スペイン歴史散歩(その10)

                        ――カタルーニャの「国歌」と「国民の日」

 

 

1978年憲法で歴史的自治州とされたカタルーニャは、固有の言語と独特の文化をもっています。多言語・多民族スペインEspaña plurilingüe y plurinacionalの現実を認めようとしない勢力からはつねに疎ましく思われて、とくにフランコ体制期にあってはその言語・文化は激しい弾圧をうけていました。いま、カタルーニャ語でサッカー放送をすることは当たり前ですが、それが許されたのは197695日のバルサ対ラス・パルマス戦で、わずか25年前のことです。

 ですからカタルーニャの人々のあいだで言語・文化への愛着が強いことは十分に頷けますが、だからと言って、カタルーニャがつねに一つのアイデンティティidentidadを持ち続けてきたというような本質主義的で偏狭なネイション観に同調するわけには行きません。私たちは、いかなる民族のアイデンティティであれ、それが歴史的につくられたものだという見方を失ってはならないと思います。

カタルーニャという国=民族naciónの「国歌Himno nacional」と「国民のFiesta nacional」の意味付けにも、往々にして歴史的神話化mitificación históricaが作用していることを見過ごすわけにはいきません。そこで、カタルーニャ自治州政府が開いているホームページpágina de WEB (http://www.gencat.es)を見てみましょう──ほかの歴史的自治州の場合もそうですが、スペイン語の他に固有の言語や英語・仏語などでも紹介されてるので、言葉を比較参照するうえで大変に便利です──。そのスペイン語ヴァージョンを見ると、カタルーニャの「国民的象徴símbolos nacionales」として、言語lenguaに加えて、紋章escudo、国旗bandera、自治州政府記章Señal de la Generalitat、国歌、国民の日が挙げられています。1993年に法制化された国歌については、次のように書かれています。

Els Segadors es el himno nacional de Cataluña desde finales del siglo XIX.  (・・・・・・) Vemos, pues, que tras el himno había una primitiva canción nacida a raíz de los sucesos históricos de 1639 y 1640: la guerra de los catalanes contra el rey Felipe V, en la que los payeses protagonizaron importantes episodios.  El himno posee las características de un encarnizado llamamiento en defensa de la libertad de la tierra.  Solemne y firme, aúna voluntades en favor de la supervivencia de un pueblo que proclama su realidad nacional. (・・・・・・)》「『刈り取り人』は19世紀末以来カタルーニャの国歌になっている。(・・・・・・)したがって、国歌の背後には1639年と1640年の歴史的事件を元に生まれたもと歌があったことが分かる。事件とはカタルーニャ人の国王フェリーペ4世に対する戦争で、そのなかで農民たちは重要なエピソードの主役となった。この国歌は、国土の自由を擁護しようという熾烈な呼びかけを特徴としている。荘厳で確固としており、国としての実体を宣言する民族の存続に向けた意志を一つにしている。」

さて、この歌ですが、次のように始まります(参考までに、もとのカタルーニャ語とスペイン語訳とを併記しておきましょう)。

Catalunya, triomfant,                    ¡Cataluña, triunfal,

tornarà a ser rica i plena!              volverá a ser rica y grande!

Endarrera aquesta gent                 ¡Retrocedan esas gentes

tan ufana i tan superba!                tan ufanas y arrogantes!

Bon cop de falç!                          ¡Echad mano de la hoz!

Bon cop de falç, defensors             ¡Echad mano de la hoz, en defensa

de la terra!                                de la tierra!

これを直訳的に日本語にすると、「カタルーニャよ、勝利を収め、ふたたび豊かに偉大になるだろう。高慢で傲慢なあの人々を退けよう。鎌を振るえ。鎌を振るえ、国土の擁護者よ。」となるでしょうか。この詩のなかの「高慢で傲慢な」人とはカスティーリャ人を指します。

 スペインはフェリーペ4世の時期に、寵臣validoのオリバーレス伯公爵のもと、それまでの緩やかな体制を改め「カスティーリャの形式と法に則って」諸国を治めようとして中央集権化を進めました。三十年戦争への介入から王室財政が危機に陥ったので、カスティーリャ以外の諸国にも人的・物的負担を求めようとしたのですが、もちろんこれは諸国、とくにカタルーニャの猛反発を買うことになりました。おまけにカタルーニャにはフランスとの戦争のために数多くの兵士が駐屯し乱暴狼藉を働いていましたので、カタルーニャ人は憎しみをつのらせていたのです。そして164067日、聖体の祝日Día del Corpus Christiにバルセローナ市に紛れ込んだ刈り取り人たちが暴動を起こします【絵1を参照】。実に1652年まで続くカタルーニャの反乱の開始でした。

 しかし、自治州HPの説明や国歌に謳われるような、フェリーペ4世とカスティーリャ人に対する反乱であったとこの事件を単純化するわけにはいきません。もちろんそれは一つの要因でしたが、都市下層民や広範な農民層に拡大した反乱は、伝統的都市貴族や領主層に対する不満の表明でもあったのです。カタルーニャの支配層は、王権の圧力を受けるなかでこうした社会反乱がさらに拡大するのを怖れて、人々の不満をもっぱら反カスティーリャへと嚮導したわけです。ちなみに1688年の農民反乱の際には、カスティーリャの脅威がなかったので、それを容赦なく弾圧しています。さらに、この時期にカタルーニャの人々がネイションnación意識を抱いていたかどうかは甚だ疑問です。これをのちのカタルーニャ・ナショナリズムnacionalismo catalánの先駆だとするのは、この事件の歴史的脈絡を無視していると言わざるを得ないのです。

 さてカタルーニャの国民の日「911日」(カタルーニャ語ではlOnze de Setembre)は1980年に法制化されましたが、それについては次のように述べられています。

El pueblo catalán en el tiempo de lucha señaló una jornada, la del once de septiembre, como Fiesta de Cataluña.  Una jornada que, si bien significaba el doloroso recuerdo de la pérdida de las libertades, el once de septiembre de 1714, y una actitud de reivindicación y resistencia activa frente a la opresión, suponía también la esperanza de una total recuperación nacional.》「闘いを繰り広げていたカタルーニャ民族は、911日という日をカタルーニャの祭典に決めた。この日は、1714911日に自由を喪失したという痛ましい思い出と、権利回復と抑圧に対する積極的抵抗の態度を意味するだけでなく、完全なる国=民族として回復することへの希望をも意味する日であった。」

 1714911日というのは、スペイン継承戦争でオーストリア・ハプスブルク家王位請求者の側に立って戦ったカタルーニャが、ブルボン家新王フェリーペ5世の軍隊によって最後の抵抗の砦であったバルセローナ市を失った日です。そしてこの敗北は、1716年の新組織王令Decreto de Nueva Plantaによるカタルーニャの伝統的政治制度──独自の議会、議会常設代表部、バルセローナ市百人会議など──の廃止につながります。スペインは15世紀末に国家統一を実現したと言われることがありますが、国家としての政治的・法的一元化は実はこのときに達成されたのです。

 ですから19世紀末にカタルーニャ・ナショナリズムが台頭してくると、この日は「カタルーニャの自由の喪失」という意味付けを与えられるのです。そしてサンタ・エウラリア(かつてはバルセローナ市の守護聖人であった聖女)の旗を掲げて最後まで闘いを指導したバルセローナ市筆頭参事ラファエル・カザノーバRafael Casanovaは、「祖国カタルーニャのために命を落とした」殉教者と称えられます【絵2を参照】。この絵は上述のものと同じ画家アントニ・アストルックの手になるものですが、《カザノーバの死》と題されています。けれどもカザノーバに関する伝承は完全な誤りです。彼は、このときに負った傷も完治し、数年後には恩赦を得て弁護士として暮らし、1743年に80数歳で死ぬのですから。さらに問題なのは、この事件を「自由の喪失」と捉えられるかということです。たしかに、前近代的な意味で「自由libertad」を「特権privilegio」と同義するならば、カタルーニャの地方諸特権はこのときに失われました。しかし、この地方諸特権は、カタルーニャの伝統的特権諸身分を支える「自由」であって、19世紀末から20世紀を通じて人々が追い求めた近代的自由ではなかったのです。

 「911日」は、20世紀カタルーニャの自由と自治さらには独立を求める運動のなかできわめて重要な意味をもちました──紙数の関係で、その話は来月号にまわします──。この日をカタルーニャの人々が大事にしているのは理解できます。しかし、そのことと事件の歴史的意味の究明とは、別だと言わざるを得ないでしょう。

 

スペイン歴史散歩(その11)

                        ――地域の復権をめざして

 

先月号で、カタルーニャの「国民の日」が911日であることをお話しました。19751120日にフランコが死去すると民主化への動きが盛んになりましたが、同時にさまざまな抑圧を受けていた少数言語地域の自治を要求する声も一挙に高まりました。フランコ体制下では911日を記念することは厳しく禁じられていましたから、76年のこの日は民主化と自治を要求するカタルーニャの諸勢力にとって特別の日となりました。

当初、集会は市内のシウタデリャ公園での開催が呼びかけられました。この公園は、もとはスペイン継承戦争後に反抗的なカタルーニャ人を牽制するために建設された市内の要塞です。パリのバスティーユ要塞のように市民にとって怨嗟の的となっていましたが、18689月革命の結果、取り壊しが決まって、翌年に軍隊からバルセローナ市に委譲されました。広い公園のなかには近代美術館、動物博物館、動物園があり、動物園には世界でただ一頭の白いゴリラgorila albinoがいます。たしかコピートという名で呼ばれて市民に親しまれています。

 さて、スアレス首相は漸進的な民主化に成功しますが、76年にはまだフランコ体制の継続を求める右派勢力をかろうじて抑えている状態でした。結局、911日の数日前、混乱を恐れて民主勢力も妥協をします。市内での集会は許されなかったのですが、市から電車で30分ほどの小さな町サン・ボイ・ダ・リュブラガットSan Boi de Llobregatでの開催が許されました。当日は、この町のカタルーニャ広場に10万人もの人が集まって、内戦後初めて合法的に911日を記念することになりました【写真1を参照】。集会のスローガンは、「自由、(政治的)恩赦、自治憲章!LLIBERTAT, AMNISTIA, ESTATUT DAUTONOMIA! (¡LIBERTAD, AMNISTÍA, ESTATUTO DE AUTONOMÍA!)」で、カタルーニャの「国歌」である「刈り取り人」も声高々と歌われました。「カタルーニャよ、勝利をおさめ、ふたたび豊かに偉大になるだろう。」と。

77911日には市のメーン・ストリートであるグラシア通りを行進することが許され、実に100万人の人々が一堂に会したと言われます。この頃のバルセローナは170万都市ですからいかに大規模だったかが想像されます。そして同年1023日、中央政府は、カタルーニャ自治州政府Generalitatの暫定的復活を認め、7910月に現在の自治憲章が承認されることになります。

1976年の集会にサン・ボイの町が選ばれたのには理由があります。1714911日に最後まで抵抗を指導したのがカザノーバであると先月号に書きましたが、彼は1743年にこの町のサン・バルディリ教会església (iglesia) de San Baldiriの一隅に埋葬されました。カザノーバが眠る教会──18世紀建立のこのバロック教会には聖バルディーリの肖像画の他はさして見るべきものがありません──をもつために、この町がカタルーニャ復権の象徴と見なされたわけです。昨年911日は、1976年から数えて25周年ということもあり、午前中には各政党・団体の代表が訪れて沢山の花束をカザノーバの墓石に奉げました【写真2を参照】。

しかし夕方の25周年記念集会は、すべての政党関係者が急遽参加を取り止めたために、数千人が集まっただけの寂しいのもとなりました──皆さんの記憶にも新しいと思いますが、この日の現地時間hora local午前9時(スペイン時間hora peninsular españolで午後3時)頃にニューヨークのツイン・タワーlas Torres Gemelasがテロ攻撃ataque terroristaを受けて倒壊し、数千人の犠牲者を出しました──。唯一目を引いたのは、長さ1キロメートルのカタルーニャの旗senyera (estandarte)(黄色地に4本の赤い筋)が町を練り歩いたことだけでした。ただ、やはり25年の歳月は、「カタルーニャ万歳 Visca Catalunya! (¡Viva Cataluña!)」という人々の熱狂を冷ましているようです。集会スローガンは、「協力、寛容、イニシアティヴ Cooperació, Tolerància i Iniciativa (Cooperación, Tolerancia e Iniciativa)と大変におとなしいものでした。

この日にはバルセローナ市内でも集会と献花が行なわれましたが、メーンの場所は、シウダデーリャ公園から北西に上がってサン・ペラ通りとアリ-ベイ通りの交わるところに建つ「ラファエル・カザノーバ記念碑El monument (monumento) a Rafael Casanova」でした【写真3を参照】

カザノーバ像の由来ですが、直接にはカタルーニャ・ナショナリズムと関係ありません。1884年にシウダデーリャ公園の北西に隣する散歩道にカタルーニャの歴史に関係の深い一連の銅像を設置する計画をバルセローナ市が承認します。カザノーバ像はその一つで、86年に注文されました。さらにこの場所が88年万国博覧会の入口となったために、同年5月に凱旋門の左側を飾る記念物として据えられました。

この像がカタルーニャ復権の象徴となるのはその後のことで、カタルーニャ主義が文化運動から政治運動へと変容することによって初めてそうなります。89年に新たなスペイン民法を政府が承認すると、カタルーニャでは独自の法を抑圧するものとして大きな反対運動が起こります。このときバルローナ大学の学生たちが示威運動の終結地点としてここを選んだことから、カザノーバ像は「カタルーニャの自由の殉教者」の記念・顕彰の碑としての意味をもち始めたようです。94年には911日にこの像の前で献花する人が現われるようになり、97年には月桂樹の冠を像に架けることが行なわれました。1901年のこの日には、像の前の行事に集っていた20数人の若者を治安警察が逮捕するという事件が起こり、同15日にはカタルーニャ主義連合が大規模な抗議デモを組織します。1905年にはサンペラ・イ・ミケルが『カタルーニャ・ネイションの終焉El fin de la Nación catalana』という衝撃的タイトルの書物を著して、1714911日の敗北はカタルーニャの自由の喪失であると人々に強く印象付けます。そして1916年にカザノーバ像は、カザノーバが負傷したとされる現在の場所に移されました。

911日とこの像がさらに大きな意味をもつに至ったのは、その後のカタルーニャ・ナショナリズムに対するスペイン政府の弾圧によります。23年から30年にかけてのプリモ・デ・リベーラ独裁期には、911日の記念行事が禁止されたために、逆にこれを抵抗の日とする動きが強まります。そして第二共和政期にはカタルーニャ復権の完全な象徴となりました。33年には、成立した自治州政府の首班マシアを初めとして30万人以上の人がカザノーバ像の周りで示威運動を繰り広げました。それも束の間、スペインは内戦に突入し、38年にフランコは自治憲章を廃止し、翌年には政治的弾圧に加えて文化的抑圧を組織的に行ない始めます。カタルーニャの歴史を象徴する記念碑は、破壊されたり撤去されたりします。当然カザノーバ像も、「分派的で反国民的な逸脱の口実とならないようにpara que no sirva de pretexto a desviaciones partidistas y antinacionales」、その対象になりました。ただ幸いなことに像は、バルセローナ市の役人が密かに倉庫に保管して、破壊を免れました。市内の通りの名前もカタルーニャ・ナショナリズムに繋がるものは徹底的に変えられましたが、傑作なのは、カザノーバ通りが生き残ったことです。どうもフランコ政府当局はこれをジャコモ・カザノーバ(女たらしの異名をもつ18世紀のイタリア人)と取り違えたようです。

911日に対するフランコ時代の弾圧とさまざまな抵抗は、それだけで一冊の本になってしまいますので省きますが、小さなカザノーバ人形がかつてカザノーバ像が建っていた場所に密かに置かれ、「やがて大きくなるぞJa creixeràs (Ya crecerás)」という張り紙が添えられていたというのはあまりにも有名な逸話です。77527日、傷んでいた個所も修復されてカザノーバ像は、元の場所に戻りました。カタルーニャの人々の自負は、カザノーバ像の「成長」と切り離すことはできないのです。

さて、この「歴史散歩」も来月号が最後になりました。昨年911日のサン・ボイでの集会スローガンが「協力、寛容、イニシアティヴ」であったと言いました。なぜことさら「寛容」が説かれるのか、スペインの歴史と現況に照らして話したいと思います。