前ページに戻る

 

トルコにおける宗教とファッション


このページは、浅野昌子によって作成されました。

ここでは、参考文献にあげたJohn Norton, "Faith and Fashion in Turkey"と、中西久枝『イスラムとヴェール』をもとに、トルコにおける、宗教とファッションの関わりについて、まとめてみました。 (浅野)

***

トルコの国民の大半はイスラム教徒である。街に出れば、当然のように髪や首にヴェールを巻いた女性と、そうでない女性がいることに気づく。トルコ人は見た目で、イスラムに対する姿勢や、政治的、宗教的地位、はたまたトルコ共和国を創り、トルコ帽を廃止したケマル・アタチュルクに賛成か反対かを示していることになるのである。1970年代後半、1980年の軍事クーデターに先立つ政治的な混乱期には、外見だけから政治的立場が推測され、敵対者と思われると無差別に銃で撃たれるという事件が起こった。今日でも、女性のヴェールは、それをかぶる人のイスラムへの姿勢を知らせるシグナルであり、それにより周囲から反感をかったり、支持を得たりしているのである。

つまり、トルコ人の服装は言語としての力をもっているのである。その経緯は、何世紀も前に遡る。まずヴェールの起源から紐解いてみよう。

1.ヴェールの起源

一般的にはヴェールの起源は古代アッシリア帝国の時代にあると言われている。つまりイスラム以前から、主に上流階級の女性の間でヴェールは着用されていた。そのような事実があるにもかかわらず、イスラムや中東の地域の女性というと、ヴェールというイメージがなかなか強いのは、ムハンマド個人の行いのせいである、とアラブ・フェミニストは主張している。 

ムハンマドは嫉妬深く、自分の妻を他人、特に男性に見せるのを恐れて、ヴェールの着用を一族の女性に徹底したという。こうした預言者自身の個人的習性が後生にまで残り、それがまるで「イスラム」の教えとして根づいてしまったのである。

イスラムは、あくまで神はアッラーに対する信仰であるのに、預言者ムハンマドが一人の人間であるために、彼自身の価値判断がイスラム全体の価値判断にまでなってしまったという例の一つがこれである。

2.ヴェールを拒む女性たち

イスラム教の規範からの逸脱は長い間、制限されるものであった。ほとんど全てのトルコの町の女性にとって、ヴェールは必要不可欠であった。少女たちが12歳くらいの結婚できる年齢になると、すぐにヴェールの着用が始まった。様々な回想録や記録から、この「子ども時代の自由」の突然の終焉の恐怖を知ることができる。

「ヴェールは私の人生に乱暴に入ってきて、残りの子供時代にまとわりついた。私はこの恐怖を頭から取り除くことができず、そしてその恐怖は今まで知ったどんな恐怖よりもひどかった。ある人は、スルタンや大風から逃げられてもヴェールからは逃げられなかった。何百万人もの女性が私より前に経験している。私の眼には密集した群でこれらの女性が黒で身を包み、顔を覆ってやってくるのが映る。そして私はあきらめて窒息するのだ。」(Selma Ekrem)

似た苦痛の例で、1907年に別の女性はこう記した。

「ある恐ろしい苦痛は私の心をつかみ、麻痺させた。イマームの言葉は脳で響いた。私は少しずつ理解していった。『ヴェールをしなければいけないのよ。つまりあなたの周りの人のように一生、世を捨て、母や姉のように奴隷になること、すなはちハレムに行かなければいけない。』と。もうヴェールをしないで庭で遊んだり、アラビア馬に乗ることもない。ヴェールを眼にも心にもして、常に静かに忘れられて、人でなくなってしまうのだ。」(Melek, N. Neyret-Nurs)

しかし、20世紀に入ると、裕福の女性たちが試験的に公共の場で西洋的な服装を身にまといはじめた。当然、宗教的権威者から彼女たちは強く非難された。1911年にシェイヒュル・イスラムはムスリム女性に西欧風のドレスを禁止をした。しかし、このような警告は実効力をもたず、流行は変わらなかった。

都市部の女性は共和国によって命じられるずっと前から、公共の場でヴェールをしなくなり、ヨーロッパ式の服を身にし始めていた。

3.アタチュルクによる試みとその後

トルコ共和国が成立するとアタチュルクはトルコの近代化、西洋化を熱心に推し進め、トルコを近代的国民国家のレベルに引き上げようとしていた。

アタチュルクはまず男性のかぶるフェズ帽(トルコ帽)に注目した。フェズ帽は、もともとチュニジアの習慣で、19世紀にオスマン帝国の首都イスタンブルの人々の間で広まった。フェズ帽には縁がないため、カルパック(羊の皮の帽子)同様、礼拝の時の着用が許されていた。このため、フェズ帽はイスラムへの忠誠のシンボルでもあった。このため、フェズ帽のかわりに縁のついた帽子をかぶることは、イスラムを否定することを意味した。アタチュルクがフェズ帽を禁止したのは、まさにそれを目指してのことであった。初めに軍部の制服に縁付きの帽子を導入、次に自身が縁のついた帽子をかぶり、フェズに反対する演説をして大反響を起こした。1925年の「帽子法」によって、フェズの着用は公式に禁止された。地方社会への帽子の導入は穏やかに進み、予想どうりに人気がでた。

アタチュルクは女性のヴェールは禁止こそしなかったが、着用しないことを奨励した。アタチュルク以後、非西洋的な服装は、非文化的であることを意味した。ヴェールをかぶらない女性は、かつてのオスマン帝国時代のイスラムに立脚した政治からの脱却の象徴になった。ヴェールからの脱却はそれほどスムーズに進展したとはいえないが、特に都市部の若い世代は、熱心に西洋風の服装を取り入れた。まもなく、水着姿でミス・ユニヴァース・コンテストに出場するトルコ女性も現れた。

アタチュルクの没年1938年頃までには、都市部では、男女とも西洋的な服装が完全に定着していた。農村部では、都市部ほどには服装改革は進展せず、農民は実用的で伝統的な服装を続けていた。しかし、この伝統的というのは、必ずしもイスラム的という意味ではない。農作業を男女一緒に行う農村では、厳密な意味でのヴェールの着用は、そもそも行われていなかったのである。都市と農村との差は、服装の違いとして人々に意識された。

1950年代、多政党時代を迎え、アタチュルク時代のようなイスラムからの脱却運動は後退するが、服飾の面では、すでに西欧的なものが定着していた。フェズの復活の動きはなく、また大学や役所には、ヴェールの女性は決して見られなかった。

6.改革に対するイスラム勢力からの挑戦

1960年の軍事クーデターにより、世俗主義を柱とするケマリズムの増強が行われた。しかし、伝統復帰の動きは、諸政党の政策により顕著になった。1969年にはじめて、アンカラ大学神学部で、女学生がヴェールをかぶることを主張して退学となり事件がおこり、後にトルコの悩みとなる服装問題が始まった。

70年代、ネジュメッティン・エルバカン率いる国民救済党が、「ムスリム女性らしい服飾」を提唱し始め、淡褐色の長いレインコートを流行らせた。町をレインコートとスカーフ姿で歩く女性は、イスラム系政党の支持者であることを鮮明にしているようなものだった。

左翼と右翼による対立が激化した70年代後半は、服装や髪型、髭の形の違いで左右を見分けて、撃ち合いになるというまでに事態は発展した。1980年の軍部クーデターののち、最初にだされた法律は、服装に関するものであった。国家公務員、地方公務員は、勤務中は、男性は口ひげ、顎髭、長髪が禁止、女性は、ミニスカート、胸のあいたドレス、スカーフが禁止された。このように、軍部は、ケマリズムの復活を目指していたが、しかし、もはや全てのトルコ人をそれに束ねることは難しく、宗教的なトルコ人の間での「イスラム回帰」の動きは顕著であった。また、政治家たちは、票のために、宗教を政治に利用した。たとえば、当時のトゥルグト・オザル首相の巡礼姿などは、大きな反響を呼んだものである。

5.トゥルバン問題

世俗主義者と、熱心なムスリムとの間の対立は、女性が宗教的な理由で髪を隠すことを認めるかどうか、の問題に集約された。これは現在も続く、トルコにとっての大問題である。宗教的な目的でかぶるスカーフは、80年代以後、ターバンのトルコ語であるトゥルバンと呼ばれるようになり、それをめぐる対立は「トゥルバン問題」と呼ばれた。

1969年にスカーフをした女学生がアンカラ大学から除籍されて以来、女子大世の服飾をめぐる対立は後をたたない。1984年にウルダー大学で試験の時に顔をスカーフで覆っていたため4人の女学生が停学になったり、エーゲ大学理学部の講師がスカーフをしているということで大問題になった。また、アンカラ大学の医学部首席が卒業スピーチの特権をスカーフのために奪われるといったこともあった。1986年には解禁を求めてのデモが行われ、大学教師にスカーフをとるよう指示されると、かつらに付け替えるということまで起こった。

1989年3月7日、憲法裁判所は、大学構内でのトゥルバンを禁止する決定を下したが、3月10日には「黒い金曜日」とのちに呼べれる大混乱がおこり、12月28日には、各大学の決定に委ねるという高等教育機関(YOK)の決定がだされた。この後、スカーフをした学生を認めるかどうかは、多くの場合、学科長や教官個人の判断に委ねられることになった。

1994年の地方選挙で各地で福祉党が勝利をおさめると(イスタンブルやアンカラを含む)、市役所でスカーフをしたまま働くことが許されるようになっている。

7.社会一般の流れ

男性についてみると、今ではフェズをかぶる男性はまずいない。服装に関する規制は公務員に影響を与え続け、ネクタイはまだステイタス・シンボルである。

学校のカリキュラムの中に衣服の授業があり、認定教科書に基づいて子供たちに清潔でスマートな服の美徳を教えるのだが、そこではヴェールやスカーフへの言及は一切ない。

政治面においては、有権者であるトルコ国民に示すところとして、党首の服装は重要である。エルバカンは妻の頭にぴったりとスカーフを巻かせて、ケマリストに対する挑戦をするのに比べ、トルコ初の女性の首相になったタンス・チルレルはシックなシャネルのドレスに身を包んだ。これらの服装の対立は、トルコ国民に自分の立場について明確なメッセージを送っている。そのエルバカンとチルレルが組んだ1996年の連立政府は、おおかたの予想を覆す成りゆきであった。 

8.おわりに

トルコにおいてスカーフやヴェールの問題は、服装の問題というより、思想・宗教の問題であったし、現在も続いている。近代化が進むトルコにおいて、スカーフやヴェールは無用のものにも思えるが、信教の自由をたてにスカーフで髪や肩を隠す権利を主張する女性たちの主張にも耳を傾ける必要があろう。

今後、彼女たちの服装はヨーロッパの人々と変わらなくなるのか、ヴェールやスカーフがさらに復活するのか、その動向には注目する必要がある。


参考文献


トルコ語専攻ホームページ に戻る