Ψ Milenio y Jubileo

 

2000年度の「大学院演習」原書講読テキストの内容です。


1900 en Espagne

(1900 en Espana)


序章

本書はスペイン近現代文化史における共同研究の成果である。今後の研究の道標、素描であり、何らモデルを提示するものでもない。

文化史と他の歴史との関係は、大部分定義付けられようとしており、様々な研究者との不可欠な共同研究は調和やエクリチュールの問題を提起する。

1900 en España は、1895ー1905年のスペイン、文化史における状況局面の価値といった限られた時代、問題設定の可能な限り総合的な試論である。本書は、ボルドー(1985年)、パリ(1986、87年)での研究会での議論に基づいている。「近現代スペイン文化史」に至る最初の貢献ができることを願っている。

 

 

第1章 1900年 (Carlos SERRANO)

スペイン人達は「98年の(文学的)世代」のことをよく話題にしている。これは議論余地のある概念である。本章では、この概念のステレオタイプ的な語用や思想から距離をおく。とはいえ、転換期スペインが痛ましいものであったり、戦争やその敗北がその時代を形作っていることを無視するものでもない。

こうしたことの舞台となるのは、植民地政策の失敗、絶えない農業問題、産業の不十分さの結果の蓄積であり、世論における揺れが、王制復古体制の崩壊の兆しをかいま見せている。しかしながら、権力は試練を乗り越え、自ら移行への歩みを進めた。1898年スペインは最悪の状況にあり、1902年王制は確実なもののようにみえ、アルフォンソ13世の戴冠によりマリア・クリスティナの摂政は終わる。

 2大政党は世代交替のおかげで、多くの知識人が望んだその「革命」が障害となることなく、一新した。1898年の危機は空白の1頁だったのか?恐らく違うだろう、ホアキン・コスタが1901年に「名付け」た「寡頭制支配」 -「貴族政」に対置される- が存続し続けていたとしても、その闘いは後衛的で防衛的に見えた。グラムシ的意味におけるその「ヘゲモニー」は、既に疑われ、危機に見舞われていた。

このように考えると、「文化史」はこの上なく歴史の本質を構成している。それは、帝国イデオロギーの運命やそれぞれの時代の知識人の目的などあまり区別されない領域を開拓できる。これらは時代、危機や独自の過程を特徴づける状況のダイナミズムと関わらせることで正に理解されるのである。こうしたことを考えると、次のような疑問が起こる。19世紀末スペインの危機は、文化的指向性の修正、文化的プラティークや熱望の断絶によるものなのか?言い替えれば、この危機は「ヘゲモニー」の危機なのだろうか?本書はこの仮説に基づいている。文化史は、ある時代ある社会の文化的状況を構築する実際の諸緊張の歴史として考えられている。これにより歴史家は、暗示される革新や長く続く伝統に気づき、それぞれを質的にも量的にも説明できるようにしなければならない。

危機や軍事的圧轢は、スペインが他の列強と比較して何が欠けているのかを表している。そのため、1900年において、文化的、科学的、技術的なスペインの遅れを概観し、「近代性」を議論の中心に置く。歴史学学界での問題、「文化的領域の諸制度」の問題(第4章)が、中心的なものになる。外部(ヨーロッパ)におけるモデルの模索は、内部(スペイン)における失われたアイデンティティの模索と結びつけられていく。異端審問的な教会の反啓蒙主義的な行動、

外国 -特にフランス、フランス革命- からもたらされた悪性の教義の影響、伝統の高揚や新奇さの信仰など、全てが議論された。そうして、その歴史的瞬間は「行動」ではなく「議論」によって特徴づけられる。

しかしながら、世紀の転換が生み出した諸状況はスペインに特有のものであったが、当時のスペイン人が思っていたほど単純なものではなかった:スペインの危機、それとも世紀末ヨーロッパの危機のスペイン版のことを話さなければならないのか?もしかしたら、当時のスペインは「異なって」いたので、知識人達が満足げに、もしくは嘆いて宣言したのか?特有の社会集団としての知識人の登場(第5章)は、自ら表明し始めていた。また、スペインは、ヨーロッパを流れる広範な批判的潮流の中にいて自由主義革命の成果とその必然的帰結(実証的合理主義、芸術的凡庸さ、ブルジョワ的秩序)を疑問視していたのか?いずれにせよ、「近代性」は「都市文化」に反映される(第6章)。それは限定的、部分的であるが、伝統と革新との間で揺れ動いていた芸術や景観の革新の可能性があった(第7章)。芸術の分野では、1つの世紀が本当の「リアリズムの危機」と共に終わりを告げる(第8章)。実際、左派から労働運動が、派からカルリスタがスペインの自由主義体制に対して異義申し立てを絶えずおこなう兆候をみせた。

こうした状況では、1898年の敗北やその帰結が状況局面的でなくより普遍的な問題点を投げかけてはいないかどうか提起するのは適当である。

「文化史」は、唯一の対象を持たず、平面的に展開するものでもない。つまり、「文化的生産の条件」の考察は、経済的成長と社会的発展の研究の間にあり、別の領域を占めている。第3章は、歴史的時代全ての統合とそれを特徴づける文化的対象の分析との推移をみる。

「文化史」に割り当てられた領域の多様性は、正に様々な時代制約性の複合的産物を守備一貫して接合しようとすることであろう。

要するに、本書は「スペイン文化の1900年」を構築することである。そして、本書の意図するところは、変化、発展、断絶といった問に答え、とりわけ適切かどうか判断することにある。

 

 

第2章 98年以後――後退 (Jacques MAURICE)

 

国際状況

1900ー1910年、欧米列強間で、市場を求めて経済競争が活発になった。特にアフリカで植民地拡大政策を採ったので、緊張や経済危機を向かえた(1898年、英仏間のファショダ事件、1905年、仏のモロッコ保護国化に対するドイツの反撃)。帝国主義は、20世紀初頭に経済的集中を高い水準で産業化した国において発展した資本主義をさす。

こうした国際情勢が、スペイン植民帝国の残部を清算させた。

スペインはアメリカとの対立で孤立し、ビスマルクの三国同盟に統合されることもなかった。また、19世紀後半からスペイン経済は多くの部門で外国資本を受け入れていた。アメリカによるフィリピン・プエルトリコの併合、キューバの事実上の保護国化は、帝国主義の世界分割の正に一例といえよう。

 1898年の敗北は、王制復古体制にとってセダン(国民化の端緒)ではなかった。キューバの喪失は、繊維産業に集約していたカタルーニャの経営者が恐れるようには、国民経済の破綻の原因とならなかった。再生主義者の願いに反して、支配的なカノバス体制は、カノバスの死後も消滅しなかった。そして保守党は、確立した秩序を維持するよう変化にうまく対応できた。

 

止むを得ざる国内的適応

アントニオ・マウラが政権に返り咲いたとき、カノバス・デル・カスティリョの路線を踏襲し、保護関税を強化した(1907年2月14日法)。その後、カシキスモを根絶させる目的で選挙法を成立させた(1907年8月8日)。この保守的革命は、体制の民主化や社会の近代化といった自由主義者の大義を損なっている。自由貿易の擁護者であったモンテ・リオスやモレは、1906年保護関税強化を推進した。

 さらに重大なことは、執政府や国王の圧力に屈し、軍部に反対する者を軍事法廷に送るのを認めた(軍事法廷法?、1906年3月20日)。

スペインは1904年にフランスと最初の協定を結んだが、軍部はモロッコでネイションの運命を左右する立場にあった。これは、1898年以後から始まる経済回復を、自律的資本主義の発展を危うくした。王制復古体制の社会政治的基盤が弱まり続ければ、その分、社会秩序は重大な脅威にさらされた。

キューバ戦争は、戦費以上に人的損害が高くついた。この戦争は、正に経済的イデオロギー的に古い問題を提起した。金の流失を補うため、1881年以降平価を切り下げ、信用紙幣の増大を図った。そのためこの問題を回避できなかった。既に経済は大半を外国に依存しており、窒息していた。フェルナンデス・ビリャベルデ以降のデフレ政策は、1909年まで国家予算を均衡させ、ペセタを再評価させた。

 しかしこれはインフラ、教育など成長の諸費用を損なってきた。 【A.S.】

 

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社会的緊張

 

 経済的不均衡は、様々な社会集団のあり方や社会的闘争の性格に影響を与えた。

 1900年からの10年は、カタルーニャ主義運動の政治化が顕著となる。1901年には、ブルジョワ的性格の強い政党、リーガ=地方主義同盟が設立される。1907年、リーガはカルリスタや共和主義者といった反政府勢力を結集し「カタルーニャの連帯」を形成する。この時期のカタルーニャ主義運動は、保守的なナショナリズムであり、彼等の利益の危機にはマドリードの中央政府に接近していく。

 バスク地方では、ほぼ主要なブルジョワは完全に政治システムの中に組み込まれていた。工業化にともなって生じた影響への反動としてナショナリスト勢力は集結し、1895年にバスク民族主義党が設立された。サビーノ・アラナ率いるこの政党は、中産階級を代表し、教会に基盤をおき、社会主義と対立しながら地盤を固めていった。バスク民族主義党はリーガと異なり、中央政府内に代表を立てようとはしなかった。

この当時、幾つかの労働者のストライキが起こるが、労働者側が勝利することは難しかった。バルセロナで1902年に冶金工のゼネストが組織されたが、弾圧され、バスクの鉱山ではトラックシステムに反対して労使紛争が起こったが、1890年と1903年、軍隊によって鎮圧されている。1902年、アンダルシアのヘレス・デ・ラ・フロンテーラででは、農業労働者が食料による給料の支払いに反対し、現金で給料を受け取ることを要求した。しかし、こうした権利の実現には、その後、長い時間を要した。

 労働者、とりわけ都市部の労働者の生活費の高騰は不安を引き起こし、増大する間接税は暴動のような示威行動を引き起こす要因となった。所得税に対する反対は非常に多くの反対者を動員することとなった。

 被支配階級の不満は多様であったが、社会の多様な集団を統合させる代替的勢力は現れなかった。戦争終結後、台頭してきた共和派は1903年の立法選挙で大都市部において成功を収めた。世論の大半を共和主義者達が代弁していると信じられていたが、共和主義指導者達の関心・実践は教育や都市問題研究といった近代的な地方行政活動のみにとどまった。スペインの農業地域は未だ尚、ほとんどなおざりにされていた。 【J.CH.】

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労働運動

 労働運動における二つの流れに言及する。社会主義では、労働者総同盟(1888年成立)が、1898年の後かなりの成長を遂げ、数年後には約50000の同盟加入者を数えた。社会労働党はマドリードやバルセロナといった重要な地方議会に議席を得、そうした地域で影響力をもっていた。社会労働党は組織の強化を最優先し、要求も団体主義・業種組合主義的であった。そうした流れは、ますます改良主義的なものになっていった。しかし、こうした方向性は農業地域に介入するのに適したもので

はなかった。

 アナーキズムに関しては、1893年と96年等に起こったバルセロナのテロに対する弾圧により、大きな痛手と孤立を余儀なくされた。この弾圧と孤立の後、アナーキスト指導者達は抵抗手段や組織の形成・強化に力を注いだが、未だゼネストは統一された有効な手段ではなかった。アナーキストの民衆組織は、積極的行動とサンディカリズムの間で揺れていた。その後、サンディカリストたちは農業地域に狙いをつけ、農業労働者達の要求実現のために共に闘う姿勢を見せ始めた。

 1900年当初は、アナーキズムは社会主義と同様、いまだ全国的な勢力とはなり得ていなかった。アナーキスト系の発行物であったレビスタブランカもプロレタリアートの中にほとんど浸透していなかった。体制が再び寛容となると、自由主義の学芸協会が再び登場したが、1901年にフェレルが建てた近代学校のような文化的イニシアティブは、活動が余りにも個人的で、孤立していたためそれ以上の広がりを見せることは無かった。確かに、こうした事例は社会革命と未来志向である教育が融合していた良い事例ではあったのだが。

局面状況

 社会構成体に関わるような歴史的局面を正確に決めることは難しい。スペインの場合、1898年という年は、ある一つのサイクルの終焉であった。植民地における戦争の終結により、スペインの資本主義において最も積極的な集団が近代化のイニシアティブを取ることとなったが、その近代化の効果は、旧態依然とした農業構造のため、必然的にゆっくりであり、限られたものであった。

 国家は、種々の利害を持つ集団を内包し、指導的階級間の対立の場となった。そのことは、二つの政権政党の連携を解体する方向へ向かわせた。こうした状況から、国家は圧力団体に敏感となり、経済に介入するようになった。反対に、民衆の要求に対しては関心が低く、社会立法充実への努力も限られていた。このため、労働者の「反国家主義」は増大し、社会闘争も頻発したが、労働運動が全国的な影響を与えるようになるのは1910年以降のことであった。

 1898年から1909年の間に、スペインの近代化初期の重要な事件が現れ、体制の危機の要素が現れている。しかし、19世紀終わりの2・30年に形成された勢力関係をひっくり返すような重要な事件は起こらなかった。【J.CH. 000615】

 

 

第3章 文化的生産の状況

 スペインの近代化は1900年以前から意識されていたが、他のヨーロッパ諸国に対する遅れを取り戻すための具体的な方策が実行されることはなかった。

 当時、文化の表明を条件づけていた諸分野で生じたであろう促進・変化・あるいは革新は、そのもたらす直接の効果と後から現れてくる効果、この二つを区別しながら上述の文脈で理解されねばならない。

法の枠組み

 1900年当時、出版・報道は1883年の出版取締法の統制下にあった。この法律は主に新聞・雑誌を視野に入れたものであり、ある程度の自由な表現と流通を認めていたが、この保証は度々棚上げされることとなった。これは軍国主義の発展とそれに触発された反応に影響されてのことであり、社会秩序と国家の結束を脅かすアナーキズムや地域主義から身を守ろうとする政府の思惑の現れでもあった。表現の自由を制限する法令は他にも出されたが、その際たるものは、数々の反対意見を押し切って成立した裁判移管法である。結局、スペインにおける表現の自由は絶えず脅かされ、新聞・雑誌に関しては縮小される傾向にあった。

 書籍も法による統制を受けたが、同時にその法自体が書籍の普及を保護し、刺激する側面も持っていた。たとえば外国からの書籍輸入には高関税がかけられ、印刷機材や紙、インク輸入への高課税にも関わらず国内の作品の産出を促した。著作権保護に関する法令も出され、著述家達はその恩恵に浴した。

 新聞・雑誌も、統制を受ける法自体によって恩恵を受けた。1900年代に入り、当初印刷物に不利であった郵便料金の継続的引き下げによる新聞価格の低下、特別郵便料金の適用や帯封への切手貼付義務廃止、為替手形制復活による購読料払い込みの簡便化などが普及を促進した。電報もその発展と料金制のおかげで、新聞にとって利用しやすいものとなった。

 国によってもたらされたこうした恩恵によって、この分野の状況は 1900年頃には改善される傾向にあり、表現の自由に対する制限を埋め合わせた。出版・報道を統制するべき法の枠組みが、一方でその活動を促進していたと言えるだろう。

マスメディア

 国家事業による交通網と輸送手段の発展によって、新聞・雑誌の講読はより広く普及していった。郵便事業の発展も、それ以上のプラス要因として働いた。また、電信・電話の普及も、まだ発展途上であったとはいえ料金引き下げの恩恵を受けるなどして、情報の伝達を迅速化した。よって報道の内容は多様化したが、その現実に対して持つ重要性は増し、通信社の活動が展開され、真の情報市場が出現することになった。

 このように、技術の進歩と国家の後押しによって、マスメディアは1900年頃には全般的に著しい発展を遂げ、書籍や、特に新聞・雑誌の発行と普及は促進された。

製紙産業

 1879年から1919年にかけて、製紙産業は地理的・経済的な集中と、生産機材の近代化を経験した。1890年当時のスペインには他国に比べれば極めて少ない台数の印刷機が限られた地方にあるだけだったが、直後に設置された関税障壁のおかげで生産も本格的に始まり、国内需要を満たせる程になった。

 1901年設立のスペイン製紙は、製紙産業を一社でほぼ独占した。社長のニコラス・マリア・ウルゴイティは市場支配と競合勢力の排除を目指し、人件費の削減によって紙の値段自体を引き下げ、消費を促進。また、生産単位の再編と分業化・生産機材の近代化と生産ラインの統合・関連部門をになう新工場の設立という段階化された計画を始動し、生産の合理化と消費変動への対応のために倉庫網の設立を提案するなどした。滑り出しこそ厳しかったが、スペイン製紙の出現はすぐに効果を及ぼし、他国のレベルには遠く及ばないながら、スペインの紙の生産量は飛躍的に増大した。間接的には紙の価格低下が、政府の課税政策とも相まって新聞・雑誌、出版に恩恵をもたらした。新聞の継続的な紙幅増は製紙業の前進の、一つのサインでもある。

 後に一握りの資本家による保守主義や、それが国の発展にはめた枷につまづくことになるとはいえ、スペイン製紙の出現は、近代的なジャーナリズムグループの形成を促すなど、スペイン史における決定的瞬間の一つとなった。

 

印刷

 1870年以降、不均一ながら印刷の機械化の促進が見られた。大資本に背を向けられたこの分野への投資は、印刷業者自身の小規模なものに依存していた。当然機材は充実せず、また専門的養成機関の設立までは技術的知識も乏しかった。1900年頃までに国内に存在していた印刷機械は、大多数が平面刷で小規模なものであったが、その広範さと重要性は過小に評価されるべきものではなかった。新聞・雑誌の普及に牽引されて、印刷の近代化は大きく加速され、機械台数が増え、印刷能力は向上した。こうした発展はマドリード、バルセロナを中心とする大都市に集中した。活字生産や遅れて実現した版組の機械化、機械製本やカラー印刷技術の導入も印刷業に恩恵を与えた。印刷物の進歩は、量的側面からは十九世紀末に、最新技術の導入という側面からは1910年頃に実現されることになる。【W.F. 000630】

 

 

 


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