トルコにおける娯楽研究 音楽編

 

              目次

 

          始めに

 

          第一章

 

          第二章

 

          結論

 

          終わりに

 

 

 

             南西アジア課程トルコ語四年

 

                   本多 尋紀

 

                NO 8597032

 

 

 

はじめに: 

 今回、林先生の演習科目において、トルコにおける人々の娯楽文化を調査、

発表する事となった。毎週、各メンバーが担当した分野に関しての調査、報告を行い、トルコの人々の娯楽を分析する事がその目的であった。私は、トルコ人の娯楽の中でも、とりわけ音楽に関して調査を行った。トルコの人々がどのような音楽を聴き、またその音楽には、どのような歴史や社会的背景が存在するのか、文献やインターネットを使用して調査した結果をここに報告したい。

 第一章では、オスマントルコ時代の人々の音楽を取り上げたい。オスマン帝国下において人々がどのような音楽をたしなんでいたか、特にシャルクに焦点を当てて検証し、オスマン帝国崩壊後、人々の音楽がどのように変化していったか、時代を追って報告したい。

 第二章では、80年代以降のトルコ国内におけるポップミュージックについて調査した結果を報告したい。第一章からの流れで、オスマン帝国崩壊後、人々の間にどのような音楽が広まっていたかを検証し、特徴点を挙げたい。

 結論では、第一章、第二章を踏まえた上で、トルコの音楽がどのような発展を遂げたのか、またこれからどのような発展をとげるのか、その可能性を探りたい。

 おわりに、今回の報告に用いた参考文献や、インターネット上のサイトを記載したい。

 

 

 

第一章: オスマン帝国における音楽文化

 

  オスマン帝国下の人々にとって音楽といえば、シャルクに代表される、いわゆるオスマン音楽と呼ばれるものである。ここでは、このオスマン音楽に的を絞って報告したい。

 オスマン音楽には、大きな特徴があった。それは、楽譜が存在しないと言う事である。

これは、当時のアラビア地方や、ペルシャ地方にも共通している事であった。      

  それゆえに、オスマン音楽は、アラビア地方からの輸入音楽でありオスマントルコ独自の音楽ではないという意見もあるが、オスマントルコにおいて繁栄した音楽文化である事には間違いないので、ここではその意見は取り上げるのは避けたい。

 楽譜が存在しない文化圏では、口頭伝承が、音楽を広める唯一の手段である。オスマン

帝国も例外ではない。音楽の弟子と師匠が一対一の稽古を行う事によって音楽は伝承されていったのである。

 有名な歌い手の下についた弟子は、師匠が口ずさんだ歌を師匠の目の前でくり返し歌って、さらに師匠の修正を受けた後に、再び歌うという大変地道で古典的な稽古によって、一つの歌を習得していくのである。

 勿論師匠が弟子に教える事ができるのは、自分が体得している歌のみであるので、師匠には、大量の歌をおぼえている人物や、希少で難易度の高い歌をおぼえている人物しかなれないのである。また、非常にたくさんの歌をおぼえていたり、難しい歌をおぼえる事が

歌い手の名誉であった。更に、師匠が自分の作品を創っても、それを記録する事はできなかったゆえに、沢山の弟子を抱える師匠ほど、自分の作品を世に広める事ができたのである。

 

 

 こうして考えれば、オスマン帝国における優れた音楽家とは、

 @ 大量の歌をおぼえている

 A 難易度が高く、希少な歌をおぼえている

 B たくさんの弟子を抱えている。

 ということになる。

 

 ところで、上記Aに“希少”という言葉がある。オスマンの音楽家達にとっては、希少な歌を歌えるのも重要な事であったのである。これは一見、たくさんの弟子を抱え、世の中に自分の歌を伝承していくというBの条件に矛盾しているかのように考えられるが、実際この希少な歌を習得して、だれにも教えずに抱え込む師匠も存在したのである。

 オスマンの音楽家たちは、誰しもが多からず少なからず、この“機密保持”的な性格を持っていた。弟子達がこのような歌の稽古をつけて欲しいと願い出ても、すんなりと教える師匠は殆どおらず、まず弟子に宿題をだし、弟子の力量を見極めた上で稽古をつけるか

どうか判断するのが一般的であった。すなわち、弟子にも一定の資格が必要だったのである。

  また、難しい歌をおぼえている事が、師匠の条件であったが、逆をいえば、難しい歌

を習得していれば、誰でも師匠になれたのである。音楽家の中には、ある師匠の弟子であると同時に、何人かの師匠であった人物も存在した。また、有名な音楽の師匠が、別の音楽家のところに弟子入りするといったケースもあった。

 このように、オスマン音楽における師匠と弟子という関係は、例えば日本の音楽家のように固定化され、一生涯師匠は師匠であり、弟子は一生涯弟子であるというようなものではなく、大変柔軟でパラレルで、誰もが師匠になり得、また誰もが弟子になることがある

という特徴を持っていたのである。

 そして、オスマン音楽は沢山の師匠と弟子の稽古を通した交流によって、レパートリーの集合と、再生産を経て、受け継がれ、発展していったのである。

 

 オスマン音楽の発展は、上記のような構造によって支えられていた。つぎに、オスマン音楽が実際にどのような場所、どのような社会環境で伝えられていたかを、具体的に述べたい。

 

 オスマン音楽家達は、歌を歌ったり、音楽を教える事で生計を立てていたわけではない。音楽形のほとんどは、別の職業を本職として持っていた。

 それは教団の長老である。音楽家たちの経歴をみれば、宗教的地位を持っている人物がその大半を占めている。幼い頃から、『コーラン』の朗唱係を務め、美声を買われて歌を

はじめた音楽家たちが非常に多い。この事から、オスマン音楽と宗教が密接なかかわりを持っていた事がわかる。実際に歌の稽古が行われる場所も、教団の道場である場合が多かった。教団員だけでなく、教団と全く関りのない人間も、歌を習いに、教団道場に通ったのである。これは、師匠と弟子の関係が非常に柔軟であったことや、様々な民族を緩やかに統治した当時のオスマン帝国の気質を鑑みれば、想像に難くない。

 このほかにも、弟子が師匠の家に赴いて稽古をつけてもらったり、カフェで練習するというケースもあったが、概音楽教育は教団道場で行われる事が多かったと考えてよいのである。

 このように、オスマン音楽の伝承には、教団というものが深く関っていたのである。

よって、教団道場が閉鎖後、オスマン音楽が衰退するのは当然の事であった。また、オスマン音楽が教団と密接な関係を持っていた事から来る、オスマン音楽のタブー視、そして

新しい国民音楽としての、オスマン音楽ならぬ、トルコ民族音楽の構築へと時代は変遷する。オスマン帝国崩壊後、オスマン音楽がどの様な変化をたどったかを以下に述べたい。

 

 教団の閉鎖後、オスマン音楽は一挙に衰退の途をたどった。稽古場、演奏の場としての教団道場が消失し、目下オスマン音楽はコーヒーハウスやコンサートで演奏されるにすぎなかった。当然コストが掛かるので、優れた音楽より、より売れる音楽が残っていった。

また、当時始まったラジオ番組の、空いた時間の埋め合わせに使用されたりすることで、 「聞かれる音楽」 という特徴を持つようになり、師匠と弟子によってかつて盛んに行われた「音楽の伝承」は、すっかり影を潜めてしまった。

 更にズィヤ・ギョカルプ等、民族主義者が、

 

「オスマン音楽は外来の音楽であり、トルコ民族の国民音楽ではない。我々にふさわしい国民音楽は、トルコ民謡に西洋音楽の和声を乗せた形で創造されるべきである」

 

  と主張した事から、オスマン音楽が、政治的イデオロギーによって、強制的に分類され、トルコ音楽界の、隅のほうに追いやられてしまったのである。

 

 このように、オスマン帝国下の音楽は、師匠と弟子による相互交流によって発展したが

教団閉鎖と、民族主義的政治的潮流に屈し、現在は人々に疎遠な音楽になってしまっているのである。

 

 

 

 

 

第二章 80年代以降のポップミュージック

 

 第二章では、80年だい以降、トルコの人々にどのような音楽が広まっていったか、主にポップミュージックに焦点を当てて調査した。以下にその結果を報告する。

 

 80年代に画期的な試みがなされた。ユーロヴィジョンである。これはヨーロッパ各地域の交換放送であり、トルコ国内にも、ヨーロッパ各地の番組が流されるようになった。

勿論、西洋の音楽も頻繁に流されるようになった。しかし、西洋音楽がトルコに流入してきたとはいえ、トルコ国内のポップミュージックシーンは、あまり発展しなかった。

 その原因の一つが、海賊版の横行である。当時カセットテープはレコードの数分の一の値段で買う事ができた。また、各レコード店には、カセット録音設備が完備されていたために、テレビ放送を録音した海賊版が流通しており、正規のカセットやレコードを買う人々は殆どいないというのが現状であった。このように音楽家の利益が全く無視されていた状況では、新しいカセットのリリースは、困難を極めた。

1980年代以降、様々なポップスター達が登場したが、真の発展は1990年代に入ってからである。KyahanSezen Akusu はその代表例であろう。彼らの音楽は、国民に広く受け入れられ、大ヒットとなり、それまでは西洋の音楽しか掛からなかったディスコにまで、ダンス音楽として進出した。また、24時間の音楽番組が、2チャンネル開設され、ポップミュージックが広く人々の間に広まるのに一役かった。

 また政治的な流れを組むポップミュージックも1985年あたりから勢力を伸ばし始めた。クルド支援を掲げたCem Karacaをはじめとして、1990年代には、ロックを取り入れたYasar Kurt 等の活躍によって、政治的音楽は確立されてきた。

 このほかに、Islami Pop というジャンルもある。文字どおりイスラム教を信仰する内容を歌ったポップミュージックである。歌手は、お金のためではなく、アッラーの為に歌を歌うといっているが、暮らし向きは普通の人とは比べ物にならない程、良い。

 注目すべきは、政治的音楽・Islami Pop の両方に、Hasan Huseyin Dermirelという一人のディレクターが関与している事であるが、現時点では詳しい事はわかっていない。

 

 このように、トルコのポップミュージックは、1990年代以降になって、ようやく日の目をみてきたと言う感がある。政治的音楽やIslami Pop などの音楽の多様化も、ようやく現れはじめたと言っていいのではないか。

 

 

 

 

 

結論 :

 

     オスマントルコ時代の音楽、いわゆるオスマン音楽は、人々の交流を土台にしながら発展したが、政治的イデオロギーによって抑圧され、タブー視され、現トルコ社会では、活発に演奏されたり、稽古が行われると言うような事はなくなってしまった。

 また、80年代以降のポップミュージックも、海賊版の横行によって発展を妨げられ、

ポップスター達が活躍を始めるのは、90年代になってからである。

 このように、トルコは一見、音楽発展途上国のようにみえる。しかし、近年、政治的音楽やIslami Pop など、一昔前は弾圧され、発禁処分に付されていたようなジャンルの音楽が脚光を浴びるようになってきた。このような音楽の自由化は、今後一層進むと考えて間違いないであろう。そうすれば、すっかり影を潜めたオスマン音楽が再び注目を浴びるときがくる可能性もある。

 今後のトルコ音楽事情は一層目が放せないであろう。

 

 

 

 

 

 

 

終わりに

 

 参考文献

 

   ・ ジェム・ベハール著 新井政美 訳

   『トルコ音楽にみる伝統と近代』、東海大学出版会、1994

 

   ・ 日本イスラム教会 監修

   『イスラム辞典』

 

 

 参考サイト

 

   ・ http://www.geocities.co.jp/Hollywood/5758/main.html

 

   ・ http://www.na.ram.or.jp/junoi/stories/turky