80、90年代のトルコにおけるテレビの発達

 

テレビは私たちの生活の中で主要な娯楽のひとつである。トルコでは先進諸国に比べてラジオ、そして特にテレビの重要性、影響力が強かった。これにはいくつか理由があるがひとつは読み書きのできる割合が低かったということである。読み書きの能力を必要としないテレビ、ラジオは多くの人に視聴された。もうひとつは、新聞、雑誌が全人口の50%近くを占めるいなかにまで達していなかったということである。新聞、雑誌は発行部数が500万近くと限界があるのに対し、テレビ、ラジオは受信機があれば国のとても広い地域に信号を送ることができるので、かなり広範囲で重要な情報手段となった。

トルコでは現在、ローカルなものを含めると、全国のテレビ局が300局近くある。この現在の状況から考えても、トルコにおいてもテレビを視聴する人の数が多く、また、その内容からも娯楽性の高いものだということがうかがえる。

 そこでまず、現在のトルコにおけるテレビ局から見ていこうと思う。トルコには現在、22の全国ネット局がある。そのうちの6局は国営放送である。(TRT1,2,3,4TRT-INTTRT-GAP)残りの16局が民間放送局である。(KANAL-DStarKANAL-6,7SHOWHBBFLASHATVTGRTMEDYANTVBTVNUMBER ONEMESAJKRALINTERSTAR)この他にも、PTTの有線放送サービスでは、アメリカ(CNNNBC)、イギリス(BBC)、フランス、ドイツ、イタリア、スペインなどの放送も見ることができる。また、有料の映画専用局(CINE-5)もある。

 トルコでこれだけのテレビ局が生まれ、また多くの視聴者を獲得する重要な基盤を築いたのが80年、90年代であった。そこで、これから80年、90年代のトルコにおけるテレビ局の発展と、それらが整備される課程について見ていこうと思う。

 現在も放送を続けている国営放送のTRTTurkiye Radyo ve Televizyon)は1964年に設立された。当時、政治権力者たちは、自分たちに対立する地域または害のあるイデオロギーをもつグループがテレビ・ラジオを利用する恐れから、視聴者が直接これらに参加することに反対していた。そこで、国の政治的安定と国民の統一という目的で重要な任務を引き受けることになったのが放送協会であり、その代表がTRTであった。TRTには、トルコ共和国憲法によってラジオ・テレビにおける独占権が与えられた。TRTは83年にカラー放送を開始し、86年には文化的な2チャンネル、89年には教育とスポーツ重視の3チャンネルを始めた。また、“南東アナトリア計画”を支援するGAP TVも開始し、90年には衛星放送のTRT-INTも開始した。これは92年にはアジアにも範囲を拡大し、大西洋、オセアニア、中国など広い範囲で見ることができるようになった。

 このように、1990年まではトルコでテレビといえばTRTであった。しかし、そこに1990年3月、初めての民間テレビチャンネルがドイツからトルコへ衛星放送を始めた。それが“トルコで初めての民間テレビ”をスローガンとしたStar-1である。トルコにおけるテレビシステムの新しい幕開けであった。このときの大統領は、自分の息子がこのテレビ局に関係していたためにStar-1にあらゆる支援をし、政府の手によってこのテレビ局は合法のものとなった。Star-1はドイツのスタジオから衛星を使い放送を始めた。さまざまな地域の市長は自分の地域にひとつずつテレビ局を作り、この放送を家庭のテレビへ流した。これによって、Star-1の視聴者が急激に増えることとなった。

 Star-1のニュース、娯楽・その他のプログラムの内容は“保守的な”TRTとは対照的に“大胆な”ものであった。その人気とともにTRTに代わる放送として認められるようになってきた。Star-1が初めて成功を収めたのは、第1回サッカーリーグの中継権を得たことだった。これより先にこの権利をつかんでいたTRTとの間にいさかいが生じたが、結局Star-1が勝利し、チャンネルの人気は急上昇した。

 しかし、ときおり政治的な問題が絡んでくることもあった。これを最も表しているのが1991年の選挙である。このとき、これまでのトルコ史上最大のレベルで放送を利用した選挙活動が行われた。選挙に参加する政党はTRTでは無理だったため、Star-1に関心をもった。しかし、Star-1では大統領に背く演説は許されなかった。このため、野党とStar-1との間で緊張が高まり、事態を重く見た高等選挙委員会はこれに介入したが、結局Star-1は独自の放送を行ったのである。

 このようなStar-1の成功の影響によって、これ以後、次々に新しい民間テレビチャンネルが誕生した。

 まず、92年にTeleonが放送を始めた。“あなたの家庭のビヤホール”をスローガンに、より音楽、娯楽を重視しており古いトルコ映画なども放送した。

 続いてこれも92年に放送を始めたのがShow TVである。これはErol Aksoyが所有し、また、トルコの2大新聞HurriyetSabahの協力を得ていた。このチャンネルでは深夜放送(エロティックなもの)、国産のシリーズもの、映画、短いニュース、賞金がたくさん出る番組などが放送され、あっという間に先に出た二つの民間チャンネルを越え、最も人気のあるチャンネルへと成長した。

 このあとも同じ年にはHBBがロンドンから衛星放送を始め、93年にはトルコで初めての有料チャンネルCINE5が始まった。これはShow TVで成功を収めたErol Aksoyが設立したもので、国内外の映画や、重要なスポーツの試合などを放送した。

 このようなチャンネルの誕生の影で、トルコ初の民間テレビチャンネルStar-1は社内のいざこざによって衰え、INTERSTARKANAL-6が生まれた。

 これまでに挙げたような民間のテレビチャンネルが突然成功を収め、宣伝による収入で大きな利益を得ている状況を目の当たりにした新聞社たちは、HurrietSabahのように自分たちもテレビ界に進出することを決めた。これを始めて実現したのはTurkiye新聞であった。93年にTGRTTurkiye Gasetesi Radyo Televizyonu)を設立し、イギリスから放送を始めた。他の民間放送とは違う路線で“心の安らぎテレビ”をスローガンに保守的な放送を行った。

 その後、同じ年にMilliyet新聞が関係するKANAL-Dが放送を開始した。また、Show TVでの協力を終えたSabahATVというテレビチャンネルを設立した。

 この他にも、STVSamanyolu TV)などの、国民規模で宗教的な内容の番組を放送するチャンネルも設立された。このようなチャンネルの数はかなりのものになっていった。また、これと同時に地域的(ローカルな)放送も突然現れた。この例として最大のものはBursaFlash TVである。

 このように、1990年以降、急激にトルコの民間テレビチャンネルが増加したために、この状況を政治的、社会的、技術的に整理する必要が出てきた。

 まず技術的な点では、電磁汚染という問題があった。トルコ国内で使える電磁波には限りがあるにもかかわらず、1993年1月の時点でトルコ全土で110のラジオ、76のテレビ送信装置が存在していた。無秩序な方法で電磁波を使い始めるテレビ局もあり、視聴者の間で、これまでになかった“電磁波汚染”と名づけられた概念が生まれた。

 また、社会的・政治的には放送内容についての問題があった。ニュースは中立であるか、人権は守られているか、礼儀に反してはいないか、エロティック・暴力的な内容は許されるのだろうかなど、多くの問題が浮き彫りになっていた。さらには、コマーシャルが多すぎて番組が成りたたないということもあった。これらは、視聴者も大変心配していたことである。

 このような問題解決のため、テレビ・ラジオ界を整える法律が出されることが強く望まれた。

 そしてついに、1994年4月、3984条のラジオ・テレビ組織と放送に関する法律が議会で承認された。テレビ界をすべて立て直すために、ラジオ・テレビ高等委員会が設立された。こうして、民間テレビ放送が始まって5年目にしてやっと、この管理法規で一連の調整が整った。

 ここまで80年、90年代のトルコにおけるテレビ界の発展の様子を見てきたが、その放送内容の変化を見ても、トルコの人々にとってテレビは娯楽のひとつであることがわかるであろう。Star-1の登場とそれに続くさまざまな民間テレビチャンネルによって、それまでのTRTの時代とは全く異なるテレビの時代がやってきた。音楽や映画、ドラマ、深夜番組、コンテスト番組など、内容が娯楽性の高いものへと変化した。また、法律の制定により、それまでの乱れた状況から、かなり整備されてきた。このように、80年、90年代は、トルコにおける現在のテレビ界の基盤を築いた重要な時期であったといえる。