南・西アジア課程 トルコ語専攻

学籍番号8598021 江原 翠

 

「オスマン帝国の庶民娯楽―HAMAM―」

 

○はじめに

 オスマン帝国から現在にまで続くトルコの公衆浴場:ハマムは庶民生活の中でどのような役割を果たしていたのだろうか。入浴文化の起源である

ヨーロッパとの関係を混ぜながら167世紀のオスマン帝国でのハマムの様子を見てみよう。

 

1.起源

紀元前5世紀頃のギリシャ人はすでに公衆浴場を持っていた。紀元前2世紀ごろになるとローマ人にも洗浄だけを目的とした浴場が見られるよう

になった。紀元前1世紀になると「洗浄」だけではなく娯楽や社交の場所としての公衆浴場へ変化した。3世紀頃からこの入浴文化は衰退し始めた。その後、入浴文化は西ローマ帝国では8~9世紀頃まで衰退しつづけ、一方東ローマ帝国では小規模に存続した。そしてオスマン帝国は東ローマ帝国で存続していた入浴文化を継承し、独自の「ハマム」文化として発展させた。トルコのハマム(Hamam蒸し風呂を意味する。アラビア語の「暖める」「熱する」を意味する「ハンマ」から派生したトルコ語である。この種の入浴文化はイスラーム文化圏で広く見られる。これらのほとんどがローマ人の公衆浴場と類似した構造を持っているとされる。

 

2.ハマム

@     構造

まず始めに、ハマムの構造を説明しておこう。トルコのハマムは男女別々に建設されているが、1つのハマムを時間で区切りながら使用する場合もある。男性用の入り口が通りに面しているのに対し、女性用は道の奥に設けられている。男女のハマムの大きさは男性のほうが若干大きい場合があるが、ほぼ同規模といえる。ハマムは熱の効果的利用のため半地下に建設される。浴室は丸屋根(ドーム形)を持ち、その丸屋根には明り取りのための丸窓がはめ込まれている。浴室の床には熱の伝導力があり防水性に優れた大理石が使われている。ハマムは基本の4室から構成される。ジャーメキャーン(脱衣所)、ソウクルック(冷浴所)、ウルクルック(温浴室)、スジャックルック(熱浴室)の4つである。

イスラーム文化圏ではこの4室構成は次のように解釈される。イスラーム医学の4体液説(体内の4要素の均衡が健康を、また混乱が病気をもたらすという考え方)を取っており、人体が乾湿熱冷の性質の2つずつの組み合わせからなるとされていた。ハマムの4室構造もそれに呼応していると言われていた。しかし、ローマ時代からこの4室構造がとられていたことを考慮すると、イスラーム医学に依拠したイスラームの入浴文化の特徴と言うよりはローマの入浴文化の継続ともいえるのではないかと思う。

4体液説

体液

血液     黄胆汁   黒胆汁    粘液    

季節

春      夏     秋        

性質

熱湿     熱乾    冷乾       冷湿

部屋

ソウクルック   スジャックルック  ジャーメキャーン     ウルクルック

 

次に入浴方法について見ていきたい。お客は脱衣室で衣類を脱ぎ、浴室本体へ入る。のように段階を経て体を温め、発汗させる。スジャックルックには洗髪、垢すり、マッサージ、脱毛などの世話係(三助)がいる。ここではギョベックタシュ(臍の石)と呼ばれる中央にある大理石の石の上に寝そべり、三助に垢すりやマッサージを行わせる。但し、三助にはチップを払うため、お金が無い者は自分で洗う。(16世紀のチップ代は1~4アクチェ。大工や石工の職人の日当が10~12アクチェ)この後は自分の好きな温度の部屋へ移る。最後に脱衣室へ戻る。理想の入浴方法はソウクルック→ウルククルック→スジャクルック→ウルククルック→ソウクルックであり、1回の入浴だけで4~5時間費やす場合もあったといわれている。上記の4体液説に従い、各自が増強したいかによりそれぞれ適した部屋で長い時間を費やしていたようである。

 

A     ハマムの目的

「清潔は信仰の半分」と考えるイスラーム教徒にとって体を洗浄するためのハマムは神聖な場所だったといわれる。ハマムは比較的モスクの近くに建設されていた。木曜日あるいは金曜日の午前中は礼拝前に体をきれいにしようとする人たちで混雑していたようである。しかし、ハマムは体の洗浄だけでなく、娯楽や社交場の役割も持っていた。人々はハマムをどのように楽しんでいたのだろうか。

人々の楽しみは浴室よりも脱衣室にあったといえる。浴室から戻って来た人々は脱衣室でおしゃべり、情報交換、新しい友人作りをして楽しんでいた。チャイ(トルコ茶)、コーヒー、弁当、果物などを持ち込み飲食するものや、男性の中には水パイプを吸うものもいたようである。詩の贈答、楽器演奏、演劇なども行われ、娯楽や社交のみならず、文化的施設の要素も持っていたといえる。

 ハマムは特に女性にとって娯楽、社交施設であったといわれる。それはイスラーム文化で、一般的に女性は社会から隔離される傾向が見られるが、ハマムは唯一女性に開放されていた外出先であったからである。そのため女性は友人、隣人、子供を連れ立って集団でハマムへ足を運んでいた。女性がハマムで「息子の嫁探し」やお互いの家族、親戚の女性だけを招いて「婚前の祝宴」を開いていたことからも、ハマムが女性にとって特別な娯楽施設であったことがうかがわれる。

    

3、ハマムの誤解

 ヨーロッパではは入浴文化を123世紀ごろまで入浴の習慣が失われていた。12世紀以後に公衆浴場が再び姿をあらわすが 16世紀後半以降燃料木材の値段の上昇、伝染病の流行等の理由から衰退した。入浴習慣が途絶えたヨーロッパ人に入浴文化を復活させたのがオスマン帝国であった。1679年のロンドンでトルコ人商人が浴場とコーヒー・ハウスが一緒になった「ロイヤル・バーニョ」を開いた。17世紀後半にオスマン帝国が軍事的縮小しめるとヨーロッパはオスマン文化、イスラーム文化を趣味の対象として取り上げはじめたようである。ロンドンでは30あまりの「トルコ風」浴場が作られていたった。しかし、この施設のほとんどが売春を兼ねた営業をしていたらしい。そのために本来は健全なはずのハマムがいかがわしい場所として認知されることになった。

 19世紀後半からは売春のイメージが少しずつ払拭され、健全な浴場が姿を現すようになった。これには外交官や旅行記作家の影響があったようである。また、1867年のパリ万博、1873年のウィーン万博でオスマン帝国はモスクなどと共に「トルコ風」浴場を建設した。これらも健全なハマムのイメージをもたらすのに一役かっていたのではないかと思う。

 

 

4、現在のハマム 

 現在のトルコでもハマムは存続している。しかし、利用者は少なく数も減少傾向にある。ハマムが衰退傾向にあるのは各家庭へのシャワーの普及が大きいと思われる。ハマムは日中に開店していて、78時には店じまいをする。つまり、勤務時間と同じであるために、普段利用することは不可能に近い。また衛生面に不安を持っている人もいるようである。トルコ人の中でもハマムへ行ったことがある割合は非常に低い。かつてヨーロッパの入浴文化を復活させたハマムは西洋文明に取ってかわられようとしている。

 

 

○おわりに

 以上オスマン帝国でハマムが庶民、特に女性の娯楽、社交施設として機能していたことを見てきた。またイスラームの信仰ともかかわりがあることがわかった。「娯楽」と「信仰」という一見相反する目的のための施設であることから、ハマムはもっと多様な役割を果たしながら庶民生活に溶け込んでいたのではないかと考えた。参考文献ではトルコ以外のイスラーム文化圏(チュニジア、イラン、エジプトなど)の入浴文化を紹介している。しかしこのレポートではオスマン帝国、しかも現在のトルコの領土を中心に書いたため、それらは表記しなかった。イスラーム文化圏での公衆浴場へと見方を変えると新たな側面が見えてくるのではないかと思う。

 

参考文献

 日本イスラム協会監修『イスラム事典』平凡社 1998

 杉田英明『浴場から見たイスラーム文化』山川出版社 1999

 八尾師誠編『銭湯へ行こう・イスラム編―お風呂のルーツを求めて』TOTO出版 1993

 

図版出典

 HASKAN, Mehmet Nermi, İstanbul Hamamları.  İstanbul: TTOK Yayınları, 1995.