接尾辞のラシイと助動詞のラシイ

花 薗  悟

0.はじめに

  (1)あそこに立っているのは太郎らしいね。
  (2)それはいかにも太郎らしい発言だ。

 (1)と(2)のラシイは、それぞれ「あそこに立っているのは太郎と思われる・推量される」「太郎のいいそうな・太郎にふさわしい発言」のような意味をあらわすといえる。上のふたつのラシイは両者とも、「名詞+ラシイ」であり形式上の区別はない。話ことばではこれらのラシイにアクセントの違いがあるとしても、書きことばでは区別されない。にもかかわらず、文章を読みながらこれらがそれぞれどちらに属するかで迷うことは少ない。
 もちろん、ひとつはラシイに前接する名詞の文脈的にもつ意味の違いでこれらが使い分けられているといえる。すなわち「Aラシイ」のAが話し手(書き手、語り手)と聞き手(読み手)との間に「相互理解」されているものであれば、「ふさわしい」ラシイと解釈され、未確認のものであれば「推量」のラシイ注1)と解釈される。
 しかし、「名詞+ラシイ」の例を拾ってみると、これらが形態論的・構文論的にかなり使われ方が異なる、あるいは文法的な区別を持っている場合が多いのではないかということが観察された。ここでは、それがどのような条件に支えられてそれぞれの解釈がなされるかを考察したい。
 なお、「あそこに立っている人は彼らしい」の方のラシイ(いわゆる「推量」のラシイ)を助動詞のラシイと呼び、「いかにも太郎らしいやり方」の方 (寺村1984が 「ふさわしい」ラシイと呼んでいるもの)は接尾辞のラシイという呼び方で言及することにする注2)。

1.形態論的特質
1.1.活用形
活用形助動詞接尾辞
終止/連体らしいらしい
連体らしい(/らしき)らしい
連用らしくφ
過去らしかったらしかった
否定φらし<ない(らしからぬ)
連用形名詞φらしさ

 これらのうち、「らしくない・らしからぬ」「らしさ」(以上接尾辞)、「らしき」(助動詞)はそれぞれ専用の形であり、紛れる事はない。

:らしくない・らしからぬ:
(3)芸術家らしからぬ声(岩城宏之『森のうた』朝日文庫)
(4)西武でまずかったのはたくあんと奈良漬け。こういうのは西武らしくないからか。(嵐山光三郎『素人包丁記2』講談社)

:らしさ:用例中にあらわれたのは次のもの。いずれも人間の性質に関するものであった。
  男らしさ  女らしさ  女性らしさ  子供らしさ  小学校三年生らしさ 
  哲学者らしさ  お兄ちゃんらしさ  ブルース・ジョンストンらしさ

:らしき:
  外国人らしき客     柏らしき葉    当局公認らしきウエア

1.2.前接する名詞
 ラシイの活用形を見たが、ラシイに前接する名詞の種類によっても一義的に意味が決まってくる場合がある。
 まずいわゆる形容動詞(名詞的形容詞、ナ形容詞)につく場合は、助動詞のラシイであり、接尾辞のラシイは見られない。

  (5)とにかく、この地方は、少々酸っぱめがお好きらしい。(妹尾河童『タクアン噛り歩き』)
  (6)電話のやり取りを聞いているとすぐには、無理らしい。(タクアン噛り歩き)
  (7)それでも駄目らしい(景山民夫『食わせろ!』講談社文庫)

  好きらしい 嫌いらしい 豊富らしい 強烈らしい 健康らしい

また、これらと平行するのだが、「だけ」「もの」「こと」といった「形式名詞+らしい」も助動詞のものしか見られない。

  (8)人間はいつの時代も同じようなことを考えるものらしい。
            (中村紘子『ピアニストという蛮族がいる』文芸春秋)
  (9)クラスで本気になって勉強しているのは、どうやらおれだけらしいのだ。
               (筒井康隆『ミラーマンの時間』)
  (10)水を持ってこいといっているつもりらしい。(食わせろ!)

   はずらしい   かららしい   のらしい

また、上のようなものとは異なるが、次のような例も接尾辞のラシイは考えにくいだろう。

  (11)その日の授業中、赤坂はずっと、少し離れた席から、おれの様子をうかがい
  続けていた。気もそぞろで、授業も上の空らしい。(ミラーマンの時間)

  (12)(屋形船で)網を打って見せるのは、雰囲気を盛り上げるためのショウな
  のである。これもまた遊びのうちらしい。(神吉拓郎『たべもの芳名録』)

  (13)聞くと、もちろんタクアンの一人分の量まで決まっているという。・・・・・
  一人分が二十五グラム前後らしい。(『タクアン噛り歩き』)

  (14)もうひとりの作曲科のブスが、こいつと顔なじみらしく
   「オモシロイ男の子だから、紹介するわ」
  と、そいつを呼び寄せた。(『森のうた』)

 以上見たものはラシイの前接する名詞が機能的な意味を中心的にあらわし実質的な意味をあまり持っていない。後でのべるように、接尾辞のラシイは「ふさわしさ」、すなわちあるものに備わっている性質等をあらわすものであるから、なんらかの具体的な意味をもたないものが接尾辞のラシイを後接することはないのである。



2.構文論的に特徴づけられているもの
2.1.終止用法
 後に述べるが、副詞の共起していない場合(あるいは特別な文脈的条件が与えられなければ)、終止用法では助動詞のラシイにほぼ限られるようである。

 (15)「同じよ。一月十日」
  「なんとなくそんな星まわりらしいな。イエスキリストと同じだ」
                   (村上春樹『風の歌を聴け』講談社文庫)

 (16)蚤の裏に面した、崖っぷちの山道。赤坂がこの男にあったというあの場所らしい。  月は出ていたが、海は暗く、ただ波のうち寄せる音だけが響いてきている。(ミラーマンの時間)

 (17)芸大生の白木が、今やスターである。同級生にもう一人タイコがいて、そいつ
  もジャズ気ちがいらしい。(森のうた)

 (18)僕はますますグショグショになる。こいつは今日、よほどの金持ちらしい。
                             (森のうた)

 終止形の形が実際に見られたのは、上のような「いかにも」「いちばん」などという副詞が共起している例である。次のような副詞、

 いかにも いちばん 実に 本当に すごく 全く 確かに 妙に あまり もっとも

は接尾辞のラシイしか修飾することは出来ず、助動詞のラシイと区別する重要な構文論的標識となっている。連体、連用用法においてもこれらの副詞が共起しているものが多い。

  (19)ここでの作業は、いかにも北海道らしい。(たくわん囓り歩き)

  (20)この「いかにもチャイコフスキー・コンクールらしい」とわたしたちに思わし
 めたものは、第一のその参加者たちの顔ぶれの豊かさ才能の多彩さである。
                        (ピアニストという蛮族がいる)
  (21)例えば、ストッキングの色を黒しか認めない中学がある。黒が一番中学生
  らしいと先生方はいう。(週刊朝日921120 )

もちろん、上記のような副詞なしに終止用法で使われている、

  (22)「おやおや、あなたらしくもない」(たべもの芳名録)

  (23)「永尾君らしいわね」(紫門ふみ『東京ラブストーリー』)

のような例はあるが、(20)は先に見た「らしくない」の形であるし、(21)は眼前にいる「永尾」に向かっていっているのであるから、推量の意味で使われているのとは紛れようがない(遠くにいる人影を見ていったのなら推量の意味になろうが)。

2.2.連体用法
 さきほど述べたように、接尾辞のラシイにはここでも副詞と共起する用法が多く、それが標識であるさえいい得るかもしれない。しかし、ラシイが前接する名詞と後続する名詞との意味的な関係が、助動詞のラシイと接尾辞のラシイでは大きく異なる(あるいはそういう場合が大半である)。
「AらしいB」という形をとる場合、接尾辞のラシイと助動詞のラシイではA、Bの意味に違いがあり、助動詞のラシイの場合、指示する対象としてはA=Bという関係が成り立つといえる。
 たとえば、次の例の「街の喧騒らしいざわめき」「監督らしい男」において「街の喧騒」と「ざわめき」、「監督」と「男」とが指示するものは同一のものである、といってもよいであろう。

  (24)へいの向こうからは、とても夜とは思えない明かりが、空に向かって光をはな
  っていた。にぎやかな音楽にまじり、街の喧騒らしいざわめきさえ聞こえてくる。
                           (ミラーマンの時間)
  (25)ビルの玄関や一階の洋装店から、数人の若い男女がばらばらととび出してきて、
  玄関までの両側にずらりと整列した。みんな、派手な色の制服らしいものを着て
  いた。(ミラーマンの時間)

  (26)入り口から少しはなれたところには源さん兄弟が立ち、工事の監督らしい男
  と何か話こんでいた。(アフリカの爆弾)

 一方、ふさわしいラシイでは「日本人らしい発想」において「日本人」と「発想」とは指示対象が異なるものである。「日本人」と「発想」とは異なるものを指示している、
助動詞のようなA=Bの関係はなりたたないと見たほうがよいだろう。
 「いかにもAらしい」というとき、「Aに似つかわしい性質が備わっている」ということをあらわすということは辞書の記述にもあるわけだが、性質をあらわすという以上「AらしいB」のBにはAにふさわしい性質を示す(あるいはそういった性質を暗示する)抽象名詞が来ることが多く見られた。

  (27)手口は、ガラス戸を割って錠をあけて侵入し、指紋をいっさい残さずに現金だ
  けを盗みとる、いかにもプロらしいもので、現場にやたらと煙草の灰をまきちら
  していく。(『デキゴトロジーvol.2』)

  (28)店を一軒持つとやはり店の主人らしい考えになるのかなあ、と年金さんは考
  える。                    (柴田翔『ノンちゃんの冒険』)

  (29)山口香さんは、「私もあの愛敬のある顔が好きなんですけど、格闘技をやって  いくには・・・・・・・・・・・・・・・・」と、専門家らしい意見(『週刊現代』921121)

  (30)マクさんはもとより忙しい。仙人さんも仙人さんらしい用事で忙しいらしい。
                         (ノンちゃんの冒険)
  (31)いかにも西部らしい企画力にみちている。(素人包丁記2)

  副詞らしい働き   『会社本位の国』らしい現象  観光地らしい装い
  今年の冬らしい着こなし  人間らしい活動   人間らしい生き方  
  アメリカ人らしい素直さ  『チャイコフスキーコンクール』らしい激戦  
  高校生らしいつきあい   彼らしい病気との戦いぶり


 Bが抽象名詞ではない場合、次のような例が見られた。

 (32)なおさら彼を道化者らしい顔つきにしていた。(筒井康隆『バブリング創世記』)


 (33)その子は本当に少年らしい、いい目をしている。(作例)

 これらにおける、すなわち一般的な「道化者」とそれにふさわしい「顔つき」、理想的な「少年」とそれにふさわしい「いい目」の関係は全体と部分の関係をなしているともいえる。(27)〜(31)で見た、ものにそなわっている抽象的な性質も全体と部分の関係ということで理解できるともいえる。
 だからたとえばAに固有名詞がきた場合、Bは抽象名詞でないと不自然だろう。

 (34)?彼は山田君らしい、いい目をしている。

 cf.山田君らしい発言  黒金ヒロシらしい漫画が描けなくなったということです。
               (阿佐田哲也『ぎゃんぶる百華』)

 また、2.でふれたのだが、「まだらしい」「十日前後らしい」という場合のラシイは常に助動詞のラシイであった。これは「まだ」「十日前後」といった語が実体的な意味をあまりもっていないため、「ふさわしい」といえるような性質を持ちにくいためだと思われる。ということは接尾辞のラシイを作る名詞はなんらかの実体的意味を持った名詞に限られるということになる。

2.3.連用用法
 ラシクが連用修飾的にはたらく場合、「する」「なる」「ふるまう」など動詞にかかる場合は一義的に接尾辞のラシイになる。

 (35)貞行は、めっきり娘らしくなった待子を見て微笑した。(三浦綾子『塩狩峠』)

 (36)このごろめっきり女らしくなったその肩を、待子はちょっとゆするようにし
  て言った。(塩狩峠)

 (37)「成金なら成金らしくしてやらーーってんで、金髪よ」(『広告批評』92-5:4)

  学生らしくふるまう   先生らしくする。

 助動詞のラシクの場合は、続く部分で推量の根拠が示されているといえる。ただし、動詞にかかるか、それとも「推量」の根拠をあらわしているかどうかという判断は構文論的というよりは既に文脈的な判断の領域に入っているのかもしれない。

  (38)自分の力で、簡単に持ちあげることのできそうな岩なのだが、男はよほど力の
  ないやつらしく、うんうんうめいているばかりだ。(ミラーマンの時間)


  (39)これこそ、少年少女の月刊「文芸春秋」ではないかと思う。とにかく、息子に
  とっては中毒のような雑誌らしく、読み終わっても捨てようとはしない。
                         (嵐山光三郎『男』駸々堂)
  (40)(見知らぬ町へ来て)
   おれはやがて、ふらふらと町の中へさまよい出た。商店街らしく、いろいろな
  店が、ウインドーや店内をかざり立てて、並んでいる。
   洋品店や洋服屋には、今流行しているらしい、例の穴だらけの服がいっぱい並
  んでいた。(ミラーマンの時間)

  (41) (無人島へ仲間と来た場面。その島には)
   いや、今は、哲学君を迎え入れてくれた働き蜂コンミューンの面々がいるのだ
  から、無人島だったと言うべきだろう。むかし噴火した海底火山の頂上の部分ら
  しく、広い海に、ぽっかりと小さな頭をもたげて浮かんでいる。(ノンちゃんの冒険)

 ただし、以下の例は、文脈に委ねるしかないと思われる。すなわち、「彼」が子供なのか「同氏」が実業家なのか「進藤」が男なのか、それぞれを文脈的な知識で補ってやらなければどちらの解釈とも決めかねるだろう。

  (42)「お父さんをどうするの?」
   その男は、返事もしなければ彼(=パデレフスキー:子供)に構おうともしなかった。
  彼は子供らしく何度もたずねた。どうしてたの、なぜお父さんを連れて
  行くの。直ぐ帰してくれるの?(ピアニストという蛮族がいる)

  (43)米大統領選挙の前哨戦に一代波乱を巻きおこしたロス・ペロー氏が、民主党大
  会の最終日にあたる十六日、選挙戦から撤退した。同氏は実業家らしく「事実に
  基づいて判断した」としか撤退理由を説明しなかった。(朝日新聞)

  (44)「進藤さん、OKしたわよ」
  「まあおてがらね」と、治美が目をかがやかせた。
   進藤は男らしく、性格もさっぱりしていて、スポーツマンで、高校中の女生徒
  のあこがれの的なのだ。(筒井康隆『ミラーマンの時間』角川文庫)

3.結論

 以上、述べてきたものをまとめると以下のようになる。

    接尾辞    助動詞

形態論的  らしくない・らしさ │    らしき │
│ │ 終止│  程度副詞の共起 │  程度副詞共起せず │
│統 ├┼┼┤
│ │ 連体│  Aは実質名詞のみ │  Aは抽象名詞も可能 │
│語 │ ├┼│
│ │ │   AラシイB │    AラシイB │
│論 │ │  (BはAの一部) │   (A=Bが成立) │
│ ├┼┼┤
│的 │ 連用│   動詞にかかる │  後文で理由が示される │
└┴┴┴┘

 なお、文法書にあげられている接尾辞のラシイの用例を見てみると、

 鈴木重幸1972  「男らしい男」 「カメラらしくないカメラ」

 寺村1984    ソノ人ハイカニモ牧師ラシイ

 森田1989    男らしいさっぱりとした態度  政治家らしいタイプの人  
         いかにもお前らしいやり口 
         あまりにもひねていて子供らしくない

であり、 上で示した基準に合致すると思われる。
 本稿で観察した限りにおいては、文脈的な条件に頼らなければ接尾辞か助動詞か判別できないものは、終止用法の一部、連用用法の一部であるということになり、ラシイが接尾辞であるのか、助動詞であるのかは専ら文脈的=語用論的な条件によって規定されているとはいえない、ということになる。
 ただし、これらはあくまでも必要条件に過ぎないという見方も出来る。すなわち、形態論的、構文論的な異なりが見られても、専らこれらの文法的な特徴によって接尾辞のラシイと助動詞のラシイが区別されている、ということを必ずしも意味するものではない。文法的な指標があっても、実際は文脈上から、すなわち「Aらしい」のAが話し手−聞き手間で了解済みのものであれば、接尾辞のラシイであり、未確認のものであれば助動詞のラシイと解釈される、上で示された条件はその結果に過ぎないという異論もあり得よう。本稿は統計的な調査をしていないため、そういった意味では上で述べたような形態=統語的な特徴が、助動詞のラシイなのか接尾辞のラシイなのか読み手を誤解させないための方策として文脈上の情報を補強している可能性がある、といったほどの結論を導き出しておくのが無理のないところであるのかもしれない。ただし、くりかえし使用される形式が次第に文法化していくという可能性の一端は示せたと思う。今後、定性的な調査のみではなく定量的な調査をも行っていく必要があるだろうということを新たな課題として本稿を終えることとする。

注1)ここでいう「推量」はいわゆる認識的モダリティ形式といわれるものを指す。ただし、このような用語の用い方には異論がある。三宅1985参照。
注2)これらふたつのラシイは形態論的にも異なった形である。本稿では助動詞のラシイはそれ自体で一語であるが、接尾辞のラシイは前の名詞とあわせて一語であると見る。

<参考文献>
工藤  浩1989 「現代日本語の文の叙法性・序章」 『東京外国語大学論集39』
鈴木 重幸1972 『日本語文法・形態論』むぎ書房
田野村忠温1991 「『らしい』と『ようだ』の意味の相違について」 『言語学研究』10 京都言語学研究会
寺村 秀夫1982 『日本語のシンタクスと意味1』くろしお出版
三宅 知宏1995 「『推量』について」 『国語学』138
森田 良行1989 『基礎日本語辞典』 角川書店
渡辺  実1953 「叙述と陳述」 『国語学』13/14
Leech, J. 1983 Principles of Pragmatics  Longman  (池上嘉彦・河村誉作訳1987『語用論』紀国屋書店)
Levinson, S. 1983 Pragmatics  Camblidge University Press (安井稔・奥田夏子訳1990『英語語用論』研究社)