2.教育勅語の成立と教育勅語体制

<教育勅語の成立>

 1880年代は自由民権運動が激化していった時代でもあり、特に保守派の人たちはこれ以上自由民権運動の思想が広まっていくことに対して危機感を覚えていたのではないでしょうか。時の総理大臣山県有朋は、軍人勅諭(天皇がヘッドで軍人はその手足だという箇所が有名、旧軍隊の精神教育の基礎とされる)が1882年に出され、さらに道徳教育つまり徳育の基礎となる勅語の起草に着手します。しかし「良心に介入・干渉すべきではない」という点で反対も多く、最終的に井上毅が起草することになります。

 国会でも「徳育は君主が命令してやることではない」「内容は時勢にあってない」「外交の点でも不利だ」といった反対意見が多く出たのですが、「もう天皇に奏上してしまった」という既成事実作戦で閣議を通過させてしまいます。意外にもその成立は力業だったわけです。その反対意見の多さを井上毅は「落ち葉を拾うようなものだ」とぼやいています。

 1890年、明治23年、「教育ニ関スル勅語」が渙発されます。しかしそれがすぐに国民に浸透することはなく、結果、学校を通して普及しようとしました。

<教育勅語体制>

 幾多の艱難を乗り越え、教育勅語を出してみたら、新聞の社説を始めとした世論は、あれだけ閣議では反対意見が多かったにも関わらず、賛成の論調が多いのでした。ここは「なんでやねん!」とツッコむところですね。いろいろ理由はあると思いますが、当時ある程度知識のある人ならそれが国家による国民の良心への介入だとうすうす気づいていたとは思いますが、天皇が出した「勅語」を頭ごなしに批判できなかったんじゃないでしょうか。下手に批判してしょっぴかれても困る、ということだったのでしょう。

 しかし教育勅語を認めるということは、「国家が倫理的実態として価値内容の独占的決定者となること」を認めることに他なりませんでした。国民の精神構造を国家が規定したという点で、教育勅語体制は重要なのです。

 勅語体制に反対する者への圧力が強かったことを表す事件が、内村鑑三不敬事件です。第一高等中学校の教員だった内村鑑三は、キリスト教徒としての良心から教育勅語の奉読式で深く礼をせず、軽く頭を下げただけでした。それが問題となり免職となります。そのうえ、内村の弁護をした木村駿吉という人まで職を失ってしまいます。もうここまでくるとなにがなんだか。


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