Ψ Milenio y Jubileo

 

2000年度の「4年演習」原書講読テキストの内容です。


<序>

 この本は国立通信大学の現代歴史学科のセミナーを元にしている。われわれ現代歴史学者は、最近のスペイン史の中心的研究として土台となっている、専門的な形式への一連の疑問を議論するためにこのセミナーに集った。

 今世紀の終わりに単一要素としての中心層や、自由と解放の単線的かつ段階的な発展に基づく大きな物語の歴史は危機にある。同時代史の矛盾した範囲の中で揺れ動く歴史学者は自分の研究の意味、研究の方法論と史料の効力について絶え間ない問いを強いられている。

 この本は異なるが互いに補い合う2つの部で構成されている。第1部では「歴史学の疑問」としてポストモダン期における歴史と科学の間の混同と歴史と記憶の関係について自問していく。第2部では「記憶を使った研究行為」として具体的事例から過去と現在、歴史と記憶の間の関係について取り組んでいく。

 今世紀における歴史学の発展は絶え間なく加速しつづけながら環境の変化と拡大に印をつけた。今世紀半ばの数十年間に歴史学の枠組みは築かれたがその流れを継承しつつも大半で異なっているのが「ニューヒストリー」という流れである。【K.S.】


マリア・グロリア・ヌニェスは精神の科学に固有なものとして伝統的に仮定されてきたもの、つまり(限界性と決定的でない仮定に服されていた)認識の形としての実験科学とみなされていた古典科学という前提の見直しが始まった20世紀の科学の状況を考えながら、歴史学を自然科学的に用いることの是非についての議論を分析している。歴史学と実験科学の間には認識の過程とその結果に関して一連の類似点を導ける。

ホセフィーナ・クエスタは我々に記憶と歴史の関係に基づく理論上の提案を示している。ジャック・ル・ゴルフは「記憶は現在と未来に仕えるためにしか過去を守ろうとしない」とみなしている。この意見はピエール・ノラと同様、記憶が終わるところから、歴史が始まるとみなす時疑問の余地が残る。

記憶と歴史、集合的記憶、記憶の歴史などホセフィーナ・クエスタが分類した概念上の諸要素は、この本の第二部にまとめられている応用的な歴史研究の適切な入り口を作り出している。

ホセ・イグナシオ・マダレナと、エル・グルポ・サラマンカによる3つの主要都市の街路の名称の変化についての研究は、認可された公共の記憶の構築の枠組みに関するものである。街路の名称化は誕生する国家を特定する出来事とともにある事実とある人物の記憶を集合的記憶の中に固定しながら、同時に遠い過去と近い過去の喚起を

求めている。

歴史の利用化について私たちはこれらの街の名称一覧の分析を通してフランコ体制が権力を保持するためにしつらえたイデオロギーの複合を目の当たりにする。【K.S.】

 

p.145 <<新国家創立の脈絡における記憶の政治:蜂起の正統性>>

スペイン内戦は、軍事クーデターの部分的失敗の後始まり、7月24日、国家防衛評議会の創設により、新しい権力が制度化された。主権を持つ制度に代わり、反乱側は、11月1日、58法令において、現行の合法性を否定し、新しい合法性を制定し、7月18日以降反乱軍当局から発生したもの以外のすべての法令を無効にし、同日以前の法律の見直しを行った。この法令は、国家防衛評議会が7月24日、最初の法令により立法権を含むすべての国家権力を掌握したことの必然的結果である。

フランコ時代には、武器による勝利が起源とされていた正統性であるが、それだけでは不十分となり、道徳的な公正さや必要性を証明するための言説をつくりあげる必要があった。それにより、反乱軍を支持していた全てのグループが異なるイデオロギーの仮定へと向き、マスコミ、つまり宣伝統率をめぐる衝突の原因となった。

政府を「イデオロギー的複合体」として話す方が適切であるのには、いくつかの要因がある。そのひとつは、歴史の利用であり、歴史上の事実は、国家の利益に応じて再解釈される。

社会は、歴史に対しての独特の認識、社会的記憶を持っている。過去に正統化を見出す国家は、歴史を目的に応じて嚮導する。つまり、一方では再解釈された歴史を再び練り上げ、もう一方では、新国家の正統性の論拠を創立するために、現在にはめ合わせた歴史的概念と結びつくように、現在起きている事実の記憶を固定化した。このような独特な歴史解釈を練り上げる者達は、歴史のイデオロギー的力を自覚し、歴史と記憶を融合させようとした。このような記憶の政治的意図は、ファシズム政権に共通する特徴である。

歴史の記憶には、外的支えと、確実な徴が必要となる。これをフランスの歴史学者、ピエール・ノラは、「記憶の場」と命名した。その場において、記憶は、忘却を遮断すると言う指名を含みながら、固定されている。【A.K.】

 

 国家を接合する過程において国民運動側の当局は、その行為を正当化する一連の出来事を集合的記憶に記憶するように腐心した。そのような目的に対して、顕彰行為、祭、戦争にまつわる語りなどが用いられた。その正当性において歴史と記憶の融合は特に体制側にとって重要な事であった。

 「記憶の場」はピエール・ノラによって「記憶が実際に具体化され、人々の意思と時間の経過によってより際立ったシンボルとして長く続く場所」と定義されているが、「場」という言葉は言葉のより広い意味で理解している。より具体的に言えば、「最初の意志と時の流れへの抵抗」の組み合わせである。

 「新国家」には敬意の祭典と顕彰行為、紋章の使用、挨拶、旗、国歌、衣服のような多くのシンボルで具体化された、明白な記憶の意志が存在する。

 新しい体制で有力な役割を持ったカスティーリャ・レオン地方に、分析の対象は向けられる。この時期制定された多くのシンボルや祭典は地理的な枠組みや年代を超えて広まった。【K.S.】

 

 地域的枠組に限定された研究は、重要な正当性があった。つまり、国民運動側を支援するメンバーを含む知識人グループ内で、スペインをカスティーリャなるものと混同させる還元主義的考えは具体化しつつあった。カスティーリャは、支持すべきものを具現化し、それにより、歴史はカスティーリャの代表者達が新国家の犠牲となったという事実を示すために用いられた。こうして、カスティーリャは、権力により道具化された。

 蜂起側の利害は、その内容が統治されつつある歴史の上に投影され、地域は、体制イデオロギーの拡大する枠組を構成することになる歴史の場という財産を所有していた。

 体制を正統化する要因やその象徴に対する研究は、いくつかの問題を生み出した。第一に、新体制形成に介入した有名な政党が、その権力の存在を表明する徴を生み出したことにより、体制の記憶の意図は静態的なものではないということである。第二に、その徴の分類という作業が、有用でないものになり得るということである。重要視すべきものは、意識における無意識をつなぎ合わせるネットワークを形成し、まとめることである。

 

都市空間、歴史のページの行程:通り、広場、公立学校の名称付け

 記憶の意図が、特権的、あるいは、見世物的空間に具現化される理由は無い。通りや広場の名称付けは、地域の設置委員会のメンバーによって行なわれ、スペインの全都市で行なわれた。この行為は、ある目的に従い、また、イデオロギー的概念に着想を得た地域的権力機関の決定や押し付けを推測させる。

 公共道路の命名は、潜在的にメーッセーッジを伝えるということにおける中心となった。特定の名称の強要は、時には内紛にも反映する実権を表明するものであった。【A.K.】

 

 一連の行為は記憶という手段によって、歴史の中に自身の事実や主役を導入する。そのことによって、歴史に固有の見解が明らかにされる。

 反政府勢力は自身の状況を正統化する必要があった。その合法性の1つの根拠が、入念に選別された歴史である。カトリック的性格、武勇伝、地方史のような観点が優位に置かれたスペインの歴史認識は、国民派の神性をその内容に適合させていく。街路の名称はそのひとつの例である。

 蜂起の勝利が早くに決まったカスティーリャの中心都市に設立された設置委員会は、混乱と曖昧さの残る時期の初期に真の地方権力を作り出した。委員会は共和制に関するものすべての体系的破壊にとりかかり、より遠い過去と取り替えた。これらの名称変更の進展は、それを促す体制の進展を反映した。

 

バリャドリード

 いち早く7月18日の蜂起で勝利したバリャドリードに設置委員会が作られると、街路や広場、学校の名称の見直しが主な任務の1つとして集中的に行われた。それは共和制への反動であった。

第2回の会議では<バリャドリード人民にまさに耐えられない現在の名称>の街路の最初の修正リストが提案された。

 このような状況下でも生じた合法性への疑いとは、都市の通りの名前に対して市議会の気まぐれな修正が可能かどうかという問題だった。しかしこれは共和政時代の痕跡を最近の出来事に関連する記憶に置き換え、古典的な名称をつけるという目的の前に無視された。

 学校施設に導入された修正は重要である。学校は将来の市民である子供たちを育成するからだ。その選定の基準は明確である。

 過去の歴史の輝かしいときの記憶につながる歴史上の偉人たちである。

 それらの人物の大半は15世紀から17世紀に生きた。

 そしてそれに置き換えられた名称も重要である。彼らはより最近の、進歩主義を擁護し、反動的勢力や保守派に対抗していた人物である。そのリベラル的性格が、名称の変更を生じる動機となった。【K.S.】

 

 戦争で起きていることや、永続させたいいくつかの事実による歴史の修正が行なわれていて、そのような形で、武勲によって構成された蜂起の歴史が作られ、後に官学の歴史学や教科書の中で強固なものとなったスペイン内戦の神話化の起源となった。

 サンタンデールの古い通りに”Calle de los Heroes del Alcazar de Toledoと名づけられたことは、このことを明らかに示している。

 “ソビエトに仕えた反愛国的マルクス主義の一団の攻撃に反抗したトレドのアルカサルの歴史的防衛に帰する英雄的行為は、スペインの栄誉と名声を高め、素晴らしい防衛者たちの名前を残した。バリャドリードは、この異常な行為を明白な方法で、我々の国家の歴史に記されるべき最も偉大な武勇伝のひとつとして永続させるべきである。そのことから、市役所は、サンタンデール通りを、los Heroes del Alcazar de Toledoという名称にすることにした。”

 マスコミ、特に新聞から起きたキャンペーンに結びついた通りの名付けは、後衛の士気を維持し高めるために、トレドのアルカサルの解放を大きな価値ある事実に変えた。一方で、これは、スペインの歴史における英雄の記憶のつながりを持たせ、正統性の根拠を探すという意図があった。

 バリャドリードのファランヘ主義者達は、英雄オネシモ・レドンドに敬意を表すために、彼の名前を通りにつけることに対する設置委員会からの賛成をどう獲得するか知っていた。このグループが及ぼした圧力は、バリャドリードでのファランヘ党の権力を反映した。

 この意味では、石碑を設置する作業に、当局、団体など全てのバリャドリード市民が招待されるという、グティエレス氏の提案は、重要である。

 名称付けが修正される場所は、Plaza de la Libertadであり、英雄の重要性を、将来その名前が付けられる場所に等値しようとしている。それには、バリャドリードで最もにぎやかな通りが、全てをカスティーリャやスペインに捧げ、全てのスペイン人の幸福のため、また、唯一、偉大で自由なスペインのために戦った者の名前を有する必要があった。【A.K.】

 

 

 


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