在日朝鮮語
わが同胞たちへ


このページは「隠し部屋」なので,私のサイト全体の「流れ」とは無関係に,在日朝鮮語とそれにまつわる在日朝鮮人のことがらについて,私の感じることを書きます。「在日同胞が読む」ということを前提にしていることを,あらかじめご了承ください。


私が「在日朝鮮語」などという文を書くのには,実は現在の在日同胞の言語状況にいたく不満があるからである。在日同胞の民族的なアイデンティティの立て方は,個々人によって実にさまざまで,名前にこだわる人もあれば民族音楽にこだわる人もあり,また国籍にこだわる人もある。そして,私のように言語というものにこだわる人もある。

私が言語にこだわるようになったのは,半ば偶然であるとも言える。小さい頃から中国語などの外国語に興味を示していた「語学マニア」の私にとって,朝鮮語という言語が自らのマニアックな心をくすぐったという側面は否定できない。おそらく朝鮮語を学び始めた動機の大半は,そのようなマニアックな関心からであっただろう。そして,言語マニアの志向性と自らの民族的アイデンティティの志向性がたまたま一致したがゆえに,私は朝鮮語というものを通して自身の民族的アイデンティティを形成していったのだと思う。

朝鮮語を学び始めた当初,私のあこがれは民族学校に通う学生や,民族団体にいる同胞たちであった。彼らは――日常生活ではさほど使わないにせよ――朝鮮語を巧みにあやつり,自らのものとしていると目に映っていたからである。彼らは実に立派に,実にすばらしく,実にまっとうに朝鮮語を駆使しているように私には見えたし,そのような姿が私にとって「あるべき朝鮮人」の姿として鮮明に脳裏に焼き付けられたのである。だから,私にとって「まっとうな朝鮮人として存在する」ということは,「まっとうな朝鮮語を駆使する」ということと同義でもあったわけであり,まさにそうであるからこそ私は彼らを「目標」にして朝鮮語を学んでいったのである。

だが,朝鮮語を学んでいくに従って,私の考えは徐々に変わっていくようになる。私が朝鮮語をより詳しく知り,本国人の言語を耳にしながら,その技術に磨きをかけていくに従って,民族学校の学生や民族団体の同胞の駆使する朝鮮語能力が,実は私の想像よりもかなり低いと分かったからである。このことは私にとって非常に衝撃的なことだった。おそらく,朝鮮語を話せない在日同胞の多く――当時の私を含めて――や日本人の多くは,彼らがまっとうな朝鮮語を話していると信じて疑わないだろう。しかし,蓋を開けてみると,現状はとても厳しいものだったのである。その状況は,朝鮮語を学び始めて数年しかたっていない当時の私でさえ,はっきり見てとれるほどのものだった。

私は自らの「目標」を変更せざるをえなかった。目標を民族学校の学生から外語大の学生へと切り替えたのである。同じ同胞を目標にするのでなく,日本人の学生を目標にしなければならないということ自体,私の民族的な自尊心をひどく傷つけたが,残念ながら外大でしっかり学んだ学生のほうが朝鮮語能力がすぐれていたのである。【補注】 だが,目標転換という苦渋の選択は,同時に私自身に1つの重い課題を課すことになる。自らの朝鮮人としての意地にかけても,外大の学生などに負けてはいられない,彼らをはるかに上回るほどに朝鮮語の能力を極限にまで高めていかなければならない,というものである。このような決意ゆえに,私は自らの使っていた在日朝鮮語を徹底的に矯正し,話す言葉を本国人のそれに一寸でも近づけんとして,ない智恵を絞ることになった。

【補注】 このように書くと,それ見たことかと鬼の首を取ったかのように嬉々とする無知蒙昧がネット上にはいるようである。民族学校の名誉のために一言申し添えておくが,日本的になまった言葉になっているとはいえ,民族学校の生徒が話す朝鮮語の滑らかさは大学で朝鮮語を数年間ちょっと学んだ程度の人間には足もとにも及ばない。ここでいう「外大でしっかり学んだ学生」とは,大学4年間を通して朝鮮語の習得と運用に心血を注ぎ,留学生活をも経験し,朝鮮語を完全に我が物としたような学生を言っている。大多数の学生はその境地にまで至らないのだが,まれに麒麟の才を発揮する学生が現れる。

こうして今の私がある。たぶん,客観的に見れば私の朝鮮語能力はかなり高いであろうし,韓国で朝鮮語を話しても,街で買い物をしたり簡単な会話を交わす程度であれば,私が日本から来た人間であることがばれることは少ないのではないかと思われる。日本で朝鮮語を学んでいる人たちから見れば,私のレベルは,ある種うらやみの対象になるのかもしれないが,私はこれに全くもって満足していない。本国人である私の妻に言わせれば,私のしゃべる朝鮮語は,それでもときどき変だという。私は,本国人から変だと言われる自らの朝鮮語の能力には少しの満足感も覚えない。今や,私の目指すものは本国人の朝鮮語であり,これと同レベルで朝鮮語を駆使することが,私の朝鮮人としての自尊心を充足してくれるのである。

もちろん,この目標が無謀であることは充分わかっている。幼いころから本国の朝鮮語を聞き話して育ったバイリンガルでないかぎり,この欲望が満たされることは決してないのは自明のことではあるのだが,言語にこだわって自身の「朝鮮人性」を実現させようとする私にとっては,「完璧な」朝鮮語の駆使こそが私の生涯の課題なのである。だからこそ,私は一般に言われる「朝鮮語が上手だ」というレベルに留まる気はさらさらないし,自らの朝鮮語の能力を低めることもしたくない。それと同時に,言語をとりまく在日同胞の現況にむやみに妥協したくはない。だからこそ,私は「朝鮮語ができる」在日同胞の若い世代に対しても,厳しい目で見ざるをえないのである。在日同胞の若い世代の中には,「朝鮮語ができなければ朝鮮人にあらず」と力説する人がまれにいるが(えてして組織活動をする者がこのようなことをよく言っていたと記憶している),そういう人に限って話す言葉は在日朝鮮語だったりする。「朝鮮語ができなければ朝鮮人にあらず」と豪語するのであれば,それに見合った能力をしっかり身につけるべきである,と私は考える。


こんなところが,在日朝鮮人としての私のこだわりであろうか。付け加えて言うが,これはあくまで私個人のこだわりであり,普遍性などはかけらもないのは言うまでもない。ややもすれば,このような考え方は,私個人のエゴイスティックな感情に衣を着せて,さも「もっともらしく」垂れ流す言説でもあろう。第一に,我々在日同胞にとって朝鮮語の能力と自らの朝鮮人性は必ずしも一致しない。私が「言語」を軸にして民族を考えるのと同じように,在日同胞の個々人が実にさまざまな軸をもって民族というものを探っている。だから,朝鮮語ができないからといって,そのような同胞を切り捨てるのは全く滑稽な話なのであって,在日同胞の朝鮮語に対するアプローチは多様であってしかるべきであると考えている。第二に,民族学校が解放後からこれまで歩んできた苦難の歴史を考えるとき,「それは在日朝鮮語である」と皮相的な次元で揶揄することは決してできない。民族学校では朝鮮語を後から習得した人々が先生となって次世代を教えることを余儀なくされる状況が続いている。このような状況は我々在日同胞が自ら望んだものではないし,その結果生まれ出た「在日朝鮮語」も自ら望んだものではない。その責任を民族学校の当事者たちのみに向けるのは,明らかな問題の履き違えである。

私がこの「在日朝鮮語」を書いたのは,言語にこだわるものとして,「いくら何でもこのままではちょっとマズいだろう」という漠然とした,しかしかなり切迫した不安からなのである。朝鮮語に対するアプローチは多様であってしかるべきであるが,その中でもし在日朝鮮人にとって朝鮮語は大切だという考えをもっているわが同胞がいるのならば,私の記事を読んで何か感じるところがあったら幸いである,ただそれだけの思いである。


【追記】 Wikipediaに「在日朝鮮語」という項目がある。記事の編修過程を見る限りでは,このページがタネになっているようである。私が自分のサイトに書いた「在日朝鮮語」のページは,現象の記述については事実を真摯に書き留めるように努めたつもりではあるが,どこまでも私個人の観察に基づいたものである。私の記述は在日朝鮮語の一側面を伝えていることがあっても,その全体像は何ら提示していない。したがって,私の記述がwikipediaのような大掛かりなウェブサイトにおいて,あたかも一般的な事象であるかのごとく記述されることには大きな抵抗がある。