Tokyo University of Foreign Studies
東京外国語大学【2001年度カンボジア文献講読ゼミ】

カンボジア缶〜開けてびっくり!?12のインタビュー〜


日本の若い人たちへ

〜山田寛さんへのインタビュー〜

聞き手:中良和美 平嶋沙織
文責:平嶋沙織
2001年6月26日 日本外国特派員協会にて

【山田寛】
1941年、東京都生まれ。東京大学文学部卒業後、読売新聞社に入社。1972年〜1974年、サイゴン支局駐在。その後、バンコク、パリに駐在し、1989年〜1992年にはアメリカ総局長、以後読売新聞社調査研究本部主任研究員。2001年2月読売新聞社を退社。現在、嘉悦大学経営経済学部教授。


◆ ◇ ◆ ◇

新聞記者になる

 僕にはお金儲けの仕事はあまり向いていないのではないかと思ったんです。それから、戦争中あるいは戦前に非常に強かった軍部に対して、自分の信念を通した新聞記者の話の影響もあります。例えば五・一五事件のとき、日本の新聞の多くは軍部が非常に怖いもんだから、非常に甘く、お茶を濁したような記事を書いていたんですよ。それに対して、福岡日日新聞(現在の西日本新聞)という地方の新聞記者の菊竹六皷[1]という人は、こういうことが日本を危険に追いやるとはっきり書いたんです。その後、彼は地元の軍から脅迫されたりしたんですけど、意見を曲げるということはしなかったんですよね。
その他、桐生悠々[2] など、自分の信念を通した人たちの本を読んだりしたこともあって、自分が考えたことを伝えるという仕事がやりたいと思ったんです。

インドシナへ渡る

 ベトナム戦争の終わりの頃だったと思うんですけど、外報部のほうから当時の南ベトナムのサイゴンに行けと言われたんです。その頃は若い記者が国際報道のほうに来たら、まず戦争や第3世界などの厳しいところにやるというのが順番だったわけです。それに当時は、インドシナではフランス語が英語よりも通じるんだという理解があったんですね。それで、ちょうど僕がフランス文学科を卒業したということでもあったので、「お前、フランス語をやっていたんだから行け」と言われたわけです。
 正直、早くパリに行きたいと気持ちは強かったけれど、まず希望地外の任地で修行するのは当然で仕方ないと思って出かけたんです。当時はベトナム戦争というのが最大の事件だったわけで、その戦争の中で人々がどんな生活を送っているのかということに非常に関心があったので、サイゴンへ向かいました。でも、振り返って見ると、ベトナムを知り、カンボジアを知り、東南アジアを知って、僕の職業人生も変わりました。東南アジアに行って本当に良かったと、今は思っています。

記者から見たロン・ノル時代

 ロン・ノル政権[3] というのは元々弱いものだから、ベトナムの解放勢力とか中国には全然かなわないわけですよね。いつも何かに取り囲まれているような状態。政府の役人にしても政府軍にしてもモラルが低下していて、彼らはお金をとることしか考えていなかった。その頃は、そういうふうに社会のモラルがおかしくなっていたから、国としてはばらばらになっているというような感じでした。

 一般の人々はそういう政府をロン・ノルだから嫌だというよりも、とにかく戦争のない安定した生活を欲していて、ロン・ノルだってなんだって平和を持ってきてくれれば良いんだというふうに見ているようでした。

西側の記者として初の解放区入り

 カンボジアへはまず1973年8月に出張という形で行きました。その当時、ベトナムではまだ戦闘は続いていたんですけど、一応1973年1月にパリ和平協定が結ばれ、とにかくベトナムからはアメリカ軍がいなくなり、アメリカの戦争は終わった。そしたら、しばらくはもうベトナムのほうはいいんじゃないかって。一方、カンボジアのほうは解放勢力が強くなっていて、プノンペンが落ちるというような状態になっていたんです。

 その頃は「解放区入り」という言葉が独特の響きを持っていて、朝日新聞社の本多勝一さんなどが、「解放区に入るということは、戦争を両方の側から見て公平に伝えることだ」と言っていたんです。でも、1970年ころは解放区の危険が十分に認識されておらず、亡くなったり行方不明になった記者が多かったです。特に、カンボジアの場合の1973年当時は解放勢力側が、新聞記者を捕まえたら殺すということを言っていたので、皆行かないんですよね。だけど、僕はなんか行きたいというような気持ちになっちゃったわけです。若気の至りというか、不安よりも他の記者がしていないことをしてやろうという気持ちが強かったんですね。
 僕は解放区へは通訳を連れて行きませんでした。ほんの少しのカンボジア語とボディランゲージだけでしたので、テープレコーダーに録音しているのがばれたときには非常に悪いムードになりました。それはもう、スパイ行為だと言われても仕方がなかった。だけど、幸いにもそこの幹部が、ついこの間まで学生だったというような人で、後にポル・ポト派と言われるようなバリバリのクメール・ルージュではない人だった。だから良かったんです。彼らはジャーナリズム、つまり国際的に自分たちの立場を伝えるということに理解と関心があったんですね。だから、友好的というのは変かもしれないですが、テープレコーダーを回しているのが見つかったとき以外は彼らには友好的な印象を受けました。
 そして、何よりもカンボジアの「解放勢力」の強烈なナショナリズムに触れることができました。当時はベトナムの共産側とは、当然友好協力関係にあるものと一般に考えられていたので、ベトナムの解放軍に対する冷めた言葉などを聞くのは驚きのことでした。

カンボジアからの招待状

 今の北朝鮮などもそうですけど、ヘン・サムリン政権[4] のように社会主義体制下の国では自分たちに理解を示し、安心できる記者しか呼ばないんです。それは、すごく嫌なことなんですけど、例えば読売なら誰々が来なさいというふうに決めてくるんですね。
 僕は朝日新聞社の井川一久さん、それから写真家の大石芳野さんと割合親しくしていて、会ったときなんかに、彼らが「山田さんまだ行ってないの?」って聞くんですよ。そしたら、自分たちが招待された時に「読売の山田っていう記者を呼んだら良いのに」ということを言ってくれたらしいんです。
 でも、結局僕がバンコクにいる間、ヘン・サムリン政権に対して何度も行きたいということを言ったって呼んでくれなかった。それはバンコクにいたから。バンコクはヘン・サムリン政権にとって敵の情報の総本山的なものだったんです。それが東京に帰ったら呼んでくれたんです。結局、81年末と82年末の2回、ちょうど別な仕事で東南アジアに行くということもあったので、それと一緒にということで行きました。

内戦を生き抜いた女性たち

 僕は81年末にカンボジアへ行った時、カンボジアの女性たちのことを新聞の連載記事に書きました。カンボジアは社会全体を見渡してみると女性の立場が弱い国です。ポル・ポト時代には男が圧倒的に殺されたので、男性と女性の割合が1対4というような感じになりましたよね。ですが、戦争の後遺症のようなものが女性のほうにたくさん残っているように見えた。例えば、結婚して子供を産むというようなことも、栄養失調のためにできない人がたくさんいたんです。だから、そういった意味でより打撃を受けるのは女性ではないかと思ったんです。

 それに、ポル・ポト時代には男も女もなくて、女性もひどい仕事をさせられた。だいたい、内戦のときはポル・ポト派の民兵には女性がたくさんいたわけですからね。でも、ポル・ポトがプノンペンにいた時代には、監獄の拷問係、虐殺係には女性はいなかったわけで、少なくとも男よりは血を吸っていない感じがしたんです。
 当時は、まだ内戦が続いていたので平和に戻ったということはなかったんです。ポル・ポトの暗黒時代が終わったというだけであって。でも、男よりは女のほうが平和を象徴しているんじゃないかという印象を受けた。ポル・ポト時代が終わって、子供の出生率が急に増えたわけですよね。ですから、その喜びと同時に、やはり女性のほうがそういうようなことで昔の生活を取り戻していって、それが内戦の中で平和を広げているんじゃないかという感じがしました。

現在のカンボジアについて

 僕はフン・センのやり方には非常に批判を持っています。でも、一応それで国が治まっていますよね。だから、フン・センのように非常に強い力を持った人が多少強引にやっていかないと治まらないのかなという印象は受けています。彼に通用するような政治家は他にいないし、彼がいなくなったらまた混乱するでしょう。だから、今の状況で続くのも良いのかなという感じがしていますけどね。

 ―雑誌『This is読売』(1997年9月号)の中で「カンボジアの民主主義は脳死した」という記事を書いたことについて

 それは、わざと厳しい表現を使いました。民主主義にもいろいろあって、1989年のパリ和平会議のときに西側が押しつけた民主主義、つまりそのとき理想とされていた民主主義とは変わって、現在はフン・セン流の民主主義になってきたという感じではありますね。それは僕らが理想とするような民主主義とは違って、グラウンドからはちょっとはずれた民主主義だとは思うんですけど。まぁ、今の段階では、フン・セン流の民主主義でも仕方がないのかなという気がしていますけどね。カンボジアの民主主義が脳死したというのはキツイ言い方ですけど、フン・セン流の民主主義に変化したというような感じに思います。
 彼はいわば「藤原道長」ですよね。カンボジア国内では邪魔者は全くないといっても良いんじゃないでしょうか。サム・ランシーなんていう人が騒いでも、言ってみれば民主主義の言い訳というか。彼が時々外国に行ってね、フン・センはこんなひどいことをしているというのを言っているのを許しているのも、それは民主主義のPRになると。例えばミャンマーなんていう国ではそういった行為は許されていないわけですからね。言ってみれば今のフン・センには恐いものがない。
 それに、ポル・ポト時代のせいで、社会の中核となるような30、40、50代の人たちが少ないわけで、フン・センに代わる政治家っていうのはまだまだ出てこないでしょう。フン・セン自身も自分がちゃんと国を治めなければいけないと認識しているでしょうから、まあ、言ってみればカンボジアの民主主義というのがフン・セン万歳の民主主義として、続くんだろうなと思います。

『ポル・ポト伝』の翻訳

 僕は、原作を読んだんですよ。その頃、日本ではポル・ポトの伝記というか、彼について紹介されたものはなかったものですから、ポル・ポトは謎の人物でした。当時、僕は読売新聞社にいたわけなんですが、読売新聞の出版局に話を持っていったところ、儲かりそうにないということですぐに却下されてしまいました。そしたら、上智大学の石澤良昭先生に出版社のめこんを紹介されて、『ポル・ポト伝』の出版が実現したのです。

 僕はチャンドラー本人との面識はありませんでしたが、FAXでは随分やりとりしました。チャンドラーは非常にまじめなカンボジアの研究者で、随分たくさんの人に会って話を聞いて調べていますね。彼は、ポル・ポトというのは異常者でもなんでもなく、また極普通の人たちやポル・ポトのようなフランス留学の落ちこぼれのような人たち、フランス留学してカンボジアに帰ってきて教師をやっているような人たちがあんなにひどいことをしたという恐さ、革命の恐さというのをとても感じているようでした。

忘れてはならないこと

 最近は、ポル・ポトなんていう名前をほとんど知らない人や、カンボジアでポル・ポト時代があったということも知らない人が増えてきました。だから、そういう人たちにそれらのことをちゃんと知っていてほしいという気持ちが非常に強いんです。
 カンボジアは今、アンコール遺跡の観光が元に戻ってきて、かなりの人がそこへ行くようになり、それはそれで良いことだと思うんです。観光というのは平和の象徴、シンボルですから。カンボジアみたいに貧しい国が、アンコール遺跡のような文化遺産で収入を得るというのは非常に良いことですし。でも、そこを訪れる人たちが、昔虐殺があったということも知らずにアンコール遺跡だけを見て来るのでは、本当のカンボジアのことは分からないのではないかと思うんです。だから、そういうことがあったということを知った上で、行ってもらったほうが本当の観光だってできるだろうし。特に、若い人たちにはまだまだその事実を知っていてほしいという思いが非常に強いですね。

明日になれば何とかなるさ

―嘉悦大学のHP上の山田先生御自身のプロフィール欄にある人生モットー「明日になればなんとかなる」について

 東南アジアに行ってカルチャーショックを受けた結果なんです。僕は、経済成長期の日本で育って、新聞社に入り、夜討ち朝駆けなんていう、とにかく肩に力をいれる人生をそれまで送ってきたんです。ところが、僕は東南アジアに滞在中に様々な経験をし、ものごとの考え方が変わったんです。

 まず最初にベトナム戦争のときのサイゴンで、カルチャーショックを受けました。サイゴンは、戦争をやっている非常に緊張した国の首都だったんですけど、ある日の午後、町の中で走っているのは自分だけだと気付いたんですね。当時、僕は新米の記者でした。毎日、米軍のブリーフィングというのがあって、それはとてもじゃないけどわからないような軍隊英語なんです。そこで今日の戦況はこうだというのを懸命になって聞いて、それを必死に原稿に書いて。それに、当時は電報なんですよね。今はパソコン通信でパッと送れますけど。サイゴンから東京まで、ひどいときは24時間かかるわけなんです。それを少しでも早く送りたいと思ってね。米軍のブリーフィングを聞いて、支局に戻って、電報を出しに行ってと、走るんですよ。サイゴンの真昼間は、とてつもなく暑いんです。それで、ある時、気がついたら町の中でそんなペースで走っているのは自分だけだって気付いたわけです。午後は暑いからみんな寝ているわけですよ。犬さえも走らない。そういうのを見て自分は何かこの町で別なことをしているのかなって言う気持ちになったんですよね。

 それから、僕がバンコクにいたときのことです。当時タイが中国と国交を結んだばかりで、中国から周恩来の奥さんであるケ穎超が団長で、代表団がはじめて来たんです。そのとき、首相府の音楽隊が晩餐会でまず国歌演奏をしたんですけど、中国の国歌演奏は慣れていなくて、今までずっとつながりのあった台湾の国歌を演奏しちゃったわけなんですね。日本だったら、当然クビになりますよね。それで、僕はどうなるかと思って見ていたんです。でも結局ね、それは緊張のあまりやったことで、これまで台湾の国歌に慣れていたからという理由で、タイのほうではその音楽隊を処分しないで、中国もそれでおさまったんです。やっぱりね、そういう気にしない文化というのは素晴らしいなという風に感じたんです。

 そして、もうひとつ。家族でタイのスリンという町に行ってね。象祭りというのがあったんですよ。観光客を地べたに寝かして、何十頭の象が走っていくというのが売り物なんですね。僕は息子と二人で地べたに寝ました。象は、普通だと地面の上にある邪魔なものは踏まない。人間と人間の間にきちんと足を下ろすんですけど、その時は象が後ろの象に押されたか何かして、いつもと違っちゃったんですよね。それで、そのことに気付かずに、僕らがやれやれと思いながら立ち上がったら、横で何人も唸っているわけ。つまり、何人かが怪我をしてうずくまっている状態だったんです。さすがに、僕もこういうものは2度とやるもんじゃないなと思いながら、帰って来ました。でも、象祭りは翌週も行われたんです。もし、それが日本だったら警察がやめさせてしばらくはできないだろうと思うんです。どちらが良いというのは考え方によるんだけど、まぁ、その怪我人くらいじゃ驚かないね、そういう風な祭りも素晴らしいなと(笑)。そういう感じに思ったんですね。

 その他にも、まだいろいろな経験をしてきたんですけれども、僕は東南アジアに行って「できるだけ肩の力を抜こうや」ということを教わったんです。それで、何ていうのかな、特に若いうちは、今日、出口が見つからない、なんか絶望的だと思ってもね、大変だなんて肩に力を入れないで、肩の力を抜いて一晩寝れば、何か出口が見つかるかもしれないよ、という意味合いを込めて、若い人には「明日になれば何とかなる」というのを薦めたい。だから、カンボジアも含めて東南アジアに教わったことは多いんです。

カンボジア語を学ぶ学生たちへ

 今は英語全盛ですよね。英語が話せなければ人にあらずみたいなものがますます強まっていますよね。グローバル化だからとかって言って、英語だけできればそれで良いのかというと、僕はそうじゃないと思うんですよね。もちろん、英語はできなきゃいけないけれども、いろんなことに興味を持ち、いろんな言葉を話せる人が日本の若い人にもたくさんいる。そんな状態が一番望ましいと思うんですよ。そういう多様性っていうのが一番大事だと思う。カンボジア語、カンボジア文学など、カンボジアのことは何でも勉強していく、そうした多様性を守ってもらいたいなと思うので、ぜひ頑張って欲しいと思います。


◆ ◇ ◆ ◇


    【注釈】

  1. 菊竹六皷(きくたけろっこ)…明治13年1月25日生まれ。東京専門学校(現早稲田大学)を卒業後、福岡日日新聞に入社。31歳で編集長、48歳で編集局長に就任。52歳のとき五・一五事件発生。その後も、廃娼・禁酒・救世軍の応援などを唱え、警察と花柳界の癒着、暴力団をたたく。昭和12年7月21日死亡(享年57歳)。[本文に戻る]

  2. 桐生悠々(きりゅうゆうゆう)…明治6年生まれ。「大阪毎日」「大阪朝日」「信濃毎日」等を歴任したジャーナリスト。軍部を批判した論説が「信海」に載ってから、軍部により圧力を加えられ、悠々は「信海」を退社。個人雑誌『他山の石』の発行を始める。しかし、その後も悠々の行動は絶えず警察の監視下におかれた。昭和16年8月5日号の『他山の石』を差し押さえられ、次の8月20日号が最終号となり、その年の9月10日、悠々は68歳の生涯をとじた。[本文に戻る]

  3. ロン・ノル政権…親米政権(1970年〜1975年)。1970年3月18日、クーデターを起こし、当時のシハヌーク国王を追放して、政権を握る。[本文に戻る]

  4. ヘン・サムリン政権…親ベトナムの社会主義政権(1979年〜1982年)。[本文に戻る]

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