Tokyo University of Foreign Studies
東京外国語大学【2001年度カンボジア文献講読ゼミ】
カンボジア缶〜開けてびっくり!?12のインタビュー〜
聞き手:茅根明子 福冨まゆ
文責:福冨まゆ
2001年6月18日 品川駅近くの喫茶店にて
【酒井広】
1926年東京生まれ。1951年法政大学卒業後、NHKにアナウンサーとして入局。「こんにちは奥さん」「生活の知恵」などの番組司会を担当。1983年NHKを定年退職後、フリーアナウンサーとなり、日本テレビやテレビ朝日などテレビ番組の司会を務める。1988年レギュラー番組を離れ、各種イベントの司会、講演活動。また「酒井広の話し方教室」を経営、教室を指導。CAPSEA(キャプシー:東南アジア文化支援プロジェクト)に参加。カンボジアでの小学校建設活動などをしている。
酒井氏は、東京外国語大学でカンボジア語を教えて下さっているペン・セタリン先生からのご紹介で「カンボジアをとっても愛している方」とのお墨付き。NHK退職後もフリーアナウンサーとして活躍し、一見カンボジアとは無縁のように思われる氏が、何故カンボジアという国で小学校建設活動に携わるようになったのか?氏が抱くカンボジアへの思いを語っていただいた。
まず、私がしているカンボジアでの小学校建設活動は、先の太平洋戦争で戦死した兄への鎮魂、という気持ちが根本にあると思います。
私の兄は昭和18年の学徒動員で召集され、フィリピンで亡くなりました。戦争が終わって、ある日、確か昭和21年の春頃だったと記憶していますが、兄の遺骨が届いたから引き取りに来るように、という電話がありました。それで私が取りに行き、持って帰ったのだけど、箱が馬鹿に軽いので、これは遺骨にしては軽すぎると思い、中を開けてみた。すると、「酒井一男の霊」と書いてある紙切れ一枚だけで、後は何もなかったわけ。たった一枚の紙で召集されて、フィリピンで戦死して。で、帰ってきたときには紙切れ一枚。お骨も遺髪も何も無かった。どこでどうなったのかも分からない状態です。戦友に話を聞こうと思っても、兄貴と最後まで一緒だったという戦友ってのはいなかったからね。兄は長男で跡継ぎだったし、そんな状態になってしまって親父やお袋がどんなに悔しかったか、どんな思いだったか。私も自分が結婚して子供を持ってから、こういう気持ちは分かりました。だから、今でも私は靖国神社なんて行ったことないですよ。口惜しくて…。
まあ、このような事が私の頭の中にずっとあったんでしょうねえ。それで、私はやはり兄の鎮魂のために何かが出来るんじゃないか、と思って東南アジアを巡っていたのです。そんなある時、お互いに共通の友人を通じて、当時CAPSEA[1]というNGOの代表をしていたカンボジア人のペン・セタリンさん、という方とお会いした。セタリンさんは、ポル・ポト[2]の独裁政治が始まる丁度一年前に、国費留学生として日本に来ていた。そして、8人いたきょうだいのうち、今では彼女を含めて4人しか生き残っていない。あとはみんな死んじゃった。家族がそんな状態ってのはすごいことだなって思います。
まあ、考えたら日本も同じようなものでしたけどね。先ほど申し上げましたように、私自身も兄を戦争で亡くしてますし、私の従兄弟も東京大空襲で女房・子供を亡くしてますから。だからセタリンさんのような人が沢山いるという、そんなカンボジアの状態を少しは理解できる気がしたのかもしれません。とにかく、私がカンボジアに関わるようになったそもそものきっかけは、このセタリンさんにお会いしたことから始まったんです。
氏、カンボジアの子供たちの瞳に魅せられる
セタリンさんと親しくなったことで、私は一度カンボジアに行ってみよう、と思いました。私はタイ・ベトナム・ミャンマーは行ったことがありましたが、カンボジアには行ったことは無かったのでね。それで初めてカンボジアを訪れたとき、CAPSEAのやっている移動図書館活動で、現地のスタッフが読み聞かせをしているのを見たんだけど、下手くそで見ていられなくてねえ。こんなんじゃ子供は喜ばない、って思って、我慢できなくなっちゃって、私がやりましょう、って思わず言っちゃった(笑)。そういう訳で日本語の紙芝居やってみせたら、それはもう、子供たちが食い入るように見てるんだね。終戦直後の日本の子供の眼、あれよりもっとすごいね。それで、笑ったり泣いたりしている。すごいな、この子供たちは。なんだか、この子達は日本人に失われたものを持っている、と強く感じました。
今でもね、私はカンボジアに行くたびに紙芝居やるんですけど、みんな真剣に見て、聞いて、物語の中に入り込んでるんですよね。例えば「大きなかぶ」[3]なんてあるでしょ?あれなんか、「いち・に・さん!」て言ってかぶを引っこ抜くところなんか、みんなで声揃えて一緒に叫ぶんだよ。面白いねえ。僕はカンボジア語できないから、日本語でやるんだけど、日本語でもちゃんと分かるんだねえ。本当に、子供たちの瞳の輝きが違うんだ。
それからCAPSEAの活動に興味を持って色々調べたら、CAPSEAでやっている職業訓練に応募してきた人がほとんど字を知らない、書けない、ということが分かって驚いた。聞くところによると、男性の識字率が50%で、女性だと30%位だっていうからもうビックリしちゃった。どうしてだろうって。だって、そうでしょう。平和になって、ポル・ポトというのがいなくなって、一応プノンペンは平和を保っているにも関わらず、字を知らない人たちがこんなにいるなんて。本当に驚きましたよ。それでどうしてだろう?って考えました。
つまり、ご承知の様にカンボジアには内戦というものがあって、それで全てのことが破壊されてしまった。教育制度も何もかもね。だから字が書けない人もたくさんいる。そしてCAPSEAがそのような人たちを助ける活動をしている、ということも分かった。
それで私は、自分が年をとって仕事をやめてからここに金を投入して人々のお手伝いができる、そして子供たちを喜ばせることができるかもしれない、と思ったんだねえ。
子供が来ない…?
カンボジアの子供達のために私は何が出来るだろう、と考えていた時です。アンコール・ワットがあるシェムリアップから、片道2時間半の所にあるチャールー村というところに、CAPSEAのスタッフが私を案内してくれました。それで、この村の学校はね、こんな状態です、ってことで見せてもらった。そしたらもう、そこいらじゅう穴ぼこだらけでね。雨季[4]になると、教室にみんな水が溜まっちゃうもんだから授業がないんですよ。そんな状態だったから、これはいかん!というわけで私は小学校を建設する決意をしたわけです。でもねえ、カンボジアって国は貧しいでしょ?男は当然、奥さんだって物売りとかして働くし、子供だって、学校が終わると同時に働いたりしてお金を稼いでいるわけです。カンボジアの小学校の授業は二部制[5]で、午前中大体7時か8時頃から11時頃までやって、午後もやるんだけど、午前の授業が終わると、担任の先生もターッと走ってアルバイト行っちゃうわけ(笑)。だって先生といえども給料低いから[6]。だからね、小学校だって、例えば最初に一年生になった子が50人いても、6年生で卒業するときは半分になっちゃうんだよね。本当だよ、これ。日本と違うんだから。日本と同じじゃないんだから。貧しいから、どうしても親が働かせてしまうんだ。仕方のないことだけどね。
日本の子供にも知って欲しいね。学校行きたくないわけじゃなくて、行けないんだってことをさ。そしたら不登校児なんていなくなると思うけど。とにかくカンボジアの子供は学校に来ない。それでもね、去年学校が出来上がって落成式をした時に私はこう言ったの。「お父さんお母さん、せっかく学校が出来てもね、子供が学校に来なければね。やはり、これからのカンボジアという国には子供の教育が必要なんです。なぜカンボジアが貧しいのか、どうしたら貧しくなくなるのかってことを知ってもらわないといけない。そして世界のことも勉強して欲しいんです。そして勉強するためには学校が必要だし、字も必要なんだ。そんなこと、私が介入することではないかもしれないんだけど、でもお願いだからね、学校をせっかく作ったんだから、頼むから子供を学校へやって下さい」とね。
目下気になるのはトイレ問題
学校建てたときには色々な問題がありましたよ。チャールー村ってところは電気なんて通ってないから、学校建てるのは容易じゃなかった。トイレなんてものも無かった。だから学校建てたのは良いけど、じゃあトイレは?って聞いたら、こうやって外を指差す(笑)。外でするってことだよ。確かに、カンボジアはそこいらじゅう畑だからね。そこですれば肥料になる、っていうわけだ。だってねえ、変な話だけど、乾季になると乾いちゃうんだよ。サーッと乾いちゃう。それで肥料になるんだな(笑)。行ってみて初めて分かったことだけど、こりゃいかん!てね。女の子がそんな格好でするなんていけないじゃない?そういう訳でトイレ作らせたんだけどね。乾季になるとね、今も申し上げた通り、すぐに乾いちゃうからトイレが溜まっちゃう。乾燥すると水気なくなっちゃうから、毎日汲み取りしないとどんどん溜まる一方。それじゃ、トイレ使えなくなっちゃうでしょ?どうなっちゃってるんだろう。ちゃんと汲み取りしてるんだろうか。あー、それ教えなきゃいけなかったかなって。でもそれ位分かっているかもしれない、とも思う。そんな訳で、やきもきしてるんですよ。
子供たちに学んで欲しいこと−自身の体験から
私がね、学校で子供たちに学んで欲しいと思うことは次の3つです。
「字を覚えること、本が読めるようになること、そして自分の頭でモノを考えられるようになること」
当たり前のことじゃないって思うでしょ。でもねえ、やっぱりカンボジアってのは、これからは子供の教育が必要なんです。次の世代を担う子供達は大事な人材なんですよ。
字を書くことが出来れば、本を読むことが出来る。言われたことだけ信じるんじゃなくて、自分で知識を得て、自分の頭でモノを考えられるようになる。なんでカンボジアが貧しいか、どうしたら貧しくなくなるのか、を考えられる。
私が子供の時の教育はね、教育勅語[7]なんてものがあって「神の国、日本」なんて教えられてました。戦争中、報道は規制されていて、大本営陸軍発表とか大本営海軍発表とかが流す情報が新聞に載るだけで、その他の出版は全部禁止されてたから、我々は分からないわけ。だから、その当時は教えられたこと、入ってくる情報をそのまま信じてましたよ。「欲しがりません、勝つまでは」なんて言うの聞いてたよ。だって、中学生くらいなんてねえ、子供だもの。信じちゃうよ、何も分からないんだもの。だからね、そういうことを信じないためにも、自分の考えを持てるように勉強して欲しい。その為には教育ってのは大事だよ。色々なものを読んで欲しい。読むことが出来るようになれば、色々なことを考えられるようになるでしょう?色々な人に会うことも出来るでしょ?それで色々な人の意見を聞くことも出来る。それでね「私はこう考える」ってことが言えるようになって欲しいの。
私もね、NHKでアナウンサーという仕事をしていて、いやという程学んだのはね、自分の喋る言葉に対して自分で責任を持たなければいけないということ。それから、人は宗教が自由であり、使える言葉も自由であり、考えることも自由である、ということ。だから私は人の話も沢山聞くし、話すし、本も読む。それで自分の考えそのものを打ち出していく。こういうことが人間にとって非常に大事なことだぞ、って学ばせてくれたのがこのアナウンサー生活じゃないかな。話すだけじゃない、聞くことも必要なんだ。色んな人間がいるんだぞ、一人一人みんな違うんだ。その人の考え方を聞くことが非常に大事なことなんだ、ってね。
だからね、カンボジアの子供たちにも勉強して欲しいんだ。教科書を読めるようになるだけじゃなく、それを読んで自分がどう思うのか、ということが出来るようになって欲しいと思うのね。
教育制度確立の重要性
何度も申し上げてますけど、カンボジアに今一番必要なのは教育制度の確立。カンボジアは内戦で滅茶苦茶になった、っていうけど、日本も戦争で負けて、でも戦後50年でここまで復興してきた。でも、カンボジアの復興・発展については、100年はかかるんじゃないか、と私は見ています。何故ならね、日本とカンボジアが違う点は、戦争があっても日本の場合は一応明治以来続いてきた教育制度というものは破壊されなかった。戦争をしていても、戦争が終わっても、教育そのものは継続されていたということですよ。ところが、カンボジアの場合は子供は学校にさえ行かせてもらえなかったんだから。破壊されちゃったんだから。学校も子供も生活も、ポル・ポト時代にみんな壊されちゃった。ですからこれを立ち直らせる、というのはねえ。難しいことですよ。
だから、やっぱり教育制度を早く確立して欲しい。先生が少ないっていうのなら、教員養成学校を沢山作ってね。それで、教員の給料も上げて欲しいね。「カンボジアに不足してるものは何ですか?」っていうと、「人材」って答えが絶対返ってくるけど、人材を作ろうにも、その人材を育てる人間を国が保護できないんじゃだめですよ。私の知り合いで、カンボジアから日本に留学してきてる人がいますけど、彼はカンボジアに帰らない、と私は見ています。だって、カンボジア帰っても仕事がないでしょ。あっても、給料が断然低いでしょ。そうすると、日本で仕事したほうが良いもの。生活していけるもの。
ね、こんな風にしてせっかく優秀な人材がいても、国がその人材を生かせる状態じゃないから、人材の流出、ということになる。この状態を何とかするには、教育制度の全般的な確立が必要だと思いますよ。
しゃれこうべのカンボジア地図が語る記憶
それとね、内戦や虐殺のことも後の世代に伝えていくべきだと思うね。私が初めてカンボジアに行ったとき、トゥールスレーン博物館[8]というところに行った。驚いたねえ。しゃれこうべで、カンボジアの地図が作ってあるんだよ。本物だよ。で、私は何故そんな残酷なことするんだ、って聞いたの。だって、人間の骸骨だよ。そうしたら、全土で200万もの人々がポル・ポトという者の考えの下で殺されたのだということを永久に残したいからだ、と言われました。分かる?
確かにね、おばあちゃんが一人、ハンカチみたいのでしゃれこうべを拭いてましたよ。まあ、それは亡くなった方を慰めるために、そうしてるんだよね。そういう国は、他にないと思います。私は、ユダヤ人が虐殺されたポーランドのアウシュビッツも行ったことがありますけど、しゃれこうべの地図なんて無いです。カンボジアだけだよ、そんなの持ってるの。
今、クメール・ルージュ裁判[9]を開く、とか言ってるけど、中々難しいだろうね。だって、みんな都合の悪いことは隠すもの。日本だってそうでしょ?従軍慰安婦だって、強制連行だって、みんな本当のこと。事実なんだよ。私の親父の工場に働きに来ていた小僧さんがさ、北海道の炭鉱行ってさ、3年して帰ってきた。一緒に働いてた人で朝鮮の人は多かった、って言ってたよ。
だけどね、今戦争を知らない世代の人が「新しい教科書を作る会」[10]なんて作っちゃう。都合の良いことしか、教科書に載せない。だから事実を知ってる人間が死んだら、本当のことなんて分からなくなってしまう。まあ、歴史ってのはそんなものだけどね。でもね、だからこそ、私も含めて、若い世代にね、自分の見たものをちゃんと伝えなければいけないんだな、って思います。生きてる人間が叫び続ける以外、方法はないんだよ。
カンボジアにも同じことが言えると思うよ。虐殺のことについて、教科書に載せるか載せないか、って問題があるって聞いたけど、やはり語り部となる人が沢山喋ってくれないとね。それを若い人が受けとめて、カンボジアって国を良くしていく。ま、時間はかかると思うけどね。
そういうわけで私はずっと援助をしてきてね、今度またカンボジアに小学校建てますけどね、そういうことをカンボジア自身がやれないから、お手伝いしましょうか、という気持ちでやっているわけなんです。私にはね、カンボジアの教育制度、学校制度そのものを変えることは出来ない。だって、これは国が決めることだから。だけど、学校を建てる手伝いは出来る。子供たちに勉強するきっかけを作ってあげられる。
最初に申し上げましたとおり、私は兄の鎮魂のために何か出来るんじゃないか、って思って東南アジアをまわっていて、やっとカンボジアで子供たちの笑顔に出会った。それで自分のこの人生の幕を閉じるにあたって出来ることは、カンボジアに学校を建てること。そしてそれは、少しは兄の鎮魂になるかもしれない、って気持ちがあったわけです。
まあ、命の限りカンボジアに行ってお手伝いすることが出来れば、と思いますよ。私は毎年カンボジア行ってますし、これからもお手伝いするつもりです。財産残しちゃってもしょうがないからね。一応行く時は生命保険に入っておくんだけど、帰ってくる度に空港から「残念でした。また生きて帰ってきましたよ。」って娘に電話するんです。そうすると「何言ってるの!」って怒られるんだけどね(笑)。でも、ほんとに残すものなんて何もないんですよ。全部お金使っちゃうから。子供たちには悪いけど、遺産なんか残さないんだよ。だから残るのは太田胃散だけ、なんて言ってるんですけどね(笑)。
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