けたわけで、20世紀初めにフランスとの友好関係を崩さずにモロッコに進出しようとしていたスペインにとってはあまり具合がよくありませんでした。100周年の1908年には、隣国への敵対感情とは結び付けないようにというキャンペーンさえ行なわれました。

そこで、52日はマドリード市のローカルな記念日にとどめて、あらたなスペインの「ナショナル・デー」を設定しようとする動きが始まります。18921012日のコロンブスによる新大陸到達400周年記念を契機として、1918年、ついにこの1012日がスペインの「ナショナル・デー」、つまり「ラサの日Día de la Raza」としての法的認知を受けます。ここで、razaを苦し紛れにカタカナで「ラサ」としたのには理由があります。普通は「人種」とすれば良いのですが、この時期にはナチズムにつながるような人種概念では使われておらず、「一つの言語文化共同体」というような意味でした。つまり、スペイン人征服者conquistadoresの偉業に端を発して、スペイン語を共通言語としてスペインと新大陸の相互的絆が築かれたというのが、この日の祝祭の意味でした。ですから、20世紀初頭にはインディオを抱えるラテンアメリカ諸国でも「ラサの日」がそれぞれの「ナショナル・デー」として制定されたのです。

20世紀スペインの流れの中で、右派の伝統的勢力は国家カトリシズムnacionalcatolicismoの動きを強めて、スペインの国民的本質にはカトリック的使命──スペイン国民のカトリック堅持とカトリック的価値の世界への普及──があると謳われます。スペイン語とカトリックが結び付けられて「イスパニダーhispanidad(スペイン精神)」が唱えられることになるわけです。その理論化を果たしたのがマエストゥの1934年の著作『イスパニダーの擁護』であると言われます。スペイン内戦に勝利したフランコ体制が、こうしたイスパニダーを心髄に、国内の少数文化・言語を抑圧したことは5月号でお話ししました。

ところで、ラサという言葉は、ナチズムの暴虐によって人種主義と結びつく忌わしいものとなりました。第二次大戦後、外に対しては少しでもファシズム性を薄めようとしたフランコ体制はナショナル・デーを「ラサの日」を「イスパニダーの日」と改めますが、カトリック的使命を捨て去ったわけではありませんでした。フランコ死後、ナショナル・デーは同じ「イスパニダーの日」となりますが(19811127日王令)、この日の意義は改めて「アメリカ発見とスペイン語を話す諸民族に共通の文化的起源を記念・顕彰する」とされて、カトリックとの一体性は否定されました。

そこでナショナル・デーに相応しい国民的記念碑──祖国への忠誠の碑──が求められたのですが、まさかフランコが囚人(共和国支持者)を使って建てたエスコリアル近くの「戦没者の谷Valle de los Caídos」──ちなみにこの教会内陣にファランヘFalange創設者ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラと並んでフランコが葬られています──というわけには行きません。結局、目をつけられたのが、「祖国のために命を落とした」ものを悼んでつくられた「52日オベリスク」だったのです。19851122日、つまりフランコ死後2日に即位した現国王フアン・カルロスの即位10周年の日、マドリード市から国家へと移管されたこの碑は「祖国忠誠の碑」に格上げされてしまいます。この日に新たに据えられた石碑lápidaが広場の入り口にありますが、このように書いてあります。

S.M.EL REY DON JVAN CARLOS I PRENDIO LA LLAMA VOTIVA QVE EN ESTE MONVMENTO PERPETVA EL RECVERDO DE LA NACION A TODOS LOS QVE DIERON SV VIDA POR LA PATRIA, 22-NOVIEMBRE MCMLXXXV

「国王陛下フアン・カルロス1世は、この記念碑において、祖国のために命を落としたすべての者に対する国民の記憶を永久のものとする奉納の炎を灯した。19851122日。」(こうした碑文の場合、UVで記されていますので、気をつけてください。)

そして、1012日、フランコ時代にはコロン広場辺りがメイン会場だったのですが、いまはこの碑のまえで国王が献花を行ない、軍事パレードを観閲することが行事になったわけです【新聞写真を参照】。また、外国から元首がスペインを訪れるときには、この碑のまえで献花を行なうことが儀礼になっています。

そんなわけで、本来は52日事件の犠牲者を悼む記念碑──しかもその遺骸がここに眠っている──なのに、この場所は52日のイベント会場から外されることになってしまったのです。しばらくまえのことですが、私はこの日にこの碑を訪れ、5月の微風に揺れるヤマモモの木陰で「歴史の悪戯」に思いをいたし感慨に耽ったものでした。

さて紙数が少なくなりましたが、52日事件とスペイン独立戦争に関しては、祖国のための英雄的犠牲という行為がいわば神話のように創られたということをお話ししておきます。ある種のできごとはあったのですが、それが脚色されてしかも事実として語られる、そんな歴史神話mito históricoのことです。たとえばマヌエラ・マラサーニャManuela Malasañaという女性の話があり、次のように語られています(Tamarit y Llopis, Luis de, Monografía histórica del 2 de Mayo de 1808 en Madrid, Madrid, 1900, p. 24)

「とりわけ英雄的行為に値するのは年老いたフアン・マラサーニャという人物で、彼はフランス兵に対して家の中から狙撃を行なっていた。これを手伝ったのが17歳の娘マヌエラで、彼女は果敢にもモンテレオン砲廠と家のあいだを行き来して弾薬を老いた父親に運んでいた。だがその途中、家の前で敵兵の凶弾に倒れたのである。にもかかわらず、父フアンは、娘の遺体を眼下におきながらも、最後の弾薬がなくなるまで一心に発砲を続け、最後にようやく不幸な娘の死に涙を流した。嗚呼、比類なき愛国心よ!勇者たちに栄誉あれ!」

そうしてマヌエラ・マラサーニャは、マドリード市内の52日広場の北側に走る通りの名前になっているのです。19世紀後半には国民形成の意図と結びついていわゆる歴史絵画pinturas históricas──歴史上の国民の英雄的行為を描いたもの──が盛んになりますが、彼女の絵もちゃんと登場します【図を参照】。

ですが、このことに関しては歴史文書から事実とは異なることが分かります。52日事件の犠牲者の遺族には年金が贈られることになり、彼女の親族が行なった請願書がマドリード市文書館Archivo de Villa de Madridに残っているのです。彼女はお針子で、仕事場から帰宅途中にフランス兵の検問に引っかかり、ハサミをもっていることから難癖をつけられて──暴動の直後、武器を携行してはならないという命令が下されました──、おそらくいざこざがあったのでしょうが、銃殺されてしまったのです。歳はまだ15でした。

どうも「祖国のために死ぬ」という英雄的行為の話には後の人々の作為があるようです。さてスペインの場合、同じような話が、国家ではなくて地方=国の場合にも現われます。たとえばカタルーニャ人にとって「祖国patria」はスペインではなくてカタルーニャだという主張もあるからです。来月号では、カタルーニャの「国歌」と「国民の日」についてお話ししましょう。164067日と1711911日がキーワードです。これらの日にどんな事件が起こったか年表で見ておいてください。