トルコにおける娯楽研究 スポーツ編

 

     目次

 

  はじめに

 

  第一章 伝統的スポーツ

 

  第二章 スポーツの近代化

  

  第三章 国民的スポーツ

 

  第四章 その他のスポーツ

 

  終わりに

 

               南西アジア課程トルコ語四年

  

               本多 尋紀   

               NO 8597032

 

 

 はじめに:  

 

今回、トルコ国内の娯楽調査に関して、特にスポーツの分野の娯楽を報告する事となった。第一章では、トルコの伝統的スポーツを紹介し、第二章では、トルコにおけるスポーツの近代化に焦点を当てる。第三章では、現在トルコ国内において最も人気のあるスポーツ、サッカーについて、その歴史と現在の様子を報告する。また、第四章ではトルコ観光省ホームページなどを参考に調査したトルコ国内のレジャーの様子を若干紹介したい。おわりに、今回の報告を行う上で有効であった文献や、インターネット上のサイトを紹介したい。

 

 

 

  第一章 :伝統的スポーツ

 

 トルコ国内において、伝統的なスポーツのうち、私が調べえた範囲で紹介したい。

まず一つめは、ヤールギュレシュである。全身にオリーブオイルを塗って、選手が相撲をとるという、一風変わった競技である。その歴史は古く、遊牧民族の時代に、そのルーツをさかのぼる事ができる。オスマン帝国では、スルタンの下御前試合などが行われていた。

トルコの伝統的スポーツの筆頭であるが、専門家の高井氏が、より詳細な調査・報告をされているので、ここでは割愛させていただきたい。

 

 ふたつめはジリットオユヌという競技である。これは馬術を競う競技である。元々は東部アナトリアで、半農反牧の人々が、夏営地で行っていたものである。互いに馬に乗って

相手方の騎手に木製の槍を投げ付けるという、遊牧民らしい、荒々しいスポーツである。

 

 三つめは、ラクダレスリングである。イズミル・マニサ・デニズリ等の都市で、12月から3月の間に行われていた。発祥は不明であるが、ラクダを使って隊商(キャラバン)を組むようになった時代には、少なくとも存在していたようである。

 この競技は、ラクダを十分間程闘わせる。それぞれの選手ラクダには、競馬馬と同じようにラクダ主が付き、資金面で援助する。また、選手ラクダは、血統を重んじ、代々育成される。ラクダレスリングが開催されると同時に、賭博も開催され、その収益は、賭博を開催したそれぞれの組織が、公的に活用した。また、勝ったラクダのオーナーには、商品として、じゅうたんなどが贈られた。

 現在も、伝統的な行事として、ラクダレスリングは開催されているようである。

 

 四つめは雄牛レスリングである。これは、六月の終わりの週に、伝統的祝祭として行われた。異なった地方からきた牛が、首の太さによって階級別に分類され、階級毎に優勝を争った。ラクダレスリングと同じように、雄牛にもオーナーが存在し、また闘牛の際には

賭博も行われたようである。

 以上が、私が調査した、トルコの伝統的スポーツである。ヤールギュレシュやジリットオユヌは遊牧民以来の伝統を受け継いだ、荒々しい競技であり、それにたいしラクダレスリングや雄牛レスリングなどは、純粋なスポーツと言うよりも、ある種の祝祭的要素を含んだスポーツである事がわかる。

 第二章 :スポーツの近代化

 

 第二章では、オスマン帝国以降、スポーツがどのように近代化していくかを述べたい。

 

 人々の間のスポーツといえば、それまでは第一章に挙げたようなものが主であった。

この状態に変革をもたらしたのは、Hobart Pasa と呼ばれるイギリス人の海軍長官であった。 彼は、海兵隊の訓練を目的とした、The Imperid Yachting And Boating Club

1867年に設立した。当時オスマン帝国は、近代化を推し進めるために、多くの外国人を要人として迎え入れていた。その一人であったHobart Pasa が設立した同クラブが

オスマン帝国史上、初のスポーツクラブである。当時のスルタンは、アブドゥル・アズィズであった。

 1890年以降、スルタン アブドゥルハミト二世の時代には、イズミル・イスタンブル・

セラーニキ等の各都市に、次々とスポーツクラブが誕生していった。

 

 Garatasaray Lisesiは、近代的教育を目的として設立された学校である。授業はフランス語で行われ、オスマントルコの近代的教育機関の代表である。このGaratasaray Lisesi

も、近代的スポーツの輸入に一役かったのである。同校では、体育の授業も外国人教官によって行われた。また、同校出身の Faik Hoca は、トルコ人初のスポーツ教官として、トルコのスポーツの近代化に貢献した。彼はベルリン、ライプツィヒ、パリ、ウィーンなどのヨーロッパ各都市を精力的にまわり、様々な近代的スポーツを学び、それらをトルコに持ち帰った。

 このほかにも、競走馬の品質向上を目的とした競馬教会が設立されたり、Velo Sporというフランスのスポーツ新聞がトルコ国内に持ち込まれたり、また、二人のアメリカ人が自転車でヨーロッパを横断して、イスタンブルを目指すという記事が新聞に載ったために、トルコ国内で自転車が脚光を浴びるなど、新しい、西洋スポーツへの関徐々に高まっていった。

 

 このようにして、トルコのスポーツはオスマン帝国以降、次第に近代化すなわち西洋化していったのである。

 

 

 

 第三章 :国民的スポーツ サッカー

 

 現在、トルコの国民的スポーツといえばサッカーである。しかしオスマン帝国では、サッカーというか、ボールを使った遊びは禁止されていた。これには訳があった。

 伝説によれば、敵勢力が Hazret Huseyin というオスマンの将軍の首を斬った後、彼の頭を持ち帰り、ボール遊びのようにして蹴っていたらしい。このうわさを聞きつけたオスマンの長が、ボールと将軍の頭部をダブらせ、ボール遊びを忌み嫌い、結果としてオスマン帝国では、ボール遊びが禁止されたのである。

 しかしこれは、伝説であり、詳細な事実はまだわかってはいない。

 

 サッカーは、 Ordu Ve Mekteblerde Fotbol Dur という書物によって、オスマントルコ帝国に初めて紹介された。これは、パリに留学していたトルコ人の学生が、パリの人々がサッカーに熱狂するありさまを見て書いた本である。

 1890年代のトルコでは、外国人達がサッカーを草原で楽しむ程度であった。この光景は

イズミル・イスタンブル・セラーニキ等の都市で見られた。

 1990年前後に、Kadikoyuで、外国人チーム Moda が結成された。これにたいし、トルコの若者はこっそりサッカーチームを結成した。余談ではあるがこのチームには、有名な大音楽家 Nuri Bey も在籍していた。

 この流れを汲んで結成されたのが Siyah Coraplilar Kulupuである。これがトルコ初のサッカーチームとされている。

 この次に、前述のGaratasaray Liseiの若者達がGaratasaray Fotbol Kulubu を結成した。Garatasaray Kulubu はまだ弱く、ルーマニアチームとの試合では0ー13という大敗北を喫していた。

 

 現在トルコサッカーは大変な人気を誇っている。一部リーグ18チームのうち、強い

ガラタサライ・フェネルバフチェ・ベシクタシュ・イスタンブルスポルが圧倒的人気を誇っている。ガラタサライには、ルーマニア代表のポペスクとハジ、フェネルバフチェには、ナイジェリア代表のオコチャなど、レヴェルの高い選手が在籍している。

 

 

第四章  :その他のスポーツ・レジャー

 

第一章、第三章で紹介したスポーツのほかにも、様々なスポーツが存在する。第四章では

トルコ観光省等のホームぺージなどから入手した情報を、わずかではあるが記載したい。

 

 トルコ国ないでは、ヨットやクルージングをエーゲ海やアンタルヤ湾で楽しむ事ができる。また、ザマントゥ、クズルルマク、チョルクなどの多くの河川ではラフティングも盛んである。カッパドキアでは、古くから乗馬が盛んに行われており、タウルス山脈周辺の高原では、ハイキングがメジャーなスポーツになっている。

 またブルサでは三月に国際スキー大会が開かれ、ウィンタースポーツも人気がある。

 

 

終わりに : 

 

 参考文献・ホームページ 

 

 Atif KAHRAMANOsumanli Devletinde Spor、T.CKulturBakanligi

 トルコサッカー教会 http://www.tff.org/

  トルコ文化省    http://www.kultur.gov.tr/

  トルコ観光省    http://www.turizum.gov.tr/

  トルコ検索エンジン http://www.list2000.com.tr/