オスマン朝における娯楽としてのスポーツ:狩猟について

                                    只野千鶴

 

 本稿ではオスマン朝におけるスポーツとして狩猟をあげ、その娯楽性を検証することを目的とする。ここでは特に宮廷娯楽として組織化された、スルタンによる狩猟を扱う。

 狩猟はスルタンに好まれ、最も重要視されたスポーツの一つであり、昔から戦争に必要な技能であったのが、やがてスルタンによる娯楽として変化したものである。その歴史は古く、狩猟に関する慣習の中にはオグズ族から続くものもあり、男子の名前や国旗にもその影響はみられる。また、セルジューク朝の時代には狩猟で有名になったスルタンもおり、特にトゥールル・ベイ(Tuğrul bey)は狩猟の際に民衆に施しを行ったスルタンとして知られている。オスマン朝のメフメト(Mehmed1世の治世になると狩猟の式次第が整えられ、大規模で組織立った狩猟が行われるようになり、資料にも現れるようになる。そしてスレイマン(Süleyman1世の治世になると、宮廷のタカ匠の組織が整えられ、スルタンの狩猟に随行して重要な役割を果たすようになる。

 スレイマン1世の頃のタカ匠の組織は内廷勤務と外廷勤務に分けられ、それぞれ異なった役割を担っていた。内廷勤務のものたちはAv Ağası(またはDoğancı-başı Ağa)を長とする組織を形成し、İç-Doğan Oğlanlarと呼ばれていた。彼らはデヴシルメによって徴集されたのち、タカ狩りの技能に優れたものが選抜され内廷勤務となり、Doğancı Koğusuに居住した。彼らの主な仕事はスルタンとともに狩りに出て、スルタンの命を受けてタカを飛ばすことであった。このほかデヴシルメで集められた子供たちの教育も受けもっていた。また、外廷勤務のものはŞikar Halkıと呼ばれ、Şikar-cı başıを中心とした組織を形成していた。彼らの仕事は狩りで使用する鳥の訓練を行ったり、スルタンの狩猟の準備をすることであった。これらの組織は18世紀初頭まで機能し、その後19世紀半ばまではシンボリックなものとして存在していた。

 儀礼的な狩猟として大規模に行われるものは、通常何日もかけて旅をしながら行われた。この狩猟では多くの役人も随行し、狩猟で有名なスルタンメフメド4世の狩りの際には地元の住民も含め、35千人が参加したといわれている。この儀礼的な狩猟の前には猟場、行程、宿、食事などが綿密に選ばれ、王子やスルタンの母親、宰相、役人などのなかから誰が随行するのか、またその人数が決定された。猟場としてはエディルネ、ルメリなどにあるスルタンの個人的な猟場(Şikargah Selatn)が選ばれた。ここでは民衆が狩りをすることは禁止されていた。また、猟場や宿のなどが決定されると、役人が先遣隊として送られ、宮殿の準備などにあたった。費用は大宰相から命令を受けたデフテルダール(財務局長)がその算出にあたった。スルタンが狩りに出ている際には、大宰相が政務の代行を行うことが多かった。実際の狩りでは、猟場にあらかじめ捕まえて連れてこられた動物を放し、弓で狩りを行った。多くしとめたものにはスルタンからチップが与えられ、たくさん獲物をしとめたときはスルタンの母親や大宰相などに分け前を送ってよろこばせたりもした。この狩猟の目的はスルタンの楽しみのほかに、王子が戦争に参加できる能力を備えているかの見極めをすることにあった。また、狩りのあいだスルタンが民衆から直接訴えを聞くこともあり、ヒュマユンナーメ(Hümayunname)にはスレイマン1世がある女の人の訴えを聞いたエピソードが書かれている。

 これほど大規模な狩猟でなくても、スルタンが希望したときには1、2日の短い日程で行われることもあった。この際には少ない役人が随行し、宮殿から近いスルタンの私庭で行われた。

 このように狩猟はスルタンの娯楽にとっても、またその他の目的でも重要な意味を持っていたものと考えられる。スルタンの狩りに携わる役人は他の軍隊や政務官僚などと同じように、エリート集団としてしっかりと教育を受けて組織化され、狩りの際には重要な役割を果たしていた。このことは狩猟がスルタンの娯楽として、また伝統を踏襲する儀式として重要な意味を持っていたと考えられる。また、スルタン自身も儀礼としてではなく個人の楽しみとして小規模な狩猟を行っており、狩猟はスルタンに最も愛された娯楽の一つであると言えるだろう。特にメフメト4世はAvcı(猟師) Mehmedとして後世にもその狩猟好きが知られている。しかし、yağlı güreş(オイルレスリング)とは異なり、規模の大きなスポーツであったため大衆性は獲得されず、あくまでスルタンの娯楽としての域をでなかったようである。民衆がどのように娯楽を享受していたのか、この問題はさらなる研究が待たれる。

 

【参考文献】

   Atif Kahraman: Osmanlı Devleti’nde Spor : 1995, Ankara, s.105-190