スペイン歴史散歩(その7)

                ――「423日」とカスティーリャ

 

423日」がどんな日かと尋ねると、本好きのスペイン人は、「もちろん、本の日Día del Libroだ」と自慢げに教えてくれます。毎年この日になると、大きな書店やデパートのまえの路上には特設の本売り場が設けられ、普段は読書をしない人も並べられたたくさんの本を眺めては、気に入ったものを買っています。

この日が「本の日」となったのには、二つの背景があります。一つには、カタルーニャ地方ではこの日が「サン・ジョルディSan Jordi」という聖人の日にあたり、中世に騎士たちがこの日に騎馬槍試合を行なって、憧れの貴婦人にバラの花を贈ったという故事から、愛する人にバラの花を贈るという習慣が生まれました。もう一つには、この日が文豪セルバンテスCervantes15471616年)──言うまでもないでしょうが、あの『ドン・キホーテDon Quijote』の作者です──の命日にあたり、1920年代にスペインの出版社・書店がこの日に「本の日」行事を行なうようになったことです。

そしてまったくの偶然ですが、423日はイギリスのシェイクスピア(15641616年)の誕生日と命日でもあることから、《人々に読書をすすめる日》にしようという運動が生まれ、その結果、1995年、ユネスコによって、423日は「世界本の日」に定められました。いまは、日本でも「本の日」はかなり知られてきていますが、バレンタインデーや(日本だけの)ホワイトデーには及びません。もっともっと広まって欲しいものだと思います。

さて、本題に戻ってカスティーリャにとって「423日」がどんな日なのかをお話ししましょう。現在のカスティーリャ・イ・レオン自治州Comunidad de Castilla y León(かつてのレオンLeónと旧カスティーリャCastilla la Viejaの両地方をほぼ含めて、中央台地mesetaの北半分を占めています)の州都ともいえるバリャドリーValladolidから南西に走る国道620号線(N-620)30km行くとトルデシーリャスTordesillasという町がありますが、さらにここから西に走る国道122号線(N-122)10kmあまり行き、右に折れて北に向かう道をしばらく行くとビリャラール・デ・ロス・コムネーロスVillarar de los Comunerosという少し長ったらしい名前の小さな町に到着します【地図1、写真1を参照】。実は、この町の郊外で繰り広げられた1521423日の戦いを記念して、この日がこの自治州の州立記念日la fiesta de la Comunidadになっているのです。

 カトリック両王イサベルとフェルナンドはカスティーリャとアラゴンの共同統治によってスペインに新しい時代を築きましたが、自分たちの王国を上手く継承させることはできませんでした。期待していた王子を亡くし、結局、王位継承権はブルゴーニュ家に嫁いでいたフアナに回ってしまいます。しかし、彼女は精神疾患のために統治能力を欠き、「狂女王フアナJuana la Loca」と呼ばれます。1516年にフェルナンドが死ぬと、このフアナの息子カルロスはブルゴーニュ家臣の支援を受けて、母親が存命であるにもかかわらずブリュッセルで国王即位を宣言してしまいます。スペイン国王カルロス1Carlos Iの誕生です。もちろん法的にはおかしな話ですが、いつの時代にも権力を握った者が自らを正統化することになります。母親フアナはトルデシーリャスに幽閉されて1555年にその生涯を閉じるので、当時の公式文書をみると、先ず女王reinaフアナ、続いて王reyカルロスと二人の名前が並置されています。カルロスの退位が1556年ですから、極端な言い方をすればカルロスが「正式の」スペイン国王だったのは1年間だけだったということになりますね。

 さて、カルロスは1517年にスペインにやってきますが、フランドル人側近に囲まれスペイン語を話せない新国王に対して、カスティーリャ王国議会el Cortes de la Corona de Castillaは、外国人への官職授与の禁止、国王のスペイン語の修得、そしてスペイン国内居住を請願します。ところがカルロスは1519年に、祖父のマクシミリアン1世の後を受けて神聖ローマ帝国el Sacro Imperio Romanoつまりドイツの皇帝に選出されます。皇帝カール5el Emperador Carlos Vの誕生です。そして皇帝戴冠のために翌1520年春にはスペインを去ってしまいます。しかも国王不在中の総督Gobernadorにはフランドル人のハドリアンを任命しました。

 この頃、新たに大西洋交易が開かれてアンダルシーア地方の経済はセビーリャを中心に活況を呈しますが、カスティーリャ経済は相対的にその比重を低下させていました。長距離移動牧畜ganadería trashumanteで生産された折角のメリーノ種羊oveja merinaの良質羊毛もほとんどがフランドル地方などに輸出されてしまい、カスティーリャ諸都市の手工業者のあいだには不満が高まっていきます。こうした経済的原因も重なって、請願をことごとく無視されたトレード、セゴビア、アビラ、マドリード、バリャドリードといった諸都市は、反乱に踏み切ります。各都市の反乱組織をコムニダーcomunidad、成員をコムネーロcomuneroと称したことから、この反王権の反乱はコムニダーデスの乱la revuelta de las Comunidades、あるいはコムネーロスの乱la revuelta de los Comunerosと呼ばれます。フアナの正気を期待して彼女に推戴しようとしましたが失敗し、すぐれた指導者を欠いていたため内部に有産市民と民衆の対立も生じます。さらに、同時に起こった農民の反領主運動movimientos antiseñorialesに脅威を感じた貴族層が、社会秩序の回復を期待して王権支持を鮮明化していきます。

 結局、反乱軍は、国王と貴族の組織した追撃軍のまえに1521423日、ビリャラールの戦いで壊滅状態になります。そして翌日、パディーリャPadilla、ブラーボBravo、マルドナードMaldonado3人のコムニダーデス軍指導者が広場で処刑されて、反乱は終息に向かいます。

 敗北した諸都市の反乱に対して当時は、輝かしいスペイン帝国を築きはじめたカルロス1世への謀反であるとしてまったく否定的評価を与えました。そして「コムニダーデス」という言葉は、暴動や一揆と同義に使われるようになります。その後の歴史においては、絶対主義的王権を批判する立場からは、この運動は「自由の先駆者precursores de la libertad」として崇められ、19世紀の自由主義的結社のなかにはコムネーロスという名前を採用するものも現われます。しかし、フランコ時代に頂点に達したスペイン帝国礼賛的な立場からは、この運動は帝国の使命を理解せず地方利害に固執した中世的性格の暴動とみなされていました。

 フランコ体制が崩壊すると、カタルーニャやバスク地方の少数言語地域のナショナリズムだけではなく、カスティーリャでも地域主義regionalismoの動きが強まります。面白いことに、それと同時に、スペイン帝国への肯定的評価は弱まり、むしろハプスブルク王家の帝国政策política imperialのためにカスティーリャは人的・物的資源として犠牲にされた、そしてその出発点になったのが、コムニダーデス反乱と諸都市の敗北であった、という理解が広まります。こうした歴史的再評価の動きを背景にして、カスティーリャ・イ・レオン自治州が成立すると、423日、つまりビリャラールの戦いでの反王権反乱の敗北の日が、記念conmemorarすべき州立記念日に選ばれたというわけです。

歴史学者としては、コムニダーデス反乱がカスティーリャの自治autonomíaを擁護しようとした運動であったなどと単純化したくはありません。ですが、かつてはスペインの中心であったカスティーリャが、反王権の運動を自分たちの地域アイデンティティの象徴símboloとしていることには注目したいと思います。かつてビリャラールと呼ばれていた町は、ビリャラール・デ・ロス・コムネーロスという長い名前に変わり、1976年以降、毎年423日にはカスティーリャ地域主義運動の祭典の場になっているのです【写真2を参照】。

さて、敗北を喫した歴史的事件を州立記念日としている自治州としてはカタルーニャが有名ですが(1714911日“Onze de Setembre”──別の機会に取り上げましょう)、首都マドリードを州都とするマドリード自治州Comunidad de Madridも、自治州の発足にあたってそうした日を敢えて選んでいます。有名なフランシスコ・デ・ゴヤの絵があるのですが、思いだしていただけるでしょうか。