ローマ字による朝鮮語の表記は,古くは欧米人が朝鮮と接触を持つことにより散発的に行なわれた。開化期には朝鮮語関連書籍の出版とともに,まとまった形でのローマ字表記が見られるようになる。その後,各方面で体系的なローマ字表記が試みられ,朝鮮解放・南北分断後は南北朝鮮の政府機関がそれぞれローマ字表記法を制定し現在に至っている。
目次
ここでは体系的に整備されたいくつかのローマ字表記法を概観する。
1939年にアメリカ人のマッキューン(
朝鮮人による最初の体系的なローマ字表記法は,朝鮮語学会(現・ハングル学会)が1940年に作成した「朝鮮語音羅馬字表記法である」。これは同年制定の「外来語表記法統一案」の付録として定められたものであり,母音において「ŏ」のような補助記号が用いられている。原則的に発音を写す転写法であるため,音韻変化を起こす場合は変化後の音を表記するのだが(例えば濃音化:신다 sindda [ɕintʼa]「履く」),一部は変化前の音で表記する(例えば鼻音化:밭만 badman [panman]「畑だけ」)。
南北分断後は,韓国と共和国においてそれぞれ別個にローマ字表記法が制定された。まず,韓国における表記法を見ることにする。
正式名称は「한글을 로오마 자로 적는 법(ハングルのローマ字表記法)」。1948年に文教部が定めた「들온말 적는 법(外来語表記法)」の付録としてローマ字表記法が定められた。「ㅋ」を「kh」とつづるなど,激音の表記に「h」を用いている。終声の表記について、あるものは発音に依拠してつづり(例:있다 itta [ittʼa] 「ある」),あるものはハングルのつづりに依拠してつづる(例:앞만 aphman [amman] 「前だけ」)。
正式名称は「한글의 로마자 표기법(ハングルのローマ字表記法)」。1959年に文教部が改訂したローマ字表記法。平音には「b,d,g」などの有声音字を,激音には「p,t,k」などの無声音字を用いている。現行の韓国のローマ字表記法はこれを基にしていると推測される。
正式名称は「국어의 로마자 표기법(国語のローマ字表記法)」。1984年1月13日文教部告示第84-1号。表記法の内容はM-R式とほぼ同一である。M-R式と異なるのは,母音「i」の前で「sh」とつづることである(M-R式では「s」)。1988年のソウルオリンピックを前にして,政府官僚が欧米人になじみの深いM-R式を導入したものである。しかし,専門家を排した表記法の制定は批判があがり,ハングル学会では1984年2月21日に文教部1959年式に基づく「우리말 로마자 적기(国語のローマ字表記)」を発表している。
正式名称は「국어의 로마자 표기법(国語のローマ字表記法)」。2000年7月7日文化観光部告示第2000-8号。韓国における現行のローマ字表記法である。基本的には文教部1959年式の流れを継いでおり,補助符号を用いない。転写を目的としているが,翻字の方法についても言及がなされている。
正式名称は「외국 자모에 의한 조선어 표기법(外国字母による朝鮮語表記法)」。1955年にキリル文字による表記法発表されたもので,その第3章にローマ字による表記法が掲げられている。母音において「ŏ」のような補助記号が用いられているのはM-R式と同じであるが,「ㅋ」を「kh」とつづるなど激音の表記に「h」を用いたり,「ㅐ」を「ai」とつづる点などはイェール式に近い。「ㅈ,ㅊ,ㅉ」を「ts,tsh,tss」とつづるのが特徴的であるが,これは平壌方言の音声的特徴を反映していると見ることができる。
その後,北朝鮮では1969年に「영어문자에 의한 조선어표기법(英字による朝鮮語表記法)」が,1985年にはローマ字への転写法と翻字法が定められている(박재수 1999:42-43参照)。
正式名称は「조선어의 라틴문자표기법(朝鮮語のラテン文字表記法)」。1992年に定められた方式で,母音の表記がM-R式と同一になっている。その一方で子音の表記には,激音の表記に「h」を用いるなど,1955年式からの伝統を受け継いだ表記法も採られている。
イェール大学のマーティン(Martin,Samuel.E.)が考案した朝鮮語の翻字法。言語学の学術論文などで主に用いられる。イェール式はハングルによる朝鮮語のつづりをローマ字に移しかえることを目的としている。従って,発音は必ずしも反映されず,例えば「넓겠는데(広そうだが)」は「nelpkeyssnuntey」と表記される(実際の発音は [nɔlkʼennɯnde])。その他,中期朝鮮語のための表記法や,共和国の言語にのみ現れる語頭の ㄹ,ㄴ のための表記法などもある。
東京大学の福井玲が考案した朝鮮語の翻字法。中期朝鮮語をコンピュータでデータ処理するために1980年代に開発された。従って,現代朝鮮語で用いられない字母についてもローマ字表記が可能である。また,他の表記法では子音がないことを表す初声の「ㅇ」をローマ字に一切反映させないのに対し,福井玲式では初声の「ㅇ」を「’」に当てているのが特徴的である。
M-R式,イェール式,南北朝鮮の現行ローマ字表記法である南の「국어의 로마자 표기법」(表中では「南2000年式」),北の「조선어의 라틴문자표기법」(表中では「北1992年式」),福井玲式について,それぞれの表記を比べる。なお,それぞれ表記法における細かい規則は省略する。
【子音字母のローマ字表記一覧表】 ハングル ㄱ ㄲ ㄴ ㄷ ㄸ ㄹ ㅁ ㅂ ㅃ ㅅ ㅆ ㅇ ㅈ ㅉ ㅊ ㅋ ㅌ ㅍ ㅎ 南2000年式 g/k kk n d/t tt r/l m b/p pp s ss ng j jj ch k t p h 北1992年式 k/g kk n t/d tt r/l m p/b pp s ss ng j jj ch kh th ph h M-R式 k/g kk n t/d tt r/l m p/b pp s/sh ss ng ch/j tch ch’ k’ t’ p’ h イェール式 k kk n t tt l m p pp s ss ng c cc ch kh th ph h 福井玲式 g gg n d dd r m b bb s ss ’/q j jj c k t p h
【母音字母のローマ字表記一覧表】 ハングル ㅏ ㅑ ㅓ ㅕ ㅗ ㅛ ㅜ ㅠ ㅡ ㅣ ㅐ ㅒ ㅔ ㅖ ㅘ ㅙ ㅚ ㅝ ㅞ ㅟ ㅢ 南2000年式 a ya eo yeo o yo u yu eu i ae yae e ye wa wae oe wo we wi ui 北1992年式 a ya ŏ yŏ o yo u yu ŭ i ae yae e ye wa wae oe wŏ we wi ŭi M-R式 a ya ŏ yŏ o yo u yu ŭ i ae yae e ye wa wae oe wŏ we wi ŭi イェール式 a ya e ye o yo wu yu u i ay yay ey yey wa way oy we wey wi uy 福井玲式 a ia e ie o io u iu y i ai iai ei iei oa oai oi ue uei ui yi
以下は実例である。
【各ローマ字表記法の実例】 朝鮮語 発音 南2000年式 北1992年式 M-R式 イェール式 福井玲式 김포 (金浦) [kimpʰo] gimpo kimpho kimp’o kimpho gimpo 금강산 (金剛山) [kɯmɡaŋsan] geumgangsan kŭmgangsan kŭmgangsan kumkangsan gymgaqsan 신의주 (新義州) [ɕinɯiʥu] sinuiju sinŭiju sinŭiju sinuycwu sin’yiju 조선 (朝鮮) [ʨosɔn] joseon josŏn chosŏn cosen josen
ローマ字表記法が朝鮮語の音を写す転写を目的とするのか,ハングルのつづりをローマ字に置き換える翻字を目的とするのかにより,ローマ字表記のあり方は大きく異なる。例えば,韓国の文化観光部2000年式を用いて転写と翻字を行うと,以下のような違いが生じる。
朝鮮語 発音 転写 翻字 읊는다 (詠む) [ɯmnɯnda] eumneunda eulpneunda 넓겠는데 (広そうだが) [nɔlkʼennɯnde] neolgenneunde neolbgessneunde
ただし,実際には翻字は学問研究など特殊な場合で用いることが多いので,一般の使用においては音を転写する方式を通常用いる。
M-R式では平音を有声音字と無声音字の2種類に使い分ける。これは,朝鮮語の平音が語中の有声音間で有声音化するのをローマ字表記に反映させたものであるが,朝鮮語の平音において有声音/無声音は同一音素の異音であり、朝鮮語話者は同一の音と認識している。従って,例えば「사과 (リンゴ)」を「sagwa」、「과일 (果物)」を「kwail」表記するM-R式は,朝鮮語話者にとっては非常に混乱しやすい部分である。このような問題は,日本語のヘボン式ローマ字において,「ン」を「m,n」に使い分けるのと同じ問題をはらんでいる。
文化観光部2000年式では,初声の平音は常に有声音字で表記する。1つの音素を同一につづるのは理には叶っているが,語頭で無声音化する場合にも有声音字で表記するので,朝鮮語を母語としない話者にとっては違和感を受けることがある。例えば,「김포」(金浦)は実際には [kimpʰo] と発音されるが,文化観光部2000年式によるローマ字表記は「Gimpo」である。
朝鮮語は音韻変化が多様であるが,転写の際にそれら音韻変化をどのように反映させるか否かによっても,表記には少なからぬ差が生じる。イェール式・福井玲式といった翻字法を除くその他の表記法では多かれ少なかれ音韻変化を表記に反映させているが,反映のさせ方は必ずしも一様ではない。例えば,平音の濃音化について,M-R式では変化を反映させて無声音字を用いるのに対して(例:압구정 Apkujŏng。通常,語中の平音「ㄱ」は「g」と表記),文化観光部2000年式では変化を反映させない(例:압구정 Apgujeong。仮に濃音で表記するならば「Apkkujeong」)。
朝鮮語の単母音は7~8個であるが,ローマ字の母音字は「a,e,i,o,u」の5個である。従って,文字が不足する2~3個の母音は何らかの方法で表記しなければならない。1つは,補助記号を用いて例えば「ㅓ,ㅡ」を「ŏ,ŭ」と表す方法(M-R式)があり,もう1つは2文字を用いて例えば「ㅓ,ㅡ」を「eo,eu」と表す方法(文化観光部2000年式)がある。前者は単母音がアルファベット1字に対応しているが,印刷時に活字が準備できないなどの場合がある。後者は既存の文字のみを使う利便性がある反面,「eu」を「エウ」と読むといった誤読の可能性をはらんでいる。
南では,近年の情報化社会において,コンピュータでローマ字表記された朝鮮語を扱う際に,補助記号があると処理に大きな不便をもたらすことを考慮して,2000年式では一切の補助記号を用いない方式を採用したという。それに対して北の1992年式は補助記号を用いるが,新聞などで実際に用いられる表記は補助記号を省略した表記法である。従って,例えば「ㅓ」と「ㅗ」はともに「o」と表記され,区別がつかなくなるという不便がある。
ここでは韓国におけるローマ字の運用上の問題点を述べる。
文化観光部2000年式は現在,韓国国内の街路表示や駅名表示などに広く用いられている。しかしながら,企業名や人名などにおいては文化観光部2000年式や過去のローマ字表記法とは異なるつづりが多く見られる。
韓国国内において,朝鮮語のローマ字表記は「英語圏の欧米人が読んでそれらしく聞こえるものが望ましい表記」であるという意識が強い。例えば,企業「サムスン」(原語:삼성 [samsɔŋ])のローマ字表記は「Samsung」である。「성 [sɔŋ]」の部分を「sung」と表記するのは,英単語「sung」の発音が [sʌŋ] であり朝鮮語の「[sɔŋ]」と音が似ているためである。つまり,英語圏の欧米人が「Samsung」というつづりを見て [sɑːmsʌŋ] のように発音してくれることを期待して定めた表記であろう。また,「申」(原語:신 [ɕin])という姓のローマ字表記は,文化観光部2000年式では「Sin」とつづることになっているが,多くの人は「Shin」とつづる。これは欧米人が [sin] と発音するのを避けるためであり,また「Sin」が「罪」の意の英単語「sin」に通じるのを避けるためである。
このようにして,韓国の企業名・個人名などのローマ字表記は多くの場合,政府の定めたローマ字表記法に従わないつづりを採用している。政府もそのような表記を無理に改めるのが困難であると感じているらしく,文化観光部2000年式においても「人名,会社名,団体名などは,これまで使ってきた表記を用いることができる」という特例条項を設けて,現状を容認している。
だが,このような事情は時には混乱を引き起こすこともある。例えば,パスポートに記載される姓名のローマ字表記は,統一的な表記法がなく個々人によってまちまちである。仮に「李」であれば,「Lee,Yi,Ri,Rhee,Yee」など多様である。従って,個々人の姓名のローマ字表記を知ろうとしたら,その本人に直接尋ねる以外に方法がないため,旅行社などにおける事務処理の際に不便をきたすことが少なくない。
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