1.徳育論争

 教育勅語というのは第二次世界大戦前の教育を語るときに外せないものですが、その成立過程を考えると、徳育論争が背景にあったことがわかります。徳育論争というのは、簡単に言えば「最近の若いやつはなっとらん。勉強ばっかりしていて人間として成長しとらんからだ。もっと人間を成長させる教育をせなあかんのや」という議論なのです。その議論を受けて、「じゃあ天皇陛下に成長の指針をいただきましょう」といってできたのが教育勅語なのです。それが後に、軍国主義の台頭とともに、国民形成に使われるようになったのです。

 日本に限らないことですが、かつては生まれた身分や血統によって将来の道筋が決まってしまう社会でした。しかし明治時代になって、学問による出世の道が開けるようになりました。そのことでよく引用される文献が「学事奨励に関する被仰出書」(1872)です。「勉強ができれば出世できるから、みんな勤しんで学びなさい」という内容です。  学制(1872)、教育令(1879)、改正教育令(1880)が制定されてそのためのシステムが構築されていきますが、同時に「知育偏重だ、徳育がない」という論調の主張が表れてきます。これがいわゆる「徳育論争」です。

 主な論者として挙げられるのは、「徳育ねーぞゴルァ!」側陣営として元田永孚(もとだながざね)です。この人は儒学者・教育家で、その主著は「幼学要綱」です。彼は天皇を中心とした道徳教育の必要性と国教の設立を主張します。

 これに対する陣営として挙げられるのが初代総理大臣(当時は内務卿でしたが)の伊藤博文です。「国民の良心に国家や君主が介入してはいけない」という原理から、これに反対しました。思想・良心の自由は憲法19条で明確に規定されているように、教育のみならず現代の国家の基本原理の一つとなっています。この観点から反対した人として、加藤弘之、福沢諭吉、森有礼らがいます。

 学校というのは、何かを教えたり育てたりする場所というよりも、前衛的・反体制的で、これまでの思想と新しい思想を論じる部分に起源があったと言えます。学校の原型は、歴史的にみると小学校や中学校といった初等教育ではなく、今で言う大学にあるからです。つまり、教育(学校)には、それまでの価値観や道徳といったものを守るための機能と、本来的にもっている、より前衛的な機能が並存していることをここに付け加えておきます。

 徳育論争というのは、この時代だけに起こったものではなく、戦後にもありますし、同様の議論は今もなおされています。現在の道徳教育を論じる際にも、明治時代の徳育論争をふまえておくことは必要だと言えるでしょう。


戻る