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タイトル形態音素論的交替
記事No2
投稿日: 2008/07/17(Thu) 23:08:31
投稿者越南美
趙先生:
お久しぶりです。何年かぶりに「黒板」に書き込みます。あれから掲示板が何度かリニューアルされたようです。以前御回答していただいた内容を保存しておけばよかったと残念に思っております。

さて,いわゆる「複合パッチム」のどちらを読むかという疑問からネット検索しているうち,久しぶりに先生のサイトにたどり着きました。
複合パッチムの読みについて,巷間では,(若干の例外はあるものの)カナダラ順で先に来るものを読めばいい,という説が行われています。しかし,この複合パッチム・カナダラ順説は次の2つの理由から根拠がなさそうだと考えておりました。
①カナダラ順自体について,すべてを説明できる合理的な理由がなさそうなこと(前半は調音点の前後でしょうか…)
②複合パッチムは,個々の形態素を明示するために採用された表記方法で,語幹末の子音が次の語の初声の位置に立つ時に(忽然と)現れる子音と,同子音が終声の位置に立つ時の子音には,規則的な関係がなさそうなこと(すなわち,形態主義表記は,一つ一つの語についてその現象を抽象して作り上げたもので,全体を統一する規則はない。)

前置きが長くなりましたが,先生のサイトの「形態音素論的交替」の「音の脱落」を拝見し,意外な記述に出会いました。「語幹末の子音が終声の位置に立つときは…2つの子音のうち一方が脱落する。これは朝鮮語において音節末の位置に2つ以上の子音が同時に立ちえないためである。」これは言語事実を抽象化して編み出した形態主義的表記における2つの子音を実存するものと見なして,現代朝鮮語音韻論の事実から逆に説明を加えているように見受けられます。私のこれまでの考えでは,複合パッチムはいわば理念形であり,音韻学の規則にしたがって,「2つの子音のうち一方が脱落する」とはいえないのではないでしょうか?
また「音の中和」についても「これは激音 /p/ が音節末の位置に立つことができず,音節末の位置では /b/ と /p/ の区別が失われて平音 /b/ のみが現れる」との説明がありますが,パッチムの書き分けも,それが初声の位置に立つことを想定した「抽象的書き分け」であり,実際の発音と連動させて考えるのはいかがなものでしょうか?
にわとりと卵の話なのかも知れませんが,お考えをお聞かせいただければと存じます。

タイトルRe: 形態音素論的交替
記事No3
投稿日: 2008/07/20(Sun) 14:40:13
投稿者趙義成
参照先http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/
「黒板」のリニューアルについては、皆様に多大なご迷惑をおかけして、たいへん申し訳なく思っております。機械によると見られる迷惑投稿のため、旧「黒板」が使い物にならなくなってしまいました。以前のデータを全て利用したかったのですが、データが破壊されて修復が不可能になってしまったため、泣く泣くゼロからの再出発となりました。

さて、「形態音素論的交替」のページに関するご指摘の2点ですが、当該ページは形態音素についての話ですので、内容は基本的に音韻の記述です。表記は「3. 形態音素論的交替と正書法」を除いてまったく問題にしていません。

まず、中和についてですが、「対立している音素が、特定の音韻論的環境において、その対立を失うこと」(『言語学大辞典』術語編,927ページ)が中和ですので、解釈に大きな問題はないでしょう。中和という概念はあくまでも音韻についての概念です。よって「実際の発音と連動させて考える」というより、「実際の発音を単に述べている」だけです。

「語幹末の子音が終声の位置に立つときは…2つの子音のうち一方が脱落する。」についても基本的には同様です。ここでは音韻現象を述べているのであって、表記の問題を述べているのではありません。従いまして、「現代朝鮮語音韻論の事実から逆に説明を加えている」というのは、「逆」でも何でもなく、「音韻現象だけを見て、それをそのまま記述している」に過ぎません。

そのように考えますと、複合終声字の問題も根本は同じです。「複合終声字の読み方」なるものは、より容易な学習のための方便であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。早覚えの類と同じものです。そもそも複合終声字なるものは、言語音より先に存在する複合終声字を「どう読むか」なのではなく、忽然と現れたり消えたりする子音があるがそのような発音を「どう綴るか」ということから「複合終声字」が考案されただけですから、「右を読むか左を読むか」についての体系的な読み方などあるわけがありません。つまり、子音が現れたり消えたりするという音韻現象はあくまで音韻現象なのであって、表記と関連付けても何ら解決しないわけです。

話の順序が全く逆になってしまいました。要は、「音韻」と「表記」は次元の全く異なるものなので、両者を混同してしまうと、終始混乱してしまいます。そのへんをご理解の上、「形態音素論的交替」のページをお読みくださると、少しは辻つまが合うのではなかろうかと存じております。

今後とも、忌憚なき貴重なご意見をお願いいたします。

タイトルRe^2: 複合終声字子音の存在/不存在
記事No4
投稿日: 2008/07/29(Tue) 23:41:24
投稿者越南美
参照先http://korealunch.exblog.jp/
いつもながら丁寧なご回答ありがとうございます。

「音韻と表記を混同してはならない」というご指摘について大変よく分かりました。ただ私自身が「混同」しているつもりがなかったので若干困惑しております。誤解の原因は,私の文章表現のまずさに起因するようです。もう一度,記述してみたいと思います。

私は,続く音韻的環境によって終声子音が出現/不出現する形態音素(表記の観点から言えば,「複合終声字を持つ形態音素」。以下便宜的にこの呼称によります。)について,ある子音がある音韻的環境下で出現しない場合は,その子音が「存在しない」のではないかと考えています。例えば값のσ音は,この語が単独で発音される場合や子音字に続く場合は出現しませんが,これは音韻的理由から現れないのではなく,存在自体していないのではないかと考えています。

それに対して,先生はこのσの不出現を,「朝鮮語において音節末の位置に2つ以上の子音が同時に立ちえない」という音韻的観点から説明しておられます。このような考え方は,2つの形態音素末子音(값のbとσ)が,音韻的環境を問わず,何らかの形で「存在」(あるいは「内在」)していることを前提していると思われます。そこに疑問を持ちました。

角度を変えて言えば,単独終声字を持つ語が,それに続く音韻的環境によって音変化するのは,音声学的な(あるいは生理学的)理由から説明できると思います。(例えば「音の中和」で,잎이 /ipi/ (葉が) ~ 잎 /ib/ (葉)となるのは,母音が続かない環境下で,平音と激音の発音をし分けることができないことによる,と説明できるのではないでしょうか。)

しかし,複合終声字を持つ形態音素の音変化は,音声学的(生理学的)な現象とは関わり無く,ある一定の音韻的環境下で,「突如」として新しい子音が出現/不出現するものです。音声学的な理由での出現/不出現ではなく,存在/不存在に関わるものではないかと考えます。

意味を読み取っていただければ幸いです。

追加質問:
1 中期朝鮮語における複合子音説と濃音説の対立と,形態主義表記における複合終声字の表記法は交錯する部分はないのでしょうか?例:ある時期に,形態音素末に複合子音を持つ語が存在した,等
2 先生の文中で「音韻的環境」という語を使用されていますが,「音声的環境」とは異なる意味で意識的に使用されていますか?形態素の異形態と音の環境を問題にする際,「音韻的」と「音声的」で指す内容に差異があるのでしょうか?

よろしくお願いいたします。

タイトルRe^3: 複合終声字子音の存在/不存在
記事No5
投稿日: 2008/08/04(Mon) 15:14:37
投稿者趙義成
参照先http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/
おっしゃりたいこと、分かりました。私の読解力不足のため、お手間をとらせてしまいすみません。

> ある子音がある音韻的環境下で出現しない場合は,その子音が「存在しない」のではないか

音韻を記述するだけであれば、私もその通りだと思います。しかし、越南美さんは、形態音素末子音が音韻的環境を問わず何らかの形で「存在」していることを前提とするのはおかしいのではないか、というご主張ですね。

ここからは、「音が現れたり現れなかったりする現象をどのように“解釈”するか」という話になります。「값」における/ㅆ/の出現・不出現を解釈するのには、大きく二通りありましょう。一つは、元は/갑ㅆ/で、ある種の環境で/ㅆ/が現れなくなるという解釈、今一つは、元は/갑/で、ある種の環境で/ㅆ/が現れるという解釈です。

私は前者のほうが妥当な解釈であると考えます。私が考える「妥当な解釈」とは、より体系的に、より合理的に、より簡潔に現象を説明しうるものです。「ある種の環境で/ㅆ/が現れる」と解釈した場合、他の音でなくなぜ/ㅆ/が現れるのかを合理的に説明するのが困難です。また、この現象は音がランダムに現れたり現れなかったりするのではなく、一定の音韻的環境のもとで生じるので、音韻的な理由によると言ってよいのではないでしょうか。(もっとも、「解釈」とは一種のこじつけとも言えますから、本当に妥当なのかということは常に問われますが…)

「잎」(/입/~/잎/)についても解釈は同様であると私は思います。すなわち、元は/잎/、ある種の環境において/입/で現れるという解釈です。元が/입/で、ということになると、/입ㅆ/や/이ㅃ/などでなくなぜ/잎/に交替するのかを合理的に説明するのが困難です。

話はややそれますが、/ㅍ/~/ㅂ/の交替を本当に「音声学的な理由」と言い切ることができるのかは、慎重になりたいです。確かに内破化すると/ㅍ/と/ㅂ/は中和され、両者は物理的に区別しえません。しかしながら、例えば「잎사귀」/입싸귀/という場合、終声/ㅂ/は音声的には外破音です。物理的に外破音であるならば、有気音として現れてもいいはずなのですが、実際には依然として/ㅍ/と/ㅂ/は中和されたままです。このように考えると、純粋に音声学的な理由より、音韻的な理由と説明したほうがいいように思われます。

厳しいご指摘を受け、最後に弁解がましいことを申し上げてまことに恐縮なのですが、「小辞典」は厳密につきつめて書いてはいません。言語学的な記述と、一般の読み物としての読みやすさを天秤にかけながら、ある意味ではぐらかしながら書いている面もあります。そういった点では、おそらく記述に穴が多かろうと思います。形態音素論的な交替に関しても、「中和」と「脱落」に分類すること自体に問題があるかもしれません。「脱落」と称したものも、形態音素論の次元では中和と見なしえます。従って「音韻論的な中和」と「形態音韻論的な中和」のような区分のほうが妥当なのかもしれません。

長文となり、途中、支離滅裂、ご質問にきれいに沿わない文章展開をお許しください。いろいろと不備が多かろうと存じますが、これからも厳しいご指摘のほどよろしくお願いいたします。

タイトルRe^4: 複合終声字子音の存在/不存在
記事No14
投稿日: 2008/08/19(Tue) 20:37:43
投稿者越南美
参照先http://korealunch.exblog.jp/
御回答ありがとうございました。

先生の御解釈についてよく分かりました。音韻的な環境でもとより何らかの形で存在した形態音素末子音が出現/不出現するということですね。

先生の記述の中の/갑ㅆ/を見て思い出したのですが,以前사이시옷を独立させて書く記述法があったと記憶しています。ㅅの前に終声がある語が来ても,ㅅがそのまま続いていたと思いますが,これはどう発音していたのでしょうか?

また「「잎사귀」/입싸귀/という場合、終声/ㅂ/は音声的には外破音です。」とお書きになっておりますが,この音韻的環境で有気音として現れる語彙があるのでしょうか?母音を伴わない環境で,有気音(あるいは有気/無気の差)が現れるのは難しいと思うのですが・・・

よろしくお願いします。

タイトル追加質問について
記事No6
投稿日: 2008/08/04(Mon) 15:21:13
投稿者趙義成
参照先http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/
(1)ご質問の趣旨を十分把握できないのですが、中期語では終声の位置で2つの子音が立ちえたようです。例えば、「読む」は「닑-」です。中期語は原則的に表音主義表記ですから、「ㄺ」と表記したということは、その通りに発音したということでしょう。(一方、「ない」は「업-」と表記されていました。)

(2)私は「音韻的環境」と「音声的環境」を区別して使っているつもりです。ただ、両者を区別したくないときは「音的環境」のように逃げることもあります。

タイトルRe: 追加質問について
記事No7
投稿日: 2008/08/04(Mon) 21:13:54
投稿者越南美
参照先http://korealunch.exblog.jp/
御丁寧なお返事ありがとうございます。まずは追加質問の(1)から。

これまた私の説明不足でした。中期朝鮮語の語頭における複合子音説と濃音説の対立から連想したのですが,中期朝鮮語の形態音素末の2つの子音をそのまま(後続の母音と結びつかずに)読んだという説はないのかということです。
すなわち次のとおりです。
밟다 を balbta
넋 を nəgs

「音声的表記」と照合すれば答えはおのずから出るのかも知れませんが・・・
他の部分についてはじっくり検討させていただきたいと存じます。

タイトルRe^2: 追加質問について
記事No15
投稿日: 2009/02/28(Sat) 03:57:08
投稿者xenapior
> 밟다 を balbta
> 넋 を nəgs

中期語表記には形態主義がほとんどなかったと思います。넋+이なら넉시となり、밟+아なら발와(たぶん)となってしまうのでしょう。あえて表音主義を貫徹し、「balbdaと読んだから밟다だ」というのはより説得力を感じさせますね。

ちなみに、中期語の語頭に複合子音が実存していた証拠(?)のひとつとして、中国宋朝の孫穆が編纂した「鶏林類事」という本があったようです。その本には「白米曰漢菩薩」という説がありました。現代語では白米を「흰쌀」と言いますが、中期語では「ㅎ+ᆡ+ㄴ ㅄ+ᆞ+ㄹ」と綴りました(参考: 네이버 국어사전)。その「菩」がまさに複合子音のㅂ音素に当たる音だったのでしょう。

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日本語があまり上手でなくてすみません。意思疎通ができれば幸いです。