要訣・朝鮮語
I-고 있다 と III 있다


 存在詞「있다 イッタ」(いる)を補助用言として用いる代表的なものに「I-고 있다」と「III 있다」がある。どちらも日本語に訳すと「…している」のようになるのだが、この使い分けも初めのうちはそう易しくない。瀬戸内地方や九州北部の方言ではこれと似た「…しよる」と「…しとる」の区別があるが、「…しよる」と「…しとる」の区別がない方言を話す日本語話者にとっては理屈で覚えるしかない。

 1.I-고 있다は「動作の継続」、III 있다は「動作の結果の継続」 

 大ざっぱに言って、I-고 있다が動作の継続を表し、III 있다が動作の結果の継続を表す。「動作の継続」とは英文法などによく出てくる「進行」と同じで、動作がまさに行なわれている最中だということを表すものである。  それに対して「動作の結果の継続」とは、動作自体はすでに終わっていて、動作の結果として生じた状態が続いているということを表すものである。  「座っている」というのは「座る」という動作をすでに終えていて、座ったことによりその状態(座った状態)が続いているということを表している。同様に「来ている」もすでに到着しており、来おわったことによってその状態(来た状態)が続いていることを表している。
 もし、上の「III 있다」を「I-고 있다」で表すとどうなるか?
 「I-고 있다」は動作がまさに行なわれている最中であることを表すのだから、「앉고 있다」は「座る」という動作を今まさにしている最中だということになる。スローモーションか何かを見ていて、椅子に腰をおろしかけている様子を見て「앉고 있다」と言うかもしれない。2つめの「오고 있다」の場合は、移動の真っ最中という意味になる。電車に乗って目的地に向かっている人から電話がかかってきたら「오고 있다」と言えるだろう。

 2.他動詞はIII 있다と言えない 

 実は全ての動詞が「I-고 있다」と「III 있다」の両方の形を作ることができるわけではない。動詞には大きく分けて自動詞と他動詞があるが[注]、自動詞は多くが「I-고 있다」と「III 있다」の両方が言えるのに対し、一般に他動詞は「III 있다」形がない。これは実に不思議なのだが、そうなのである。だから「먹고 있다 モッコ イッタ」とは言えても「(×)먹어 있다 モゴ イッタ」とは言えないのである。
[注] 自動詞とは、客体を表す「…を」が前に来ない動詞を指す。朝鮮語ならば客体を表す「-를/-을」が前に来ない動詞が自動詞である。他動詞とは、客体を表す「…を」が前に来る動詞を指す。朝鮮語ならば客体を表す「-를/-을」が前に来る動詞が他動詞である。
 ところが、他動詞で動作の結果の継続を表す場合がないわけではない。「着ている」、「抱いている」、「持っている」のように自分自身に対する動作(再帰的動作)を表す動詞の場合がそれである。「着ている」は「着る」という動作を終えて、その結果、服を着た状態が続いていることを表している。こういうとき、朝鮮語ではどう言えばいいのか?実は、このような場合も、「III 있다」ではなく「I-고 있다」を用いるのである。  しかし待てよ。じゃあ、こういう動詞で「まさに着ている最中だ」という動作の継続を表したいときはどうするのだろうか?正解は、これも「I-고 있다」で表す。つまり自分自身に対する動作を表す動詞の場合は動作の継続も動作の結果の継続も同じ言い方をするのである。  意味が違うのに同じ形を使っていて混同しないのだろうか、と他人事ながら心配してしまうが、よくよく考えてみると、日本語でも両者は同じ「…ている」を使っている。もしどうしても区別したいときは、動作の継続を「I-는⌒중이다」(…している最中だ)に置き換えればよい。
 3.その他もろもろのこと 

 ふつうの日常的な会話では、上のことで充分ことが足りるが、もう少し踏みこんで見てみよう。
 いわゆる書き言葉では、自動詞の「III 있다」の代わりに「I-고 있다」がよく用いられる。いかめしい文体では「I-고 있다」が好まれるようである。
 この場合、文字どおりには「今まさに論じられつつある」という動作の継続だが、「論じられた状態だ」という結果の継続としても用いられる。論文などを見ると、このような「I-고 있다」をよく見かける。
 また、他動詞には「III 있다」がないといったが、1語だけ「III 있다」形が存在する他動詞がある。それは「쓰다 スダ」(書く)である。この「III 있다」形である「써 있다 ソ イッタ」は「書いてある」という意味になる。「書いてある」は「書かれている」ということだ。よって「書かれる」という受身形「쓰여지다 スヨジダ」の「III 있다」形である「쓰여져 있다 スヨジョ イッタ」とも言うことができる。
 ここで、目ざとい人は日本語が「…ている」でなく「…てある」となっていることに気づいたことだろう。日本語では状態の継続を表す言い方として「…てある」という形も存在するのだが、実は朝鮮語には「…てある」に当たる言い方がもともとない。その場合には「…されている」というしかない。  上の2つの例では「열리다 ヨリダ」(開けられる)、「박히다 パッキダ」(打たれる)という受身形の動詞が用いられている。受身の動詞は前に「を」が来ないので一種の自動詞だ。だから自動詞でもある受身の動詞に「III 있다」をつけて結果の継続を表現するわけである。
 場合によっては「III 두다 ドゥダ」(…ておく)の過去形を用いて「…てある」を表すこともある。

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