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Milenio y Jubileo
2000年度の「3年演習」原書講読テキストの内容です。
Siguan, Miquel, Espana plurilingue, Madrid, Alianza Editorial, 1992.
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1. Raices historicas”1.言語的多様性の形成
紀元前2世紀にローマ人がイベリア半島を占領する以前、半島にはケルト人やイベロ人などが住んでいて独自の言語をもっていた。ローマ人の占領と同時に、半島にはラテン語が広まった。ただしそのラテン語は書記言語、もしくは教養の言語としては共通であったが、日常使用される話し言葉としては属州ごと、そしてその中の地域ごとに多様だった。
ローマが衰退し半島に西ゴート族が定住するようになってからも、書記言語としてのラテン語は使われ続けたが、古典の規範からは遠ざかっていった。口語ラテン語に関しては地域ごとの分化と変化が更に進んだ。
10世紀初頭にアラブ人が半島を侵略し、それに対する抵抗の過程で半島ではラテン語から派生した新たな言語が生まれた。ガリシア語、アストゥリアス・レオン語、カスティージャ語、アラゴン語、カタルーニャ語である。以上の5つに、ラテン語の圧力に抵抗しながら存続したバスク語を加えた6つの言語核が当時半島に存在した。これらの言語核はレコンキスタの過程で、その影響を受けながら違った様相を見せてきた。
最初はアストゥリアス・レオン語、次にカスティージャ語というように、支配権を握った言語から順に拡大していったのである。【T.A.】
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レコンキスタの始めの数百年において、カスティ−リャ語は東に拡大し、ナバ−ラやアラゴンにまで拡大した。ガリシア語は、半島最北東から大西洋に沿って南へ広がり、カタルーニャ語はピレネー山脈から地中海地域へ拡大した。
こうした言語の拡大は、アラゴン連合王国の名の下で行われ、その主導権はバルセロナが握っていた。
13世紀末に形成された言語地図によれば、カスティーリャ語はカスティーリャ伯領と旧レオン王国を占領し、さらにカスティーリャ・ラ・ヌエバ、アンダルシア、そしてバレアレス諸島でも話されていた。ガリシア語はガリシアの領域を越えポルトガル北部にまで達した。カタルーニャ語はカタルーニャだけでなくバレンシア王国へ広がった。バスク語はこうした言語の拡大からは疎外され存続していた。
こうした拡大と同時に、3つのロマンス語は、ラテン語に代わって行政の為の書記言語として使用され始めた。また、口語体のロマンス語による文学も現れ、キリスト教徒やモサラベの間では叙情詩が栄えた。
13世紀には三言語の勢力範囲がはっきり定められ、文学創作に適した表現手段になった。ガリシア語は叙情詩に限られたが、ポルトガルの地域でポルトガル語となり、すぐにポルトガル語文学が生まれた。カスティーリャ語は教養詩を発展させ、物語、長編年代記や散文に使用され、15世紀にはルネサンス思想が導入された。カタルーニャ語の文学作品は15世紀のカタルーニャ政治の衰退とともにレベルが低下したが、代わってバレンシアで最高水準に達した。
2.統合化の過程(15世紀〜19世紀)
1469年、カスティーリャ女王イサベルとアラゴン国王フェルナンドの結婚によって両王国の人的統合がなされた。1492年に両王はカトリック両王という称号を採用したが、それは、スペインという名称は当時まだイベリア半島全体を指していたからである。そして1512年、ナバーラ王国は独自の諸制度を維持したままカスティーリャ王国に併合された。
カトリック両王の統治の結果、15世紀にはスペインの地図は決定的となり、カスティーリャの優勢が確立し、カスティーリャ語は支配的な言語となりスペイン語と呼ばれ始めた。
その文学は最盛期を迎えたが、一方他の諸言語は文学的表現を失っていった。
こうした過程は、スペイン国民性の実現という形でのイベリア半島統一の実現を表しているのかもしれない。しかし、我々が今問題にしている現実は、時間の中で現れ、形成されていく歴史的な現実である。今問題にしている場合においては、スペインという国家が存在しなかっただけでなく、今日の意味でのスペイン国民性という概念さえも存在しなかった。それは、近代を通じて形成され、その後ヨーロッパ社会の基本要素の1つとなった概念である。【M.I.】
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この中で、西ゴートという歴史的記憶はすでに重要な論拠となっている。つまりそれは、レコンキスタとして、イスラム教徒に占領された土地の奪回を証明すると同時にイベリア半島全域への覇権的権利の主張をも証明したからである。
もしこれが確かだとすると、レコンキスタが600年間を通じて拡大したことや、それと同時に平和的共存と協力の期間が存在した事も確かである。そしてしばしばキリスト教の君主達は、イスラム教徒に対してのみ戦ったのではなく君主同士でも戦い、時にはアラブ人をその対立に巻き込むことさえあった。さらにこの時期の君主達は、息子達の間で領地を容易く分割したり、結婚によって国を拡大したりしており、それは今日我々が国や国土という意味で理解しているものとは全くの別物であったことを思い出さずにはいられない。
それ故、カトリック両王が国としてスペインを統一しようとしていた、と言うとオーバーな結果になる。彼らがやろうとしていたのは、封建的な権力を崩しながら王国の全領土において権力を握る事であり、また全住民の忠誠を確実なものにする事であった。そして、イベリア半島全土を包含するまでの新領域の征服こそ、この権力を強化するもう一つの方法だった。同時期の他のヨーロッパ君主国も同じ方法を続けており、この道の終わりには国民国家が存在していた。おそらく、これらの国家は国民的理念の実現であると言うより、近代国家の構成される過程でイデオロギー的正当化、またその集合意識の次元における反映として国民性が現れたと言う方がより的確であろう。近代性とともにつくられた国家についても当然述べる。一方、19世紀までつくられなかったイタリアやドイツといった国家では、国家よりも国民意識が先に生まれた。
しかし15世紀、この国民意識はまだ漠然としたものだった。アメリカ大陸の発見と征服はカスティーリャ両王の名の下に行われた。スペイン王でドイツ皇帝でもあったカルロス1世は次第にスペインよりにはなったものの、その人生の大半をヨーロッパの断固たる考えを守ることに費やした。カタルーニャには共通のアイデンティティーや言語といった特有の象徴的意識や、共同事業での連帯感という面で高いレベルのものがある。それを証明する13・14世紀の証拠はとても多い。しかし、仮にカタルーニャの国民性がすでに存在していたとしても、それが近代国家建設の骨組みをつくったものだと言うのは少しオーバーである。−その国家とは、スペイン、フランスにおいて結晶化した国家とは全く異なる−それは、バレンシア、マジョルカといった新領土併合が同盟という形で行われたという事実によって明らかである。
ガリシアやバスク共和国について言うと、もし固有の政治体制や共通の計画を協力して行う可能性がなかったとしたら、15世紀に一つの国家をつくることができなかったとはまだ言い難い。
さらにポルトガルもまだ完全な国にはなっていなかった。ポルトガルはカスティーリャに何度も併合されたり、また離れたりした。また時の経過とともに王の結婚があったとしたら再併合される可能性があったはずだ。しかし驚くべき事に、その逆が起こった。私が「驚くべき事に」といったのは、もし誰かが13世紀イベリア半島の地図を見ながらそこに2つの独立国家の存在を予想したら、1つは大西洋に面した国、もう1つは地中海に面した国を想定していたはずだからだ。しかしまた、ポルトガルの分離を結婚の逸話に変えてしまうことも不適切である。つまり、ポルトガルに国家意識を与え、その独立を保証したのはアフリカやアメリカといった外国の企業であり、それはヨーロッパ政治における地中海の役割が減ったことを意味する。もしスペインの首都がリスボンやセビリアに設けられていたら、スペインの国民性は、我々の知るそれとは全く違っていただろう。
歴史は歴史であって、ありえたであろうというものではない。そして確かなことは、カトリック両王の努力によって、すでに一つの王国となっていた領地の政治統合への過程が子孫の為に動き始めたということである。彼らの計画の中に、言語の統一が入っていなかったとしても、カスティーリャの土地から王権を強化したことや、カスティーリャ語が他の言語にとって不都合な存在だったことは確かである。この意味におけるとても明白な例として、ガリシアが挙げられる。イサベル女王の即位によって終止符のうたれた王維継承の対立で、ガリシア地方の貴族の大部分がトラスタマラ家側についた。彼らは、宮廷に委任された行政が立ちあがるのと同時に、女王に忠実な人々によって代わらされた。このように、ガリシア語の貴族は、カスティーリャ語の貴族に取って代わられたが、一方で住民の大部分は専らガリシア語を理解し、使い続けた。【K.K.】
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一方、カタルーニャ、バレンシア及びマジョルカ島においては、当地の政治機構が影響を受けることなく、統治機構及び対外関係の言語としてカタルーニャ語が使用され続けた。だが、時が経つにつれカタルーニャ当局にもカスティーリャ語の使用が望まれるようになっていった。そのような中でカタルーニャ語の文学作品は消え去り、書物の言語としての地位が与えられるに至ったカスティーリャ語での書物の出版が広まり、部分的にカスティーリャ語が取り入れられるようになっていった。ラテン語及びカタルーニャ語の使用環境を有していたバルセロナ大学においてもカタルーニャ語での書物は広まっていった。
また、社会の上流階級の人々にカスティーリャ語が浸透していく過程はバレンシア及びバレアレス諸島でも同様であったが、同地域の方がより強い傾向が見られた。だが同地域でも、先のガリシアでの状況と同じように、大部分の人々は地域固有の言語、即ちカタルーニャ語を使用していた。
ナバーラとバスクにおいては、また状況が違っていた。ナバーラはナバーラ王国から成り立っており、広範囲で口頭形式ではあったがバスク語が使用されており、統治機構及び教養の言語として使用されていたラテン語はフランス語とカスティーリャ語に取って代わるようになった。 また、バスクの所領は、それまで統治していた貴族がカスティーリャへと移った後も中世の特別法のシステムを有し、大いなる発展を遂げたが、ここにおいても統治機構の場ではバスク語は使用されなかった。実際、カスティーリャ語使用を有利にさせるような圧力が見られた。
17世紀を通じてスペインは国民国家という意味の近代国家を建設しようと意図していたが、それはフェリペ4世へのオリバレス伯の提言でよく知られているところである。それはつまり、ポルトガルやアラゴン、バルセロナなどの諸王国の王を兼ねるのではなく、同地域を含めた1つのスペイン王になるのが重要なのであるという内容であった。つまり、政治的及び統治機構的統一を為し、同じ法体系で統治するというものであったが、ここで言語の違い、つまり、カスティーリャ語が知れ渡ってないことが障壁として感じられ始めたのである。
オリバレスによると、ガリシアとバスクにおいては、近代化阻害要因としてのカスティーリャ語の不使用は貧困とカスティーリャ語使用地域からの隔絶に関係しているが、一方、カタルーニャでは独自の制度を守るための手段としてカタルーニャ語の使用が主張され、それが近代化を妨げることになった。また、カタルーニャにおいてカスティーリャ語を広めたイエズス会が重要な役割を果たしたと筆者は言う。つまり17世紀初頭にEstudi General(バルセロナ大学)及びColegio de Coedellesの名で知られるColegio de Noblesが設立されたように、イエズス会が行っていたことはいわゆる「エリートの形成」なのである。
平民の教育機関であるバルセロナ大学はカタルーニャ語による伝統的な教育を行っていたが、貴族の教育機関であるColegio de Noblesはイエズス会による革新的教育を行っていた。そしてColegio de Noblesの教師は次第にバルセロナ大学の教授職を要求するようになっていったが、バルセロナ大学側はそれに抵抗していった。この対立はイデオロギーにまで及び、バルセロナ大学がキリスト教伝統的価値観に基づくのに対し、Colegio de Nobles側はイエズス会の革新的立場を採っていた。バルセロナ大学がカタルーニャの制度や言語を守ろうとしたのはカタルーニャ社会のカスティーリャに対する対立感情に原因がある。【M.H.】
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カルロス二世の死により、ルイ十四世の孫フィリップとオーストリア大公カールがスペイン王座をめぐって争い、列強を巻き込んだスペイン継承戦争に発展した。カタルーニャとバレンシアは、フランス的中央集権支配を恐れカール側についた。その後カールは神聖ローマ皇帝に即位、国際的な対立は収束したが、スペインではカタルーニャが望みなき戦いを続けた。その後フェリペ五世としてフィリップがスペイン国王となると、スペインをフランス式の中央集権国家につくりかえようとして、旧アラゴン連合王国の領域ではフエロなどそれまでの伝統的制度や法が廃止され、新国家基本令(los decretos de Nueva Planta)が施行された。これは旧アラゴン連合王国のカスティーリャ化に等しく、カスティーリャ語の使用およびカタルーニャ語などその他の言語の方言化が推進されることとなった。カスティーリャ語の使用には、カスティーリャ化のみならず、合理的手段として、また国家統一手段としての意味付けがあったからである。
住民の話す言葉で布教をおこなってきた教会は抵抗したが、司教の叙任権が地方の手を離れるにつれ、カスティーリャ語を話すよそ者の司教が増えた。そのため、観想修道会の再編、世俗権力やカスティーリャ語を話せる市民との協力が、布教や教育の場でのカスティーリャ語をますます広めることとなった。カスティーリャ語普及の程度は個人的、状況的要素に左右されたが、一般にはカタルーニャ、バレアレス、バレンシアの順で抵抗が強く、ガリシアでの抵抗はなきに等しかった。だがガリシアでは文芸作品の表現手段としてガリシア語が使われていたため、聖職者によるものが多かった著作のなかではガリシア語は書き言葉として生き残ることができた。
カルロス三世の1768年の布告は、行政言語としてのカスティーリャ語の優越について語る一方、それまで神学校や大学のみでなされてきた教育がいまや一般人民にも与えられる必要が生じ、その教育はカスティーリャ語でなされる事を指示している。カスティーリャ語が行政の言語である以上、その学習は行政とうまく付き合うためには必須であり、また非カスティーリャ語地域の為政者にとっては文化を吸収するためにカスティーリャ語を学ぶ必要があった。だが真の理由は、言語的統一すなわち全国的なカスティーリャ語の使用こそが国家統合の象徴であったことにあるのではないか。
カタルーニャのように現地の言語での教育が先行していた地域では、カスティーリャ語による教育はうまくいかないと考えられ、現地語によるカスティーリャ語の習得が図られた。また、独自の言語とそれを文化活動に用いる権利を守ろうとしたことも、カスティーリャ語教育の妨げとなった。
18世紀におけるスペインの啓蒙主義思想は、ますます落ちぶれゆくスペインをヨーロッパの新たな流れに引き込み、より理性的な解決策を提示しようとする人々によって担われる。だが彼らは、例外はあったがカスティーリャ語以外のスペインの言語に興味を持つことはなかった。カタルーニャの歴史家ダ・カンプマニは彼がカスティーリャ語訳した著作の前説で、古くて文芸界に影響を持たないうえに他の国に知られていないような言語で書き写すことは無駄であると語っている。【Y.F.】
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19世紀初頭には、フランス革命とナポレオン侵攻により、スペインはイデオロギー的衝撃を受けたが、それは、スペインにおいて起こっていた言語問題に対しては、影響は及ぼさなかった。わずかな例外はあったが、地方言語の衰退に懸念を示す者もいなかった。
また、カルロス主義によってよく知られるような伝統主義的運動ですら、これらの地方言語の擁護をしてはおらず、言語的改革を試みることもなかった。
さらに、スペイン語(カスティーリャ語)を第二言語としていた政治的影響力の強い人物でさえ、言語問題に関して言及することはなく、言語の多様性が提起するに値する問題だとは考えていなかった。
教育の場でのカスティーリャ語使用を習慣づけるという圧力は、19世紀を通して拡大した。1837年には、カスティーリャ語使用を奨励するため、バレアレスにおいて次のような規定が下された。
“各教師は、月曜日、一人の生徒に指輪を渡す。学校内でカスティーリャ語以外の言語を話した人に、その指輪を渡していく。これを土曜日まで続ける。最後に指輪を持っていた人は罰を受ける。始めは軽かった罰も次第に重くなっていく。これにより、カスティーリャ語が簡単に、かつ流暢に話せるようになるであろう。”
この規定が下されてから数年後、スペインの教育システム統制のためのモヤノ法が、教育言語は王立アカデミーによって規定されたカスティーリャ語でなければならないということを規定した。しかし、カスティーリャ語をよりよく教えるためには、生徒になじみ深い言語で行うべきだと考える教育者もいた。特にカタルーニャでは、宗教教育の場においては、なじみ深い言語を放棄するということに対しての抵抗が続けられていた。
長期的な圧力にもかかわらず、実際は19世紀末まで、カスティーリャ語以外の言語が話されていた地域では、それらの言語が日常の表現手段でありつづけた。指輪の措置がとられたあと50年後に出されたある作品の中に、次のような証拠がある。
“マヨルカでは、人口の4分の1(10歳以下の子供を除く)がカスティーリャ語を使うことができると推測される。しかし、ほとんどが大陸から来た人々などであり、マヨルカに定住している人はわずかである。大部分の人々は、カスティーリャ語をよそ者や大陸からのスペイン人との関係においてのみ使用しているだけで、そのような人がいないところでは母語を使用している。これは母語で話す習慣と、その容易さによるものである。”
このような状況は、カタルーニャ、バレンシア、ガリシア、バスク地方の一部において起こっていた。専ら話し言葉のみであり、地方や庶民階級においてその傾向は強かった。しかし、言語が後退することもあった。地方議会での議事録、私信、厳粛な祭典の時の説教は、カスティーリャ語で頻繁に行われるようになった。最も重要な変化は、農民達が自分の子供がカスティーリャ語で読み書きできることに誇りを持ってきたということである。それは、カスティーリャ語が書記言語、権威的行為と同一視されていたからである。
このようにして、19世紀を通じて、カスティーリャ語以外の言語の消滅は時間の問題となった。
【M.M.】
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