tokyo university of foreign studies
東京外国語大学【2001年度カンボジア文献講読ゼミ】

カンボジア缶〜開けてびっくり!?12のインタビュー〜


"(ジュンリー・カッカダー)"
から"榊千恵"へ

聞き手:会田敦子 田村道子
文責:田村道子
2001年5月17日 京王線柴崎駅前の喫茶店にて

【榊千恵】
1959年カンボジア、プノンペン生まれ。1974年、母
[1]の祖国である日本に遊びにきているときに内戦でプノンペンが陥落、帰国できなくなる。戦後初の、日本へのカンボジア人留学生であった父は、内戦で消息不明に。来日当時、カンボジアの中学校3年生だったが、日本の中学校に1年生から入りなおす。高校、短大保育科、6年の保母経験を経て、1988年結婚。一女の母。現在は主にカンボジア語の翻訳、通訳の仕事をしている。また、東南アジアの家庭料理の紹介も行っている。カンボジア名としてはユンリ―・カクダを使っている。


◆ ◇ ◆ ◇


Q.榊さんが生活していた当時のカンボジアはどんなところでしたか?

A.  楽園みたいなところだったの!今から考えると信じられないけれど。ものすごく平和で豊か。休みの日には、家族そろって映画を見に行って、夜になると、メコン川沿いの屋台で夕飯を食べたものよ。食べ物は安いし、「川に石を投げると魚が浮いてきて、木の下にいると木の実が落ちてくる」ということわざのとおり、豊富だった。貧しい人と裕福な人の差は大きかったけれども、犯罪や、誰かが飢え死にしたという話は聞いたことがなかった。 
 プチパリ。フランスの植民地だったから、流行がすぐに入って来たんですよ。みんなファッションにはすごく敏感で、男の子でも髪を伸ばしていたし、裾が大きく広がったパンタロンをはいていた。まだ、中学生くらいの男の子でも、ヴェスパというイタリア製のバイクに乗って女の子を追いかけたりしていたの。でも、伝統的に、自由な恋愛は厳禁だったけれどね。
 女の子は生まれたとき1週間以内に耳に穴をあけてピアスをするんです。安っぽいアクセサリーじゃなくて、全部本物の宝石。カンボジアでは宝石がたくさん採れるから、田舎の子供も高価な石をつけていたのよ。女の子のしつけには順序があった。小さいときはなめるようにかわいがって、少し大きくなると、今度はビシバシと厳しく、そしてお嬢さんと呼ばれるくらいの年齢になると、また大事に大事に育てられるのよ。

Q.当時の街や、人の様子を教えてください。

A.  当時はゴミひとつ落ちていないくらいに街が整備されていた。道路には高級車がいっぱい走っていたんですよ。人々の振る舞いもすごく格好良かった。劇場に入るとき、男性はスーツを着て、ネクタイを締めてないと入れなかったし、ホテルのボーイさんの振る舞いは超一流だった。日本では見た事もないような食べ物もあったのよ。例えば、火をつけて、ボンッと破裂させてから食べるアイスクリームとか、豚の丸焼きとか(笑)。今から30年近く前なのに、家を建てるとき、インテリアコーディネーターを頼んで家具まで揃えてもらっていた人までいたのよ。
 おせっかいおばさんが多かったですね。何か困ったことがあると近所の人がすぐ集まってきて、何やかやと手助けしようとしてくれたのよ。うちなんか、母親が日本人だったから特に。すごく住みやすかった。

Q.カンボジアでロン・ノル政権が発足したとき、榊さんはカンボジアにいらっしゃいましたが、それ以前と比べてどのような変化がありましたか?

A.  あのころは街中が乱れて始めていた。もともと街はすごくきれいで、庭師が毎日というくらい整えていたんですよ。それが、ロン・ノル政権になって、ある朝起きてみると、お花が咲いていたはずの、道の両側の花壇には砂袋が置かれていて、草がぼうぼうになっていたんです。木もきちんと手入れされていたのに、枝があっちこっちに飛び出している。敵が入ってこないように街中に有刺鉄線が張られてしまった。夜には屋台文化が盛んで、甘いお菓子が山ほど売っていたのに、突然、8時以降は外出禁止になって、屋台もなくなってしまったんです。

Q.現在榊さんは様々な場面で、カンボジア語の翻訳、通訳と活躍し、さらにカンボジア料理の本も出版されました。 幅広い活動の原動力は何ですか?

A.  私は日本に来て、学校の先生にもかわいがられたし、友達にもすごく恵まれて、ぬくぬく大きくなったという感じなんです。みんな温かい目で見てくれたから、いろんな方面で、あれやろうこれやろうと、浅く広く好き勝手にやってこられたんだと思いますね(笑)。主人が企画を立てるのが好きで、仕事自体もそういうことをしているんですよ。それで、「カンボジアの料理やデザートを作ってみたらどう?きっとみんな喜んでくれるよ。そうしたら本を出してみたらどう?」とあれこれ勧めてくれる。彼が後ろでねじを回してくれるんですよ。自分がやりたくて研究したとか、免許を取ってやったというわけではないんです。私は自分に自信がなくてためらってしまうことがある。そういうときに主人がねじを回してくれて、知らない間にいろいろやっていたという感じなんです。自分では、何かすごいことをやったという感覚はないんですよ。でも、与えられた以上はそれに向かって一直線。いい加減がすごくいやなので、これだっていったら、もう絶対それだけは、という感じでやる。
 母の考え方もすごいと思うんですよ。私はカンボジアで結構裕福な暮らしをしていて、100メートル向こうに行くにも、車で送り迎えというくらいだったの。でも、私や妹弟たちは、母から、「お父さんは偉いかもしれないけど、あなたたちは普通の人なんだから、自分のことは自分でやりなさい」としつけられた。
 私たちがもし、あのままカンボジアにいたら、100%、もう生きていないと思うんですよ。でも、結果としてそうはならなかった。「運良く生き延びることができたんだから、悲観的になるのではなく、自分の持っているものを生かして、人様を助けなさい」そういう母の教えがあったものですから、それが、その後の活動につながっていった部分も大きいと思いますね。後々難民として来日したカンボジア人は言葉も分からないし、当時の日本にはカンボジア人が少なかったから、病院とか、カンボジアの子供を引き取って育てていた教会とか、いろいろな所に行って通訳をしたりしていたんですよ。

Q.現在のお名前は'榊千恵'さんですが、どういう経緯で、そのお名前になったのですか?

A.  私の元の名前は(ジュンリー・カッカダー)といいます。私は7月に生まれました。7月はカンボジア語でカエ・カッカダーといいます。そこから、「月」を意味する「カエ」を取って、カッカダーという名前になったんです。でも、片仮名で表記するとカクダなってしまう。だから日本ではユンリー・カクダを使ってきたんです。日本に帰化するときに、母の実家が五味という苗字なので、それを取って、本当は五味カクダになるはずだったのだの。でも、五味さん、カクダさんと、苗字みたいなのが2つ続いているとおかしいからと、おばに画数を見てもらい、千恵という名前をいただいて、五味千恵になったんですよ。それから、日本国籍をとってすぐに夫と結婚したから、榊千恵になったの。だから、五味さんと呼ぶ人もいれば、学生のころの友人は私をユンリーさんとかユンちゃんとか呼びますよ。親戚はカクダと呼びます。最近会った人は榊さんと呼びますね。

Q.国籍はいつ変更なさったのですか?

A.  日本に来た理由のひとつは、内戦でカンボジア国内の治安が良くなかったということ。でも、主な理由は、私の母が日本人だから、祖父母は日本にいるし、父も仕事でちょうど日本に用があったから、一緒に遊びに行こうということだったの。カンボジアがあそこまでひどいことになるとは夢にも思わなかったので、父の仕事が終わったら一緒にカンボジアに帰るつもりでいたんですよ。だから、持ち物もスーツケースひとつだし、途中タイとかマレーシアを観光してから日本に来たの。しばらくして、カンボジアの叔父から、国内状況が良くないという電報が届いた。父はカンボジアへ様子を見に行ったんです。私たちもその後すぐに帰るつもりだったんですが、1、2ヶ月が何年にもなって、今に至っているんです。いつかカンボジアに帰ろうと思っていたし、別に不便なこともなかったから、長い間国籍はカンボジアのまま変えていなかったんですよ。でも就職するとき、外国籍だと大変なんですよね。それに、国籍がカンボジアだと、一度日本を出て海外に行くと、なかなか日本に入ってこられないんですよ。私は海外に出たいと思っていたので日本国籍をとったのです。

Q.お父様がカンボジアに行ったきり帰ってこなかったことについてどう思われましたか?

A.  うーん…残念なことなんだけれども、話だけで、目の前で連行されたとか亡くなったというわけじゃないから、行方不明という感じなんですよね。イメージの中ではまだ生きていて、どこかに行ったまま帰って来ないという感覚ですよ。複雑な心境だけれど、父がああだったこうだったというのは普通に話をしていますよ。

Q.ご両親の出会いについてはどのようにお聞きになっていますか?

A.  父はカンボジアから日本に来た留学生の第1号なんですよ。母は当時、英語の専門学校の学生で、たまたま母の友達と、父の友達が知り合いで、グループで会ったときに紹介してもらったみたい。日本にいた私の祖母も発展的な人で、国際交流に理解を示してくれたそうです。「遠い国からきて、さびしいだろうし、家に招待したら?」祖母のこの提案がきっかけで、父が母の家に行くようになったんです。初めて母の家に行ったとき、父はカンボジア人特有のひとなつっこさで、母の家族に対して、肉親のように接したそうです。だから、みんな嬉しくなっちゃって。そのうち呼びもしないのに、食材を買って毎週のように来るようになったらしいの(笑)。しばらくして、父が母に結婚を申し込んだとき、祖父母は父を知っているから、この人だったら大丈夫ということで、無事に結婚したというわけ。当時カンボジアは日本では全然知られていない国でした。だから、結婚してカンボジアに行ってしまったら、もう2度と会えないかもしれない、という不安はあったみたいですね。カンボジア人と日本人が結婚したのは初めてのことだったそうです。新聞にも載ったし。ということは私が、カンボジアと日本のハーフ1号かな(笑)?

Q.榊さんにはカンボジアの血も日本の血も両方流れているわけですが、ご自身のアイデンティティについてどうお考えですか?

A.  両極端だと思う。カンボジア的な部分もすっごく強いし、日本人的な部分もすっごく強いと思う。14か15歳の一番多感な時にカンボジアから日本に来てしまったんですよ。だから、カンボジア人とはこういうものだ、というすごく強い思いがあったんです。
 日本に来たとき、私はすぐ帰る予定だった。だから、祖母や母は、私に綺麗な日本語を使わせたい、日本で変なことを覚えて、カンボジアに帰ってからやってもらっては 困る、と考えたのね。厳しく厳しくしつけられたの。だから、日本らしいところが身についているのよ。日本人になろう、日本人になろうっていつも思っていた。祖母には、物を使うときの心構えから教えられました。例えば布一枚とっても、洋服として使って、雑巾にして、ぼろぼろになってから捨てる。でも、ただ捨てるのではなく、捨てる前に一言、「ありがとうございました」と気持ちをこめてから捨てなさい、としつけられたんですよ。だから常にそういう気持ちがあるんです。
 カンボジアでいえば男女の関係。若い男性がいたら、姿を見せないように裏口から入りなさい、他人に足を見せるものじゃない、座り方はああだ、話し方はこうだ、と全部しつけられた。だから今のカンボジア人にはないところでも、私は持っていたりするんです。それが具体的にどういうところかというと、すごく難しいですけど、時々自然に出てくるんですよ。
 日本のことも自然に出てきてしまう。変なところで義理堅かったり、今の日本人より日本人らしかったりして(笑)。だから、「今の若い者は…」と思ってしまうわけですよ。

Q.榊さんは今の日本とカンボジアを比較して、どのような点が気になりますか?

A.  今の日本人は本能がなくなってしまっている。今は情報がたくさんあるから、全部書かれている情報のとおりにすればいいと思ってしまう。もっと言うと、その情報のとおりにしなきゃいけないと思ってしまう。そして、平均というものに振り回される傾向があると思うんですよ。子育てにしても、"生後○ヶ月の幼児の平均体重は○キロ"と聞けば、「うちの子は体重が軽すぎるからおかしい」とすぐに考えてしまうんですよ。本当は、人間が本来もっている勘とか、感情とか、そういうもっと可能性を秘めたものがいっぱいあるのに、それを敢えて自分で消している部分があると思うんですよ。
 昔の日本の母親はおんぶ紐を使っていた。子供はいつも母親と同じ視線で生活し、母親の背中から愛情を感じることができたんです。現在はどうでしょう?日本の多くの母親は、欧米のように、ベビーカーに子供を乗せて外に出かけるようになった。でも欧米とは違って、家に帰ってから、抱きしめたり、キスをしたりはしない。スキンシップを取る機会が全然ないんですよ。子供はいつ愛情を感じることができますか?いくら文明が進もうと、愛されないと怖いと思うのよ。格好悪いと言わずに、みんな、目を向けて考えてみてほしい。
 カンボジアが縦割り社会だとしたら、今の日本は、同じ世代とのつながりが深い横割り社会。カンボジアは、昔の日本の農村という感じなんです。一つの家の中に、おじいちゃん、おばあちゃんがいて、お母さんの世代がいて、子供がいて、赤ちゃんがいる。そういう所にいると、この年代の人はこういうことを考えているんだ、というのが自然に分かってくる。日本には、おばあちゃんとは何年かに1回しか会わない子供も多いと思うんです。だから、何を話したらいいかも分からない。同じ世代同士のコミュニケーションだけだから、楽な部分もあるけれど、寂しい部分も大いにあると思うんですよ。年長の人におせっかいを妬かれると、ほっとするときもあるでしょう?
 教育に関して、日本は子供に甘すぎると思うんですよ。例えば、子供が勉強をしていたら、親はケーキを持って行って、「はい、○○ちゃん」でしょう?カンボジアの場合、親は子供に対して、「勉強させてあげているんだから、まずは家のことをやりなさい」という考え方なんです。だから、12、3歳の子は、お風呂洗いからお料理まで一通りのお手伝いはできるようになっていますよ。カンボジアの子供は家のことができて当然と思っていますから、お手伝いはよくするし、親の言うこともよく聞く。

Q.榊さんは今の日本とカンボジアを比較して、どのような点が気になりますか?

A.  今の日本人は本能がなくなってしまっている。今は情報がたくさんあるから、全部書かれている情報のとおりにすればいいと思ってしまう。もっと言うと、その情報のとおりにしなきゃいけないと思ってしまう。そして、平均というものに振り回される傾向があると思うんですよ。子育てにしても、"生後○ヶ月の幼児の平均体重は○キロ"と聞けば、「うちの子は体重が軽すぎるからおかしい」とすぐに考えてしまうんですよ。本当は、人間が本来もっている勘とか、感情とか、そういうもっと可能性を秘めたものがいっぱいあるのに、それを敢えて自分で消している部分があると思うんですよ。
 昔の日本の母親はおんぶ紐を使っていた。子供はいつも母親と同じ視線で生活し、母親の背中から愛情を感じることができたんです。現在はどうでしょう?日本の多くの母親は、欧米のように、ベビーカーに子供を乗せて外に出かけるようになった。でも欧米とは違って、家に帰ってから、抱きしめたり、キスをしたりはしない。スキンシップを取る機会が全然ないんですよ。子供はいつ愛情を感じることができますか?いくら文明が進もうと、愛されないと怖いと思うのよ。格好悪いと言わずに、みんな、目を向けて考えてみてほしい。
 カンボジアが縦割り社会だとしたら、今の日本は、同じ世代とのつながりが深い横割り社会。カンボジアは、昔の日本の農村という感じなんです。一つの家の中に、おじいちゃん、おばあちゃんがいて、お母さんの世代がいて、子供がいて、赤ちゃんがいる。そういう所にいると、この年代の人はこういうことを考えているんだ、というのが自然に分かってくる。日本には、おばあちゃんとは何年かに1回しか会わない子供も多いと思うんです。だから、何を話したらいいかも分からない。同じ世代同士のコミュニケーションだけだから、楽な部分もあるけれど、寂しい部分も大いにあると思うんですよ。年長の人におせっかいを妬かれると、ほっとするときもあるでしょう?
 教育に関して、日本は子供に甘すぎると思うんですよ。例えば、子供が勉強をしていたら、親はケーキを持って行って、「はい、○○ちゃん」でしょう?カンボジアの場合、親は子供に対して、「勉強させてあげているんだから、まずは家のことをやりなさい」という考え方なんです。だから、12、3歳の子は、お風呂洗いからお料理まで一通りのお手伝いはできるようになっていますよ。カンボジアの子供は家のことができて当然と思っていますから、お手伝いはよくするし、親の言うこともよく聞く。

Q.今のカンボジアの良さ、日本の良さは何だと思いますか?

A.  カンボジアは、確かに進んではいないかもしれないけれど、古くから変わらず、すごくいい生活をしているなと思うんです。テレビ番組でそういう国に行き、現地の人と一緒にそこの生活を体験した人たちは、最後に彼らと別れるとき、みんな涙を流す。どうして日本にいるときは泣かなくて、異国に行くと泣くのか?物はないけれども、心の奥深くに入ってくるものがあるんですよ。それは勿論日本にもあると思うんです。ただ、日本には物がありすぎて、本来みんな求めているのに、気づかない部分というのがあるんですよ。すごく勿体無いと思う。
 私がカンボジアにいたとき、みんなが私のことを見て、日本のお辞儀のまねをして見せました。私はそれで、「お辞儀は美しいものだ」と感じたものです。日本の方には、日本がどんなに美しい国なのか、日本人の振る舞いにはどんなに風情があって、日本の文化がどんなに優れているかということを、自分でしっかり理解して、持っていてほしい。

Q.ポル・ポト政権の時代を経験して、今のカンボジアがあるわけですが今のカンボジアについてどうお考えですか?

A.  戦争で180度変わってしまった。今カンボジアは、シルクにしても踊りにしても、タイに似ているからということで取り上げられる。でも、オリジナルはカンボジアのもので、それがタイに流れたんですよね。領土だって、タイもベトナムも、一部はカンボジアから持っていったものだし。
 カンボジアが世界中に知られるようになったのは、各国のメディアがポル・ポトの虐殺を報道してからです。最初に、大量に入ってきたのが、カンボジアの悲惨な状況だった。だから、多くの人はカンボジアと聞くと、「ポル・ポト、地雷、貧困・・・」といった暗いイメージしか思い浮かばないのです。でも、もともとカンボジアはクメール王朝という輝かしい時代があった国だから、人々のプライドもすごく高いし、誇りを持っているんです。

Q.榊さんご自身は今のカンボジアをどのように感じていらっしゃいますか?

A.  すごく難しい…複雑ですよね。自分はそこで生活してきて、いい思い出を持っているから、その思い出をいつまでも美しく、というのはあるんですよ。でも実際にカンボジアに行くと、かなり崩れていて…。私が生活していた当時とはすっかり変わってしまった部分もある。そういうところを見ると、すごく悲しくなる。でも、その中でも、「ああ、私が知っているカンボジアだ」と感じられる部分があると、すごくドキドキしたり、嬉しかったりする。戦争があってよかったとは決して言えないけれど、内戦前の状態で時代が進んでいたら、国がかなり発展してしまって、カンボジアのものが全然なくなっていたかもしれません。戦争があって、鎖国状態になったから、何十年経ってもカンボジアの気持ちがそのまま残っている、という面もありますよね。

Q.カンボジアの昔からの良さが残っているというのは、例えばどういうところですか?

A.  市場に行ったら、店の人はグーグー昼寝をしていたの。だからお客さんは、次の店に行こうとした。そうしたら、隣の店の人がやって来て、自分の店じゃないのに、「何がほしい?」と聞いて、まけて売ってくれたりする(笑)。その店の人が起きたら、隣の店の人は、「まけて売っておいたよ。」とお金を渡している。日本だったら、こんなの普通ありえない話だと思うだろうけど、やっぱりその辺がカンボジアの良さなのよね。カンボジアには昔からそういうところがある。

Q.反対に、カンボジアのどういうところについて悲しいと思われますか?

A.  今のカンボジアは、いろんなものが一気に入ってきてしまって、何を取っていいのか分からない。日本だったら、電話一つにしても、黒電話から入って、プッシュホンになって、やっと携帯電話でしょう?カンボジアは電話が普及する前に、内戦で国がだめになってしまったから、普通の家に電話がなくて、人々はいきなり携帯電話を持つようになってしまったの。以前は食事をするにも、「背筋を伸ばして、ひじと体の間はピンポン球が一つ入るくらい空ける」だとか口うるさくやっていたんですよ。それが今では、外で食事をしてゴミが出たら、平気でテーブルの下に捨てていってしまう。高級ホテルの真ん前もゴミ置き場のようになっていたりする。基本的なマナーさえ守られていないのです。…よれよれになって道路に寝ている子がいると思えば、海外から帰ってきた、裕福な家の子供は、派手な格好をして、大音響でラップを聴きながら、車体を高くした車に乗って同じ道路を走っている。そんな光景が街の至るところで見られるのです。
 それに、今の若いカンボジア人は、古き良きカンボジアを知らない。それはすごく寂しいことだと思う。私が小さいとき、食べ物がすごくおいしかった。もちろん冷凍のものは発達していないということもあったけれど、その日に取れたものが市場に出るわけだから、全部新鮮で、ものすごく体にいいんですよ。でも、今では工場もなくなってしまったし、すべてが海外から入ってきていて、市場に行ってもカンボジア語で書かれているものは何一つないんです。今のカンボジアの若者は、輸入されたものを食べて育っていくわけだから、その味がカンボジアの味だと思ってしまう。それに加え、カンボジア料理でおふくろの味を伝えられる人も少なくなってきているから、何十年後じゃなくて、今年、来年にもカンボジアの味がなくなってしまうかもしれない。
 日本では、宗教を信仰している人は変な目で見られがちだけれど、カンボジアでは生活の中に宗教が入り込んでいるんです。例えば、人の物を盗むと、次に生まれ変わったときには、一生その人のお手伝いさんとして働かなくてはならない、と小さいころから教え込まれるのです。私なんか未だにそういうことが頭に浮かんできて、悪いことはできない。持てる人が持てない人に恵むというのも当たり前。そういう教えを当然のものと受け止めて、大人になっていくわけだから、信仰心も厚いし、悪いこともしない。 でも、今はそうはいかなくなっている。ポル・ポト時代に親を殺されたり、親とずっと離れ離れにされていた子供もいます。そういう子供は、親から教わるべきことを全く 身に付けずに育ってしまった。だから、宗教心はないし、盗みもする。やはり、教育は 大切だと思います。

Q.これからのカンボジアに望むことは何ですか?

A.  昔のカンボジア人は格好良かったなという思いがあるから、また昔みたいになってほしいと思いますね。伝統があり、文化的にも長く受け継がれてきたカンボジアだからこそ出てくる格好良さ、例えば、アンコールワットに表されているわびさびの世界、隠れた美しさを大切にする気持ちなど。そういう部分はこれからも消えてほしくないですね。

Q.今後、どのような活動をしていく予定ですか?

A.  自分の目の前に与えられたことを、できる範囲で少しずつこなしていこうと考えています。料理にしても、多くの人に、「カンボジア料理っておいしいんだ、こういうものがあるんだ」と分かってもらいたいですね。そして、日本の人が、カンボジアのいいイメージをちょっと持ち、嫌なイメージをちょっと消していってくれればいいですね。
 私には、自分の中に持っているものを使いたい、という強い気持ちがあります。通訳の場合も、カンボジアからとってきたものを、仕事だから、ただ訳すというのではないんです。言葉の意味よりも深いところにあるものを、その言葉が出てきた文化そのものを伝え、通訳を通して、少しでもいい番組を作りたいと思っているんですよ。今回のことも、インタビューを受けて話すことで、「カンボジア」をみんなに広めることになるでしょう。
 これからは、例えば、カンボジアの古いシルクを展示して、カンボジア料理を出し、カンボジアの文化を広めるとか、ボランティアに参加するとか、少しずつ何かできたらいいなと思いますね。   

Q.カンボジアについて学ぶ学生になにかアドバイスをお願いします。

A.  カンボジアについて学んでくれるだけで嬉しいですよ。カンボジアの文化を広めてくれるというのが嬉しい。カンボジアの良さを更にいろいろ見つけて、好きになってほしいですね。一人の人が好きになるということは、その「好き」を他の人に伝えるわけでしょう。'好き'は'好き'を呼びますからね。でもやっぱり、いいところだけじゃなくて、悪いところもちゃんと見てほしいですね。自分はここが嫌だと思ったら、そうならないようにして、いいところは吸収してもらいたい。カンボジア語を専攻する人ってこれからものすごく必要とされると思うんですよ。カンボジアは全部がゼロになってしまった国ですから、1から10まで、なんでも必要だと思うんですよ。今のカンボジアだけじゃなくて、もっと深いところまで興味を持てるようになれば、カンボジアについて学ぶことがもっと楽しくなると思います。


◆ ◇ ◆ ◇


    【注釈】

  1. 母…五味喜久子さん。カンボジア人と結婚した、初の日本人女性。詳しくは五味さんのインタビュー記事を参照。[本文に戻る]

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