ミニアチュールにみるオスマン朝時代の娯楽
1、ミニアチュール作家レブニーについて
17世紀末エディルネに生まれ、1732年イスタンブルで亡くなったチューリップ時代の有名なミニアチュール画家の一人である。若い頃イスタンブルのトプカプ宮殿でミニアチュールを学び、ムスタファ2世の治下、ミニアチュール作家のトップであるbaşnakkaşの役職につき、その後のアフメト3世の時代もこの職を務めた。彼は紙全体に3次元の空間を表現したり、ミニアチュールの肖像の顔に表情をつけたり、色を多く使いカラフルに仕上げたりと従来のミニアチュールには無い、新しい作品を描いていった。代表作品は、1710年から1720年に描かれた男性・女性の肖像画、オスマン1世からアフメト3世までのスルタンの肖像画、1720年に行われたアフメト3世の王子達の割礼式を描いたミニアチュールがある。
2、Surname(スルナーメ)について
Surnameとはオスマン帝国に特有の宮殿の祭りを記した本である。今回参考にしたSurname-i Vehbi以外に割礼式を描いたものには以下がある。
・Surname-i
Hümayun(1582年の15日間にわたって開かれた割礼式)
・Surname-i
Nabi(ムスタファ2世、アフメト3世の割礼式)
・Surname-i
Vehbi(1720年に行われた割礼式)
・Surname-i
Lebi(1836年の割礼式)
・Surname-i
Hızır(1836年の割礼式)
以後、18世紀、19世紀のSurnameは子孫の誕生、結婚を祝う祝祭を描いたものとなる。
Levniが描いた1720年の祝祭について
1720年の祭はスルタンアフメッド3世の4人の息子の割礼を祝うため、9月18日から10月2日にかけて行われた。この祭のためにオスマン帝国全土から食料などの物資が調達され、また外国も含め、帝国下にある国々すべてに招待状が贈られた。また踊り手や歌い手など、様々なエンターテイナーが集められた。
祝祭の内容
・
花火
花火はほぼ毎日行われていた。花火は、噴水を真似たもの、回転花火、燭台型花火など趣向を凝らしたものが多い。すべてのアトラクションは計画通りに進行され、安全面でも十分な対策が取られていた。
・
職人ギルドのパレード
ギルドのパレードは祭における重要な催し物の一部であった。それぞれのギルドはグループごとにあずまやを作り、そこでパフォーマンスを行いながら行進し、スルタンの御座所の前でスルタンへ贈り物を手渡した。Evliya
Cereviの記録によると、この1720年の祭ではパレードに加わったギルドの数は1109におよんだ。ギルドのグループはそれぞれ宮廷の家来によって先導されており、グループごとにまとまって進んだ。その範囲は、肉屋、ロウソク屋などのものから、地中海、黒海で活躍する商人や船乗りにいたるまで様々だった。このような職人たちを集める事により、オスマン政府は職人たちを中央に統一しようとしていた。
・
割礼
割礼の儀式では年齢の異なる幾人かの王子が共に割礼を受けることが多かった。この1720年の祭においては、スルタンの4人の王子(Suleyman10歳、Mehmed,Mustafa3歳、Bayezid2歳)と共に2人の臣下の息子、そして5千人の貧しい子どもたちもともに割礼を受けた。割礼の儀式の前にはNahilやSugar(Candy) Gardensが莫大な費用を掛けて作られた。